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数字でははかれないもの

先日、同級生のカップルが遊びにきてくれた。ふたりは中学3年生の春から付き合っているので、もう6年もの歳月を重ねてきていることになる。

私はそのカップルの女の子と保育園から一緒だった。中学生のころは3年間クラスが同じだったのでいつも一緒に行動していたし、彼女の恋のお話もよく聞いていた。当時ふたりがくっつくのをとても近くで見ていたのだ。

彼女はいつも目を細めてにこにこ笑っている、穏やかな女の子だった。そのせいなのか、彼女が誰かに対して怒っているところを私は見たことがない。

彼女は小さいころからずっと肩より短いショートヘアで、それは快活な彼女によく似合っていた。高校生になってからは髪をのばしはじめたけれど、それは今までの彼女の雰囲気に大人っぽいかわいらしさを加えた。

海の近くに住んでいて、おっとりしているようだけれど芯の通っている彼女は、幼いころからずっと「将来は保育士になりたい」と言っていた。21歳になった彼女はその夢を叶え、今年の春から保育士として働いている。

私たちが中学生になる年、ふたつの中学校が統合して新たな学校ができた。彼女と恋人になる彼は私たちとは違う小学校の出身だったので、学校が統合しなければふたりは知り合うこともなかったのかもしれない。

私と彼は中学の3年間しか直接的なかかわりを持っていないし、クラスも1度しか一緒になったことがない。でも彼はとてもさっぱりした性格の男の子だったと思うし、今でもそう思っている。彼は口が達者な男の子で、よく人をからかったりちょっかいをかけたりしていた。

それは小鳥がパンをつつくみたいなささやかなものだったのだなあ(このたとえを聞くと彼女は笑いそうだけど)と、今は思う。そのときは真剣に腹を立てたりしていたけれど。

中学3年生の冬、彼と私とは掃除場所がたまたま近くだった。なので掃除をしながら、彼の恋人で、私の友人である彼女の話をよくした。

彼は興味なさそうなそぶりで彼女のことを話すけれど、その言葉や態度には彼女を大切に思う気持ちがにじみでていた。彼は絵に描いたようなつんでれ少年だったのだ。

そう言うと彼は「つんでれって何?」と大真面目に聞いてくるので、私は真冬の冷たい廊下をせっせと雑巾がけしながら、彼につんでれとは何かということを力説することになったのだった。あとからその話をすると彼女は大笑いしていた。つんでれについて教えてあげたのね、彼も教えてもらったって私に話をしてきたよと。

そんなつんでれな彼と、にこにこな彼女は同じ高校に進学した。私は彼女たちとは別の高校だったので、高校時代の彼らの様子を間近では見ていない。

でも、少しずつ思い出を増やしながらも(ときにはけんかしたりしたのかもしれないけれど)、ふたりの根っこは中学生のころと変わることなく、そのままに日々を重ねてきたにちがいない。

先日会ったときも、ふたりはまるで中学生のときのようになかよしで本当に微笑ましかった。彼女たちは私と恋人とは全然ちがうふたりだけど、すごく安定している。冷めてしまうことも、変にオーバーヒートしているようなこともなく。

それはきっと、ふたりが過ごしてきた月日がそうさせているのだろう。

世界にはいろいろなふたりがいて、いろいろな形の絆がある。だから長い年月付き合っているからすごいとか、短いからたいしたことないとか、そんなことはないはずだ。

私は恋人と過ごしてきた年月を数字に変換して自慢に思ったことはない。目に見えず、他者にはその全てを理解できないものや、数字では決してはかることのできないなにかが、いつだってふたりの間にはあるからだ。

けれど同時に、安定した日々を絶え間なく重ねていくということはやはり尊いことだ、という風にも感じる。彼女と彼の間には今まで築きあげてきた6年間の歳月がある。それはいつでもたしかに存在しており、決してわるい意味ではなく、これからも彼女と彼をやさしく縛るのだ。

ふたりがこれからも尊い日々を1日ずつ重ねていくことを祈っている。どうかその日々がすこやかで、愛情深いものでありますように。彼女がいつまでもにこにこ笑い続けていますように。彼はつんでれでありますように。

そんなふうに思えて、それが実際に叶えられそうなふたりはなかなかいないので、そのこともうれしい。そしてことあるごとに彼女たちの人生にかかわれたらよいな、と思っている。これからも見守っているよ。直接は言わないけれど、そっと見守っているからね。


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