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甘やかな夕暮れ

おととい、いつぶりか分からないほど久しぶりに恋人以外の男の子の手に触れた。

正確には「触れてしまった」というのが正しい。印刷機のスタートスイッチを同時に押そうとしたせいで、うっかり手が当たってしまったのだ。

それで初めて気が付いたのだけども、どうやら私は普段、男の子の身体に触れないようかなり気を張って過ごしているらしい。

遠距離とはいっても立派に恋人がいるので、彼以外の男の子の身体に触れるのも、また触れられるのも私にとっては好ましいことではない。

バイトの時間に狭い厨房をせっせと歩き回るときでさえ、私は細心の注意を払い、同じくうろうろしているバイトの男の子たちの衣服の裾にも触れないよう、そっとすれ違うようにしている。

恋人以外の男の子に自分から触れようとは思わないし、うっかり触れそうになってもなんとかして阻止する。

なので、印刷室で恋人以外の男の子であるマッシュボブの彼と手が触れてしまったとき、「あっ、手触っちゃった」とびっくりしてしまった。

(彼については少し前に書いたので、よろしければ暇つぶしにどうぞ。)

マッシュボブの彼と話すようになってから2か月経たないくらいだけれど、それなりに良好な関係を築いている。課題の分からないのを聞きっこしたり、なんでもないような話をしたり。

彼の何を知ってるかと聞かれたら、出身とか夏生まれだということとか、彼の持っているラッコの筆箱の名前とか、そういうものだけ。でもそれは知り合ったばかりの友人としてはちょうどいい距離感じゃないだろうか。

おとといは、私の所属している研究室の名簿を作成するために印刷作業をすることになっていて、人手が足りなかったので彼にヘルプを求めたらすぐに駆けつけてくれた。

「ちょうど図書館おったからな、レポートきりよかったし、気分転換に来たわ」と笑っていたけど、仲良くなったばかりの私の頼みでも聞いてくれるのだから、きっと仲良しのお友達になればなおさら親切な人なのだろう。

そんな彼の手に触ってしまったとき、「あっ」と思いはしたけど、まあ私たちお友達だし、一緒に作業をしていればそんなこともあるか、と思ったので普通の顔をしていることにした。

彼もぱっと手をよけたりすることはなく、別に触れていても触れていなくても、僕たち友達だからいいでしょ、という感じだったので、私もほっと胸を撫で下ろした。

「手が触れちゃったわごめん」と茶化しながら謝ると、マッシュボブの彼は眼鏡の奥からいたずらめいたあの眼差しを向けてきた。

「えっ、きゅん?」
「全然きゅんせん(きゅんしない)」
「いやそこはしろ?」

彼の突っ込みは相変わらずきれきれで、手が触れたことさえも会話に組み込める私たちはとても気楽な関係だと思った。何も責任を持たなくとも簡単に言葉を放てるのだ。

彼は風を受けてくるくる回るものに似ている。風車とか風鈴とか、モビールとかそういうの。誰かの言葉や態度をうまく受ける方法を知っているから。

…と、そんな事件があったことを恋人にふわっと話してみた。

私にとっては彼以外の男の子にうっかりでも触れるなんていうのはちょっとした罪悪感を伴うものなので、胸がもやっとして話さずにいられなかったからだ。

けれど彼は「あら〜!そんなことがあったのね!」と返事をする程度で、やきもちを焼いたりすねたりは決してしなかった。態度に出していないだけというわけでもなく、単に私の恋人は海みたいにおおらかな男の子なのだ。

恋人は私のことを本当に信頼しているし、驚くほどに寛大でもある。ある程度相手を自由にさせておくのが彼の愛情表現なので、私は実にのびのびと大学で異性の友人と交流を深めている。

とはいえ私にとっては今の恋人が生まれて初めての彼氏で、だから恋人がいる状態から新しく知り合った異性と、一体どこまでなら仲良くなってよいものか、最近少しもやもやしている。

マッシュボブの彼とはこのままいくとそれなりによい友人になりそうだけど、このまま馴れ合っていっていいものだろうかと思ったりして。

私の中での明確なアウトは次のもの。恋人じゃない男の子と会ったり出かけたりする。どちらかの家に行く。夜に会う。約束をしてから会う。いずれも「2人きり」というのは前提だ。

でもときどきあやふやなのもあって、例えば夜でも研究室のみんなでご飯を食べに行くなら男の子がいても流石にいいよね、とか、さっきまで印刷室には他に人がいたけど残されて2人になっちゃったなとか、アパートの方角が一緒で途中まで2人きりで歩いちゃうのは仕方ないよなとか、そういうの。

でもたぶん恋人は、私がその出来事を彼に伝えさえすれば大抵のことは許容するだろう。

「彼氏に黙って男の子と2人きりで出かけたりする女の子もいるけど、あなたは俺に話してくれるでしょ?やる前とかそうなりそうなときにちゃんと俺に聞いてくれるでしょ?だったら行っても問題ないと思ってる」。

以前、彼は私にそう言った。

私はその日あったことやこれからありそうなことを全部喋ってしまうタイプの彼女だから、彼はその点で私を信頼しているのだ。

「でも毎回OK出されてたらそのうち言わなくなっちゃうかもよ?」と言うと、「それはダメよ!」と言われたけど、彼は私がそんなことをしないのを知っている。彼がそう分かっていることを私は知っている。

だからつまり、彼は私の言葉を無条件に信じている。私が嘘をつく可能性とか、あったことをなかったことにする可能性を彼は見つめていないのだ。

そんなこんなで私は結局いつも、彼以外の男の子と出かけるような機会を避けてきた。なんとか断ったり話を逸らしたりして。

だからもし彼が私のそんな性質を分かって寛容的にしているならば、私は彼の手のひらのうえでくるくる踊っている、かわいいかわいい女の子だなあと思う。

でも10日ほど前、マッシュボブの彼が、「夏に暇があったら、研究室の何人かでご飯食べ行きたいね」とLINEしてきた。

大学生活に散りばめてあったであろうそういう楽しみを、私たちはコロナで半分ほど失ってしまったから、みんなと話して仲良くなりたいと思ったし、誘ってくれたのも嬉しかったので「楽しそう」という肯定の返事をした。

さて、その機会は本当に訪れるのだろうか。私はこれからもマッシュボブの彼との友人関係を少しずつ深めていくだろう。たぶん大学の他の男の子よりいくらか親しくなるはずだ。

そしていよいよみんなで食事をするお誘いがかかり、その日が訪れそうになったとき、私がその話をしたら恋人はなんというのだろう。きっと「行っておいで」と屈託なく笑うんだろうな。

でもそれは恋人にとって私が信頼に足る彼女であることの裏付けでもある。やきもちはやいてもらえないけど、それも案外悪くないのかもしれない。

そんなことを夕暮れに考えた。



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