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米人気キャスターから学んだ「恥」

 「恥ずかしくありませんか」ある記者の不躾な質問に一瞬彼はとまどっと様子をみせた。しかし、すぐお馴染みの人懐こい笑顔に戻り、テレビ画面に向かってこう答えた。

 「君、私は私なりに納得して仕事をしているつもりだよ」

 発言の主はチャールズ・ギブソン。日本ではまったくと言っていいほど馴染みのない名前だが、アメリカでは今も根強い人気を保っている朝のテレビニュース番組「グッドモーニング・アメリカ」(ABC放送)のアンカーを通算19年間努めた筋金入りのジャーナリストだ。

 飛び抜けてハンサムではないが、軽妙な語り口と母性愛をくすぐるような甘い顔立ちで大勢のアメリカ人に愛されていた。番組中ではニュースだけでなく、料理や曲芸まで披露してしまう彼の茶目っ気も人気の秘密だった。

 こう書くと日本のワイドショーの司会者のようだが、決定的な違いがある。それは彼がジャーナリストとして豊富な取材経験を持ち、その経験と価値観に裏打ちされた言動がアメリカの視聴者に信頼されていることだ。それだけではない。私が彼の番組を見るたびに感じたのはある種の「品格」である。あの品はいったいどこから来るのだろうか。

 チャールズと初めて会ったのはもう30年以上前。アメリカ中西部ミシガン州の町アナーバーで開かれたジャーナリストの集まりに参加したときだった。濃紺のスーツにしゃれた緑のネクタイという姿で現れたチャールズは、テレビ出演者の華やかさに包まれていた。

 その会では、全米から選ばれた10人の中堅記者と海外から招かれた私と韓国人記者のふたりがチャールズを囲んでテレビジャーナリズムの現状について話しあった。その際にひとりの新聞記者が冒頭の質問を彼にぶつけたのだ。日本の記者と違ってアメリカのジャーナリストは歯に衣を着せない。

 その質問に対してチャールズは、自分は自分の良心に対して「恥ずかしくない程度」の仕事をしていると答えたわけだ。

 なにやら禅問答のようだが、同席していて気がついたことがあった。それは「恥」という概念を日本人は武士道との連想からか、自分たち独自の価値観だと思い込んでいるところがあるが、アメリカのジャーナリズムの世界の方がもっとしっかり「恥」について意識している人間が多いということだ。

 しかも彼らの「恥」の感覚は、日本人のように他人の目を気にしての恥ずかしさではなく、自分の良心や信念をまっとうできなかったことに対する恥ずかしさなのである。

 言い換えれば、日本人の「恥」が虚栄の裏返しであるのに対して、彼らのそれは神の前での懺悔に近い。チャールズと彼の番組の品性は日々繰り返されるこの懺悔に支えられているといえよう。

 その後、チャールズとニューヨークでチャールズと再会する機会があった。日米首脳会談のため渡米した細川護熙首相(当時)が「グッドモーニング・アメリカ」に出演することになったからだ。

 当日、大学の先輩でもあった総理の同行取材をしていた私の前に現れたチャールズはすっかり老け込んだ感じで、鼻の上に細い老眼鏡をかけてヨタヨタとホテルの廊下を歩いてきた。大丈夫かなと思ったが、インタビューの時間になると背筋をピンと伸ばし、メイクアップしたその顔は初めて会った頃のあのチャールズに戻っていた。さすが筋金入りのプロである。

 インタビューの後、チャールスとまた日米「恥」談義になった。老眼鏡姿に戻った彼は「日本は恥の文化を持っていると聞くが、最近の日本人は自分たちの懐を肥やすだけで恥ずかしくないのか」と首を傾げた。

 拝金主義渦巻くアメリカの民からそう指摘されたら言下に大声で否定したいところだったが、当時の日本を見ているとどうも答える声が小さくなってしまった。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と経済力をもて囃されていた頃のことだ。日本の市井の人々の生活のなかにも「恥」のひと文字がなくったえいるように思えてならなかったからだ。

 いまや恒例となった年末年始の長時間テレビ番組はその代表例だった。「スペシャル番組」と称して全国に垂れ流される低俗で安上がりな笑い。人々を楽しませることと恥を捨て去ることは決して同じではないはずだ。

 退職とともにABCの看板番組だった「ワールド・ニュース・ウィズ・チャールズ・ギブソン」のアンカーを降板したチャールズは現在78歳。私も古稀を過ぎたが、かつて彼に投げかけられた質問を今も自分に語りかけながら仕事をしている。

「恥ずかしくはありませんか」


 

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