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医聖・野口英世博士の劣等感       (野口英世記念館見学記 その4)

火傷で握ったまま焼け爛れて開かない左の拳は棒のようで、てんぼうと馬鹿にする悪たれのため、英世の心に反発心と共に強い劣等意識が芽生えた。
頭がよく努力もしたため成績優秀であったが、変らぬ貧しさの中で「てんぼう」の悪態は続いた。「てんぼうでさえなければ」とネガティブな考えに沈む性格、つまり劣等感の芽ばえである。持ち前の勝気な性格で劣等意識を跳ね返し、劣る点を埋めようとの積極性あれば、その努力で劣等感は消え去り明るい優越感で前途が開けていた筈なのに…。
「手がこうだから」「手がこんなでなければ」との思いが高じて強い劣等感に陥り、無意識に不具の手を隠すようになった。稀に見る優秀児で勝気な性格であったが、清作はまだ子供であり無理からぬ所作であった。十七歳で手の手術を受けたが代わりばえせず、悪たれは減ったものの蔑む世間の目は変らず、劣等感はますます強く英世の体に浸みつき、反射的・本能的に左手を隠す〝性癖〟になった。英世を撮った写真のほとんど全部に左手を隠すポーズが見られ、五十一年の生涯を終えるまで続いた。
最後といえる写真はアフリカ西海岸に発生した黄熱病の研究のため、船客としてアクラ(現ガーナ共和国の首都)へ向かった折、見送りに来た友人でラゴス研究所のドクタービューイックとカメラに収まった一葉である。微熱があり気分が優れないのをおして写真に納まったとある。そのためか小柄で華奢な英世は少し痩せ、長身のドクタービューイックと並び首一つ低く弱々しく見える。直射日光で白く映るデッキに立っているが、左腕は後ろに回し手を見せない例のポーズてある。この撮影から十日後に英世は黄熱病が悪化し殉職しているが、全身に浸み込んだ劣等感は生を終えるまで消えなかったと分る。
〝最期〟まで誰にも見せたくない不具の手であり、浸み込んだ「てんぼう」は英世の人間としての存在を無視する侮蔑の声であり、その声に耐え忍び不具を隠すに腐心した生涯であった。しかし、〝隠すより顕る〟の譬えとおり、その隠しておきたい左手がはっきり写った一葉があった。猿を使ったトラホーム研究の一環として、助手と共に結膜を検案中の一場面で、猿の頭部を動かないよう左手で保定している。火傷で硬結した指は指として使えないが、物を押さえ支える〝棒の端〟として十分役に立っているが、この時、誰にも見せたくなかった不具の拳と拇指が異様な形で写ってしまった。
没後約五十年の昭和五十一年〝野口英世生誕百年記念誌〟で初めて公開された一葉である。この時英世は被写体として世に出ることに気付かぬ程、トラホーム研究に命がけであった。気付いたら破棄して絶対に公表させなかった筈である。
この時の研究の成果は〝トラホームの病原体〟として立派な論文にまとめ学術誌に発表している。手の障害に打ち勝って研究に没頭し、生涯の秘密が開陳されることにも気付かず生きた真の偉人であった。
記念館で見学した写真の類は英世の長い研究生活での一場面に過ぎないが、研究室を離れた日常生活でも他人の眼のある所はどこでも左手に意識が向いていたことであろう。それにしても劣等感を持ちながら、それを隠して生きた野口英世という医学者の生涯はさど息苦しかったのではないか。研究生活にも日常生活にも独り居が何よりも好ましかったに違いない。

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