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小説 鳩胸出っ尻ヴィーナス(1)

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薬袋健造と書いて「みない・けんぞう」と読む。健造はありふれた名前だが、薬袋という苗字は少なく珍しい。これを「みない」と読むのはもっと珍しいのではないか。山梨県甲府から南に離れた或る町村に限定して多く見られる苗字で、地元の人、県内で知る人なら別だが初めてだと読めない。初対面の名刺交換でこの名刺を出すと、殆んど人が首をひねる。正しく読めないのだ。
県立F高校の二年に在学する薬袋健次郎は健造の次男だが、胸につけていた名札を見た友人の殆んどに「やくたい」かい?とか「くすりぶくろ」か?と、ためらい勝ちに聞かれたものだ。この他「くすりたい」「やくぶくろ」と無理に読めなくもないが、苗字としては誤りで、「いや、おれ『みない』だ。『みない』と読むんだ」に、「ほう、これ『みない』だと?いや、とても読めないな。苗字には変わった読み方があるが…」と驚いたり珍しそうな顔で漢字に見入るが合点の行かない様子であった。
小学校から高校まで学校の担任には入学の際、必要書類にルビふりで提出してあったため、出欠の点呼には正しく読み上げるから間違われることはなかった。
ご本人の健次郎にしてから薬袋という姓はともかく、「みない」とは妙な読み方だとつくづく思う。国語辞典は「やくたい」であり、薬局で薬を受取る時、薬の入った小さな紙袋を薬剤師は「やくたい」といい、薬店でも同じだ。医療従事者の多くが「やくたい」である。「くすりぶくろ」とも読めるので、両方とも本来は正しい。しかし、戸籍に載った苗字は「みない」と発音し、これが正解だから多くの人の頭を混乱させてしまう。

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後年、健次郎が学生時代に知り合った一言居士の友人は健次郎の苗字に「へえ、これ『みない』だと?ふーん」といい暫く見ていたが、真顔になり「薬が『み』で、袋を『ない』と読むのか。それとも薬が『みな』で、袋が『い』なのか」と聞く。「それ知らないんだ。苗字には、曰く因縁、故事・来歴があるものらしい。でも、その理由を知らないんだ」の返事に「これって日本語なのかね」と片目ウインクし、アハハハと笑った。
友人は、「音読みでも訓読みでも正しく、また、どちらも誤りで「みない」が正しいとは非論理的で不可思議千万。曰く言い難しとはこのことか」とまぜっ返し「これは読めない難しい苗字だ」と呟いた。その後「ところで『朔晦』なんてのがある。読めるかい」と聞く。「うん?分わからんな『さくかい』かい?」「いや、苗字では『たちこもり』と読む」「何、たちこもりだと?」「朔は、ついたち」「晦は?」「つごもり、なんだ。二つ合わせて『たちこもり』となる」「ほう、判じ物だな」「でも何となく分るだろう」「うん、まあな」「ところが、君の薬袋が『みない』とは何となくも分らない。読む取っかかりというものがないんだ。曰く因縁というが全く別物になってしまう。判じ物としても非常に高レベルだ。ぽっと見て読める者はおらんだろう」「うん、俺も自分の苗字だから読めるんで、そうでなければ読めなかっただろうな。アハハハ」と笑ったが、友人は「来歴が分かったら教えてくれ、話の種に面白い」と真面目な顔をした。知識欲が旺盛な男だ。
薬袋を「みない」とは奇妙な読み方だと誰もが思う。奇妙さのため一度知れると忘れずに役立つ功徳もあった。住所・番地の間違った郵便物でも、郡・村の名がはっきり書いてあれば大抵届いたものだ。また、住いを尋ねて来た人が道に迷い、困っている時「あ、みないさんをお訪ねですか、それなら、この道を道なりに行くと坂にかかります。その坂を太い樫の木を目標に行くんです。その木の所が四つ角なんですね。そこを左に入った右側の二軒目の農家です。庭の入口に建つ土蔵の壁にご主人、薬袋健造の名前がやや大き目に書かれ、横に「みない」とルビをふった洒落た標識が取り付けてありますのですぐ分りますよ」とかなり遠方で教えてもらったという人が何人もいた。
その代わり悪さはできない。「あ、あそこの次男坊だ」とすぐばれる。玄関の入り口の表札は少々幅をとり、薬袋健造と書かれ、薬袋の横にみないとルビ付きである。
父も兄も田畑が仕事場の百姓で使用頻度の少ない名刺を持っているが、その名刺の薬袋に小さくルビをつけている。この姓の家は上述の、限定して見られる町村を別にすれば甲府に若干、そこから東に少し離れた石和町に数軒と県内に僅か点在する程度であった。薬袋健造の家も点在組で、甲府から遥かに離れた東郡の平岩村に一軒だけである。他の町村に点在する薬袋の一族とどういう関係なんだろう。親戚でないことは確かだが。

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わが家の系図について三代ほど昔の先祖が調べたらしいが、その先祖の代から上は不明である。多分調べ切られなかったのではないか。原因は菩提寺の喪失にあった。先祖の生まれる少し前、名刹といわれた菩提寺が火災で全焼し、多くの経巻・仏像などと共に保存してあった檀家の過去帳も全部焼失したからだという。復古神道による仏教排撃、いわゆる〝廃仏棄釈〟で寺塔の破壊・放火焼却、住持の追放に遭ったものと考えられる。
寺院には格式があり、隣村に同じ宗派で一ランク高い寺院があって、過去帳の控えがあると聞き、先祖が調べに訪れたがやはり大火に遭い完全に焼け落ち、先祖の願いは絶たれたという。徹底して調べるには本山の高野山へ行かねばならないと聞いたが、代々、しがない百姓であり、そのような時間と費用がなく家系の調査は中止したという。確かなことは家業が代々平岩村の百姓で、明治のご一新まで苗字はなかった。明治二年に身分制度の廃止があり、同八年に平民として姓の呼称を許され「薬袋」を名乗ったのだろうが、なぜこの苗字にしたか経緯は分らない。百姓の傍ら薬草を栽培し薬の類を商っていたか、単に薬を入れる袋作りで収入を計っていたのかも…と想像するよりない。
家系はともかく、父の薬袋健造は農事組合の軽い役に就いていて、村の内外一帯で多少名前を知られていた。それで、次男の健次郎は知らない人から「ああ、あなた、みないさんの息子さんで?」と分ってもらえたことがあった。

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健次郎は、学制の改革で県立新制F高等学校の二年生に在学していた。前年は一年生、その前年まで旧制県立F中学校の三年生の身が、いきなり高等学校の二年生になった。なってみたが自分が高校生だととても信じられなかった。旧制中学生が憧れた上級学校には、旧制の高等学校・専門学校をはじめ海軍兵学校、陸軍士官学校など名だたる軍人養成専門学校が綺羅星のように並び、入試問題は高度で超難関といわれていた。
中学校の席次が学年で一、二番か、三番以内とか五番以内を占めた成績優秀な五年生、四年生がこの入試に挑戦してパスし、入学を許可されるという仰ぎ見る学校群であった。それだけに入試合格は本人の本懐、一家の誇りとして祝福されたものであった。

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それが「学制改革」の一声で、旧中学の四年生が新制高等学校の三年生に、三年生は同じく二年生に、中学三年生も同様に高等学校の一年生にするりと納まり本人も狐につままれた感じであった。健次郎も旧制F中学の四年生から新制高等学校の二年生へである。昭和二十二年の春、この年を以って旧制F中学校は創立五十年近い歴史の幕を閉じ、そっくり新制のF高等学校に生まれ変わった。校名は単にF高校であり耳に馴染めなかった。
上級生の中には中学の四年で繰上げ卒業実施令に基づき卒業した人もいたが、半数は高校三年生として在学しそのまま学業を続けた。健次郎の学年は全員が同様に学業を続けることになった。当年を含む残り二年間在学すれば晴れて高校卒業である。旧制の高等学校や軍人養成関連の上級学校の難関入試にパスして入学したのと違い、トコロテン式の高校進学であり、中学時代に憧れた高等学校生の意識が薄く、誇りも感激も薄かった。
旧中学生にとり旧高等学校・旧専門学校の生徒は立派で遥かな大人に見えた、近くに寄ると重々しく圧倒される存在であった。それが、旧制と新制の違いであろうか、見た目だけの違いだけではないと思っていた。そんな気持の健次郎であったから、F高生になった自分が何とも軽く薄っぺらく、これでいいのかと忸怩の思いでいた。

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自宅から高校までは片道約一里半(6㎞)、往復で三里(12㎞)ある。その間を健次郎は中学の三年間と高校一年の計四年間を自転車通学し今年で五年目に入る。道程に〝里〟を使ったのは、昭和十九年春中学に入学した際、校則の説明を受け「自宅から中学校まで片道一里未満は徒歩通学、一里以上は自転車通学を可とする」と教えられたからである。
そういわれたもののこれは空証文みたいなものであった。男子専科の中学校であり校是に「文武両道・質実剛健」を謳い、怠惰・軟弱の気を卑しむ気風が強く、将来、社会人また軍人として国家を担う強健な人物になるためには、通学も鍛錬の一環として考えよ、という国家の教育方針下に学校はあり、社会通念もそれに従っていた。

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しかし時代は大きく変っていた。じわじわ進んでいた戦争末期の物価高は戦後に加速され、物不足、食料不足がひどく、社会はインフの大波を被り始めていた。中学生には乗れる自転車が不足していた。古い自転車はあるがフレームは錆ついて、タイヤは磨耗し、パンク修理でチューブはつぎはぎだらけと劣化し、パンクやチェーン切れが怖くとても長い距離安心して乗れない。自転車の新車は高価で中古自転車も品薄で入手できなかった。

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一里を越え一里半それ以上の通学距離でも、雑木で手造りした下駄を履いて通学したり、自転車も中古の車体を修理し、一里未満でも自転車通学する生徒がいた。新車一台二~三千円の自転車が、半年後には高騰して五千何百円かになり、当時の小学校教員の初任給を遥かに越えていた。父健造は、健次郎をはじめ、中学二年になった三男の茂男、小学六年の四男満夫にも手伝わせ一家全員で働いた。五穀・雑穀の収穫など田畑仕事と養蚕、それに養豚や養鶏で稼ぐ収入が粗利を含め年額四~五万円あったから、無理すれば自転車が買えなくもなかったが、インフレ時代は支出額も比例して増える。健次郎に一台と思ったが、購入は難しいと諦めの気持でいた。そうかといって自宅から学校まの片道一里半を徒歩通学させるは少々酷だなと思っていた。土蔵の奥に傷んで乗れない自転車の古が一台あるのを思い出し、家にいた健次郎を呼び、古自転車を外へ引き出すよういいつけた。

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庭先に出して見るとタイヤ・チューブは劣化し、使用不可という情けない状態である。フレームも錆びだらけだ。錆は落せばいい。知り合いの自転車屋に掛け合い、タイヤとチューブを新しく替え、車体の錆取り注油など点検し修理を終えると、通学用に十分使えるようになった。修理代など約二千円と高価だったが、料金以外に自家用に保存しておいた保有米の一部である白米10㎏ほどを、悪いと知りながら父は密かに自転車屋へ渡していた。ヤミ白米1㎏百円からの値だったが、米不足の折この白米は金銭以上に口を利いた。インフレの波が激しく、お金よりこの〝ぶつ〟がものをいう時代であった。

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昭和19年の春、恒例通り入学式があった。講堂に二年生 三年生 四年性の在校生、それに正装した父兄の少数が出席した中へ、紺の制服姿の一年生が入室し、入学式が式次第に則って厳粛にとり行われたが、質素で重苦しい雰囲気であった。大東亜戦の戦況が不利に傾き、特に南方諸島の海に陸に敗北が広がり、本土空襲の怖れが大きくなっていることを実感していたからである。身近には学徒動員令により、三年生は学業を離れクラス単位でほぼ全員が県外の軍需工場へ通年勤務で派遣されるのだという。古参の教師が「こんな緊張した入学式は初めてだ」と漏らしたと後から聞いた。二年生はカーキ色の学生服に同色のゲートル巻きという戦時色の勇ましい姿になり、県外に動員される先輩宅へ勤労奉仕に出ることになるという。学問は二の次に考えられていた。

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そのためか、授業に入っても学校らしい賑わいはなく校舎は静まりかえり活気がなかった。一年生は揃って登校するが指定された科目の授業も通り一編で無気力の感じであった。先生は出欠を確認すると、三十分ほど授業をやり項目のポイント示し後は自習となった。自習も内容豊富な参考図書ならよいが粗末な薄い教科書である。これを机に並べ読んだり書いたのだったが、時間の経つのが遅く飽きて欠伸ばかり出た。
昼に持参の弁当は忘れずにしっかり食べ午後から一時間の授業を受けた。終えると教室の掃除を簡単に済ませ下校となる。戦時のため先生方も授業以外に、何か特別の用件でもあるのか校門を急ぎ出て行く姿を見た。また、病で欠勤される先生もおられたが、多くは食料不足による栄養不良で過労もあり、体力の著しい低下が原因のようであった。
戦時といえば国民学校時代の健次郎に忘れ難い思い出がある。大人達のひそひそ話であった。「大日本帝国の軍隊が陸軍も海軍も戦いに負けている」と耳にしたことだ。日本の軍隊は常勝であり負けはないと教えられていたのにである。銃後という言葉が使われるようになり、国民学校初等科の生徒は〝銃後の小国民〟と呼ばれ、高学年生は勤労奉仕に出掛けることが何回もあった。その一つに、一里半ほど北の山村で陸軍糧秣廠の建設用地の整地作業を命じられ、学年のほぼ全員が徒歩で出掛け奉仕した。 

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仕事は土木作業である。六年生で十~十一歳の子供には辛い仕事であった。現場で数人の大人に混じり鍬やスコップを使い、芝生を切り掘りし〝もっこ〟に入れ二人が天びん棒で担ぎ運ぶのだ。怪我も多く歩き疲れもあり、友達の多くが足や肩の痛みを訴ていた。
健次郎は少年にしては体が大きく力も強く農事の仕事に慣れていたため、混じったおっちゃんに呼ばれて一緒の組で仕事をしていた。「休憩」の合図で地面に腰を下ろすと、おっちゃん達はたばこを吸い明るく雑談を始めた。そのうちに声が低く憚るような調子になった。だが離れて坐る健次郎の聡い耳には聞こえていた。健次郎は子供であり、弾丸の飛び交う戦地の実状は知らなかったが、頭に浮ぶ皇軍勇士や海軍軍人さんは日々の戦いに勝っていた。しかし、おっちゃん達の潜めた話では反対に負けているというではないか。

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後年知ったことだが昭和十七年六月、ミッドウエー海戦で、日本連合艦隊の主力が米機動部隊により壊滅的な敗北を喫し戦力ががた落ちしたのである。この敗北で戦局が大きく変わったのだという。当時は軍内部にも民間にも厳しい報道管制が布かれたが、密かに洩れ、おっちゃん達が声を潛めた話題になっていたのである。ガナルカナル島の戦で敗北し、翌年には連合艦隊司令長官搭乗機が攻撃され山と長官は戦死し国葬が営まれた。次いでアツッ島の玉砕があり、郷土出身守備隊長・山崎保代大佐以下二千余名は玉砕した。

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戦局は新聞などで知るだけであったが、前年の十八年後半から戦況の悪化が公然と話題になっていた。十九年四月、中学生になり健次郎も薄くなった新聞だがよく読んでいた。最前線で日本軍の敗北や撤退の記事が増えた。敵米軍の圧倒的攻勢の前に、日本軍が当初占領した南方の島々が逆襲で占領され、戦局は悪化の一途を辿っていた。
サイパン島の玉砕は朝礼で校長先生の訓話で知った。十九年七月早々のことで「やがて本土空襲の怖れ大である。準備怠りのなきように」とのことであった。その訓話があった翌二十年の三月十日の夜から翌朝にかけ、サイパンの飛行基地から飛来したB29の大空襲で東京が焼土と化し「犠牲者・損害甚大」と報道されたが、この夜、東京方面の空が真っ赤に染まったとのことである。

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叫ばれていた疎開が間もなく本格的になった。クラスへも東京の中学から数名が転校してきた。空襲に遭って急ぎの縁故疎開である。転校生は一様に頭がよく成績優秀であったが、戦局悪化を知っているらしく聡明な風貌のなかに笑顔が少なく怯える眼があった。
中学校は田舎の小村の外れにあり表面上は平静に見えたが、健次郎はこんな時局重大な時、のんびり授業など受けていてよいのか、疑問と反省の気持に駆られていた。とはいえ何ができる訳でもなく漫然と過ごしていた。中学二年生になった二十年になると、連日のように日本のどこかが空爆されていると報道され、不安な気分になったがまだ他人事という揺れる心境であった。
警戒警報発令のサイレンにも慣れ、上空に独特の爆音を聞き外に出て見上げると、青い空に何本か白い雲の筋が細長く伸びて見えた。敵B29爆撃機が曳く飛行機雲と聞いたが今でもはっきり瞼に残る。超高空で機影は見えないが何機かが編隊飛行し、その数だけ長い雲を残し東の空へ消えて行く。一週間に一度くらいの頻度であった。生家は山にかかる丘陵の中腹の村落にあり、直接影響がなく平穏で切迫感はなかったが、大人達は「何れ、来るだろうな」と顔を曇らせていた。本心から心配していたのである。折も折り七月六日の夜、警戒警報のサイレンとほぼ一緒に空襲警報が鳴り、甲府市が爆撃を受けた。〝ずずーん〟という地鳴りと同時に、西空が赤く染まり、浮んだ山の稜線から下は真っ暗というコントラストは今も眼に鮮やかだ。繰り返される地響きの度に空が赤さを増した。誰かの「焼夷弾だ!濡れむしろを何枚でも用意しろ」の叫び声がした。

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翌日暁から村の中央を通る村道を被災者・被災家族の群れの避難が始まり、延々と続いたのである。急ぎ村道まで走り出て見ると、焼け出され縁者を頼る人達や家族づれらしい着の身着のままで歩く姿があった。顔も汚れていた。お母さんであろうか、べそをかく子供の子の手を引き、無言であり厳しい表情で歩く姿は忘れることができない。
道端で炊き出しを始めた日本婦人会の小母さん達から何か声をかけられ、頷きながら「水が欲しいですが…」と頼む女性の言葉に力がなかった。水や味噌汁それにお握りなど受け取り「有り難うございます」の言葉も小さく、一息入れ杖を頼りの疲れ切った姿であった。 
翌日登校したが授業どころではなかった。授業がなく時々午後から勤労奉仕に狩り出されたり、帰宅して家業を手伝うなど落ち着いて勉強などできなかった。でも、不平・不満きひを口にできなかった。空襲で焼け出された人達の心を思えば贅沢であり、不満など漏らせば「国賊」呼ばわりされた。

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陸・海の激しい戦いや神風特攻隊機の犠牲的攻撃の活躍、内地は空爆により多くの犠牲者を生み、八月十五日に日本は降伏した。その日の出来事も、中学生であった健次郎の記憶に鮮烈でこれも忘れることができない。その日は暑中休暇で健次郎は山の桑畑で草取りをしていた。暑い昼前、突然この山国に戦闘機が飛来し、少し離れた田畑地帯や家屋の上空を高速と爆音で飛行し始めたのである。
戦闘機は民家すれすれの超低空から機首を空に向けて轟音・黒煙とともに急上昇し、急に音が途切れたと思った瞬間、急降下する…と、再びエンジンを噴かす轟音と共に急上昇である。音が変りその瞬間にくるりと反転しまた轟音上げ急上昇…その時、翼にも胴にも日の丸がなかった!これは敵機ではないかと桑畑の中で緊張した。後になり、敵米海軍艦載グラマン戦闘機だと知ったが、戦争が終った喜びで自在に乱舞したのであった。
眼下は民家が点在するものの、一面に田畑が大きく広がり邪魔に何もない自然の大舞台であった。単機で空中乱舞の一瞬、丈高く茂る桑畑に立つ健次郎の斜め方向へ、矢のように近づく敵機が斜めに陽を受け、キャノピーを透して一瞬だか操縦席に居坐る人影がシルエットで映った。ゴーグルを装着した操縦士の横顔であった。
警戒警報も空襲警報のサイレンも鳴らなかったが「すわ、敵機だ!」と叫び物陰に逃げ込んだ人もいたらしいが無理もない、見たこともない異様な色彩の戦闘機であり、天地を揺るがす凄ましい轟音であったからである。その敵機も乱舞飛行を数回繰り返たけで、機銃掃射など攻撃はなくあっと言う間に姿を消し、また日本空軍機による応戦もなかった。

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轟音と黒鉛を残して飛行機が飛び去った後の空は青く晴れ、照りつける真夏の暑さと草いきれの中で妙に静かであった。何分、いや、息するのも忘れて呆然と桑畑に突っ立ち、長く感じられたが十何秒かではなかったか。帰宅し父から正午のニュースでボッタム宣言を受諾した旨、天皇陛下の〝玉音放送〟があったと聞き日本の負けを知った。その日を境に警戒・空襲の警報は止み、B29超爆撃機の爆音も聞かず飛行雲も見なくなった。
往時茫々という。その日起こった他のことは茫々だが、当日の真夏の昼前に眼前で見た一分に満たない出来事「敵機の空中乱舞」は、天然色ニュース映画を観た後のように健次郎の脳裏に焼き付き、終戦当日に立ち会った日の思い出として決して忘れられない。

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その年の後期から始まった二年生の授業は進度が早くなった。何やかや苦労された先生方方も疲れの中に一条の希望を見出したように、明るい容貌で学校の教壇へ立たれた。 
大学を卒業される若い先生も時々何人か見え、教生として教壇に立たれることもあった。戦後四年目になると、新制度に依った教科書も印刷の匂いの残る新本になり、教室内は戦争の重苦しさに代わり新鮮な学び舎の雰囲気が漲った。遅れていた前学年までの授業分を取り戻そうとする学校側の意欲と積極さが見えた。混乱した戦中・戦後の影響で教育現場も混迷し、高校一~三年生の学力低下を学校側は懸念していた。進学希望者また就職のため入社試験を希望する生徒に対し、先生方は何か有効な対策をと焦りに似た気持であった。結論は、真剣に勉学させ、先生方はそれぞれのため勉学環境を整えるという当たり前のことに努めておられた。〝学問に王道なし〟はここでも立派に生きていた。
先生方の気持が伝わったと見え、一時、戦後の放心状態であった学校内がぴりっとした雰囲気に変り、日々授講する生徒達の気持にも「やらねば」と真剣味が表れ眼つきが変ってきた。「これぞ高校の授業なり」と思わせる授業内容に変化したのである。
健次郎は高校が落ち着いて勉強できる本当の学び舎になったことが嬉しかった。省みると、少年期だった薬袋健次郎の身の上に起きた①F中学校への入学、➁大東亜戦争の終結、③学制の改革で六・三制に移行してF中学校が新制のF高等学校に昇格という三項目は人生の大きな節目になった。これらは級友や他の同世代と共通の歴史的事項であったが、個人的に薬袋健次郎は別に大きな変化があった。気恥かしくも〝恋〟をしたことである。これは前記三項目を上回る一大エポックであった。新制高校の二年生になった十七歳の夏のことである。もっとも、この時点で健次郎は恋という自覚はなかった。おくてで女性との付合いもなく、仄かな〝想い〟であり後になってそれと分かったのだ。

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健次郎の通学は自転車だが、最短距離を探し県・町・村道を走り、途中には狭い農道にも乗り入れた。或る細い農道が中途から三倍程の広さに変わり、別の広い農道とほぼ直角に交差する小さな四つ角へ出る。その一角に基礎石を含め、高さ五尺ほどの古い石地蔵尊が祀られ〝地蔵尊の角地とか、広場〟と呼ばれていたが、地元では単に〝お地蔵さん〟で通っていた。健次郎は大抵この角で自転車を止め、一息入れるのによい場所であった。そのため家を何時も早めに出ていた。四つ角の周囲は畑が広がっている。角地は周囲の畑より三尺ほど低く、付近には防風や日除けにもなる常緑樹に、落葉樹の混じった古木十数本が短かく一列に植えられ、疎林のようになっていた。古木の枝葉は周囲を覆うように広がり夏場は日を遮り、冬は畑の面を吹いてくる寒風を遮り日だまりを作る暖かい場所に変えてくれるのであった。古木に挟まれるように植えられている常緑低木の、扉の木が何本かあった。本当の名はトベラらしいが、枝葉を傷つけると悪臭を放ち、節分に鰯の頭と一緒に戸口に魔除けとして掲げられたところから、トベラをもじって〝扉の木〟と呼び、地蔵尊をお守りする魔除けの護木と信じられていた。

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これら木の根の傍らに大・小の自然石が不揃いに並べて置いてあった。古く土壌改良や道路普請の際掘り出された石で、重く大きいため位置を工夫して置かれてあった。これが長い間に雨水などで洗われ、恰好の腰掛け石になった。少し離れた陰に建つ粗末な木造の小屋は共同便所であった。農家の小母さん達による奉仕活動で掃除が行き届き、田畑の労務に出た農家の人達、特に女性達も自由に使用でき重宝がられていた。
道の前には二尺幅で水深一尺ほどの小川が澄んだ水を湛え川底の藻を揺らして緩く流れている。大川から灌漑用に引かれた清らかな水で顔や手足も洗い、暑さの夏には冷たく飲んで平気であった。自然石に腰掛けほんの僅か休むと気持が和み疲れも薄らいだ。

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健次郎が高校二年生に進学して一か月ほどした五月の晴れた朝のこと、珍しいことにお地蔵さんの角で一人の女子高生が休んでいた。この女子高生の苗字が何と〝薬袋〟であったのだ。彼女は隣村の中学校を終え、K女子高校を受験して入学した一年生で登校の途中であったが、平らな大石に腰を掛け一休みしていたのである。
暑かったのだろう紺のコートを脱ぎ、四角に畳んで黒の鞄と一緒に石の余りの部分に置いていた。健次郎はいつものように一息入れるため、自転車から降りその女子高生を見た。豊かに盛り上った胸元に〝薬袋〟の名札のあるを目敏く見つけ、その苗字を確認したが大きく頷くと、やや無遠慮に「おや、『みない…さん?』ですね、お早う。君はK女子高の一年生なのかい?」と声をかけた。
健次郎はカーキ色の上着の上に古い短コートを着ていたが、少し飛ばしてきて体が温まったようで暑く、短コートを脱ぎ上着姿になっていた。上着の胸に古くなった名刺大の名札が縫いつけてあった。終戦前の中学生の時につけ、そのまま剥がさずにずっと縫い付けてあった。女子高生のは入学して新たに付けたようで白い生地に、苗字が墨ではっきり書いてあった。それが二人の仲を取り持つことになったのである。

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健次郎は柄は大きいが生れつき嫌味のない人懐っこいところがあった。健次郎の挨拶兼質問いに腰かけたまま姿勢を正し、「はい、私『みない』です。K女子高校の一年生です…が?」と驚いたのか低い声で返事すると、厚ぼったい瞼を持ち上げるように眼を大きく見開き、訝しげに健次郎を見た。眉が太く眉墨を使ったように黒い。
石に腰掛けているので分らないが、女子高生にしては背が高く全体に大柄のようだ。何か運動しているらしく首が太く肉付きがよかった。新調の制服が窮屈そうに膨らんでいる。膝に置いた拳がじゃが芋のように丸く大きかった。太い手首に埋まるように巻きついた細い紐は小さな腕時計の革バンドであった。大きくでんと腰掛け、長いスカートの裾下に広げて伸ばした二本の脛は太く、黒の靴下が踵辺りまでずり下がっている。健次郎を見て少し直したが、直ぐに下がって踝の辺りに丸まって縮んでいる。黒の革靴は一見して甲高幅広で足も頑丈そうだ。脛が太い所へ短いソックスなのか自然にずれ下がってしまう。でも拘らないのだろう彼女はそのまま放っていた。目鼻立ちは普通であろう。顔に幼さが残るものの、体型は大人で低い声が似合う落ち着いた女子高生であった。
「F高校の兄(あに)さんですか。よくこの苗字か分かりましたね」と彼女が口を開いた。無口らしいが人見知りしない性格なんだろう、健次郎の眼を見てはっきりした口調は淀みない。「苗字か分かりましたね」は「よく読めましたね」という意味を含んでいた。
健次郎も学帽を無造作に掴み、隣の平らな石を軽く拭いて腰を下ろすと、自分の胸の名札をつまんで見せ「僕も『みない』なんだ。F高校二年の薬袋健次郎っていうんだ」に、彼女の若く血色のいい顔が驚きとも喜びともつかない明るさに変った。明るさの中に安堵の気配が見られ訝しげな眼の表情が消えていた。

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人間は本来異質なものを忌避し、同質なものを受容する性質がある。生物全体にいえることである。動物でも植物でも自分と異質なものは総て〝敵〟とする生物体が持つ特性のようで「おや、まあ、同姓とは…。お住まいはどちらですか?」同姓が不安な気持を取り除いたようで、彼女は健次郎に喋りかけた。健次郎も明るく応じた。
「僕、東郡の平岩村なんだ。平岩の生まれ育ちの百姓の倅でF高校に自転車で通っているんだ。君は何処なんだ?」とくだけた健次郎の問いに彼女も笑顔になり「私、春日村に住いしておりまして薬袋芙蓉といいます。薬袋姓はうちだけなんでして近所にはありません。でも石和の在に薬袋姓の家が数軒ありまして皆親戚なんです。東郡の薬袋さんは知りませんでした。私、家から県道へ出ますと東へ歩き、大川に架かる春日橋を渡ったすぐの道路を横に入ったこの農道一本で来ますの。はい。学校はこの先を県道へ出て二十分ほど北へ歩くいた所にあります」と歯切れがよかった。
「うん、K女子高は県道から見えるから校舎は知っているが、校内へは一度も入ったことがないんで知らないんだ」と明るく応じた。

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〝同郷の誼〟とはよくいうが〝同姓の誼〟はあまり聞いたことがない。でも、健次郎は今その誼で近づきを感じている。同じ苗字でも「伊勢屋・稲荷に犬の…」をもじって、「鈴木・佐藤に…」と揶揄されるほど多いと親近感が湧かない。稀な苗字で読むのも覚束ない薬袋姓の二人がばったり会ったこと自体、場所はどこであれ偶然というか奇縁であり〝奇跡〟とも感じられた。通学途中の奇遇に彼女も「おや、まあ」と同姓の誼で親しみが湧き二人の間隔が狭まったようだ。誰かの紹介でも、名乗り合った訳でもなく、胸に縫いつけていた小さな名札からという考えられない不思議さである。

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健次郎の友人の大部分は、「恰好が悪い」といって名札を剥ぎ取り棄ててしまったというが、健次郎はそのままだった。廃棄なら何時でもできたが面倒だったのだ。剥げば落ちたかも知れない儚い命の名札、その名札が何と生きた。が、女高生の芙蓉は人知で測りえない〝偶然〟に不思議と大きく頷いていたが、何故だろう。神霊を信じる者なら「神のお導き」と感じたかも知れない。しかも若い男・女高校生の二人である。一枚の名札でそこまでは…考え過ぎにならないか。
一人道中の通学路で休んでいた芙蓉には、同姓の健次郎が一目で好ましく、頼れる兄さんに映ったらしい。笑みを見せ一層親しげだった。口は重そうだが確かな口調は歯切れよくお喋り好きな娘さんのようだ。
(続く)

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