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人々は仏像をまつり心の拠り所とした

仏教寺院には、仏の姿を写した仏像が本尊としてまつられています。しかし、原始仏教の時代には「仏像をつくってまつる」という習慣はありませんでした。偉大な存在である釈迦の像をつくることは畏れ多いとされ、釈迦の死後しばらくは、仏足石※や菩提樹※などが礼拝の対象として代用されていたのです。

ところが1世紀頃、インドのガンダーラ地方とマトゥラー地方で、同時発生的に仏像がつくられ始めます。ガンダーラではヘレニズムの影響で仏像がつくられるようになり、マトゥラーではインド古来の伝統の下で仏像がつくられていく。これが仏像の発祥と言われています。

その後は仏教の展開とともに、仏像のあり方も大きく変わっていきます。当初、「釈迦の教えに従って修行し、自ら悟りに至る」ことが重視されていたため、もっぱら釈迦の像がつくられました。その後、「自分ひとりの悟りを目指すのではなく、多くの人々を救済することが仏教の本義」という大乗仏教が起こると、さまざまな尊像がつくられるようになります。

これらの仏像は、如来・菩薩・明王・天部に大別されます。如来とは悟りに至った存在であり、菩薩とは悟りを目指して修行中の〝救いの実戦部隊〞です。明王は仏の教えに従わない人間を正しい方向に導く存在であり、天部はインド古来の神々を起源としています。

苦しみから救われたいという切実な思い

仏像に期待される役割も、時代とともに変化しました。平安前期までは、現世利益を授ける仏とされる薬師如来や観音菩薩の信仰が盛んでしたが、平安後期に入ると阿弥陀如来の信仰が流行します。仏法が衰退するという末法の時代を迎え、貴族たちは、「来世は阿弥陀如来の極楽浄土に往生したい」と願い、阿弥陀如来を本尊とする寺院を数多くつくったのです。

このように、人々はさまざまな形で仏像をまつり、祈りを捧げてきました。その根底にあるのは「日々の苦しみから救われたい」という切実な思いです。まだ医療や科学技術が発達していなかった時代、生きることは今よりはるかに苛酷でした。凶作と飢饉、疫病や相次ぐ戦乱。日々の生活の中で死を身近に感じていたからこそ、人々は仏にすがり、救いを求めた。その拠り所となったのが、仏像だったのではないかと思うのです。

この記事を担当したのは・・・
文芸学部芸術学科 岩佐 光晴 教授

この記事は『sful成城だより』vol.18 から転載しています。
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