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『陽炎座』幾原邦彦監督×藤津亮太さんトークイベントレポート

11月18日(土)ユーロスペースにて、鈴木清順生誕100年記念「SEIJUN RETURNS in 4K」『陽炎座』4Kデジタル完全修復版の上映後、アニメーション監督の幾原邦彦さん(『少女革命ウテナ』『輪るピングドラム』『さらざんまい』『ユリ熊嵐』等)、アニメ評論家の藤津亮太さんをゲストに迎えてトークイベントを行いました。その模様をレポートします!


藤津亮太さん
(以下敬称略):最初に会場の皆さんにお聞きしたいのですが、今日初めて『陽炎座』を見た、という方はどれくらいいらっしゃいますか?(場内の半数以上の方が手を挙げる)おお、結構初めての方が多いですね。ということは、皆さんいま映画を見終わって「どうしたものか……」と困惑されているんじゃないかと (笑)。
幾原邦彦監督(以下敬称略):初めて『陽炎座』を見た時の感想は大体2種類に分かれていて、「なんだこりゃ」か「寝た」か、のどっちかですよね(笑)。
藤津:幾原監督は、鈴木清順監督の作品、特に今回の「浪漫三部作」にはどのあたりで出会ったのでしょうか?
幾原:『ツィゴイネルワイゼン』が公開されたのが1980年、『陽炎座』が1981年でしたが、その時僕はまだ高校生で、初めて『陽炎座』を見たのは1983年、大学1年生の時です。同級生の女の子が他大の4年生の男子と一緒に住んでいて、家に遊びに行ったら、そこに当時まだ珍しかったビデオデッキと『陽炎座』のビデオがあって。映画のセルビデオが1万5千円くらいする時代ですよ、彼に聞いたら「『陽炎座』を見るために買った」と…!それでビデオを見せてもらったんですが、衝撃的でしたね。「えっ、なんだこれ!?」って。その後にテレビの深夜放送で『ツィゴイネルワイゼン』を見ました。

『陽炎座』松崎春孤(松田優作)
『陽炎座』品子(大楠道代)

『陽炎座』との出会い


藤津:初めて『陽炎座』を見た時はどうでしたか?
幾原:不思議な感じ、まるであの世を見てきたような感じでしたね。『ツィゴイネルワイゼン』もそうですけど、夜中に見ているとちょうどいいんです(笑)。午前0時すぎから明け方くらいまで、街のノイズが無い時間帯に見るのがすごくいい。今でも年末の大晦日あたりに観ることがあります。実家に帰らないで、夜中に一人で清順祭りをやっている(笑)。
藤津:その後プロの演出家になってから作品を見てみて、学生時代に受けた印象と比べて、何か違いを感じましたか?
幾原:改めて、よくこれが作れたなと思います。僕も「幾原さんってめちゃフリーダムですね」「比喩的なこと、考察的なことはどう考えているんですか」などと言われることがあるんですが、そうしたことは作り手は一切考えていないんです。考察なんてしていたらスタッフがついてこない、その場でどんどん具体的な指示をしないと現場のスタッフは動けませんよね。なので清順さんも、フリーダムに作っているように見えて、現場は相当キリキリしていたんだろうなと思いますね。
藤津:役者さんのインタビューを読むと、玉脇役の中村嘉葎雄さんなどは、自分の役柄をリアリズムで捉えていても、いざ撮影に入ると「そうじゃない」感じを清順監督から求められるので、相当ストレスが溜まったみたいですね。
幾原:中村嘉葎雄さんはすごいいい芝居していますよね。ちょっとマンガっぽいというか。それでいてすごく殺気があるじゃないですか。そこがいいですよね。『陽炎座』に出ている役者さんはみんないい。

『陽炎座』玉脇(中村嘉葎雄)と松崎
『陽炎座』

僕らの世代のアニメ業界人に、鈴木清順はとてつもなく大きな影響を与えている


藤津:『陽炎座』には結構人工的な絵が多いですよね。そのあたり、アニメにも影響があるんじゃないかなと思うのですが。
幾原:僕らの世代のアニメ業界人に、清順さんはとてつもなく大きな影響を与えていますね。僕らの世代は『殺しの烙印』など60年代に清順さんが撮った日活の作品はリアルタイムでは見ていなくて、80年代の「浪漫三部作」が、僕らがリアルタイムで鈴木清順作品に触れた原体験ですね。清順さんの存在は当時の日本映画のなかでも際立っていた。
藤津:押井守さんが実写映画を撮った際に『殺しの烙印』を目指したという話がありますよね。
幾原:実写もそうでしたし、アニメでも清順さんっぽい画面を作ってますよね。
藤津:押井監督作品だと『天使のたまご』の最後に、少女が水の中に落ちて、体から白いたまごがわーっと出てきて水面が埋め尽くされるくだりがあるんですけれど、それって『陽炎座』じゃん!という(笑)。『陽炎座』の最後のほおずきのシーンと同じ感じだったので、あ、ここにルーツがあるのか!と。
幾原:『御先祖様万々歳!』で、カメラが全然動かなくて、セットみたいなところで長回しで役者が延々芝居している箇所とかも『陽炎座』っぽいですよね。
藤津:『御先祖様万々歳!』はキャラクターデザインがうつのみや(さとる)さんなんですけど、人形っぽいんですね。肘とかに線が入っていて。
幾原:浄瑠璃人形だよね。『陽炎座』のラストに出てくる。
藤津:おそらくそれを見て押井さんは「あ、繋がる」という感じになったんだろうなと。デザインが上がってきたのを見て「いける」という感じになったのでしょうね。
幾原:新房昭之さんの『化物語』、中村健治さんの『モノノ怪』、湯浅政明さんの『ケモノヅメ』…ほかにもいくつか、僕と近い世代の人たちの作品のなかに「これは清順さんの影響を受けているな」というものがありますね。鈴木清順はアニメ業界に相当な影響を与えていると思います。
藤津:幾原監督ご自身は、どういう所で清順監督の影響を受けていますか?
幾原:絵作りですね。画面の絢爛な感じや和の感じとか。最初見たときはわからなかったけど、業界人になって改めて見ると、その凄さがだんだんわかってくるんですよ。あとは、音が無音というか、音楽の印象があまり無いですよね。『ツィゴイネルワイゼン』はサラサーテの曲が入っていたり、『陽炎座』もクライマックスに少し音楽が入っていますが、ほかのシーンは音楽がほとんど無くてシーンとしている。そこも夜中の映画っぽいイメージがありますね。
藤津:今回の特集上映「SEIJUN RETURNS in 4K」のパンフレットに、音楽担当でクレジットされている河内紀さんのインタビューが収録されていますが、それを読むと、河内さんのやっていることは「音楽」じゃなくて、実質的に「音響監督」だったようですね。サウンドディレクターとして作品世界を設計して「これは幽霊なので足音がつきません」とか、そういうジャッジをしていたみたいです。清順監督の狙いを音響で設計・補強している役割というか。
幾原:浪漫三部作のどの作品も、涅槃を歩いている雰囲気ですよね。川や海などの水辺が出てきて、そこを舟で渡るような映像が繰り返される。橋を渡る、橋の前で佇んでいるとか。
藤津:『ツィゴイネルワイゼン』のラストに橋が出てきて、次の『陽炎座』の冒頭は橋の上に松田優作さんが立っているシーンから始まりますもんね。
幾原:彼岸の感じというか、そこがまた年末に見るといい感じなんですよ(笑)。

『陽炎座』
『夢二』

幾原監督が見る『陽炎座』の見どころ


藤津:幾原監督が見る『陽炎座』の見どころというのは?
幾原:僕はアニメ業界人なので、『陽炎座』と『夢二』はどちらも外せないですね。『夢二』は竹久夢二の話で、竹久夢二というのはアニメキャラクターの祖のような人じゃないですか。竹久夢二を筆頭に、中原淳一、高橋真琴、手塚治虫。彼らがアニメの美少女キャラクターの系譜の祖という感じなのですが、一方で『陽炎座』の人形浄瑠璃の感じが、すごくアニメ映画っぽい感じがしていて。これは僕の勝手な解釈なのですが、『陽炎座』は「ものづくり」「舞台づくり」というものを、鈴木清順監督なりの価値観、感性で描いているんじゃないか、と思うんですね。そういう風に見ると腑に落ちる描写がたくさんあることに気付く。たとえば『陽炎座』の主人公で新派の劇作家である松崎は「映画監督」。松崎を金銭面でサポートするパトロンの玉脇は「映画のプロデューサー」ですよね。そしてヒロインの品子は「主演女優」。色々なシーンで登場するオババは「映画、舞台を支配している妖怪」。表面的にはプロデューサーがすべてを支配しているように見えるんですけれども、実はみんなオババ=妖怪の手の内にいる。映画が始まった時から妖怪の世界なんですよ。玉脇の後妻の品子は前妻のイレーネに操られている。松崎は玉脇に操られている。松崎と品子の共通点は、ふたりとも「人形」であることなんですよね。松崎は監督だけれども、自分の好きなように動けない、作品を撮らせてもらえない。それは玉脇(プロデューサー)に支配されているからだ!というメタファーですよね。体に操り人形の糸がついていて、ここから自由になれない。その上オババには「女子供のおもちゃでございますよ」なんて事を言われちゃって、「ああ、清順監督は自分のことをオモチャだって思っていたんだ…。わかります、監督ってなかなか自由に出来ないですよね」なんて、同じ立場として共感できたりする(笑)。
藤津:あえて聞きますけど、品子のポジジョンを「映画の企画」だとすると、プロデューサーと監督の間で「この企画は誰のものだ?」みたいに取り合いになることもあるんでしょうね。
幾原:よくありますよね、プロデューサーと監督で綾波レイの解釈が違うみたいなこととか(笑)。映画作り、ものづくりの過程で、スタッフたちの間でも色々なつばぜり合いがあるんですが、そうした色々なものの上にどかっと座っている、すべてを支配しているのが「映画」とか「舞台」という魔物ですよね。なぜそんなものに命をかけて突き進むのか、というのは誰もわからない。その妖怪は女の魂、女優の魂を食べて生き永らえているんです。だけど男が「映画や舞台と一体になれる…」ってふらふら近寄って行っても「男の魂はいらん」って妖怪オババに言われちゃうんですよね。シンジ君がゲンドウに「帰れ」って言われちゃうような感じですよ。
藤津:お話を聞いていると、たしかに『陽炎座』というタイトル自体が「舞台=ステージ」そのものを表す言葉だということが思い当って、なるほどそういうことだったのか、と腑に落ちますね。
幾原:僕のなかでは映画が始まると同時に『陽炎座』という舞台が始まっているんです。この映画で絵的に面白いのは、子どもがたくさん出てきますよね。彼らは可愛いふりをして、人の魂を食べてる妖怪なんです。可愛い魑魅魍魎があちこちに跋扈している。現実の世界でも「鬼」たちは一見可愛らしい顔をしていますからね。おちおち歩いていると大変なことになりますよ(笑)。
 

『陽炎座』
『陽炎座』

ラストシーンの「謎」を読み解く

※この先は映画の結末に触れています※
 
幾原:ラストシーンの解釈、これは観客の皆さんにとっても謎だと思うのですが、松崎が品子の放ったほおずき、品子の魂を食べて、そのまま水の入った樽に顔を突っ込んで死んだように見えますよね。なのにその後場面が切り替わって、松崎がなぜか突然汽車に乗っている。汽車の窓の外には鬼が人を食べている絵が見える。「これはいったいどういうこと…?」って、映画を観て以来ずっと考えているんですけど(笑)。もしかしてこれは死後の世界、もともと登場人物みんなが幽霊だったという解釈が一つ出来ますね。そしてもう一つの解釈として、実は品子の魂を食べることによって、松崎は人形ではなくなった。ラストシーンで舞台の黒子(赤子)姿のオババが出てきて、松崎に「男の魂はいらん」と言いますよね。その時に松崎が糸を引きちぎるような仕草をして、樽に歩み寄ってほおずき、女の魂を食べるんです。あの場面で松崎は「人形」であることをやめて「鬼」になったんです。そのことで松崎は完全体になった、ついに「監督」になったんです。監督になって初めて「鬼」、世の中の正体が見えるようになった。でも一方で、もう一人の松崎は死んでいるんです。最後の場面で、松崎は2つに分かれますよね。これは今生きている「魂を喰らった松崎」と「死んだ松崎」ですよね。映画という装置、夢のなかで「人形としての松崎」は死んだ。そして死んだ方の松崎は品子とずっと一緒にいる。これは僕の勝手な解釈、想像です。
藤津:さきほどアニメで影響を受けた人がいるという話をしましたが、一方で、アニメでこんなに大胆にカットを繋いだりすると、逆に訳がわからなくなる。アニメだとミスしているようにしか見えなくなりますよね。
幾原:実写映画は生身の俳優が出ているので、基本的に観客の目は俳優を追いかける。だけどアニメのキャラクターは生きてはいないので、そこに動きをつけることで躍動感、命の息吹を感じさせようとしますよね。清順さんが面白いのは、生身の女優に人形浄瑠璃をやらせるなど「生きている」俳優を使って、いかに「死」のイメージを映像に定着させようかと腐心しているところ。そこが面白いんですよね。
藤津:残念ながらそろそろ時間になってましたが、改めて鈴木清順作品の魅力を、幾原監督の言葉で表現するとどうなるでしょうか。
幾原:スルメのような作品ですよね。何回見ても、見た時の年齢ごとに新たな発見がある。僕も今日のトークの前に何回か見直したのですが、見る度に発見があるんです。「あ、こんなことしているんだ」「このシーンはこういうことだったのか!」というのが毎回ありますね。
藤津:最初はインパクトに圧倒されて、ディテールまで気付けないというか、発見しきれない部分が多々ありますよね。
幾原:何回も見られる映画という、その強度が凄いなと思います。皆さんが僕の話を聞いてもう一回見直したら「ああ、そういうことなんだ」と思う箇所があるかもしれないし、「お前の言っていた事と違うじゃん」ってツッコミが入るかもしれない。そこは皆さんそれぞれが自由に、好きなように楽しんでもらえればと思います。

『陽炎座』

鈴木清順生誕100年記念
『ツィゴイネルワイゼン』『陽炎座』『夢二』4Kデジタル完全修復版
「SEIJUN RETURNS in 4K」全国順次公開中!



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