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宇津峰の決戦|岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載123

 南北朝時代の西暦1352年(南朝・正平7/北朝・文和2)3月24日、奥州の南朝大将・北畠顕信が南朝皇子の守永王を伴って宇津峰に入城した。宇津峰は郡山市と須賀川市にまたがる標高677㍍の独立峰である。この時点ですでに奥州で南朝に味方するのは、宇津峰を含む田村地方の領主・田村氏のみ。しかし田村氏は孤立無援ながら、居城の守山(郡山市)のほか四方八方に10カ所以上の城を構築し守りを強化する。さらに阿武隈川を越え、西岸の佐々河城(郡山市笹川)も確保した。佐々河には宇津峰へ直通する道と渡し場があり、ここを押さえれば北朝勢の侵攻が難しくなるのである。

 対する北朝の奥州管領・吉良貞家は4月1日に日和田城(郡山市)に着陣。吉良はまず佐々河城を攻めた。両軍の兵力は、おそらく北朝2万に対し南朝5000。兵力に劣る田村勢だったが必死に防戦し、なかなか佐々河城は落ちない。吉良は佐々河攻略を継続しつつ「北から守山城を、南から江持城(須賀川市)も同時に攻撃せよ」と指示。北と南を大きく迂回する作戦に変更した。

 守山城には北の三春から、江持城には西の須賀川から北朝勢が攻め寄せる。こうして西暦1352年4月から7月まで佐々河、守山、江持の3カ所で一進一退の攻防が繰り広げられた。兵力差を考えれば守山田村氏がよく持ちこたえた、と言っていいだろう。

 しかし日が経つにつれ疲労の色が隠せなくなる。7月4日にはとうとう佐々河城が陥落し、北朝勢が阿武隈川の渡河に成功。そのまま東岸にあった御代田城(郡山市)も奪取した。それでも南朝勢の防衛線は崩壊しない。そこで吉良は同年10月、守山のさらに東、宇津峰の真北にあたる川曲(郡山市)に着目。こちらにも別働隊を投入する。吉良は慎重な武将である。彼の狙いは四方からじりじりと圧力をかける持久戦だった。このまま戦況は膠着し、冬を迎えたため両軍は越年する。

 翌1353年(南朝・正平8/北朝・文和3)2月から攻勢を再開した北朝勢は、ついに川曲を突破。やがて南の江持も破り、北朝勢は一気に宇津峰の麓へ殺到した。対する南朝勢は戦線を縮小し宇津峰の死守に専念。急峻な地形を利用して、3月から4月までは何とか敵の攻撃をはね返した。しかし5月、とうとう南朝は力尽きてしまう。宇津峰が陥落したのである。


 北畠顕信は守永王とともに城外へ脱出。北の津軽へ落ち延びていった。そして守山田村氏は北朝に降伏。これで奥州の南朝勢力は完全に一掃されてしまった。津軽での顕信に再起する力は残されていなかった。もはや奥州で組織的に抵抗することは不可能となり、顕信は没落していった。

つまり宇津峰の陥落をもって事実上、東北地方の南北朝時代は幕を閉じたのである。(了)

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。
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