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「集団主義の完璧合理主義おじさん」は自分が認めている人しか見えていないことが証明された悲劇について考える

昨日書いた「集団主義の完璧合理主義おじさん」について、今日も考えている。

自分の中で色々な思いがやっと整理できそうなので、こうやって書き続けている。

昨日、ハリルホリッジ元監督の会見を文章で読んだ。私は日本に住んでいないのでテレビやネット中継で見れない場合が多い。どうも昨日の中継は海外でも見れたようだけど私はその時間帯、観ることができなかった。

尊敬する宇都宮徹壱さんのコラムをじっくり読む。

ここで私が感じたのは「似たような情景、沢山見たなあ」だった。そこで再び登場するのが「集団主義の完璧合理主義おじさん」である。

「集団主義の完璧合理主義おじさん」は、部活が大好きだ。辛い練習(訓練に近い)を共有しないと「集団主義の完璧合理主義おじさん」は連帯感を感じられない。そして一度感じてしまうとその連帯感を感じてきた人しか見えなくなってしまう。そして自分たちと違う異質な存在そのものに過度な恐怖を感じ、コミュニケーションをとる勇気もなく、結局いきなり排除に走る。

外部からの真っ当な指摘など聞こえるわけがない。なぜって。同じ苦労を経験していない人は仲間じゃないから。しかし、指摘だけは過度に怖がる。そして排除する。

話がそれるが、シンガポールに越してから息子はサッカーを辞めた。勉強と団体スポーツの両立が厳しくなったのと、通っていたインターがオーストラリア系だったのでぶっちゃけサッカーは人気がなかったからだ。そこでトライアスロンに転向しクラブチームに入った。

私は典型的な「サッカー少年団ママ」だった。そう、「集団主義の完璧合理主義おじさん」のおばさん版だ。勝てなくては意味がない、試合に出れなければ意味がない。そしてその苦しみを共有して初めてその行為を認めることができた。というか息子がきつい練習で苦しんでないとスポーツしていると認められなかった。

トライアスロンのコーチはもちろん日本人はいない。私は練習を見学していてあまりに楽しそうで愕然とした。これでいいの?と思わず訪ねたコーチは私に冷ややかに言った。「あなたがやっているわけではない」。

そして私は入ったばかりの息子を手助けしてくれるニュージーランド人のお兄ちゃんに出会い衝撃を受ける。彼はものすごく楽しそうにトレーニングするのだけどめっちゃくちゃ早く、強い。そして初心者の息子にも超優しい。え!こんな人いるの!!競技強い子って周りはみんなライバル!とかピリピリしてるもんじゃないの???

え、私、もしかして間違ってる?私が完璧だと思って世界と違う世界がある??

私は初めてそこで「集団主義の完璧合理主義おじさん」を卒業することができたのだ。スポーツは楽しんでいい。練習は自分のペースで楽しむべき、そして専門家の意見を真剣に聞くべき。長く辛いことをやればいいのではない。そしてそれを実践している素晴らしいモデルにも出会えた。私は新しい世界に気づき、そして新しい世界を受け入れることができたのだ。その後、お兄ちゃんはニュージーランドに帰り、息子は国が変わったけどずっとトライアスロンを続けている。別に連勝しているわけではない。でも本人がとても楽しんでいるし、そして定期的に参加して出会う同世代の友人がいる。素晴らしいことではないか。日本の部活とは違い、楽しんで自分のペースで競技が続けられる。これ以上何を望むのだ。

それた話を元に戻す。

「集団主義の完璧合理主義おじさん」は自分たちの経験に基づいた世界しか見えてこない。新しい風や新しい提案は聞いているけど「聞こえていない」。そして自分たちだけで決めたルールを元に未来のレースを今から引く。まだワールドカップ始まってないのになんで次の監督も日本人って決めてるの?実は陰陽師でもいるの?

ハリルさんの悲劇はこの「集団主義の完璧合理主義おじさん」たちの思考をハリルさんが全く理解できなかったからとしか思えない。「言わなきゃわかんねえだろ」ではなく「言わなきゃわからないなら入ってくんな」という思考。なぜ途中で言わないのか?それは聞かなきゃ理解できないような輩を排除するためだ。

「集団主義の完璧合理主義おじさん」を追い出す以外組織は変わらない。それは人そのものを追い出すのではなく人の思考を根本的に変化させることで解決する。一緒にすんな!かと言われそうだけどだって私がそうだったもの。

U20以下の世代はジュニア時代を日本以外で過ごしている選手が何人かいる。私たち家族が大好きなFC東京に入った久保くんもその一人だ。あとは自分たちでチームを作って定期的に海外の試合にチャレンジしている少年たちも沢山いる。そういう子は従来の日本の少年サッカーのシステムではやっていけない。だって所属組織最優先だもの。そう、まさに「集団主義の完璧合理主義おじさん」思考がここですでに始まっている。

この「集団主義の完璧合理主義」から脱出するにはその脱出のきっかけになる出会いが重要。ハリルさんに心底申し訳なく思うスポーツ少年少女の保護者は自分の子供が「集団主義の完璧合理主義おじさん」思考に染まらないように自分でできることから情報収集し、親子で活動していかなくてはならない。

ちなみにこの思考は別にスポーツに限ったことではない。日本の大企業の海外進出において駐在に入った途中入社の非日本人社員の思考の違いについていけずにその社員を本社がプロジェクトからいきなり外すとかよく聞く話だ。これも「集団主義の完璧合理主義おじさん」が新しい風を認められなかったことによる。

「このままではいけない」から「これだったら出来る」を実践する。その実践の積み重ねによって新しい扉を開こう。そのくらいの覚悟で挑まないとハリルさんに申し訳ない。