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「孤独」を楽しめると「生活」ができる

ここ数日マレーシアはヘイズという煙害が発生し始めてる。ドブネズミみたいな生き方をしていた私はあまり感じないのだけど、子供のスポーツアクティビティが中止になるのは正直困る。もう中学生になったのでインドアのスポーツをやってもらうことでほぼ解消できてるのであまり気にしていない、それに天災は個人ではどうしようもないのでできる対策をするしかない。

でもやっぱり気持ちよく外出できないのは、いやねえ。

現在息子が通うインターは日本人の方がすごく少ない学校である。そして車社会のクアラルンプールで車のない生活をしてるので学校の課外活動も今は積極的にやってない。現在は近くのボクシングジムと地元のランニングクラブ(これはしばらく中止の予感)、コンドのジム、そして自分で申し込むマラソンやトライアスロンの試合である。今まではキッズだとトライアスロンがいきなりキャンセルもあったけど、もう中学生、高校生カテゴリーなのでいきなり中止は暴風雨でない限りきっとないだろう。

そこで思うのだけど、まさに活動は「個」である。自分の負担を考えて現在は個で活動するようにしているのだ。ちなみに個の活動も学校に報告するとちゃんとデータ化してくれる。別に学校の名前を背負った活動だけが学生時代の課外活動ではないという認識はとてもありがたい。

この「個」活動ができるか否か、それは孤独力にかかっている。こんなnoteを拝見した。

首が痛くなるほど頷きながら読んだ。そう、孤独力がある人はコミュニティ活動ができるけど、逆はできない。そして孤独力を受け入れ、孤独力を愛し、孤独を楽しむ人が「生活」できる。


生活って、実は孤独力を綿密な関係があると思う。なぜなら自分のペースで自分で行うのが「生活」だから。ひとりでできる、ひとりを楽しめる人が生活ができる。ここに家族の有無はあまり関係ない気がする。家族のせいで生活を楽しめない、という視点を孤独力を楽しむこと少しずつ変えいけたらきっとみんなハッピー。

まあそんなに簡単な話じゃないってわかってる。おばちゃんになった今だから言えるんだけどね。