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記憶にまつわるあれこれ


「ただいま」

 パートから帰宅し、マコトは玄関で傘の水を落としながらぼそりと呟いた。
その声に応える声はない。
それでも、マコトは声を掛け続ける。

「……ハジメさん、お腹空いたでしょ。今から晩御飯の用意しますからね」

灯りのないリビングを通り、柵が付いた部屋の襖を開け、声を掛ける。
部屋の中には、マコトを虚ろな目で見つめ、言葉にならない呻き声をあげる男の姿があった。

 夫のハジメが認知症であると診断を受けてから、マコトの生活は一変した。
もう会話もままならない夫のためにパートのシフト数増やし、家にいる間はハジメを介助する。
介護施設やサービスを受ける余裕もない。
マコトは一人、そんな生活に耐えていた。


「……ハジメさん?」

ある日、いつものように仕事を終え部屋の中を確認すると、ハジメの姿がない。
マコトは大声を張りながら、ハジメの姿を探した。

「ハジメさん、ハジメさん!」

家中どこを探しても、ハジメの姿はない。
初めてのことだった。
家の外に出て行ってしまったのだろうか。
今日は朝から雨が降り続いている。
近くの川も増水しており、このまま降り続けば氾濫の可能性もあるだろう。最悪のケースを想像して、マコトは血の気が引いていくのを感じた。

「もしもし、すみません。実はハジメさんが……」
「すみません、警察でしょうか。実は家の夫の行方が……」

直ぐに親族や警察に連絡し、ハジメの捜索を依頼する。
自分も、脱いだばかりのコートを着て、外に飛び出す。
お金は持っていないだろうし、歩いていける範囲をしらみつぶしに探していくしかない。

近所の脇道や公園、通りからでは影になるようなアパートやマンションの裏手など、見落としのないように探していく。
雨は一層強さを増し、マコトの焦りを助長した。


 すっかり日も落ちた頃、マコトに連絡が入る。
ハジメが見つかったという連絡だった。

「そうでしたか……! ありがとうございます、直ぐに向かいます」

大きく息を吐いて、胸を撫で下ろす。
急いで連絡があった場所へ向かう。

「ハジメさん……!」

発見場所は家からおよそ10キロも離れたところにある駅の前だった。
ハジメは傘を持ったまま、ずぶ濡れの状態で立っていたのだという。

「ふふ……へへ……」

「……傘の使い方も、忘れてしまったのね」

マコトはずぶ濡れのまま笑い声を漏らす夫を見て、悲愴する。

「ご迷惑をおかけしました……本当に、ありがとうございます」

警察や親族に礼を言って二人で帰宅する。
それから夫の服を脱がし、お湯で濡らしたタオルで全身を拭いていく。

なんで、こんなことになってしまったのだろう。
安堵がマコトの心を満たしていくと同時に、先ほどまではなかった別の感情が沸き上がってくる。

「家から出ないでと言ったじゃないですか!」
「どうして勝手なことをして私を困らせるの……!」
「ねぇ、答えて……答えて……」
「あぁ……」

声を荒げても、意味のある言葉は返って来ない。
ハジメは薄笑いを浮かべるだけだ。
マコトはハジメを拭くタオルに、自分の涙を沁み込ませた。

一体いつまで、こんな生活を続けなければいけないのだろう。

「あれ、なんで……」

ふと、玄関に投げ捨てられた傘を見る。
傘は三つあった。
一つは自分が探し回った時に差していた傘。
後の二つは……。

「……あ」

そこでマコトは思い至る。
ハジメが傘を二つ持っていた理由と、何故あの駅にいたのかを。


――。 


 三十年前。
ハジメとマコトは、小さなボロアパートで同棲していた。
ハジメは日中勤務でマコトは夜間勤務。
貧乏だった二人は懸命に働き、バラバラの時間帯で仕事をしていた。
一緒に過ごす時間なんて、殆どなかった。

「お疲れ様でした」

夜間勤務を終え、急いで駅まで走る。
まだ日も昇らない時間。
始発の電車に乗り込み、マコトは大きな溜め息を吐いた。

「あれ、もしかして」

電車から降りると、駅の前で傘を差して立っている見覚えのある姿があった。

「ハジメさん……?」

声を掛けるとその人物は顔を上げ、それからにっこりと微笑んだ。

「おかえり、マコトさん」

ハジメはそう言いながら持っていた傘をマコトに手渡す。

「わざわざありがとう。でも、良かったのに」
「風邪を引かれたら、僕が嫌だから」

「私も同じ気持ちよ。私を待っていたせいで、ハジメさんに風邪を引かれたくないもの」

差し出された傘を差そうとするマコトを、ハジメがそっと抱き寄せる。

「それじゃあお互い様だ。ごめんね、僕が稼げたら苦労かけないのに」
「……ううん、それは違う。だって私、こんなに幸せだもの。そんな風に思わないで」
「ありがとう」

一つの傘に、二人で寄り添いながら、家路に着く。
帰宅し、一緒に朝ご飯を作って食べた。
それからハジメは仕事着に着替え、仕事へ向かう。

「それじゃあいってきます。おやすみ、マコトさん。愛しているよ」
「いってらっしゃい、ハジメさん。えぇ、私も」

 
――。


「うぅ……あぁ……」

愛しい日々を思い出し、マコトは泣き崩れた。

「ふふ……へへ……」

へらへらと笑うばかりの夫を、マコトは数年ぶりに抱きしめた。
 

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