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小説『空生講徒然雲9』

ずっと昔、この川の上流で身をなげようとしていた詩人がいた。
かれはこの川沿いの賑わいを見てなにを思うのだろうか。この夜うまれた沢山の詩(のようなもの)は、その詩人のたましいのおこぼれにあずかれているだろうか。
かれのうまれ育ったその乾いた土地がかれの詩をつくったのだと私は思う。北の山から下りながれる川の上面を、おなじく北の山からおろされた埃まじりの風が舐めるように吹きつける。
川と風と埃がかれの詩をみがいた。風がことばの種をとばす。その種がしぜんと土地の者の乾いてすりきれた肌の一彫りの深いしわに着床する。
詩人をうむのは土地だ。

その川の賑わいをさけるように『もの思う種の小径』を私は下り歩いているのだ。すれちがう者はつぎつぎ私にぬけられていく。ぬけられた者は気づかない。私は、ま正面からそのまま「ぬける」こともできるのだが、せいぜい肩や腕をぬけるにとどめていた。私なりの礼儀だ。
「さわやかな空かけぬけるようにあきらめたふうな人ひとり」、そんな吹き出しが落ちていた。
「おやつ代はいくらまでですかと聞くから縛りがうまれるのです。せんせいより」、そんな吹き出しがゆれていた。
「だるいから休みますといえる世はもうすぐそこにあるようでないようで、ないね。やっぱり」、そのとおりだ。
私は落ちた吹き出しをしげしげ読みながら、そして踏まないように歩いていた。その方面にはあかるくない私も、もう、自由で快活でキッチュな詩歌にふれながら歩くことがうれしくなり「おもしろきこともなき世をおもしろく」とつぶやくと、とうとつに吹くめずらしい東行きの風に吹かれていた。
どうやら『もの思う種の小径』に新しいながれがうまれていた。くだらないユーモアはたいせつだ。

私はずいずい歩いて行った。
川沿いにある左岸の図書館をしばらく行くと吹きだまりがあった。行き場を失った吹き出しと面がぷかぷかういている。
私の目当ての場所はここだ。私はその吹きだまりに腰まで浸りながら一年分の面を拾い集めた。見物客は私には気づかない。上流の祭り会場に向かって楽しそうに歩いていった。

『もの思う種の小径』に「ぶるん」と二発の爆発音がした。それは、鉄塊の二発の気筒から響く爆発音だ。図書館下の外灯に照らされたオートバイ、カワサキW650だった。だれひとり気づく者はいなかった。私とカワサキW650はこの世界では『ない者』なのだ。
目覚めたばかりのカワサキW650はびりびり震えていた。
起き抜けの機嫌は大切だ。起き抜けにとげとげしい者もいるし、起き抜けにいやらしい者もいる。珈琲と煙草一本吸い終わるまで、一言も喋らない者もいる。
私の、カワサキW650は夜に起こされてもご機嫌でうきうきしていた。
私はシート後部のキャリアにある皮革と帆布で仕立てられた鞄に一年分のお面を押し込んだ。前輪がかるくうくほどの重さがあった。
ほどなくすると、「どどたりどたりばたり」と排気音はだんだん落ち着いてきた。私はこれからカワサキW650を走らせて『もの生む空の世界』に上がる為の入り口に行かなければならなかった。

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