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ズボラー•ザ•ズボラッチャー

「おこなうべきことや守るべきことをしなかったりおろそかにして、だらしないこと」これを、ずぼらという。
「おこなうべきこと」は早起きで、「守るべきこと」はツーリング(外出)で、「だらしないこと」は、私の腹肉だ。
そのヒーローがご存知、のび太くんであり、もうひとりが、無名の私こと、ズボラー•ザ•ズボラッチャーだ。
未来からドラえもんが助けに来なかったパターンで、49歳になった。

以前の私は、休日は昼に起きて、タラ~とカワサキW650で赤城山の南面をながして終わりだった。それでは、ただのずぼらの上の「ズボラー」に過ぎない。「休日を、ただのずぼらで終わらせやしないぞ」そう、自己弁護的にずぼらから逃げるために何かをした証拠を、ガソリンの消費とタイヤの摩耗とに交換して満足していた私は終わった。それではせいぜい「ズボラー」止まりなのだ。それは過去の私だ。病魔を乗り越えて私は変わった。「認めたくないものだな、ずぼら故の過ちというやつを」、私は認めたのだ。

赤城山の南面を下り降りた私は、「私のずぼらは一味ちがうのだよ」と、古墳群に囲まれた大室公園で缶珈琲をぐびりと飲む。ときには目を血走らせながらスマホを使い木陰でエッセイを一本書いたり書かなかったりしている。なぜ、目を血走らせるのかというと老眼鏡を持ち歩く習慣がないため、裸眼で一気呵成に書かないと視力がもたないのだ。だからかろうじて私はただのずぼらではないしズボラーでもない。
「ズボラー•ザ•ズボラッチャーだァ」

文章のなかで叫ぶだけなので安心してもらいたい。私は穏やかな心をもった49歳のユーモアのある人間だ。公園はいつものように平和で、コスモスが咲いている。子どもたちが駆け回っている。恋人や夫婦が散歩をしている。私のことを気にする者など誰もいない。こんなときは集中してエッセイ(のようなもの)を書いている。
誰も、ズボラー•ザ•ズボラッチャーの正体を知らないのだ。ズボラー•ザ•ズボラッチャーは、コンビニで買った、アメリカンドッグを食べている。ケチャップとマスタードは付けたり付けなかったりだ。そろそろ裸眼視力の限界が来たようだ。ウルトラマンは地球上で3分間しか戦えないように、私の裸眼スマホでの文章打ちの戦いは概ね1000文字だ。

もう、決めゼリフを考えるだけの裸眼視力はわずかだ。
「ストレス星から放逐された王子。何もやってないのに、何かやったつもりになる天才。それが、ズボラー•ザ•ズボラッチャーだァ」

『アブドラー•ザ•ブッチャー』みたいな言い方だと思っている者が大半だとは思う(私もそのつもりだった)。でも、違うのだ。
どちらかと言うと、ビートルズの名曲。『オブラ•ディ•オブラダ』のほうを途中から意識していたのだ。それは、ほんの数行前の奇跡だった。よく気づいたものだ、私は私を褒めよう。ポール•マッカートニー曰く。ずぼらでもなんでも「そして、人生はつづく」という意味らしい。


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