『葛飾ラプソディー』は純文学である

『葛飾ラプソディー』という曲をご存知だろうか?こち亀ことアニメ『こちら葛飾区亀有公園前派出所』のOP曲であり、一度は耳にした人も多いのではないだろうか。今回は葛飾ラプソディーの歌詞の意味を解釈していく。なお、これは個人の解釈である。皆さんの解釈も教えてほしい。

まずは歌詞を一通り見て欲しい。自分なりに歌詞を紐解いてみてほしい。

中川に浮かぶ 夕陽をめがけて
小石を蹴ったら 靴まで飛んで
ジョギングしていた 大工の頭領(かしら)に
ガキのまんまだと 笑われたのさ

どこかに元気を 落っことしても
葛飾亀有 アクビをひとつ
変わらない町並みが 妙にやさしいよ

中央広場で 子供の手を引く
太ったあの娘は 初恋の彼女(ひと)
ゴンパチ池で 渡したラブレター
今も持ってると からかわれたよ

何にもいいこと なかったけど
葛飾水元 流れる雲と
ラプソディー口ずさみ 少し歩こうか

カラスが鳴くから もう日が暮れるね
焼鳥ほうばり ビール飲もうか
トンガリ帽子の 取水塔から
帝釈天へと 夕陽が落ちる

明日もこうして 終わるんだね
葛飾柴又 倖せだって
なくして気がついた 馬鹿な俺だから

どこかに元気を 落っことしても
葛飾亀有 アクビをひとつ
変わらない町並みが 妙にやさしいよ

みなさんはどのような印象を受けるだろうか。私は初めてこの歌を聴いた時、温かみのある曲調と相まって地元を愛している男のノスタルジックな雰囲気を感じ取っていい曲だなと思った。twitterである文筆家アカウントがこの曲を解説していたのでその方の意見をまとめさせてもらう。

葛飾ラプソディーの歌詞は邦楽でもトップクラス。特に2番の歌詞「中央広場で子供の手を引く太ったあの娘(こ)は初恋の彼女(ひと)」
この曲って「大人になっても地元を出なかった奴の人生」の曲なんですよ。初恋の人が子供を産んでも、歳を取って太ってもこの町で一緒に生きていく照れ臭くて温かい。本来歌というのは誰でも共感しやすいように固有名詞を避けることが望ましいとされるが、この歌はあえて葛飾の具体的な地名を上げることでエピソードに強度が出る。各々聴く人が自分の地元に置き換えて処理するから共感できる。地元に生き続ける人の生活風景や、主人公のちょっと情けない人物像を歌詞の節々から感じ取れる。

私も初めはおおむねこのような感想を持った。
ただ何度も聞いていくうちに印象が大きく変わった。この歌はもっと深い、一種の純文学だとさえ思う。

この歌の男(主人公)はただ地元に残りダラダラ生活している男ではないと思う。一度地元葛飾を出て仕事なり恋愛なりに打ちのめされて帰ってきた男の物語だと思う。なぜそう思うのか、それは終始この主人公は元気がないのだ。明るい曲調に騙されてはいけない。うまくいかない人生を嘆き、諦め、その中で地元葛飾に希望を見出している。これこそ純文学である。自分なりの解釈を以下示す。

中川に浮かぶ 夕陽をめがけて
小石を蹴ったら 靴まで飛んで
ジョギングしていた 大工の頭領(かしら)に
ガキのまんまだと 笑われたのさ
→時間がたっても変わらない幼馴染との関係を出来事と会話から簡潔に示している。ただここで注目すべきは子供の頃から付き合いのある友達をわざわざ「頭領」と示したところである。幼馴染は出世して大工の頭領になっている。一方主人公の男は子供の頃と変わらず未だに同じところに留まっている。

どこかに元気を 落っことしても
葛飾亀有 アクビをひとつ
変わらない町並みが 妙にやさしいよ
→主人公はどこかに元気を落としてしまったようだ。そのどこかは地元葛飾ではないどこかだと推測できる。上で述べているようにわざわざ幼馴染を頭領と表していることから主人公はその遠くのどこかで仕事面でうまくいかなかったのだろうか。社会とは立身出世を目指して戦う厳しい場所である。その厳しい戦いに敗れ、心身ともに疲弊した主人公であるが、地元に帰るとそこには昔と変わらない関係の幼馴染と心の通った会話だけがある。社会との戦いや人の顔色を伺いながら付き合う上部の社会的な付き合いといったものとは隔離された優しい空間に主人公はひとときの安心や喜びを感じている。

中央広場で 子供の手を引く
太ったあの娘は 初恋の彼女(ひと)
ゴンパチ池で 渡したラブレター
今も持ってると からかわれたよ
→ 太ったと表現していることから主人公は「あの娘」に久々に会ったことが読み取れる。主人公が地元に残ってしばしば会っていたのならばこの表現は不適切だと感じる。だからこそ主人公は上でも述べたように地元じゃないどこかで仕事や恋愛、人間関係に傷ついて地元に帰ってきたのだろう。昔好きだった女の子が大人になり母親になり自分とは違う人生を歩み幸せになっている。主人公は彼女と違う人生を歩んでいる(おそらく独り身)が子供の頃に確かに彼女と同じ空間で共有した思い出を持っている。そしてその思い出は自分だけじゃなくて彼女も共有していることを示すのが今も持っているラブレターである。人生のステージは変わったが二人の関係は当時のまま残されている。それは未婚だとか既婚だとかいったわかりやすいステータスよりも尊いものであることを主人公に実感させ、遠くで傷を負った主人公の心の傷を癒す。

何にもいいこと なかったけど
葛飾水元 流れる雲と
ラプソディー口ずさみ 少し歩こうか
→立身出世や女といったステータスを求めて地元を離れたが、社会の戦いに敗れてそうしたステータスを求める人生から降りた主人公。自分の虚無な人生を振り返り何もいいことなかったと感じる。今は地元で時間の流れを感じながら感傷に浸るのみだ。

カラスが鳴くから もう日が暮れるね
焼鳥ほうばり ビール飲もうか
トンガリ帽子の 取水塔から
帝釈天へと 夕陽が落ちる
→どんな人生を歩もうが平等に時間は流れていく。今ある人生がその人の結果なのだ。カラスが鳴いて1日の終わりを感じながら日常の生活を送る。

明日もこうして 終わるんだね
葛飾柴又 倖せだって
なくして気がついた 馬鹿な俺だから
→ああこうして日常を繰り返し人生は終わっていくものなのか。主人公は昔は地元が好きではなかった。いい仕事に就いて、いい女性と結婚して、社会の戦いに勝つことこそが人生の醍醐味だと思っていたから、そうした社会の戦いとは距離のある人情味溢れた下町葛飾を否定することで自分の上を目指す人生を肯定しようとしていた。でもどうであろうか、社会の戦いに敗れ行き場もなく帰ってきた地元ではそんなステータスにとらわれることない、もっと大切な義理人情があるじゃないか。過去に自分が否定してきたこの町の人情に皮肉にもどうしようもなくなった自分は今救われている。ああ人生の幸せってこんな近くにあったんだ。別にステータスを求めて戦うことだけが幸せになる方法ではない。そんな簡単なことに大人になってようやく気づいた俺はほんとに馬鹿な男だ

どこかに元気を 落っことしても
葛飾亀有 アクビをひとつ
変わらない町並みが 妙にやさしいよ
→いつか君たちが地元を離れて社会に揉めれてもがき苦しむことがあるかもしれない。そこで心身ともに辛くなった時は社会の戦いとは隔離された下町に戻ってみなよ。そこには社会的な成功とか利益とか考えていなかった子供時代の自分に戻れる。下町の優しさが社会の戦いに疲れた君を癒してくれるよ

一度地元を離れたと解釈するとすごくしっくりくるのは私だけだろうか。社会的成功を求めてギラギラした東京にしがみついてきたが、大人になった今、本当の幸せはそこにはないことに気づく。人とのつながりや義理人情こそが幸せのスパイスなのかもしれないという下町讃歌はこち亀の曲としてふさわしいのではないか。曲解しすぎであろうか。ただこれは下町の男の悲哀をノスタルジックに伝えるというそんな薄い歌ではないと私は思う。作詞をした森雪之丞氏に是非お話を伺ってみたい。みんなの意見も聞かせて。

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