見出し画像

THE LAST ROCKSTARS『破格のスタイルでロック界をリードするレジェンドたち』(前編)人生を変えるJ-POP[第40回]

たったひとりのアーティスト、たったひとつの曲に出会うことで、人生が変わってしまうことがあります。まさにこの筆者は、たったひとりのアーティストに出会ったことで音楽評論家になりました。音楽には、それだけの力があるのです。歌手の歌声に特化した分析・評論を得意とする音楽評論家、久道りょうが、J-POPのアーティストを毎回取り上げながら、その声、曲、人となり等の魅力についてとことん語る連載です。

第40回掲載は、日本のROCK界が世界に誇るレジェンド達が結成した「THE LAST ROCKSTARS」を取り上げます。私は今回、このバンドが11月に東京有明アリーナでおこなった『THE LAST ROCKSTARS The 2nd Tour 2023“PSYCHO LOVE”』を拝見してきました。その時に感じたことなども加えて、このバンドのメンバーがなぜ、レジェンドと言われるのか、彼らの経歴や魅力について書いてみたいと思います。


奇跡のような四人のメンバーで始まった

「THE LAST ROCKSTARS」は、そのネーミング通りに訳すと「最後のロックスター達」という意味になります。

メンバーは、XJAPANのYOSHIKI、L’Arc〜en〜CielのHYDE、LUNA SEAのギタリストであり、XJAPANのメンバーでもあるSUGIZO、そしてギタリストのMIYAVIの4人です。

2022年11月に結成が発表され、同年のNHK紅白歌合戦で初パフォーマンスが披露されたことで記憶にある方もいるのではないでしょうか。このバンドの特徴はなんと言っても、バンドの垣根というものを越えてメンバーが集まっているところにあります。

一時的な“コラボ”だったり“フューチャリング”という形式のものは他にもありますが、一時的ではなく、「THE LAST ROCKSTARS」という1つのグループを正式に形成し、活動するというところにメンバー達の並々ならぬ気持ちが表れているように感じるのです。

このグループが実現したきっかけについて、元々、それぞれが個々に長年交流を続けている中で、何度も個別には、「何か一緒にできたらいいね」と話していたとか。それが話だけでは終わらず、実際にバンドを組むという行動になったのは、HYDEがYOSHIKIにかけた言葉だったと言います。

「ピアノは年がいってからでも出来るけれども、ロックは今しかできないです。Xが動かないなら、僕に時間を下さい」

このように言われてYOSHIKIは「確かにピアノは年いってからでもできる。でもロックは今しかないんだな」と思ったとか。

そこから、交流のあったメンバーに声をかけたということが始まりのようなのです。(この様子は、記者会見の動画に収められています)

このバンドとしての活動は始まったばかり。ここでは、レジェンドと呼ばれる彼らの音楽との関わりや経歴について書き、彼ら4人に共通するロックを通して社会に投げかけていきたいメッセージなどについて、書いていきたいと思います。

先ず、手始めにメンバーの経歴ですが、余りにも有名な方々ばかりなので、ここでは、抜粋して書いていきたいと思います。

YOSHIKI

1965年生まれ。千葉県出身。老舗呉服店の長男として生まれ。小児喘息を患い、頻繁に入退院を繰り返すというような幼少期を過ごします。入院中に父が持参した偉人の伝記物の本から、ベートーヴェンやモーツァルトといった音楽家の人生を知ることになりました。

父親がジャズピアノ、母親が三味線、叔母は琴の演奏を嗜むなどの音楽的環境の中で育ち、特に家には父親が所蔵するクラシックのレコードが大量にあったとのこと。仕事で忙しい両親の代わりに家政婦さんに育てられるような状況に置かれていました。

4歳の頃に父親からピアノを買い与えられ、クラシックピアノを習い始めます。自宅にあったクラシックのレコードをいつでも聴ける環境のもと、彼の音楽的素養は培われていったと言えます。

9歳でピアノで作曲を始め、10歳で父親から買い与えられたトランペットを吹くようになります。その後、父が自殺したことをきっかけにレコード店で目にしたロックバンドKISSの音楽に惹かれ、ロックの世界へと足を踏み入れることになりました。また、この頃から、ピアノだけでなくドラムスも叩くようになります。

11歳でバンドを組み、中高時代はブラスバンド部に所属、学校の文化祭で演奏するというような活動を続けました(この時のメンバーに、後にXJAPANでボーカルを担当した幼馴染のToshIがいます)。

音楽大学進学を目指して本格的にピアノ練習に取り組むと同時に、和声やソルフェージュ、楽典などの音楽の基礎を徹底的に学び始めます。その合間にYAMAHAのコンテストに出場するという活動を続ける中、ボーカルのToshIがコンテストでベスト・ボーカル賞を受賞し、大学進学をやめて、東京でバンド活動をするという決意を聞きます。

その決意に誘発される形で、音大進学をやめ、XJAPANの前身となるバンドXとしてレコードを販売するためのインディーズレコード会社を1986年に自身で設立しました。

X JAPAN、そしてソロ活動とともに…

1988年に発売したXのファーストアルバムが当時、インディーズレーベルとして日本で初めてメジャーチャートにランクインしたことから注目を浴び、翌1989年、2ndアルバム『BLUE BLOOD』でCBS/ソニーからメジャーデビューを果たしました。

同年年末には、日本有線大賞の最優秀新人賞、全日本有線放送大賞の最優秀新人賞、第4回日本ゴールドディスク大賞の最優秀新人賞などを受賞し、XJAPAN として本格始動しています。

ソロ活動としては、1991年に小室哲哉と新ユニット「V2」を結成。ソロ名義のアルバム『Yoshiki Selection』を発表。このアルバムは、第6回日本ゴールドディスク大賞の洋楽部門の中のクラシック部門でアルバム賞を受賞しました。

このようにXJAPANの活動とは別にYOSHIKIとしてのソロ活動は、自身のクラシック音楽で培った音楽性を発揮しながら、クラシックとロックとの融合を図るという独自の音楽スタイルを貫いていきます。

1997年にXJAPANのボーカルToshIの離脱を受け、XJAPANを解散。また、1998年には、XJAPANのギタリストのhideが急逝したことから、精神的に非常に落ち込み、活動ができなくなります。アーティストのプロデュースなどは行うものの表舞台には一切出ない時期がありました。

1999年11月に行われた『天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典』で奉祝曲の楽曲制作と自身によるピアノ協奏曲「Anniversary」を演奏。これを契機に活動を復活させます。

その後、国内外のアーティストの楽曲制作やプロデュースを行い、2007年にはXJAPANを再結成。世界進出を図りながら、ソロ活動も続ける中、バンド時代にドラムスを叩いて痛めた頚椎の手術などを経て、近年ではフルオーケストラとのピアノコンサートなどを精力的に行っています。

また、社会貢献慈善活動も盛んに行っており、1995年の阪神・淡路大震災における被災地の小中学校へのピアノ寄贈を始め、2008年の中国四川大地震被災地、孤児院慰問後に音楽教室や楽器の寄贈などを行い、2010年には、基金「Yoshiki Foundation America」を設立。国内外で起こった様々な地震や天災に対して多額の寄付活動を継続的に行っています。

残り3人のメンバーの経歴については後編で書きたいと思います。

久道りょう
J-POP音楽評論家。堺市出身。ミュージック・ペンクラブ・ジャパン元理事、日本ポピュラー音楽学会会員。大阪音楽大学声楽学部卒、大阪文学学校専科修了。大学在学中より、ボーカルグループに所属し、クラシックからポップス、歌謡曲、シャンソン、映画音楽などあらゆる分野の楽曲を歌う。
結婚を機に演奏活動から指導活動へシフトし、歌の指導実績は延べ約1万人以上。ある歌手のファンになり、人生で初めて書いたレビューが、コンテストで一位を獲得したことがきっかけで文筆活動に入る。作家を目指して大阪文学学校に入学し、文章表現の基礎を徹底的に学ぶ。その後、本格的に書き始めたJ-POP音楽レビューは、自らのステージ経験から、歌手の歌声の分析と評論を得意としている。また声を聴くだけで、その人の性格や性質、思考・行動パターンなどまで視えてしまうという特技の「声鑑定」は500人以上を鑑定して、好評を博している。
[受賞歴]
2010年10月 韓国におけるレビューコンテスト第一位
同年11月 中国Baidu主催レビューコンテスト優秀作品受賞