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広瀬香美『天上から祝福のラッパを吹き鳴らす音のエンジェル』(前編)人生を変えるJ-POP[第47回]

たったひとりのアーティスト、たったひとつの曲に出会うことで、人生が変わってしまうことがあります。まさにこの筆者は、たったひとりのアーティストに出会ったことで音楽評論家になりました。音楽には、それだけの力があるのです。歌手の歌声に特化した分析・評論を得意とする音楽評論家、久道りょうが、J-POPのアーティストを毎回取り上げながら、その声、曲、人となり等の魅力についてとことん語る連載です。

この連載企画も47回。今回はパワフルな歌声でカバー曲をYouTubeで配信するなど、精力的な活動を続けている広瀬香美を扱います。実は、私は彼女の楽曲をほとんど聴いたことがありませんでした。元々、私はクラシック畑出身。さらに彼女がデビューし活躍した1990年代は、子育ての真最中で、音楽番組どころではなかったのです。そんな私でも、彼女の名前も『ロマンスの神様』も知っている。如何にこの曲がメガヒットだったかということの証明ですね。その後、彼女がYouTubeを使って、多くのJ-POP曲を曲の解説と共に自身のピアノの弾き語りによってカバーしているということを知り、いくつかの動画を拝見しました。また、2月にビルボードライブ大阪で行われた「広瀬香美LIVE"WINTER QUEEN 2024"」で、直に彼女の歌声を聴かせて頂く機会を得ました。そこで感じた彼女の歌声や人間的魅力、さらにデビュー当時からの歌声の変遷などについて、深く掘り起こしてみたいと思います。


大学の作曲学科でクラシックを学ぶ

今回、彼女の経歴を調べてみて意外だったのは、彼女が国立音学大学の作曲学科出身だったということです。

音大出身のアーティストは何人もいますが、彼女のように、作曲学科出身というのは、記憶にありません。演奏学科出身ではなく、作る側の出身だった、というのが意外でした。

彼女は、福岡県出身。4歳でピアノを習い始め、5歳で作曲を習い始めるという幼少期を過ごしました。

ピアノを子供に習わせたいという親は多いと思いますが、作曲を習わせたいと思う親はそう多くはないのではないでしょうか。

両親は、彼女が抜群の音感を持っているとピアノの先生に褒められたことがきっかけで、彼女をクラシックの作曲家にしたいという夢を描くようになりました。

彼女は、その後、福岡女学院中学校・高等学校に入学し、高校で音楽科に進学後、大学は国立音楽大学の作曲学科に進みます。(

要するに両親の希望する通りの道を歩んでいくのです。ですが、実は彼女は、クラシック音楽というものに非常に違和感を持っていたようなのです。

それは、ピアノでも作曲でもいわゆるクラシック音楽の手法、ルールのような決まりごとが、自分の感覚に合わなかったと話しているのです。

それでも両親や先生の厳しい監視のもと、なんとか大学には進みましたが、前期試験の成績は学科の中で最下位だったとか。

作曲学科の先生からは、「これでは作曲家にはなれない、別の方向を考えたほうがいい」とまで言われ、半ばふて腐れ気味だった夏休み、ロサンゼルスを訪れました。そこで知ったマイケル・ジャクソンやマドンナのポップな音楽との出会いが、彼女の人生の転機になりました。

「マイケル・ジャクソンに自分の曲を歌ってもらいたい」

これが、彼女の新たな夢と目標になったのです。

アメリカで出合った、ポップスという音楽

アメリカで彼女が出会ったポップスは、それまで勉強してきたクラシックとは全く違い、非常に自由で伸びやかな音楽でした。

当時、彼女が作る音楽は、クラシックの手法から言えば、ダメダメの連発でいわゆるクラシックのルールを逸脱したもの。

しかし、その時、聴いたポップスは、そのダメダメの連続が音楽になっていたのです。

その自由さが楽曲として成立することを知った彼女は、自分の感性に合うポップス音楽の作曲家を本気で目指し始めました。(

ロサンゼルスから戻り、「大学を辞めたい」という彼女に両親は、「せめて大学だけは卒業して」と懇願し、ロサンゼルスと東京の二重生活を認めてくれるようになります。

アメリカから課題を提出すること、人よりも多く提出することで何とか卒業証書を貰える約束を取り付け、彼女は、ロサンゼルスで本格的に作曲家を目指しながら生活を始めたのでした。

マイケル・ジャクソンのボイストレーナーの生徒に東洋人で初めて合格

「作曲家として、マイケル・ジャクソンに自分の曲を歌って貰いたい」という野望を持っていた彼女は、当時、マイケル・ジャクソンのボイストレーナーであったセス・リッグス氏が行っていたレッスン生になるためのオーディションに応募し、見事に合格しました(これは、東洋人で初の合格者だったそうです)。

「ボイストレーニングをしたら、歌手にならなくても、この国で生きていくためのテクニックになる」とアドバイスされ、さらに作曲の先生も紹介されて、彼女は、レッスンに通うようになります。

アルバイトで生活費を稼いでも、それらが全てレッスン代に消えていくような日々の中で、ある時、スーパーマーケットで売られていた日本の音楽雑誌に、オーディションや楽曲募集のページを見つけ、自分の楽曲を録音して応募しました。

その時、彼女は自分の曲を自分で歌ったのですが、応募先から「声質が面白いからコーラスで歌ってほしい」と言われたそうです。

アルバイト料は結構いい値段で、日銭を稼げると思った彼女は、コーラスに参加。日銭を稼いである程度溜まったら、ロサンゼルスに戻る、という生活をしていました。

即ち、全く「歌手」というものを目指していたのではなかったのです。

そんな生活をしていた頃、あるプロデューサーから「アルバムを出してみないか?」と誘われたのでした。(

歌手には興味がなかったのに、「Bingo!」でメジャーデビュー

この時、出したアルバムが、『Bingo!』。1992年のことです。

これが歌手広瀬香美のメジャーデビューになりました。

そして、約4か月半後にシングル『愛があれば大丈夫』をリリースしたのです。この曲がヒット。

ところが、彼女自身はロサンゼルスにいたために、日本でヒットしていても全く実感がなく、両親の送ってくれるオリコンチャートを見ては、ヒットを実感したというのですから、まるで他人事のよう。

如何に彼女が、「歌手」という職業に興味がなかったかを物語るエピソードです。

そして、翌1993年の「ロマンスの神様」が大ヒット。この曲は、175万枚を超えるメガヒットになったのですが、この時も彼女自身はロサンゼルスにいたというのです。

この曲は、中学生の時に書かれていたものだそうですが、1990年代は音楽と映画、ドラマなどのタイアップ全盛期。

この楽曲もCMとタイアップしていて、クライアントや広告会社の要望が入っては歌詞を手直しするということの繰り返しで、出来上がった楽曲は、彼女の感覚として、「誰の作品?」というぐらいの気持ちだったそうですから、メガヒットしても実感がなかったのかもしれません。(

歌手として非常に魅力溢れる歌声を持つ広瀬香美が、実は「歌手志望ではなかった」というのは、意外な事実です。

彼女がロサンゼルスでマイケル・ジャクソンやマドンナの音楽に出会っていなかったら、クラシックの厳しい作曲手法の中で、彼女の才能は潰れていたかもしれません。

音楽との出会いが、その人の運命を変えていく。まさにそんな出会いだったのがわかります。

後編は、彼女の歌声の魅力について、また、人間的魅力について掘り起こしてみたいと思います。


久道りょう
J-POP音楽評論家。堺市出身。ミュージック・ペンクラブ・ジャパン元理事、日本ポピュラー音楽学会会員。大阪音楽大学声楽学部卒、大阪文学学校専科修了。大学在学中より、ボーカルグループに所属し、クラシックからポップス、歌謡曲、シャンソン、映画音楽などあらゆる分野の楽曲を歌う。
結婚を機に演奏活動から指導活動へシフトし、歌の指導実績は延べ約1万人以上。ある歌手のファンになり、人生で初めて書いたレビューが、コンテストで一位を獲得したことがきっかけで文筆活動に入る。作家を目指して大阪文学学校に入学し、文章表現の基礎を徹底的に学ぶ。その後、本格的に書き始めたJ-POP音楽レビューは、自らのステージ経験から、歌手の歌声の分析と評論を得意としている。また声を聴くだけで、その人の性格や性質、思考・行動パターンなどまで視えてしまうという特技の「声鑑定」は500人以上を鑑定して、好評を博している。
[受賞歴]
2010年10月 韓国におけるレビューコンテスト第一位
同年11月 中国Baidu主催レビューコンテスト優秀作品受賞