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理系がカルトにハマる?

理系がカルトにハマることについては、オウム真理教や統一教会などについて語られる文脈の中で、よく紹介される。理系高学歴のエリートがカルトにハマることがある、と言うようなことだ。理系高学歴は、

理系的な論理だけを元に世界や人生を考えようとする」
科学が記述できない問題に悩み、科学を超越した世界をカルトに見てしまう」

からではないか、というようなことがよく言われる。

一度断っておくと、わたしはカルトや心理学の専門家ではないし、特別詳しいわけでもない。自分はおろか、身内がカルトにハマっているわけでもないし、その過去もない。1人の、理系技術者として、思ったことをただ言葉にしておきたいと思ったということを、改めて申し上げておく。

さて、話は変わるが私はある時、夢を見た。私はアマチュアで音楽活動をしているが、その知人に、夢の中でこう言われたのである。

「数学や科学では1+1=2だけど、音楽では1+1=2どころか、3にも4にも、100にも1000にもなる。可能性は無限大なんだよね〜」

さて、これを聞いて皆様はどう思われるだろうか。たしかになぁ、と思われた方は、失礼を承知で言うが、もしかしたらカルトにハマる素質があるかもしれない。

この計算には致命的な間違いがある。1+1=2というのは左辺と右辺の単位が(人)であり、同じ次元であるが故に足し引きができる。1人が1脚の椅子に座るという前提なら人と脚が同じ次元で足し引きされていても良いだろう。だが知人が言っていたのは、1人+1人、つまり二人が音楽をやったとして、右辺は「その音楽がもたらす可能性」というよくわからないものになっている。したがってそれらにイコールが成立しないのは当然である。

私は夢の中でそう反論した。すると今度は「今は数学の話をしているのではない」と言われた。「ならば1+1などと言わず、「人が1人いました。もう1人が来ました。その可能性は無限大である」と言えばいいではないか。わざわざ数学の言葉や記号を借りずに言えば良い」と追撃したところ、何も言わなくなった。

「この世には神秘的な何かがある」「この世には科学では解き明かせない何かがある」とは、誰しもが思いたくなったり、あるいは心のどこかで思っているものだ。理系の私でも、そういう部分はある。

しかし、理系ならば特に、前述のような、前提やロジックの誤認には目ざとく気がつくべきだと思うのだ。

誤解を恐れずに言えば、だから科学は常に正しく、明確な根拠足り得るのだ。少なくともその時点で、明確に、客観的事実とロジックにより支えられた根拠となり得るのだ。国や自治体、会社の方針を決定づけるのに、エビデンスとして重宝されるのだ。

ロジックに欠陥があってはならない。そしてそれを扱う技術者・研究者は、自己否定の声に耳を傾け、常に正しくあろうと努力すべきであるし、多くの人はそうしているものと信じている。そういう努力なしに、科学の権威だけを濫用するのは間違った行為である。

前述の夢の例で言えば、数学の絶対性だけを借りて「1+1=2」という関係性を引き出し、音楽ではそうではない、それ以上である、と主張している。ただし、そもそも数学がどんな前提で成立するかについて深く考えていないのである。

科学による成果を元にして、人々は飲食物を摂取し、洋服を着て、建物を建て、そこに居住し、また自ら働きに出てあらゆるものを生産して生きている。今や人間活動そのものが科学の営みであると言っても過言ではない。

それゆえ。それゆえ、手持ちの知識やデータからはとても信じられない結果や不思議に出会った時、それに感動を覚えたり、神秘を感じたりする傾向が理系に強い可能性はある。それは認めよう。だがそれはあくまでも「まだ未知の変数があるのだな」「もっと正しい答えがあるのだな」というだけであり、そこに神の存在や科学を超越した存在を見るのはまた間違っている。

そもそも、我々はこの世を正しく全て理解することなどできないのだ。科学の全てすら、理解することは不可能だ。自分の手持ちの知識で理解できないからといって、そこに科学を超越した存在を見るということ自体が、論理の飛躍、さらには思考放棄にすらなっていると思える。

ちょっと変わった雲を見て「地震雲だ!」と声高に叫ぶ人を、気象学者が「あれは〜雲ですよ。少し珍しいけど、それなりに見られる雲ですよ、あなたは知らないかもしれないけど」となだめているような感じだ。

前述の夢の例で言おう。1人がバイオリンを弾いている。そこにピアニストが1人やってきた。その可能性は…定量的に数値化できるのかという問いはあるが、それを一旦棚上げしたとしても…そもそも1人がバイオリンを弾いている「可能性」自体が無限大のような気もする。ピアニストも同様である。それらを足し合わせる…足し算するというのも具体的に何を指すか不明だが、片方が上手くて片方は下手な場合、足し合わせるとどうなるのか、、、

科学者・技術者・理系はそういう細かくて面倒なことを嫌になる程考え尽くしているのだ。正確性・厳密性・客観性をもたせるためには、そういうことについて隅々まで考えておかねばならず、そうした努力を地道にできる人が理系足り得るのだ、と思っている。そして、そういう面倒な作業から目を背け、数学を貶めるだけの物言いは、音楽さえも貶めてしまうと思った。

例えば。1ha(ヘクタール)の畑と1haの田んぼがある。それらが合計2haであることは間違いない。だがそれで支えられる食料は2人ではない。それはそうだろう。人1人の食料を確保するには11a(アール)が必要らしい。0.11haである。2haもあれば二人以上の食料を余裕で確保できるはずだ。

計算には単位やロジック・数字たちの関係性を理解するのが重要なのだ。前提や仮定を理解せずに、また、数字たちの関係性を理解する努力をせずに、数式が成り立たないことにばかり目を向けるのはどう考えても間違っている。

科学は絶対ではない。だが、絶対であることを目指し、どこまでも客観的で厳密で謙虚で、可能な限り正しくあろうとした、人間の誠実さの結晶が科学だ。それを否定するならば、少なくともそれ以上に説得力のある、客観的で有力な根拠を提示するべきではないか。

宗教にはそれは不可能だ。根本の疑問や悩み、哲学の根幹を「神」に委ねる性格上、「そもそも神は何なのか」「神はなぜうまれたのか」のような疑問には答えにくい。だがそれで世界の真髄に迫ろうとは烏滸がましい。

我々はどこまでも謙虚でなければならないのだ。「神」などという不確実なものに全てを委ねて理解した気になってはいけない。逆に、「神」というものが不確実ならば、「神とは本当に存在するものなのか」というところに疑問を抱かなえればならない。

もし、自分の力ではどうにもならないことに対して、「神に全てを委ねて、自分を責めることなく生きた方が気持ちが楽になるよ」と言うならば別だが。その場合、「神は本当は存在しないが、存在すると考えて、何かに委ねて生きてみると気が楽になるよ」ということを理解していなければならない。

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