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子供の素朴な疑問にどう応えるか

先日のこと。保育園の帰りに近くの踏切を見にいくのが好きな息子(3歳)。自転車を少しこいで踏切までいく。

言うまでもなく、私は仕事終わりである。早く帰宅してお風呂に入り、ビールでもぐいっと行きたいところなのだが、そうはさせてくれない息子。いいじゃないか、踏切が好きなのだから、と自分に言い聞かせる私。

結局、「カンカン見たい」という顔に負けて、見にいくのだ。そして、近くのスーパーに寄って、何かお惣菜を買ったりビールを買い足したりして、帰宅するというのが日課になっている。まあいいさ。確かに踏切は面白いからな。自動車と、電車とが、衝突せずに、システマチックに交通整理されているのが、なんだか男心をくすぐるのだ。お父さんも小さい頃好きだったぞ。

踏切を見に行って、カンカンカン…と音が鳴ると、「どっちだ?どっちだ?」と、左右を覗き見る。

そこで、息子がふと、あることに気がついた。

「こっちカンカンおっきい!あっちカンカンちっちゃい!」

いわゆる、遠近法の効果である

いわゆる、遠近法。実物が同じ大きさであっても、近くのものは大きくみえ、遠くのものは小さく見える。この記事をお読みの方には改めて説明するのも忍びないほど、当然のことである。

しかし、これを「なんで?」と3歳の息子に問われた時、私はなんと応えて良いのかわからなかったのだ。大人同士であっても、「なぜそうなるのか答えてみよ」と問われて、「ああ、これはね、」とすらすら答えられるだろうか。まして、相手は3歳の息子である。一緒に考えよう、というのもまだ難しい年齢と思われる。遠近法、という言葉すら使わず、3歳にもわかる平易な言葉で、どう説明せよというのか。

このようなシチュエーションには、小さな子を持つ親ならおそらく、何度となく出くわすものだろう。なんなら募集したいものだ。 #子どもに聞かれて答えに困ったこと なんてハッシュタグでもつけて。きっと面白い。

我が息子ながら、いいところに目をつけたものだ。この問いには、よっぽど事前準備やシミュレーションをしていないと、とてもじゃないが答えられない。

そこで、準備のない私はスマートに答えるのを諦めた。正直に、素直に、愚直に、「ほんとだ!なんでだろうねえ。お父さんにもわからないなあ」と認めた。

そして、こう言ってみた。

「本当にあっちが小さいかな。あっち側に行ってみようか」

うん、と頷き、手を繋いで踏切を渡る。渡り切ってから、もう一度、さっきで言う「あっち側」の踏切を見上げる。3歳の息子は「おっきいねえ!」とただ感嘆の声をあげた。

父「大きいねえ。さっきは小さかったのにねえ。
息子「ねえ!そうだねえ」
父「あれ、あっちの踏切はさっき大きかったのに、小さいね」
息子「え?」
父「ほら、あっちの踏切。小さいねえ」
息子「うん。あれえ?なんでだあ?」
父「なんでだあ?不思議だねえ」
息子「うん、ねえ!」

と、実りがあるようなないようなふわっとした会話をして、その日は踏切を後にした。こんな漠然としたやり取りで息子の疑問は解消するはずもないのだが、この会話が終わるともう息子の頭の中に疑問のモヤモヤは残っていない様子。今日の晩御飯なんだろう、のような、次のことに頭が向いているのだ。

まあ、今はそれでいい。息子の疑問に「これはね、遠近法っていうんだけど、遠くのものは小さく見えて、近くのものは大きく見えるんだよ。もうちょっと大きくなったらわかるよ」のような、正確で容赦のない、「今のあなたには早すぎる疑問だ」とでも言いたげな回答をするより、自分の目で確かめ、どうなっているか探究する行動をとるようにしたいなと思ったのだ。

それからと言うもの、保育園の帰りに踏切を見にいくと、一度電車が通り過ぎてから、反対側からも見たい、と言い出し、結局、帰るまでに二倍の時間がかかることになってしまった。種を蒔いたのは自分だから、仕方ない。言い出した手前、「反対から見ても同じだよ、早く帰ろう」とは言えないのだ。

だが、まあそれでいいじゃないか。こんなことを繰り返しているうちに気がつくのだ。大人でも、親でもわからない事がある。わかっていたとて、説明されたことにすんなり納得できないこともある。自分で納得するには、自分で調べてみるしかないのだ。

さて、こうしたシチュエーションに、子を持つ親であれば何度も遭遇しているだろう。もしよければ、私はこうしていた、こうするのはどうか、実はこうする方法もある、など、経験談やアドバイスをいただけると幸いである。

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