オーストラリア時代
最初のバンドメンバーが抜けて、新しいバンドを始めていたが、周りも徐々に社会人としてデビューしていて、自分もそろそろ生涯をかけて取り組む仕事を始めたいと思っていた。
そんな時に、たまたまバイト先に入ってきた女の子が、半年後にワーキングホリデーでオーストラリアに行くと聞き、その子に色々とワーホリの話を聞いているうちに、自分でも行ってみたいと思うようになった。
オーストラリアが気になっていた理由はいくつかあった。
まず、高校時代から「水曜どうでしょう」という、今では国民的スターになった大泉洋氏が北海道でやっていたローカル番組の企画で「オーストラリア縦断の旅」があり、その番組のファンだったので、僕もいつかオーストラリアの壮大な自然に行ってみたいと思っていた。
またRADIOBIRDMANやAC/DCといった往年のバンドや、JET、The Vinesといった当時のオーストラリアのロックンロールシーンも大好きだった。
そこからインターネットをDIGりまくって、意外とお金をかけなくても行けるらしい事がわかり、半年後に無事ワーキングホリデーに旅立つのである。
我ながら、この時の自分の瞬発力はグッジョブだった。
そして、このワーホリが生まれて初めての海外だった。
初めてオーストラリアのシドニーに着いた瞬間の乾いた、おしゃれな匂いに「これが西洋圏の匂いか!」と、ちょっと興奮したのを覚えている。(多分、香水つけている人が多いのが理由)
最初の1ヶ月はシドニー中心部の語学学校に通いながら、ホームステイをした。生まれて初めての海外生活で、生まれて初めて「他人の家での生活」だった。
そのホストファミリーのご家族はとても素敵な方々で、ほぼ完全に英語ができない僕を家族みんな、とても暖かく迎えてくれた。ご飯もめちゃ美味しかった。
ただ、やはり言葉の壁は大きく…
ペットを飼った事がなかった僕は、ホストファミリーが買っていた犬と、生まれて初めて友達になった。
気持ちがあれば、コニュニケーションはできる!
は、犬には通用するが、人に対しては、最低限の言葉の必要性をマジマジと痛感した。
最初に通った語学学校では色々な国の人たちが学びに来ていた。
韓国人、タイ人、チリ人、イタリア人etc…
当たり前だが、大半の人が英語習得が目的なので、将来に向かって明確なビジョンで進んでいる人たちと自分を比べてしまって、少し悩んでしまった時もあったが、
「なんでこんなに悩んでんだっけ?」
と、途中アホくさくなって、流れに身を委ねるようにしたら、だんだん楽しくなってきたのを覚えている。
「ひろい世界を見る」
が、このオーストラリアの目的だったと、今改めて思うのである。
無事に語学学校を卒業し、最初はシドニーでデリバリーの仕事をした。
ワーホリの準備の時に、念の為、国際免許取得するか〜、くらいの気持ちだったが、まさか仕事になるとは思ってもみなかった。
このバイトには、同じワーホリの奴らがたくさん集まっていたので、
週末にみんなで街に繰り出し、西洋スタイルのクラブ遊びを覚えた。
当たり前だが、みんな一人でオーストラリアにきているので、同じ環境にいると人って仲良くなるんだなーと、改めて実感した。このように短期間で色々な人たちに出会うのも、ワーホリの魅力ではないだろうか。
何かに息詰まったりした時、30歳までならワーホリほどいい制度はないのではないかと思う。本当に色々な人たち(日本人の中でも)がいるし、オーストラリアの湿気のない温暖な気候は、日本の食べ物のうまさと天秤にかけてもいいくらいの気持ちよさである。
そんなシドニーでの楽しい数ヶ月を過ごしていたが、そろそろ自然の方に行ってみたいと思うようになり、フルーツピックングに出ることにした。
このピックングはオーストラリアでは一般的なアルバイトで、ワーホリビザ所有者は特に、ピッキングに出て効率的に稼ぐのがセオリーであった。どうせだったらと、シドニーとは反対、西側のパースという都市に行った。
そこで色々仕事を探していたが、ストロベリーファームしか空きがなかった。このストロベリーはしんどい事で有名だった。なぜなら、ずっと腰をかがめてピッキングしなければならない。
だけど、ここはシドニーで学んだ「流れに身を任せる」でノリで乗り切ろう覚悟し、即決でストロベリーファームに行くことにした。
そのファームはアルバニーという、パースよりさらに南に400km程下った街にあった。
そのストロベリーファームでの生活は、
朝7時に1回目のピッキングを3時間ほどやって、少し休憩し、
2回目のピッキングを3時間。
昼すぎには、その日の仕事が終わる。
ピッキングは泥の中を歩くので、最終的にはサンダルすら履かなくなり、裸足がデフォルトになっていった。裸足でいると自然をダイレクトに感じれるので、何かのセンサーがビンビンに研ぎ澄まされていくような感覚があった。
そのファームは無料のトレーラーハウス付きで(キャンピングカーの後ろの部分が何台も並んでいるような)その中央には、暖炉がある大きなリビングスペースがあった。
そこにはラジカセがあって、その周りには僕たちのような短期滞在者が残していったであろう、CDやカセットテープがたくさんあった。
その中に、「ボブマーリー&ウェイラーズ」のカセットテープがあった。
もちろん名前は知っていたが、ロックンロール病だった僕は通ってこなかった音楽だった。
仕事終わりの、天気のいい午後に、僕はそのボブのカセットをずっと流していた。
それと同時に、ファームの同僚が「Dr.DREのライブDVD」を持っていて、そこでギャングスタラップにハマった。
まさか、こんな田舎の苺農園でHIPHOPとREGAEEをインストールするとは思ってもみなかった。
ビンビンな僕へ、オーストラリアからのギフトだった。
そんなヒッピーのような生活を経験し、腰痛と引き換えに、そこそこのお金をゲットしたので、オーストラリア最後の旅に出ることにした。
ストロベリーファームから出発するときに、数ヶ月ぶりに履いたスニーカーの違和感は、今でも忘れない。
そしてこのオーストラリア最後の旅で、エアーズロックを見た。
朝日に照らされたエアーズロックを見ながら、その時にはもう、写真の仕事に就こうと心に決めていた。
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