高円寺酔生夢死 第七回

サトウはたいがい飲めるクチだが、一番はビールである。ビールは国ごとに銘柄があるし、製造方法にもエールにラガー、ランビック。ベルギーのビールに到ってはホワイト、レッド、トラピスト、セゾンにブラウン、ゴールデンエール……何だか色々あり過ぎて、列挙して行くとそれだけでこの原稿の全てが埋まってしまうという非常に楽な展開になってしまう。取りあえず幾つか好きなビールを揚げてみろと言われたら、まずはオランダのハイネケン。特に生がいい。初めて飲んだのは『こどものおもちゃ』の頃だから97年。渋谷でたまたま入ったカフェ。ジョッキに注がれたハイネケンには瓶で飲んだ時には味わえない泡のうま味とのど越しの良さがあった。しかしそれ以来、かの味との再開はなかなか叶わず。しまいには「ああ、あのハイネケンはオレが疲れていた故の幻だったのか」と心で涙して諦めていた。

しかし灯台下暗し。
ふらりと入った高円寺の店にそれはあった。中通りから庚申通りを入ってすぐのところ、入り口が1間無いような狭い店だった。名前を『ケンジントンハウス』、あのダイアナ妃の住居もあったケンジントン宮殿の名を持つその店の主人はミャンマーの人だった。通路のような狭さのスペースに2畳ほどの厨房に客席はカウンター4席にテーブル4席が壁に貼り付きそうな感じで細長く配置されていた。
狭いといえば狭いが一人飲みには収まりがいい。サトウはカウンターでソーさんという名前の店長と相対した。料理はケンジントンっぽくフィッシュ&チップスからグリーンカレーまで色々。どうやら香港で修業をしていた人らしく、狭い厨房をくるくる踊るように次々と料理を作るさまは何かの舞踏を見るような楽しさがあった。ところで、ビールである。メニューを見ると「ハイネケン生」とある。

「あ、ハイネケン生ください」
「ハイ、ハイネケンね〜」

しかしビアサーバーらしきものが見えない。「あ、これは生といいつつ、さりげに思い切り瓶ビールをジョッキに注ぐイヤらしいパターンなんじゃないか? トホホ失敗だぜ〜」と思っていたら、何とグラスやフルーツ絞り器に隠れるようにしてカウンター据付けのサーバーの注ぎ口が「いやだな、そんな野暮は致しませんよ。あなたこそわかってませんね」という感じで俄然存在をアピールし始めた。なんてこった、とんだこちらは節穴さんだ。ああ申し訳ないソーさん、ケンジントンハウス、ビアサーバー君…サトウが天を仰いで許しを乞うたのは言うまでもない。そんなこちらの思惑など気にもせずにソーさんは鮮やかな手つきでジョッキに黄金色の液体を注ぎ込んでいる。泡が実に美味そうである。飲んだら更にこの上なく美味い。ああ、正にこの味だ。幻となっていた味は、この時現実に戻った。

ケンジントンハウスはこの他にもビールを揃えていた。しかもみんなソーさんの作る料理に合うものをチョイスしてあるというこだわりようである。サトウがこの店で始めて美味さを知ったビールは三つ。一つはアメリカのアンカースチーム。もう一つはベルギーの禁断の果実(ヒューガルデン)、そしてソーさんの母国のミャンマービールである。これにビアチャーンとプレミアムモルツ、そしてハイネケンを加えた6つがサトウのビールを飲む時の指針となっている。サトウのビール人生において転機をもたらしてくれたという意味ではケンジントンハウスの存在は大きい。残念ながら現在店は無く(別の店が入っている)、ソーさんは下北沢に店を開いているそうだが、どんな店なのかはガイド本やネット検索をかけても全く分からない。幸か不幸か、今は各メーカーが生ビール販売に熱心になってくれたおかげで、どんな店でもそれなりの味わいの生を楽しめるようになった。店側もきちんとビアサーバーを毎日清掃していたり、メーカーが頻繁にメンテに訪れたりと、昔ではあり得ないくらいに世は生ビール天国である。

しかし、やっぱりあの人の、あの手つきで注いだあのビールを飲みたいと思うことが無くなったと言ったらウソになる。どこかへ行ってしまった、あのマスターや、この店長……高円寺だけでも何人もいる。
またそんな別れがいつ来るかも分からない。だからサトウはビールを飲むのかもしれない。それは半分言い訳でも、半分は本音だ。

(2007年11月7日公開分)

読んで下さってありがとうございます。現在オリジナル新作の脚本をちょうど書いている最中なのでまた何か記事をアップするかもしれません。よろしく!(サポートも)