「誤配」というイノベーションの種

私は、人が互いを受け取り、受け取られるという「受け取りの循環する社会」があったらいいなと思ったりします。

そんなことをある友人と話していた中で、ジャック・デリダという哲学者の「郵便的」という不思議な言葉を耳にしました。気になったので調べてみました。

郵便的という言葉を調べていく中で、「誤配」というワードに当たったので書いていきたいと思います。


誤配とはなんなのか?

誤配とは、「間違った宛先に届き、間違って理解されること。」

哲学者ジャック・デリダの『存在論的、郵便的』から、東浩紀が抽出した概念だそう。いわゆる、郵便物が誤配される如く、情報の送り手が意図した宛先ではない人や、意図しない伝わり方をすること、らしい。

誤配が目指すのは、あらかじめ決められた明確な目的を達成することではなく、偶然的に生まれるコミュニケーションの過程から、自分そして他者の考え方やアイデアを刺激し、各々が自己を更新するような機会となることです。 引用元:「能動的誤配」がひらく可能性

上記の記事の引用にあるように、普通はネガティブな意味を持つ「誤配」は、その偶然性により新たな価値観や考えが生まれたりすることから、いのーべションなどの点で価値があるそう。

手紙の送り手である自分がまず、自由であること

手紙の送り手である自身が、手紙の受け取り手のことを意識しすぎて、送りたい内容を送れない、というのは良くない。

手紙の送り手たる自分こそがまず自由であること。これも大事な指摘と思います。忖度したり、他の出方を窺ったり、わたしたちのこころのなかの想像の他者はそれだけで、わたしたちの思考を拘束し、十分に不自由にし得る。ここから解放されなければ、変化したり、前に進むことはできないのではないか

自分が前に進むためにも、送り手自身がまずは自由になれるのが良い、とある。

自分を送り、受け取ってもらう

この誤配、や郵便的という概念は自己表現にも言えることなのかもしれない。この場合は、自己というものをどう送るかが送り手、そしてどう受け取ってもらうかが受け取り手となる。自分がいつも送り手として自由であると同時に、受け取り手もしっかり受け取ろうとすれば、手紙はしっかり配達される。

さらに、自分という存在が誤配された場合も、その事象を通して、自分のことや他人の価値観などがわかり、新たな知識となるかもしれない。そういった意味で自己もまた郵便的な世界観に適応するものかもしれない。

眠いのでまたの機会にするが、追記する。

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