真理とは、現在の主観的な意識体験である/原理原則・基礎科学としての、認識論・真理論哲学の証明

真理とは、現在の主観的な意識体験のことであり、これは、自明である、既知である、真実在である、ということである。

これを[命題A]とし、証明する。

また、以下では【体験】と略称する。


・【体験】とは何か。

空間には〈主観(自明な現象の広がり——自我の意識)〉/〈客観(主観以外)〉が、
時間には〈現在(主観の自明な変容の期間)〉/〈過去・未来(現在以外)〉が、それぞれ対置される。

これらの組み合わせで構成されうる時空のうち、【体験】とは、前者同士の組み合わせ——〈主観〉/〈現在〉で構成された時空である。

後者の、〈主観以外〉/〈現在以外〉の要素を構成に内含する時空は、すなわち仮定物であり、その実在が真理たりえないものである。

つまり、〈主観〉とは、〈現在〉と重なっていれば【体験】となり自明となる空間のことであり、その〈現在〉とは、【体験】のある(自明な)時間のことを指す。


真理とは、前提を検証・遡行して行う探究のすえに、それが未知である状態から、既知である状態へと、初めて変転するものではない。

そもそも〈主観〉/〈現在〉の時空に、自明に常在する【現在の主観的な意識体験】の真実在は、まさにそれが自明であるがゆえに真理たらしめられ、疑いようのないものである。

【これ】が存在(真実在)しない、という状態は有り得ないし、記述は不整合ではない。これについては、後に詳述する。

要するに、【体験=真理】は、〈主観〉/〈現在〉の時空として自明・既知であり、常に真実在しているものだということである。

そして【これ】以外には真理たりえる存在がないことの証明は、すなわち[命題A]が《真》であり、不足のないことの証明である。


また、この論文は、自明・既知である〈主観〉/〈現在〉の時空における現象——【体験】こそが、=【真理】なのだという理論を証明するものであり、すなわち認識・自我こそが拠って立つべき基礎であるということの証明をも兼ねる内容のものである。

このため、理論内容は、それらを非合理的に前提として重視している、という欠陥を抱えてはいない。


・「判断」に関して

例えば「リンゴ」について既知でないのなら、
何かが「リンゴ」に適合するのか否かを判断をすることはできない。

同様に【真理】について既知でないのなら、
何かが【真理】に適合するのか否かを判断することはできない。

つまり、こうした作業——「判断」とは、そもそもが、それが自明・既知であるために、基準として既定が可能となる【真実在A(真理=体験)】と、[存在B]とを比較して、それら両者の構成要素の適合性(共通性)=真理性を測定し、《真/偽》のいずれかに、[存在B]を分別することを指すのだ。

要するに、基準である【真実在A(真理=体験)】と適合する=《真》へ分別されるのは、[存在B]が、自明・既知という要素を内含していることで、その充分条件を満たすパターンだけ、ということになる。
(基礎科学たる真理論哲学の問題においては、それ以外の仮定物を《真》と見做すことはできない。)

しかして、[命題A]の通り、【自明・既知=体験=真理=真実在】であるため、[存在B]がその要素を内含するのは、それが【体験】であるパターンだけに限られる。

【体験】だけが、唯一絶対の真理なのだ。


・有無論に関する補足/証明の完了

また、【体験】が存在しない、という状態が有り得ないことの論証も、《有》の論に関しては、【真実在A(体験)】は唯一それのみである(【これ】は無いが、仮定物であるその他の[存在B]が有る、という状態のほうが有り得ない)ということ、くわえて《無》の論に関しては、[存在B(無)]では【真実在A(有)】とは適合しえないということを確認すれば完了できる。
(無という状態が有るから、【体験】が存在しない、という状態が有り得る、ということのほうが不整合であり、つまり、無の実在が真理(自明・既知)となることは、そうなればそれは無ではない、という自己矛盾のため、そちらのほうが事実として有り得ないのである。)

つまり、[命題A]は《真》である。(証明完了)


以上。

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