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『長い一日』を読む長い一月 〜33日目〜

わたしの暮らすまちでは、明日から小学校の二学期が始まります。小学生の姪っ子甥っ子にとっては、なかなか外に遊びに行くこともできず、もどかしい夏休みだったかもしれません。でも、とてもすてきな夏休みの作品を見せてくれました。夏休みの日記のような、わたしのこの読書記録も今日でおしまいです。

あらすじ
妻は布団のなかで朝寝をしている。こうして布団のなかで温(ぬく)ましさに包まれている時間がいちばん好きだ、と思っている。
昨日の夜、窓目くんと夫が夜道を歩いている様子を思い浮かべる。窓目くんは涙は屈辱と偏屈から流れ出る、と言い、屈伸運動を始める。夫はそれを見ながらかけ声をかける。がんばれ、がんばれ。八朔さんの家でお花見をした日のことだと思っていたが、別の日のことだっかかもしれない。
このあいだ内見に行った家の近くには小学校があった。夫婦には子どもがおらず、子どもがいる未来のイメージはとてもぼんやりしている。円ちゃんの指や腕や、足はとてもやわらかく暖かい。
突然、妻は自分のお腹のなかに円ちゃんのグーの手が、自分のお腹の壁をぐっと押すのを感じる。すると、自分がいるのが、新しい家の寝室だったことに気づく。
いや、そんなわけない。外からはおじちゃんが庭で作業している音が聞こえてくる。今日は何月何日なのか、妻はわからない。
私はいつまでもこうしていたい。私は今日は休む。


終わりに考えたこと
ついに終わってしまいました。
思考とともに時間も行ったり来たりする様は、夢と現実のはざまにいるあいだに誰もが経験していることなのかもしれない、と思いました。
終盤の一節がそのことをとても印象的にあらわしています。

朝の布団のなかでは夜のあいだにほどけていた自分や時間がまだ元に戻りきらず、いろんな時間のいろんなひとのところに行ける。子どもの頃からそうだった。子どもの頃にも、今日のこの今朝の時間を過ごしたことがあったような気がする。(p.348)

作品の最初の回の冒頭は、寝ている妻を起こさないように、夫が家事をする場面で始まっている。そして、最後の回は妻はずっと布団のなかにいて、うつらうつらしているようだ。この小説は、妻が布団の中でみた夢の時間だった、と解釈することもできるだろうけど、それはあまりにも安直でしょうか。
これまた月並みな考えなのですが、わたしたちが固定的に捉えている「自分」や「時間」というものを、もっと自由に捉えることができる、という思いがふつふつと心に浮かんでいます。
この回では、それらは「ほどける」と書かれているけど、窓目くんの服のように「伸びたり縮んだり」もする。そういう捉え方はとても面白いと思います。

一月以上にわたって、こうやって記事を書くにあたって心がけていたことがいくつかあります。まずは書き続けること。そして、もうひとつは、小説に読んで自分に想起されたことをそのまま記すこと。何か外にあるものに関連づけて話すのではなく、小説と自分の関係のなかでは言葉を綴っていこうと思っていました。それが奏功していたかはわかりませんが、この小説を読みながら、いろんなことを思い出したり、感じたりできたことはとてもよかった。

とても個人的な営みでしたが、一緒に読み進めてくださった方がいたことは本当にありがたかったです。ありがとうございました。

明日からもまた何か書いていきたいです。

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