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街並み照らすヤツらだが、情熱はある。

大学の頃、仲のいい5人組で考えた遊びが、サークルの代表にバレて、それサークルのみんなでやろうよ!となった途端、その遊びがつまらなくなった。

好きなバンドがiTunesのランキングを駆け上がり、夏になるとオフショルとショートパンツでフェスにいくような知り合いのストーリーに「最近のイチ推し」と歌詞のスクショが載ったときから、聴かなくなってしまった。

そんな自分が情けない。本当に嫌になる。
売れてるとか売れてないとか、自分だけが知っているとかいないとか、そんな他者に惑わされるようなものではなく、自分が好きなら、それでいいではないか。

誰かと同じものを好きになっても、それが誰かのものになるわけでもなく、その作品の、アーティストの、人の、遊びの、好きだな、面白いな、かっこいいな、と思う部分は自分の中にちゃんと持っていればいいではないか。

でもそれができない時があるのだ。

「売れてからあんまり聴かなくなっちゃった。」
こんなこと言ってる奴を”ダサい”と一蹴するのは簡単だ。
「出たよ古参気取りwww」
こうやって笑うのは簡単だ。

でも、「自分が好きで、他の人には言えない自分の感情を受け止めてくれるような居場所でもあった存在で、それが売れて、人気が出て、表舞台に出てみんなが好きなものになったときに、秘密基地に知らない人が土足で勝手に入ってきたような、でも本当は最初から自分だけのものじゃないと知っているのに、売れるというのは喜ばしいことだと知っているのに、遠くに行ってしまったなんて言葉では足りなくて、自分の大切なお守りをなくしてしまったような気がして悲しいだけなんだよ。」

「売れてからあんまり聴かなくなっちゃった。」
さらっと何食わぬ顔でそんなこと言うあの子の目の中に、カッコつけるとかそんなことではない、たぶん冷たくて、揺らしたら簡単に溢れそうなものを感じる。



僕はオードリーの若林正恭が好きだ。
南海キャンディーズの山里亮太も好きだ。

先日はオードリーのラジオイベントで東京ドームにも行ったし、
去年は山里亮太が一人で喋り倒す独演会にも行った。

だから、その二人の人生を描いた「だが、情熱はある」というドラマが大好きだった。
そのドラマがお守りのような存在だった。

主演を演じたのは森本慎太郎と高橋海斗。
そのドラマを通じてこの二人のことが大好きになった。

その森本慎太郎が、同じ日テレで、だが情熱があると同じ時間枠で、春からの「街並み照らすヤツら」と言うドラマの主演を務めることになったらしい。

その影響で「だが、情熱はある」の公式XやInstagramのアカウントがそのまま引き継がれ、アイコンやプロフィール欄、投稿される内容も全部「街並み照らすヤツら」のものに変わった。

お守りが溶けて無くなってしまったような気持ちだった。

視聴率を考えると、すでに多くのフォロワーを持っているアカウントを活用すれば多くの人に告知でき、さらに主演が同じとなれば沢山の人が見てくれるだろうという狙いが制作側にあること。

それはわかるし、資本主義的に考えて正しい戦略、やるべきことだと思うのだけど、ただ僕はお守りが消えたようで悲しかった。

同じ気持ちの人っていないの?と引用投稿やコメント欄を見たけど
「慎太郎くん新ドラマおめでとう!絶対見ます!」
と言うコメントが溢れかえっていて、
「そうだよね、応援しないといけないんだよね。わかってるわかってる。告知アカウントがそのまま違うドラマの告知アカウントになったからって、運用者や、会社や、資本主義を憎んだり、なぜか少しだけ森本慎太郎を睨んでいいわけないもんね。こんなこと思っているのは僕だけだ。応援しなきゃ。」

わかってる。わかってるんだけどさ、寂しいんだよ。

終わったドラマかもしれないけど、化石のように、もう使われなくなって久しいアカウントかもしれないけど、お守りとして持っておきたかったんだよ。

でも心の中にはあのドラマを見てもらった勇気や感動、見ていた頃の僕の人生を大いに励ましてもらった記憶が確かに変わらないカタチで残っている。
僕にできることはそれを大切にすることだけだ。
誰にも影響されない、自分にとって大切だと思った部分を、胸の中に全力で抱きしめるだけだ。

アカウントは街並みを照らしている。だが、心の中には変わらず情熱がある。

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