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レトリックの訓練

 点滴に繋がれて北側の窓際の病室のベッドの上に横になっていると、身体を自由に動かせないせいか、それとも孤独であることに耐えられなくなるせいか、自分の気持ちをわかって欲しいと願う相手に真意が(電子メールやSNSのメッセージなどを通して)正確に伝わっているかどうかについて、異常なまでに過敏になってしまう。

 そんなこと、普段はまったく気にしていないのに。何事にもアバウトだった若い頃には「アバウター」なんて呼ばれていたくらいだ。「だいたい合ってる」ならいいだろ、なんて言っていたっけ。それはまあ、いまでも普段はほとんど変わっていない。なにしろ「言葉は不完全なコミュニケーション・ツールだから」が幼少期から放浪癖のある怠惰な筆者の口癖である。なんてったって、ドンバ崩れだからさ。言葉よりも音楽のほうがずっといい。

 だからといって言葉をないがしろにしているつもりはない。むしろ逆だ。不完全なツールだからこそ丁寧に、そして慎重に扱っているつもりだ。ライターを生業にしている筆者の場合には特に自分の真意を読者に伝えるための大切な商売道具でもあるからね、言葉は。

 だから、仕事で執筆している原稿だって、自分の真意を読者に伝えたいと思って真剣に書いていることは言うまでもない。しかし、入院中の猛烈な真意伝達欲求は、それとはまた異なる別の次元の偏執的な情熱によって突き動かされている。なんというか、奇妙で不思議な未知の感覚がそこにはある。

 そんなものに無理やり付き合わされる相手にとっては迷惑千万な話だが、何か妖しげなモノにとり憑かれているせいか、相手の拒否反応も充分に理解できているはずの本人にさえ止めることができない。しかも懸命に伝えようとすればするほど相手に伝わるメッセージはこちらの真意から大きくズレていく。

 一時的に冷静さを取り戻して迷惑をかけている相手に対する申し訳なさゆえに衝動的にアクロバティックなスライディング土下座を実行しそうにもなるのだが、そんな良心の呵責さえも理不尽な欲望の前では一瞬で消え失せてしまう。

 決して楽しい経験ではない。というよりもむしろ苦痛でしかない。しかし、この経験が「レトリックの訓練」になることだけは間違いない。この傍迷惑な恐怖の「レトリックの訓練」をくぐり抜けた勇敢な書き手こそが素晴らしい名文を書けるようになるのだ、なんて保証は残念ながらどこにもないけれども。


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