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記憶の妄想|掟上今日子の備忘録を読んで

西尾維新の忘却探偵シリーズの第一作「掟上今日子の備忘録」を改めて読んだ。推理小説であるが、普通の推理小説と設定は違い、探偵が1日で記憶を無くす。

今回は推理の部分はおいておいて、記憶が1日しか続かないことについて思ったことを書きたいと思います。

記憶が1日しか続かないとはどういう状態なのか

今日子さんのような人は小説にしか出てこないと思っていたが、調べてみると実際に現実世界でも起こりうることだと知った。毎日記憶がリセットされると、昨日の自分はまるで赤の他人のように感じる。記憶もないので、恋人にも愛情を抱かない。家族や友達にも親しみを抱かない。

日常生活には困らない程度に記憶は残っているし、体で覚えた経験は自然と動作として動かすことができていた。ただ脳で覚えるような記憶だけは思い出せないことが多いといった状態だ。

記憶と人間関係

信頼関係や、愛情は、記憶によって蓄積されたその人とのやりとりによって生まれるものなのだ。記憶が毎日リセットされるということは言うなれば、毎日初対面の人に会うようなもので、初対面の人に愛情を持てだとか、信頼してついていってみようといったって無理がある話なのだ。

また、仮に初対面で信頼できる人に出会ったとしても、それは過去の人間関係からの経験則で信頼してもいいと思える話なのだと思う。記憶がリセットされてはそうした過去の経験則すら持っていないからこそ、人に対する不信感はそれ以上のものなのだ。

どれだけ人に覚えてもらえるかがとても重要であることが窺える。信頼してもらうには、親切にすることや気遣いができることも大切だが、そのことを覚えてもらえることも同様に重要なんだと思う。

一生が一日

記憶がリセットされるということは、明日には今日の自分はいないということ。体は明日もそのままだが、心や精神は1日で死んでしまうのと一緒なのだ。毎日新しい自分に輪廻転生しているようなそんな感覚なのだろうか。

明日には今日の楽しかった思い出も忘れてしまうと思うと、寝たくなくなる。明日楽しみなことがあっても、寝てしまったらそのワクワクもなければ、楽しみにしていたことを実際に楽しめるという感覚もない。

とても儚い人生のように感じ、自分には耐えられないと思った。その耐えられないという感覚ですら、明日にはなくなっているからまたそれは恐ろしい。

記憶がリセットされることのない僕たちは

あいにく僕たちは、今日の嫌なことも、楽しかったことも明日になっても思い出すことができる。時間が経てば忘れてしまうこともあるだろうが、覚えることだってできる。

記憶が続くということがどれだけ幸せなのか、きっと僕らは感じられていないのだろう。感じられるほど、1日の使い方を考えて、1日の楽しみ方を考えて、明日のための過ごし方を考えて、生きることができる。

今日という日は今日しかない。

時々僕はこの言葉を口にする。しかし、自分はこの言葉を軽んじすぎていたと思った。

もし明日自分の記憶が失われるなら、今日今この瞬間、自分は何をする?

つまらないYoutubeの動画を見ることに時間を使うのか、ゲームに熱中するのか、友達を会話をするのか、ショッピングをするのか。

まだまだ命は長いと思っているからこそ、無駄にすることもできるけれど、いつ自分の人生が終わるかなんてわからない。無駄なことに使える時間だってきっと限られるのだろう。

今日という日は、今日しかない。

昨日を生きた自分と、今日を生きている自分と、明日を生きるであろう自分はまた違う人だと思えたら、過去に囚われず、未来のことなんか気にせずに今を無茶苦茶に遊べるんじゃないかと思った。

今日という1日に感謝して、生きていこう。

訪れてくださり、ありがとうございます!