1-2-5.世界市場の形成
資料
■「世界の工場」から「世界の銀行」へ
産業革命を経て圧倒的な工業国となったイギリスは、「世界の工場」として、世界各地から原材料を輸入し、工業製品を輸出することになる。
(出典:『明解世界史A エスカリエ 初訂版』帝国書院、137頁)
これは、まるで世界各地が、イギリスを中核とする経済圏にとりこまれていくようだ。
たとえば、アメリカの歴史社会学者ウォーラーステインは、ヨーロッパを中心とする経済システムが、世界各地の経済システムを飲み込んでいく過程ととらえた。
世界システム論は大変魅力的であり、世界史の教科書や授業においても、とりあげられることが多い。
この教科書ではこのように解説される。まず、アジアではインド洋と東アジア海域において、15世紀以降、海上交通のネットワークが形成された。16世紀以降、その豊かなアジアの海のネットワークに、ヨーロッパ人が参入していく。その際、ヨーロッパ人は、アメリカ大陸の銀を持ち込み、アジアの産物を持ち出した。銀を用いた貿易の活性化によって「世界の一体化」が始まった。
このような見方に立つと、近代世界システムは世界中に拡大し、アフリカもラテンアメリカも、中国も日本も巻き込んで、世界を単一の「市場」の中に組み込んでいったということになる。
しかし、「ヨーロッパによって、世界が一つのシステムに組み込まれた」という素朴な主張を、ここ数十年の間にも積み上げられた研究成果をもとに複数の視点から再検討するのが、「歴史総合」という科目である。
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18世紀以前のアジアの経済圏のありようにも目を配ろう
ヨーロッパ経済を中心として地球規模に広がった経済圏を、歴史学者の松井透氏は「世界市場」と呼んだ(参考:松井透『世界市場の形成』ちくま学芸文庫、2021年(単行本は1991年刊行))。
一方、インド洋から東アジアにかけてのユーラシア海域にも、巨大な経済圏が広がっていたことは、すでに概観した通りである。
「14世紀の危機」が終わると、15世紀以降、インド洋から東シナ海にかけての海域には、ムスリム商人やインド商人、中国商人らによって「大交易時代」とも呼ばれる交易ブームが到来した。
その「おこぼれ」にあずかろうと、ジェノヴァなどのイタリア諸都市による投資に支えられたポルトガル王国が喜望峰廻りでインド洋や東シナ海海域に進出していく。
ヨーロッパで重宝されたアジアの産品の代表格は東南アジアからインドの熱帯地域で産出される香辛料だ。
また、中国の茶、陶磁器、漆器も、ヨーロッパの王侯貴族や富裕な市民の熱烈な支持を受けた。
さらにインドで手織りされる綿織物や熱帯海域でとれるタカラガイは、アフリカ大陸にも流れ込んでいた。
これら品物を手に入れる対価に乏しいヨーロッパ諸国は、アジアに銅や銀を持ち込むほかなかったのである。
とくに陶磁器や綿織物は18世紀以降、ヨーロッパ諸国の人々を魅了し、その国産化を目指した結果、産業革命が起きることとなった。
そのように考えると、「ヨーロッパによって、世界が一つのシステムに組み込まれた」というようには、単純に言えなくなるわけだ。
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■イギリスの多角的決済機構
産業革命を達成し、世界各地に勢力圏を広げたイギリスは、19世紀には世界各地から工業製品や食料品を輸入するようになった。経済学者スタンレー・ジェボンズは、そんなイギリスを「世界の工場」と言い表すようになった。
そんな「勝ち組」イギリスにとって、輸入(輸出)したいものを輸入(輸出)したい時に輸入(輸出)したいだけ輸入(輸出)することができる仕組み(自由貿易主義政策)だった。
イギリスにとってのアジアやアフリカ、アメリカ大陸は、製品の市場と原料の供給地。たとえば南アメリカ大陸は、特定の原料の生産・輸出に特化するモノカルチャー経済が形成されていった。
世界のモノや金の取引にあたって、金融市場の中心となったのは、イギリスの金融街、いわゆるシティだ。
イギリスのさまざまな地域の間のモノの取引に使われる為替手形はシティで決済され、世界各地への投資はシティの証券市場の取引を通じて行われていった。
つまり、[イギリス]ー綿布・武器→[アフリカ]ー黒人奴隷→[アメリカ大陸]ー砂糖・綿花・コーヒー→[イギリス]という大西洋三角貿易は、アメリカと清の間の茶の貿易の際に振り出された「手形」の決済を、ロンドンのシティのマーチャント・バンク(商業銀行)が担うことを通じて、[イギリス]←銀・手形/綿織物→[インド]←銀・手形/アヘン→[中国(清)]←茶/銀→[イギリス]というアジア三角貿易とリンクしていたのだ。
こうした優位性を背景として、1816年にイギリスで導入された金本位制は、19世紀のうちに各国で採用されることになる。
■自由貿易と保護貿易
なぜイギリスで自由貿易政策が採用されたのか、その内幕も覗いておこう。
「反穀物法同盟」という、1840年代のイギリスで自由貿易を主張し、穀物法の廃止に寄与した政治団体がある。
次の図は、その会員が持っていたカードだ。
資料 NATIONAL ANTI-CORN LAW LEAGUE 反穀物法同盟の会員カード。
左は保護貿易下の家庭、右は自由貿易化の家庭を示している。反穀物法同盟は、主食の小麦を自由化することによって、家庭生活がどのように変化すると主張していたのだろうか?
資本家たちが穀物法を改正したかったのには、わけがある。
食費つまり生活費を引き下げることで、労働者の賃金を引き下げたいという企てがあったのだ。
資料 1843年の穀物法反対デモ
参考 労働者への参政権の拡大を求めるチャーティスト運動(1848年当時)を描いた想像図
一方、反穀物法同盟の指導者コブデンの演説にも耳を傾けてみよう。
なお、イギリスの経済学者デヴィッド・リカードウ(1772〜1823)の論説も引いておこう。
このように19世紀のイギリスは自由貿易を推進し、その制度を世界規模で推し進め、世界市場の形成を目指していったのだ。
資料 小麦価格の推移(太実線がイングランド・ウェールズ)