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【1】ShowBizとしてのMCバトル史|戦極・MC正社員の見つめる過去と未来(冬の時代編)

はじめに

どうも、アスベストです。この記事は、MC正社員くんと、戦極を中心にバトルシーンの歴史を振り返った対談の記録です。タイミングとしては2023年8月~9月に掛けて、正社員くんに行なったインタビューの記録です。

この対談を通じて「MCバトル、特に戦極が時代ごとにどんな課題に向き合ってきたのか、どう乗り越えてきたのかを明らかにしていこう」という、内容になっております。

で、なんでこんな対談をしようという話になったかというと、ちょうどこの頃、FSLトライアウトを見て「なんだこりゃ!」と正直、思いまして。お気持ち表明的な動画も出しちゃったりなんかしたんですけど。

シーンの反応もめっちゃ賛否両論だったじゃないですか。

で、ぼく思わず関係者の一員であるところの正社員くんに電話しちゃったんです。正社員くんとは戦極の前身である戦慄時代からの付き合いで、私が戦極の運営を抜けた2014年以降もなんだかんだで付き合いがありました。

で、彼に文句を言ったんです。

そうすると彼は「皆の言ってることも分かるよ…」と。「だけどアスベスト、俺がバトルで実現したいことはずっと変わってないんだよ。それは昔を振り返ってもらえれば分かるはずだよ」と言うわけです。

以下は、実際の正社員くんの言葉です。

「俺は日本一バトルが好きだ。MCバトルより面白いものはこの世にない」「MCバトルを広めたい。野球や格闘技なみの扱いになるまでひろめたい」

確かに、これは俺と正社員くんの付き合いがはじまった15年前から、彼が一貫して口にしていた彼の夢でした。あの頃…MCバトルどころか日本語ラップが長い冬の時代にあった頃です…。

確かにMCバトルの歴史を振り返り、戦極が歴史の節目でどういう役割を果たしてきたのか、振り返ることには意味があるかもしれない。

今のシーンを見つめ直すヒントとして。

そこで私は筆をとりました。長い話になりますが、ぜひお付き合いください。

【第一章|2008年~2011年】
ヒトコトで言えば冬の時代。シーンに芽吹いた、バトルという種。戦慄(戦極)はそんな時代に生まれた。


とにもかくにも、UMBであった。

アスベスト(以下・アス)「では、よろしくお願いします」
MC正社員(以下・吉田)「はい、よろしくお願いします」

アス「とりま正社員くんが戦極の前身である戦慄にジョインした時期から始めましょうか」
吉田「2008年~2009年あたりになるね」
アス「元々戦慄はDJ会長という人がオーガナイザーで、ただ実質的な運営は俺だったと。で、俺がその“実質的な運営を代わってくれ”と正社員くんに助けを求めたわけです」
吉田「そういうことになるね」

アス「当時のバトルシーンって言うのは、基本UMB一強の時代だったよね」
吉田「そうだね。基本的には。大阪にはENTER・SPOTLIGHT、東京にはZERO・3on3があってそれぞれ重要な大会だったけど、全国で見た時にはやっぱりUMBだったと思うよ」

アス「だね。俺も2005のUMBのDVDを見て興奮して、2006にはチッタに決勝を見に行った」
吉田「俺は何度か他の取材でも語ってるけど、2007年末の鉄則でのPUNPEEvs回鍋肉が初期衝動だね。悪そうな見た目じゃない人達が、クラブのお客さんをロックしてる姿が衝撃だった」
アス「分かる気がする。俺も2005のUMBでイチバン衝撃だったのはDEJIさんでしたよ。普通の人が、こんな怖そうな人と、口喧嘩して勝ってる。すごいって感じだった」
吉田「俺も当時出てたバトルのDVDは全部買ったし、年が明けた2008年にはもう池袋サイファーに行ってラップしてたよ」

アス「で、シーン全体に話を戻すと、さっき言った様にUMB一強であったと。次いでスポラ・3on3があったと。でも他にもバトルイベントはあることはあったよね」
吉田「あったね。でも実は、月イチとか隔月イチとかのレギュラーでやってたイベントはほとんど無かったと思うよ。戦慄はレギュラー開催だったから、ある意味レアだったよね」
アス「そんな感じだったね~。なおかつ、どのイベントもやっぱり集客には苦戦してたよね」
吉田「特に戦慄は場所が埼玉だったし、32名のエントリーを埋めるのも大変そうだったね」

アス「UMBも他の大会もだけど、お客さんが入っているイベントには共通点があったよね」
吉田「HIPHOPシーンでの支持がある人達がオーガナイザーだったって点はあるかもね」
アス「そう。そうじゃないイベントはまぁ…バトルイベやってもお客さんは少ない。フロアにいるのはほとんど、エントリーしたバトルMCだけという状況でしたね」
吉田「日本語ラップ全体の景気も悪かったしね。よく言われるけど、冬の時代だったね」

 戦慄の産みの親、ゆうまくん説

アス「そもそも戦慄が始まったのって、実はゆうまくんの発案なんだよね」
吉田「今ではシーンに欠かせないゆうまくんね。2008年には既に居たんだから凄い」
アス「当時、戦慄主催となるDJ会長さんは、ダンスイベントをやってたはずで」
吉田「そう。で、会長さんがそのイベントのライブショーケースに出てたゆうまくんに“なんか新しいアイデアとかある?”って聞いたんだよね。それでゆうまくんが“MCバトルがやりたいです”って答えたのが始まりだよ」
アス「今ではペニとか精子とか言ってるけど、ゆうまくんが戦極の精子だったとは」

吉田「感慨深い。今思うと俺がはじめて遊びいった戦慄とか、小さな箱だったよね」
アス「大宮のDJバーね。MCがみんなタバコを床で消して店員さんがキレるという」
吉田「そう。で、SAVIORR(※)が“俺らはこんな小さい場所でやってんだ”みたいなことをライブで言って、店員さんがさらに怒るっていう」
アス「俺そこまで覚えてないですわ。確か、eBiくん(※)が優勝していたような」
吉田「いや、確かその前にネゴくん(※)が優勝してる」
アス「なつかしすぎる!!!」
吉田「いやーごめん俺もう、この辺の昔話しているだけで、充分楽しいですわ」
アス「それじゃ記事になんないでしょ!」

※SAVIORR:埼玉『韻遊鬼』のビートメーカー・DJ・MCを務めた男。初期戦慄運営の一員でもあった。

※eBiくん:ラッパー。伝説的日本語ラップパーティー『触』の生配信オープンマイクなどで名を売った。

※ネゴくん:ラッパー。熱い叫びと固い韻が武器のラッパー。外見とは裏腹なパワフルなスタイルだった。

Showbiz視点をバトルに導入した正社員

アス「話を歴史に戻そう。戦慄に入った正社員くんがまぁ早速、改革をはじめるわけですよ」
吉田「うんまぁ、改革って言われちゃうとちょっと恐れ多いけど、工夫は色々したね」

―正社員が戦慄で行なった主な改革は3つ―

【1】バトルMCのエントリー枠を、実質・無制限にする

【2】バトルMCが戦いたくなる様な、今でいうゲストバトラーを呼ぶ

【3】ライブ陣を、バトルファンが喜ぶメンバーに総入れ替えする

アス「1個ずつ確認しましょう。まずエントリー無制限にはどういう狙いがあったの?」
吉田「正直に言ってしまうと集客だね。当時のバトルイベントはお客さんとプレイヤーがイコールだったから。エントリーMCをどれだけ集められるかの勝負だとは考えていたね」
アス「当時のバトルのビジネス構造をいち早く客観視してたわけだね」
吉田「まぁ、そういうことになるかな?そこまで難しくは考えてなかったけど」

アス「で、2個目ね。有名人を呼ぶ。今で言うゲストバトラーだよね」
吉田「うん、エントリーMCを多く集めるためには、ブランドが必要じゃないですか。たとえば“その大会で勝てば名が上がる”みたいな。でも当時の戦慄には当然、大会自体のブランド力というのは無かったわけで。だから“その人に勝ったら名が上がる“というブランドのあるMCに出てもらう事を考えた」
アス「賞金首みたいだね。多分、ゲストバトラーの手法を日本で初めてやったんじゃない?」
吉田「あるにはあったけどね。磯友くんとか丸さんはやってた気がするし。でもゲストバトラーって言い出したのは俺がはじめてかも…まぁ、俺自身がヘッズだから、純粋に見たい人を呼びたかったのもあるよ」
アス「結果、正社員くんオーガナイズ第一号の戦慄vol.9(2009)は凄いことになった」

吉田「いや~、これは今見るとやばいね」
アス「3つ目のバトルファンが喜ぶライブ陣ってのを押さえてるよね。これ2009年だよ。今やシーンの顔・ZORNくん、STUTSくんの盟友・KMC、東京下町代表・黄猿」
吉田「当時大人気だった、そして俺の初期衝動である見世物小屋(回鍋肉・カムリ)もね」
アス「そして、当時の埼玉の頂点・ドルネコマンションのユウジンさんのバトル出場よね」
吉田「裸武くんとか、今もUMB・CIYに出たりしてるの、感慨深いな」

―結果としてこの戦慄vol.9(2009)は過去最高のエントリーMC数・集客数を記録し、大成功する。これを皮切りに、MC正社員は戦慄に様々なMCを招き入れていくことになる。
 
パッと思いつくだけでも晋平太・PONEY・DOTAMA・METEOR・NAIKA MC・D.D.S・MOL53・e.K.y・ハハノシキュウ、黒真珠(ADAMS CAMP)、たまちゃん、オロカモノポテチ、ACE、Rayzie-K、チプルソ、KOPERU、SHUN…

現在もバトルシーンにいるかは度外視しても、間違いなくその歴史を彩っていったMC達が戦慄に集まったのだ―

アス「こうやって見ると、正社員くんはショービズの方法論を当時のバトルシーンに導入して成功させたと言えるね」
吉田「いやまぁ、実際はそんなスマートな話じゃ無かったけどね。ブッキングの時は本当に誠心誠意、なんでその人に出てほしいのか気持ちを伝えてさ。宣伝のために、各地のサイファーを片っ端から回ってフライヤーを配ったりもしたし。土台は本当に地道にやってましたよ」
アス「そういや大宮サイファーに人材派遣会社かなんかの人が来て上から目線でラッパーを勧誘しようとしててさ、正社員くん切れてその人にフリスタかましてたもんね」
吉田「あったかも…結構ヤバいね(笑)」

―とはいえ、バトルシーンにショービズの方法論を持ち込み成功に導いた功績は大きいと、アスベストは分析する。

というのも、戦慄が登場するまでは「HIPHOPシーンのアイコン的な人が表に立たなければ、集客や有名MCの誘致が難しかった」というのが、バトルシーンの状況だったのだ。
 
それを「HIPHOPアイコンでない人でも、ノウハウと努力次第で、規模と質を両立した大会を開催できる」という前例を作ったのである。

次の章では、戦慄が戦極へと生まれ変わりさらなる飛躍を遂げる中、シーンがどのように変わってきたか。その中で戦極が立ち向かった、シーンの逆風などについて書いていく。
 
こうご期待。

 あの頃は楽しかったね

吉田「まぁでもぶっちゃけ、MCバトル人生でこの辺がイチバン楽しかった気がする」
アス「えー!?早くない!?こっから戦慄が戦極になって、全国区になってくんじゃん」

吉田「うーん、でも純粋さという意味での楽しさは最初が一番じゃない?バトルに限らずさ」
アス「そういうもんかね。俺はラッパー人生振り返ると超・ライブへの道とか乱 this townとかB BOY PARKとかのライブに呼んでもらえる様になった時期がイチバン楽しかったけどね」
吉田「俺も大会が大きくなるのはもちろん嬉しいよ。今も嬉しいし。でも、大きくなると色々と考えなくちゃいけないことも増えるからね。単純に“楽しい”だけじゃ済まないことも、当然でてくるよね」

アス「なるほどね…でかくなると言えばZORNくんだよね。まさかここまで売れるとは思ってなかったもんね」
吉田「そう?俺は売れると思ってたけどね」
アス「俺も売れるとは思ってたよ!でも武道館とか、たまアリとか、こんな規模の売れ方をするとは思ってなかったって意味ですよ」
吉田「あ~なるほどね。というか、そもそも“そんな規模の売れ方をしているラッパーが、当時のシーンにはいなかった“もんね」
アス「そう、そうなんすよ。だから想像すらできなかったんすよ」
吉田「そういう意味でも、やっぱり冬の時代だったんだよなぁ…」

アス「なんか、素直に“売れたいです”みたいなこと言えない空気もあったしね」
吉田「うん、なんとなくあったね。セルアウトって言葉が、普通に使われてた」
アス「その空気、戦極も無関係じゃないね。次の回ではその辺、掘り下げますんで」
吉田「は~い。言えることと言えないことはあるけど、できるだけ正直に答えていきます」

つづく。


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