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新約聖書の「約」とは 〜心に記された新しい契約_行人坂教会2023年4月16日




聖書箇所:エレミヤ31:31-34

<はじめに>

聖書の目次には、旧約聖書、新約聖書と書かれています。この旧約、新約というのは翻訳の訳ではなく、約束、契約の約です。では、旧約、新約は、どのような契約なのでしょうか。

「この盃はわたしの血によって立てられる新しい契約である」と先週の聖餐式では最後の晩餐の時のイエス様のことばが読みあげられました。今日は、エレミヤ書における私達の心に記された新しい契約の希望を聖餐式との関係でみてまいりましょう。

<1.エレミヤ書の新しい契約>

昔昔、エルサレムで、「主の神殿、主の神殿」と繰り返しながら神殿に集まる民がいました。その民はイスラエル人。かつてはモーセをとおして十戒の石の板を授かり神の民となったにもかかわらず、何度となく神に背いてきました。その民に預言者エレミヤが神様のことばを伝えます。エレミヤが預言者として活動した時期は、紀元前627年からバビロン捕囚のころと考えられます。

エレミヤが生きていた時代がどんな時代だったか。エジプトの奴隷状態から抜け出したイスラエルの民は、希望の地カナンに到着し、12部族それぞれが領土を持ちます。紀元前1000年くらいにダビデが王となり12部族をまとめあげた中央集権的な国家イスラエル王国を作ります。ダビデの次の王様のソロモンの時にイスラエル王国は絶頂を誇りますが、ソロモン王が亡くなり、次の王様の時になるや否や南北王朝が分裂します。

ちなみに、私は北イスラエルと南ユダの滅亡の年号を語呂合わせで「何に、このやろう(B.C.722年、B.C.586年)」と覚えています。

エレミヤは、南ユダの滅亡時期に民が「滅びの坂」を転げ落ちてゆくことを神様から語られながら、人々に預言していきます。

今日のテキスト、エレミヤ書31章には、このように書かれています。

「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。」

新しい契約というと新約聖書に入っているのかなぁと思いきや、旧約聖書のエレミヤ書に入っています。


青い文字は、古い契約です。これはモーセがシナイ山に上った時に十戒の石の板を受け取った「シナイ契約」と呼ばれています。このシナイ契約によってイスラエルの民は神の民としてのアイデンティをもちます。ただ人間は弱いもので、神様とイスラエルの民との間の約束、すなわち十戒に代表される律法を守ることができません。金の子牛を作ったり、神様を讃美するエルサレムの神殿を「強盗の巣窟」のようにしたり、弱者を虐げたり…。神様が何度チャンスをくださっても、民は「しくじり」を繰り返します。

先ほどお読みいただいた33節は「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」とあります。イスラエルの民が何度も神様を裏切ったにもかかわらず、神様は見捨てずに、あきらめずに、逆に契約を更新して、より素晴らしい契約を与えてくださいました。それは、石の板でなく、私達の胸の中に心に書き記された律法です。

想像してみてください。あたり一面、砂漠です。その中を奴隷にされたイスラエルの民がバビロンに連れて行かれています。

彼らはどんな感情だったのでしょうか。おそらくどん底の気持ちだったと思います。イスラエルが誇り、頼りとしてきた都も城壁も神殿も律法も王も祭司も預言者も富も力も選びも栄えある伝統と歴史も、ことごとくバビロニアによって抜き壊し破壊し滅ぼし尽くされます。

エレミヤは民に厳しい預言もします。一方で、その人間の弱さにもかかわらず、エレミヤは神殿が崩壊した後に「新しい契約」が与えられる希望をも語りました。シナイ山でモーセに与えられた石の板に書かれた古い契約ではなく、人の心に記された新しい契約を与えるという救いの計画です。今からバビロン捕囚されるというイスラエル民族にとってどん底の時に「あなたは70年後にバビロンからエルサレムに戻れますよ。しかも、新しい契約を与えますよ」と民に救いと希望をエレミヤは見出したのです。

イスラエルの民は神の律法と神との契約を守れませんでした。しかし、神はモーセの時に「石」に刻んだ律法を神ご自身が今度は「人間の心」に刻み込んでくださるという新しい契約をくださいました。新しい心が与えられ(31:31)、無条件の罪の赦しを与えてくれるという約束です。モーセの時のシナイ契約では救いがまっとうできませんでした。新しい契約によって、異邦人も含め誰もが救いに預かることが可能になりました。

バビロン捕囚期における崩壊という現実の中でエレミヤは自分たちの民族の罪を直視しました。破れを身に経験しながら、そのなかでも生きて働いておられる神様をエレミヤは語っています。

エレミヤ書 29:11 新共同訳 わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。

奴隷状態から解放へ、裁きから救いへ、死から命へ。この「新しい人」の方へと向かう神様の計画をエレミヤ書は語っています。

<2.聖餐式>



なぜ「聖餐式(キリストの血とキリストの体をいただく聖礼典)」をするのでしょうか?

「この盃はわたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこれを行いなさい

エレミヤによって預言された新しい契約が600年後、イエスの十字架と復活によって実現しました。キリストの血と身体による「新しい契約」とは、私たちがイエス・キリストの信仰により神の子とされる、過去の罪、未来の罪、すべての罪が赦されるという神様の一方的な恵みによる契約です。

エルサレムの民は、何度も神様を悲しませました。目に見えるものに依存してしまいました。神殿を偶像礼拝にしてしまったと言ってもよいかもしれません。当時の人々は、弱者に寄り添うことを忘れて無慈悲になってしまい寄留の外国人、孤児、寡婦など社会的弱者を虐げてしまっていました。

同じように、私たちも、生活をしていて「神様以外のなにか」に依存してしまう時があります。私たちは、造られたものを神様のように錯覚してしまう者です。どんなに真実に生きようとしてもできない。真面目に生きようとしても、やりたくない悪をしてしまう。そんな弱さや欠点を抱えているのが私たちではないでしょうか。

しかし、神様は私たちが律法を守れない弱い愚かな存在だとご存知です。そして、私たちの弱さや欠点、的外れな生き方にもかかわらず、神様は私たちを見捨てず「新しい契約」を与えてくださいました。そして、エレミヤが語った「新しい契約」は主イエスによって成就されました。キリストは新しい契約の「仲保者」であり、主イエスの血によって新しい契約がうち立てられたのです(ヘブル書9章15節)。主イエスの十字架と復活により、私たちの罪はすべて赦されるという「よき知らせ」です。イエス様の誕生から600年前すでに福音を預言したエレミヤは、私には不思議な存在です。

神様は、御子イエス・キリストを私たちのところにプレゼントしてくださいました。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく永遠の命をもつためです。
私たちの主イエスは、最後の晩餐で、主イエスの血による新しい契約を宣言しました。その新しい契約のもとでは神様は「わたしはあなたの悪を赦し、再びあなたの罪に心を留めることはない」と約束してくださいました。そして、十字架の死と復活をとおして、私たちを救いへと導きだしてくださいました。

<結論>
私たちの心に「新しい契約」が刻まれています。それは、イエス様ご自身が私達の内におられるということでもあります。聖霊の息吹によって「ふーっ」と、私達の内なる人が新しい命で息吹かれていくのです。

「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ」そう言われる主が、日々、私たちを新しい契約で無条件に愛してくださっています。

今日も、私たちはこの礼拝の場から、それぞれの場所へと遣わされていきます。それぞれの職場、家庭で、罪の奴隷から自由にされた喜びに満たされながら、遣わされた場所で、神様の栄光を現すことができますようにお祈りします。

<祈り>
父なる神様。エレミヤが「神殿説教」でエルサレムの民の弱さを語りました。その弱さを私たちも抱えています。神様以外のものを神様以上に信頼する私たちの罪をゆるしてください。
イスラエルの民の弱さや破れにもかかわらず、バビロン捕囚から解放の希望があることもエレミヤは語りました。その新しい契約は主イエスの十字架と復活により私たち信じるすべての者に適用されましたから、ありがとうございます。罪の奴隷、死の奴隷状態からイエスの血によって赦されていることを感謝します。神様の前に立ち返る「新しい心」を日々、私たちに与えてください。アーメン


2023年4月16日 行人坂教会 牧師 関智征

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