見出し画像

<日本灯台紀行 旅日誌>2021年度版

<日本灯台紀行 旅日誌>男鹿半島編

#3 一日目(3) 2021年7月14日

移動2

仙台駅では数人降り、数人乗ってきた。次の停車駅の盛岡駅でも、同じような感じだった。と、アナウンスが耳に入ってきた。車両を切り離し、盛岡駅からは、進行方向が逆になるらしい。どういうことなのか?自分が乗った<こまち11号>は実体的には、<はやぶさ11号>と<こまち11号>が連結されたもので、<はやぶさ>の方は、いわゆる東北新幹線で、新青森まで行く。一方<こまち>の方は、盛岡で切り離されて、在来線を走って、秋田まで行く、というわけだ。

と、ここからはいま調べたことだが、本来、新幹線と在来線とでは、線路の幅が違う。これは、たしか、小学生の頃に教わったことがある。となると、新幹線である<こまち>は、盛岡から秋田までの区間、在来線を使うことはできないのではないか?これは、半分は正解で、半分は間違い。在来線の田沢湖線(盛岡~大曲)と奥羽本線の一部(大曲~秋田)のレール幅を改良工事で大きくして、新幹線が走れるようにしているのだ。

時間と空間を戻そう。二時間足らずで、盛岡駅に着き、車内アナウンス通り、列車が反対方向へ動き出した。なんだか変。戻っている感じがする。だが、もっと変なことに気づいた。線路に柵がない。スピードが遅い。待ち合わせとか言って、頻繁に停車する。なんだこりゃ~!車両は新幹線だが、内容的には<特急>だ。しかも<待ち合わせ>ということは、<単線>だ。

秋田新幹線<こまち11号>は、大宮駅から秋田駅まで、およそ三時間半だ。だが、大宮から盛岡まで二時間弱で着いた。となれば、あとの一時間半が、盛岡から秋田までの走行時間となる。これからまだ、一時間半も、たらたら行くのか、と思いながら、窓の景色を眺めた。山間部をぬって走っている感じで、何の面白みもない。雫石、田沢湖、角館、大曲と停車して、秋田駅には、予定通り、一時ちょい過ぎに着いた。

駅構内は閑散としていた。改札は<PASMO>で何の問題もなく、ピッと通過できた。東口から、長い階段を下りて、外に出た。駅前広場は、整備され広々としている。その分、さらに閑散としている。すぐ近くのNレンタカーまで、キャリーバックをごろごろ転がしながら歩いた。梅雨明け十日!雲一つない晴天、こりゃあ~、猛暑だな。

Nレンタカーの事務所に入って、手続きをした。予約は、14時からだから、四十五分ほど早い。その分、追加料金を¥1000、取られた。請求書が出てくる前に、何も説明がなかったので、少しごねた。係の若者は、ではいったん契約解除して、やり直しますかと聞いてきた。だが、この暑い中、時間をつぶす所もないし、すでに現地入りしているわけで、男鹿半島へ向けて、早く出発したかった。そのままでいい。カードで支払いを済ませ、用意してあった車に乗った。

出雲旅の時と同じだ。灰色の<スイフト>だった。ナビの操作などを、ちょっと教えてもらい、すぐに出発した。その際、<入道埼灯台>まで、高速でも一般道でも、あまり変わらない、と係の若者がアドバイスしてくれたので、一般道を選択した。どちらも、ほぼ58キロ、二時間弱の行程だ。

一時間半くらいだと思っていたが、二時間かかるのか!秋田に泊まらなくてよかったよ。それに、高速を使わないのなら、¥1000オーバーしたぶん、差し引きゼロだ。みみっちいことを思いながら、秋田の市街地を走り抜けた。道は広く、きれいな大きな町だった。

その時は思わなかったが、帰路、同じルートを通った時に、ふと思った。市街地に、これだけ大きな道があるのは、<空襲>を受けたんじゃないか、と。いま調べたら、カンが当たっていた。

1945年8月14日の夜から、翌15日にかけて、B29が130機飛来。海岸沿いにある製油施設と、市街地が被害を受け、250人以上が犠牲になった。<土崎大空襲>。大日本帝国が、米軍から受けた、最後の空襲だった。そういえば、自分の住んでいる埼玉県の熊谷も、同日、ほぼ同時刻に空襲を受けている。<熊谷空襲>。1945年8月15日。敗戦の日に、ここでも、多くの人命が失われている。この二つの空襲は、今から76年前だ。かなり前とはいえ、自分の生まれる、ほんの七年前のことだ。自分にとっては、そんなに昔のことじゃない。

市街地を抜けると、左手に海が見えた。海岸沿いに、大きな施設が見える。そう、秋田には、たしか海底油田があったはずだ。となると、あれは製油施設だな。片側二車線の広い道を、気分良く、さらに行くと、巨大な<なまはげ>の立像が二体、目に入った。ハンドルを左に切って、<男鹿総合観光案内所>の駐車場に入った。

車の外に出た。暑い!キャリーバックからカメラを取りだして、巨大な<なまはげ>を何枚か撮った。正面からは、逆光だ。うしろに回って、出刃を振り上げている後姿も撮った。おもしろい!近寄って、どんな材質でできているのか、触ってみた。硬かったが、樹脂のような感じだった。

施設の中に入り、お土産を物色した。小さな<なまはげ>の置物があった。中に何か入っていて、カラカラと音がする。¥770の、手のひらに収まる程度のものを買った。ただ、いま思い出してみると、顔が赤いのと青いのがある。たしか、どちらも出刃と桶を持っていたような気がする?

帰宅後に調べてみると、例の、巨大な<なまはげ>も、ネットで出てくる<なまはげ>の画像も、ほぼすべて<出刃と桶>は青い<なまはげ>が持ち、赤い<なまはげ>は<御幣=ごへい>という棒の先にひらひらした紙がついているものを持っている。ちなみにこの<御幣>は、神様であることの印らしい。

ベッドの背もたれの上を見た。ニャンコの白い骨壺と愛知旅で買った<三毛の招き猫>が並んでいる。その前に、紀伊半島旅で買った那智黒石の小さな招き猫と顔の赤い<なまはげ>がいる。やはり<出刃と桶>を持っている。これは、おかしいだろう?赤い<なまはげ>は<御幣>を持っているはずだ。これは、たんなるミステイクなのか?あるいは、素材的に<御幣>を作るのが難しかったのか?

ヒマなんだから、真相について調べることもできるだろう。だが、めんどくさい。それに、<なまはげ>は地域、地域によって、多種多様らしい。赤い<なまはげ>が<出刃と桶>を持っていることも、許されるのだろう。

なお、この<出刃と桶>は、炉端で低温火傷したときにできる<かさぶた>を削り取って入れるものらしい?しかし、この説明は説得力に欠けるな。<出刃>を振りかざす<なまはげ>は、暴力的で、恐怖を呼び起こす。持っている<桶>は<出刃>で切り刻んだ、人間の部位を入れるものではないのか?怖いもの見たさが、恐ろしいイメージを喚起する。

あと、赤い方が爺、青い方が婆で、二人は夫婦らしい。<なまはげ>が夫婦であったというのも、驚きだが、頭が大きくて、わけのわからないアイテムを持っている姿は、アニメのキャラクターのようで、滑稽味がある。しかし、幼児にとっては、今でも恐怖の対象だし、一方、大人にとっては、郷愁の産物となっている。自分も、<なまはげ>には、なんとなく魅かれるところがある。

巨大<なまはげ>を後にして、男鹿市の手前で<なまはげライン>に入った。その際、どこの港なのか?海に突き出た長い防波堤の先に、灯台が小さく見えた。帰りに寄ろうと思った。(この防波堤灯台は、船川港の<船川防波堤灯台>だと、今調べてわかった)。小一時間、さほど山深くもない山間部を、貸し切り状態で走った。そのうち、点在する民家もなくなり、少し急な登りになった。

さらにナビに従っていくと、道は平らになり、半島の上に上がったようだ。と、<男鹿温泉郷>という看板が見えた。なるほど、宿はあっちの方だなと思いながら、さらに直進。すると、右側にチラッと海が見えた。木立があり展望はよくない。どうやら絶壁になっているようだ。

前を向くと、本格的なキャンピングカーがたらたら走っている。道が狭いから、追い抜くことは危険だし、それに億劫だ。と、道の両側に民家が建てこんできた。灯台が近いなと思った。案の定、正面の建物の上に、白黒の灯台の上半分くらいが見えた。やっと着いたよ。途中、ちょっと寄り道したものの、秋田駅から入道埼灯台まで、やはり二時間ほどかかっていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?