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物語における典型の考察          -"ヒロインの格"の観点から-

日常的に物語を摂取していくなかで気付くこととして、典型の存在が挙げられる。否定的な文脈ではテンプレ、肯定的な文脈では王道などと呼ばれるようだが、どう認識するにせよ、なんとなくお決まりの形式というものが消費者の間で共有されているのは事実だ。ここでひとつ疑問になるのは、それを"なんとなくお決まりのモノ"としたままで良いのか、ということである。物語の良さは、時に典型を守り、時に典型を外れることで生まれる。すなわち、典型を正しく認識することこそが物語の良さを正しく認識することにつながるはずである。そこで本稿では、"ヒロインの格"(筆者の造語である)の観点から、主人公とヒロインの間に存在する典型について考察していきたい。具体的には、"ヒロインの格"の概念的な導入のため3つのアニメ作品を紹介した後、3つの典型について"ヒロインの格"を用いた解釈を試みる。


導入1「ギルティクラウン」

まず、筆者がヒロインの格を意識した最初の作品として「ギルティクラウン」を紹介する。

「ギルティクラウン」キービジュアル
©ギルティクラウン製作委員会

「ギルティクラウン」は2011年に全22話で放送された、SFアニメ作品だ。未知のウイルスによって無政府状態となった日本を舞台に、それを統治しようとするGHQと、主人公の所属するレジスタンス組織の争いが描かれる。本作の最重要ヒロインは、キービジュアルにも映る"楪いのり"であろう。主題歌の歌唱担当でもある彼女は、主人公が特殊能力を得てレジスタンス組織に加入するきっかけを作った人物である。
しかしこの楪いのり、ヒロインとしての物語上での主な仕事は、主人公を組織に入れたこと、ただそれだけである。ミステリアスといえば聞こえはいいが、主人公のことをどう思っているかが分かりづらく、主人公の自己決定にもあまり関わってこない印象であった。にも拘わらず、最終盤では主人公の大切な人としてのポジションをせしめることに成功しており、その際に根拠として語られた思い出の後出し感は、主人公の隣に立つヒロインの資格について考えさせられるものであった。主人公の隣に立つヒロインの資格、すなわち"ヒロインの格"であるが、これは物語上で主人公や世界と結ばれる因果の量が重要である。その点において、楪いのりは主人公と結ばれる因果の量が足りなかったと考えている。
一方これに関して、彼女は存在感があまりなかっただけではないか、存在感のことをヒロインの格などと大仰に呼ぶ必要があるのか、と考える向きもあるだろう。そこで次項では存在感とヒロインの格がイコールでないことを説明していく。

導入2「Re:ゼロから始める異世界生活」

次に紹介するのは、「Re:ゼロから始める異世界生活」だ。本作は存在感とヒロインの格が決してイコールでないことの好例である。

「Re:ゼロから始める異世界生活」キービジュアル
©長月達平・株式会社KADOKAWA刊/Re:ゼロから始める異世界生活1製作委員会

「Re:ゼロから始める異世界生活」は2016年に第1期が、2020-21年に第2期がそれぞれ25話ずつで放送された、異世界転移アニメ作品である。小説投稿サイト「小説家になろう」における連載作品のアニメ版であり、異世界に転移した引きこもりの主人公が、死ぬと時間が巻き戻る"死に戻り"の力でヒロインたちを助けていくというストーリーだ。本作の最重要ヒロインは、キービジュアルにも映る"エミリア"であろう。作品世界で忌み嫌われる"嫉妬の魔女"によく似た風貌の彼女は、異世界に転移し混乱する主人公に初めて手を差し伸べる人物である。
多くの異世界モノがそうであるように、本作にも多くのヒロインが登場する。なかでも2章で登場する青髪メイドの"レム"は、敵対関係から始まるのにも拘わらず、主人公への献身が魅力的な性格へと転じる、作中屈指の人気キャラだ。物語上だけでなくメディア展開においても、彼女の存在感は大きい。ここで注目したいのは、レムの存在感を認識したうえで、それでもエミリアが最重要ヒロインのポジションを維持している事実だ。エミリアは主人公を初めて助けた相手であると共に、主人公が初めて助けた相手である。そのうえ、作品世界の伝説や主人公の転移原因とも関わっていることが示唆される。そういった主人公や世界との関わりがもたらすヒロインの格は、他のキャラクターの存在感がいくら大きかろうと侵されることがない。
一方これに関して、格のあるヒロインとは最も重要に描かれているヒロインのことだ、と理解する向きもあるかもしれない。しかし、そうでないことがしばしばある。次項では、格のあるヒロインが蔑ろにされている事例について説明する。

導入3「Fate/stay night [Heaven's Feel]」

次に紹介するのは、「Fate/stay night [Heaven's Feel]」だ。本作は格のあるヒロインが蔑ろにされてしまうストーリーの好例である。

「Fate/stay night [Heaven's Feel] I. presage flower」キービジュアル
©TYPE-MOON・ufotable・FSNPC

「Fate/stay night [Heaven's Feel]」は2017年、2019年、2020年に渡り三章構成で公開された、劇場アニメ作品である。原作はビジュアルノベルゲーム「Fate/stay night」であり、7人の魔術師たちが使い魔を召喚し、己の願いを叶えるために争う"聖杯戦争"を描いている。原作には3人のヒロインをそれぞれ選択して進められる3つのルートがあるが、本作はそのうち第三ルートに当たる"間桐桜ルート"の映像化である。間桐桜はキービジュアル中央に映る少女であり、後輩として主人公に愛情を寄せるものの、魔術師としてその運命は暗く重たいものとなっている。
率直に言ってしまえば、本作で最も格のあるヒロインは"セイバー"である。キービジュアル左下に映る彼女だが、作中で主人公が使い魔として召喚した英霊であり、主人公が聖杯戦争に挑むうえで欠かせない存在である。間桐桜が後輩として主人公との因果を結び、魔術師として世界との因果を結んでいたとしても、舞台が聖杯戦争の形をとる以上、主人公の隣に相応しいのはセイバー以外にはありえない。これは原作の第一ルートが"セイバールート"であることからも明白である。にも拘わらず本作では間桐桜との描写が優先されるため、格のあるヒロインが蔑ろにされている違和感があった。
これに関して、本作がビジュアルノベルゲーム原作で複数のメインヒロインがいることを理由に、仕方ないこととして容認する向きもあるかもしれない。しかし複数のメインヒロインを置くならば、それぞれのルートにおいて最も格のあるヒロインが変わるようなシナリオにすべき、というのが自分の考えである。本シリーズの聖杯戦争というシステムは、それを許していない。

典型1「セカイ系」

さて"ヒロインの格"を導入したところで、本項からは物語における典型について解釈していく。一つ目は、「セカイ系」である。
「セカイ系」はミーム的に用いられる言葉であり明確な定義は存在しないものの、主に"主人公とヒロインの関係"が"世界の終わりのような大問題"とつながっている物語形式を指すようである。「最終兵器彼女」や「イリヤの空、UFOの夏」、近年では「天気の子」などが、この形式に該当する。
「セカイ系」は単純なところでは、世界の危機によってヒロインの格を表現する形式として解釈できるだろう。セカイ系の主人公がヒロインと関わるとき、必ず世界規模の大問題が考慮される。往々にして、ヒロインをとるか世界をとるかという選択を迫られるが、天秤の片腕に世界が乗っていると思えば、ヒロインの格の大きさも分かりやすい。また、ヒロインの格が世界とヒロインの間の因果に由来し、主人公とヒロインの間にはそこまでの因果が存在しない点も、特徴として挙げられる。世界的に重要な役割をもつヒロインに対し、絶対的な因果を結べていない主人公。その無力感も象徴的である。

典型2「ハーレム」

二つ目は、多数のヒロインを登場させる形式、所謂「ハーレム」である。
近年のラブコメ作品では複数人のヒロインがいることは当たり前で、典型以上の常識と言っても過言ではない。しかし、この形式の良さとは何だろうか。消費者が好みのヒロインを見つけやすいという利点やヒロインどうしの複雑な感情描写が胸を打つというような利点もあるだろうが、これらはヒロインがせいぜい2~3人の場合である。一般的に「ハーレム」と呼ばれるような、それ以上の数のヒロインを抱える作品において、同じ理論で解釈するのは難しい。では、どう解釈すべきなのか。結論から言えば、「ハーレム」とはヒロインの格に優劣をつけない物語形式である。これについては、ハーレムアニメの金字塔「To LOVEる-とらぶる-」シリーズの主題歌のひとつ、「楽園PROJECT」の歌詞がヒントになった。

ねぇ君のオンリーワンじゃなくたってIT'S ALL RIGHT
みんなでハッピーに なろうよ

「To LOVEる-とらぶる-ダークネス」OP 「楽園PROJECT」より

これは、格のあるヒロイン=オンリーワンな誰かが設定されるよりも、ヒロイン皆が平等に主人公と因果を結ぶ方が幸せであるという提言である。ヒロインの格に優劣の無い方がいいか、その是非はともかくとして、幸せが加算的であるという感覚(もしくは加算的であってほしいという願い)はハーレムという物語形式の本質であるように思える。

典型3「負けヒロインとしての幼なじみ」

これまで解釈してきたのは、あくまで物語形式/ジャンルとしての典型であった。そこで三つ目には展開としての典型、具体的には「負けヒロインとしての幼なじみ」について取り上げる。
「幼なじみが絶対に負けないラブコメ」という作品が存在するほど、幼なじみヒロインは負けるものとして認識されている。この負けヒロインとしての幼なじみについて、筆者の知人であるきのこ☆七星人氏は以下のように説明している。

氏の言うところの"運命の出会い"は、主人公がヒロインと初めて出会う、ヒロインの格に対して最も影響を与えるイベントである。導入2および導入3の例にも通じるが、基本的に格のあるヒロインとは物語の最序盤で出会うヒロインのことであり、出会いが既に済ませられている幼なじみは、格として劣ることが多い。

総括および今後の展望

"ヒロインの格"という観点を用いて、物語における主人公とヒロイン間の典型について解釈を試みた。主人公の隣に立つ資格とも言うべきヒロインの格は、ヒロインが主人公や世界との間に結ぶ因果の量によって決まり、作中におけるヒロイン自身の存在感には左右されない。3つの典型を解釈したが、忘れずにおきたいのは冒頭でも述べた、"物語の良さは、時に典型を守り、時に典型を外れることで生まれる"事実である。例えば典型3「負けヒロインとしての幼なじみ」について、幼なじみはヒロインの格で劣るため負ける方が物語的に美しいとしたが、この典型を破る美学もいくつか思いつく。格で劣ったヒロインのそれでも主人公の隣に立とうとするその食い下がりが、作品を強く特徴づけることはあるだろうし、あるいは運命の出会いを行なえなかった幼なじみが如何に自身の格を高めるかというところから、作品の新規性が生まれることもあるだろう。新たな視座を獲得したところで、それらを今後の物語体験への期待として、今回は筆を擱くことにする。


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