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君への愛の訳しかた               -好きな子がめがねを忘れた-

”月が綺麗ですね。”というフレーズをご存じだろうか。「吾輩は猫である」「坊っちゃん」「こころ」等の著作で有名な明治の文豪 夏目漱石は”I love you.”をこのように訳したという。曰く、日本人にとって直接的な表現は不自然であるとのことだ。英語教師として職を得ながら後世に残る日本語作品を数多く残した彼の、豊かな言語感覚がうかがえるエピソードである。
さて、ここまではよく知られた話である。近年の恋愛作品にはこの逸話を引用するものも多く、個人的には食傷気味なほどだ。しかし、ここで問題にしたいのは、これが後の創作である可能性についてである。というのも、漱石本人が実際にそう述べたという決定的な記録は残っていないそうだ。私はこの事実を耳にしたとき、いささか落胆した。相手への愛を奥ゆかしく表したかの名文は虚構であったのか。ところが、その失意の念はあるアニメ作品によって覆されることとなる。


TVアニメ「好きな子がめがねを忘れた」

「好きな子がめがねを忘れた」は藤近小梅による漫画作品だ。Twitter(現:X)への発表後人気を博し、2023年現在は月刊ガンガンJOKERにて連載中である。[1] また、2023年夏クールにおいて、全13話構成でTVアニメが放送された。
極度の近眼でありながら、たびたびめがねを忘れてしまう天然少女 三重あい(三重さん)とそんな三重さんに恋心を抱く少年 小村楓(小村くん)との交流を描くラブコメ作品であり、TVアニメにおいては、独特なカメラアングルを含む繊細な映像表現や三重さん(cv. 若山詩音)の魅力的なボイスが話題となった。
さてそんな本作だが、私の視聴前の印象はいわゆる”メガネフェチ”作品であった。タイトルにめがねと入っているのだから、ある意味当然の予想といえよう。個人的にはさほど惹かれるものでもないが、しかし”メガネ”は数あるキャラクター属性の中でもひときわ大きな派閥を成している。ジャンルへの見識を深めるため視聴を決めた私は、その期待を良い意味で裏切られることとなった。「好きな子がめがねを忘れた」は単なる”メガネフェチ”作品ではなかったのである。

君のために雲を撮る

本作の特異性に気付いたのは、4話中盤のことだった。
4話中盤 授業中のクラス、女子生徒のひとりが綺麗な形の雲を見つける。

「あの雲すごくない?」
「ほんとだ。ハート型じゃん!」

窓の外に浮かぶのは綺麗なハート型の雲、生徒たちは授業そっちのけで雲に注目を集める。しかしクラスの中でひとり、険しい顔をする生徒がいた。めがねを忘れた三重さんである。一生懸命に目を凝らしてみるものの、近眼の彼女にクラスメイトと同じ感動を得ることは難しい。授業中ということもあり、先生が興奮する生徒たちを窘めて、ついに雲を見ることは叶わなかった。しかし、その夜のことである。

小村くんは雲の写真を撮り、三重さんに送ってあげたのであった。
ああ、これが愛でなくて何であろうか。綺麗な形の雲、ささいな幸福。それを分かち合おうとする小村くんのメッセージには直接的な表現こそ無いものの、奥ゆかしく、雄弁な愛情が感じ取れるのである。

気持ちは視覚を通して

前述のシーンに胸を打たれた私は、以降本作との向き合い方を改めることとなった。単なるメガネフェチ作品としてではなく、視覚的な手段によって好意を表現した作品として見ることにしたのである。相手への愛を視覚的に訳す作品と言い換えてもいい。するとどうだろうか、特徴的な描写はいくつも見つかったのだ。
例えば7話終盤、教室で居眠りをする小村くんに三重さんが手を触れるシーン。愛おしそうな様子の三重さんだが、小村くんが目を覚ましたことに気付くと、自らの行為の大胆さに赤面する。と、ここまでは珍しくない展開であるが、その次、三重さんの台詞は

今日はめがね忘れなかったから、小村くんのことよく見ようと思って…

である。相手のことを見る。たったそれだけのことではない。この作品ではその行為は愛と等価の重大さを持つのだ。
または11話中盤、文化祭準備で門限を破ってしまった三重さんが急いで家に帰るシーン。三重さんの親は厳しく、叱られてしまうことは容易に想像できる。帰路で涙する三重さんを見た小村くんは躊躇の末、三重さんの親に対して彼女に非がないことを訴えるのであった。

俺、明日も元気な三重さんが見たくて…!

初めて会う三重さんの親への緊張。急に押しかけて変に思われないかという不安。あらゆるものが道を塞ぐ中でそれでも彼が進めたのは、三重さんの笑顔を見る、それが何より重要であったからである。
特徴的な表現は三重さんと小村くんの関係だけに留まらない。8話において、二人が他人の告白シーンに遭遇してしまう話があるが、その場面における告白の冒頭は、

私に見えているあなたは、あなたの一部分かもしれないけれど、それだけでも大好きになったの!

である。本作において、視覚はあらゆる場面で重く扱われていることが分かるだろう。

二人だけの世界

さて、本作が好意を視覚的に訳した作品であるということを述べてきたが、実は私が注目している点はもうひとつある。それは、三重さんが小村くんを「優しくて、お父さんみたいな人だ」と評している点である。世間一般では、「優しくてお父さんみたい」は恋愛対象ではない相手にかける言葉である。実際、小村くんもそう言われて複雑な心境のようであった。しかし、最終話で述べられるところによると、三重さんにとってはそうでないらしい。

私のお婿さんは、あなたみたいな優しい男の子がいいな。

幼少期の三重さんの言葉だが、本作を構成する恋愛観が世俗に引っ張られていないことを強く示している。世俗から離れ、視覚に重きを置く、本作はある意味で二人だけの特別な世界を演出していると言うことができるだろう。

愛を訳すということ

本稿冒頭で、”月が綺麗ですね。”というフレーズについて述べた。これは"I love you."の訳文であると同時に、日本人の感性に根ざした告白の符牒である。であるならば、”好きな子がめがねを忘れた”はどうであろうか。めがねを忘れた想い人との関係の中で表される視覚の重み・相手を助ける優しさの強調の過程で、間違いなく作品世界だけで通じる愛言葉である。漱石の逸話が後世の創作であったとしても、その表現に秘められた芸術性までが虚構な訳ではない。「好きな子がめがねを忘れた」はその愛の訳し方によって失意の私に本質を伝えたのであった。


[1] 好きな子がめがねを忘れた - Wikipedia

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