今此処でスーザン・ソンタグに再会する(3)

[こちらは「東京プライド」のメールマガジンに2011年7月から12月まで月1回連載されました。以下は2011年9月配信分。]

ある出来事を理解するとは、その出来事がもつ(と思われる)意味を捉えることだと、その出来事が重要なときほど、影響が甚大であるときほど、思いがちである。けれども、出来事に意味があり、解釈可能であったところで、出来事そのものを理解できるとは限らない。

先日日本の東北地方や関東地方で起こった地震や津波に「天罰」や「天の恵み」という意味を見出してそれぞれの解釈を披露した政治家たちは、少なくともそれぞれの発言時点で、あの震災そのものを理解しているように見えなかった。

スーザン・ソンタグの代表作、1966年発行の評論集『反解釈』(ちくま学芸文庫、1996年)に収められた表題作は、その名の通り芸術作品を解釈するという営みに対する批判で、芸術作品をその「内容」と「形式」に切り離し、前者をより本質的であるとする解釈の前提に対する批判である。また解釈すべき「内容」が存在するという幻想が、他でもない解釈という営みによって保持されていることを批判し、芸術作品の「内容」を重視するあまり、偏狭な解釈を企てた批評によって、作品そのものの理解がゆがめられた例を複数挙げている。

ちなみにここでの「内容」は「その作品が意味すること」、「形式」は「外見上その作品がそれらしく見える要素」と言い換えられるかもしれない。

この本の発表後、ソンタグは1987年『エイズとその隠喩』(以下『エイズ』)の中で、前作『隠喩としての病』(以下『病』、1977年発表)の目的を次のように書いている。

「私の本の目的は想像力を掻立てることではなく、鎮めることであった。文学的営為が伝統的に目標とする意味の付与ではなく、意味をいくらかでも奪いとること。『反解釈』というきわめて論争的な、ドン・キホーテもどきの戦略を、こんどは現実の世界にぶつけてみること。肉体に。」(スーザン・ソンタグ『病とその隠喩・エイズとその隠喩』みすず書房、2006年新装版、149ページ)

ソンタグが『病』と『エイズ』の二冊を通じ、ガンやエイズといった病にまつわる隠喩を、前回引用した言葉を借りるならば、「暴露し、批判し、追及し、使い果た」そうとしたのは、そうした隠喩が社会・文化的な意味付けであり、ある種の解釈でしかなく、その病気の現実をゆがめていると感じていたからだ。たとえばガンの隠喩が提示するガンという病の姿はガンという病そのものではないし、ガンに付与されている意味なんてものは、患者本人にとって邪魔になることはあっても実際的な助けにはならない。

ただ患者自身に不利益を与えるからといってガンやエイズといった病から社会・文化的な意味を、隠喩を、すべて剥ぎ落とすことはできない。

「もちろん、隠喩の力を借りずにものを考えるというのは不可能である。しかし、だからといって、避ける方がいい隠喩、しまいこむ方がいい隠喩がないということではない。すべての思考は当然解釈であるにしても、時には『反』解釈をかかげることが正しいこともあるように。」(『エイズ』、136ページ)

ソンタグがいうように、解釈の罠を完全に振り切ることはできなくても、それに抗(あらが)うことに意義はある。たとえば身近な人が死んだらある意味では有益な死であったと信じたくなる。大きな地震があったら罰だの恵みだのと勝手に思う。スポーツイベントでの勝敗結果から国家の今後を占えるのではないかと妄想する。―思いをめぐらすのは自由だ。ただ一見不幸なあるいは幸せな出来事であっても、その出来事自体や自分自身の経験について一義的な結論を取り出す必要はない。では個々の出来事や経験に対する解釈に抗うなかで得られるものがあるとすれば、それはいったい何だろうか。

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ジャニス・チェリー
日本生まれ、超個人主義な文化育ち、2003年より神奈川県川崎市在住。呼吸するようにフェミニズムとレズビアン・アートについて思考したい。時々フェミニズムやクイア・スタディーズの勉強会などやっています。http://selfishprotein.net/cherryj/indexj.shtml

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