今此処でスーザン・ソンタグに再会する(4)

[こちらは「東京プライド」のメールマガジンに2011年7月から12月まで月1回連載されました。以下は2011年10月配信分。]

スーザン・ソンタグがいうように、解釈という営みに抗うなかで得られるものがあるとすれば、それはいったい何なのだろうか。

2000年5月9日、エルサレム賞を受賞した際、彼女は次のように言っている。

 「作家の第一の責務は、意見をもつことではなく、真実を語ること……、そして嘘や誤った情報の共犯者となるのを拒絶することだ。文学は、単純化された声に対抗するニュアンスと矛盾の住処である。作家の職務は、精神を荒廃させる人やものごとを人々が容易に信じてしまう、その傾向を阻止すること。盲信を起こさせないことだ。作家の職務は、多くの異なる主張、地域、経験が詰め込まれた世界を、ありのままに見る眼を育てることだ。
 さまざまな現実を描写すること、それも作家の仕事だ。汚れた現実、歓喜の現実。文学 (文学の功績という多元的なもの) が供する叡智の精髄は、何が起きていようと、つねに、それ以外にも起きていることがある、という認識を助けることだ。
 この『ほかにも何か』ということが、私の頭を離れない。」
 (『言葉たちの良心―エルサレム賞受賞スピーチ』、木幡和枝訳『同じ時の中で』所収、NTT出版、2009年、219-20ページ)

「何が起きていようと、つねに、それ以外にも起きていることがある」―言われてみれば当たり前のことだ。現実なんて、どうしたって単純なものではない。逆に言えば、単純でないものを理解しようとして、解釈しようとするのだ。

ただ何かを解釈しようとするときには、その解釈がどれほど現実を単純化して、結果的にゆがめているかには無自覚なものかもしれない。仮に解釈の対象となるものが持つ意味が存在するとしても、そのものの意味が内側に在るかは確かめようがない。解釈者自身を含めた、対象の外にも、そのものの意味を成らしめる構造がある。そのような状況で解釈者が複数の、かつ複合的に表れた意味を理解可能かも、また不確かだ。 さらには、解釈に値する「内容」のあるものと、値しないものとの振り分けは、解釈以前に、解釈の対象となりえなかったものを含んだ構造の中でなされている。

1966年発表の評論集『反解釈』 (ちくま学芸文庫、1996年) には、彼女なりの『反解釈』の試み、たとえば『様式 (スタイル) について』が収められているが、そのうちのひとつ、『《キャンプ》についてのノート』の書き出しの部分を少し引用しよう。

「この世には名づけられていないものがたくさんある。そしてまた、名づけられてはいても説明されたことのないものがたくさんある。そのひとつの例が、その道の人々の間では《キャンプ》という名で通用している感覚である。」 (『《キャンプ》についてのノート』、431ページ)

 いいかえれば、ソンタグがこの文章を発表した時点で、《キャンプ》は解釈の対象となっていなかった。ちなみに《キャンプ》というのは、ランダムハウス英和辞典によれば「わざとらしさ[気取り、陳腐さ]を楽しむこと、げて物趣味;けばけばしさ、俗っぽさ、古臭さを意識的に生かした芸術表現」だそうで、いわゆる都会の比較的高所得層のある種のゲイ趣味にかなり近いと思う。2010年代の読者としては、ソンタグが直接に経験していたであろう、1950年代のパリや1960年代のニューヨークのゲイ・カルチャーをぼんやりと想像してみる。そして、その文化を創り上げている当事者でも、全くの外部でもない立場で、この文章は書かれている。

「 (前略) キャンプについて語ることは、それを裏切ることになる。 (中略) 私自身は自己啓発という目標と、自らの感覚のなかにある鋭い葛藤のもたらす刺戟とを、裏切りの理由としたい。私はキャンプに強く惹かれ、またそれに劣らぬほど強く反撥を感じている。だからこそ、私はそれについて語りたいと思うのであり、また語ることができるのだ。なぜならば、ある感覚に心からとけこんでいるようなひとには、それを分析することなどできないからだ。そういう人には、意図はどうであれ、その感覚を見せびらかすことしかできない。ある感覚に名をつけ、その輪郭を描いたり歴史を辿ったりするには、反撥によって制約された深い共感が必要なのである。」 (同、432ページ)

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ジャニス・チェリー
日本生まれ、超個人主義な文化育ち、2003年より神奈川県川崎市在住。呼吸するようにフェミニズムとレズビアン・アートについて思考したい。時々フェミニズムやクイア・スタディーズの勉強会などやっています。http://selfishprotein.net/cherryj/indexj.shtml


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