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残念遺伝子と自転車泥棒

約20年前。20代の頃、品川区の中延に住んでいた。

当時の中延には見どころがほとんどなく、店も最低限しかない場所だった。特に便利でも不便でもない。ただ、都内の盛り場へのアクセスは良くて、終電を乗り過ごしても、1万円かからないで帰宅できる、そんなところだった。

週末、外で食事をしようとしても、近くに良さそうな店がなかったので、よく徒歩で大井町まで足を運び、贔屓のトンカツ屋で昼酒を楽しんだり、古い喫茶店で一日中レコードを聞いたりしていた。

自宅から大井町までは40分ほどかかったが、良い散歩になった。大井町は何でも揃う良い街だった。今ではさらに便利になったと聞く。トリガー鍼灸院もある。

その頃は、生活費の大半を本とインターネットの回線費に使っていたので、自転車などは持っていなかった。でも、大井町に行くなら自転車が便利だろうなと思い、思い切って自転車を購入したことがある。

しかし、自転車の有る生活が自分になじんでいないのか、何か記憶等の機能に問題があるのか、自転車で出かけたのに徒歩で帰ることがよくあった。

ある日も、自転車でTSUTAYAに出かけたのに、徒歩で帰ってしまった。すぐにTSUTAYAに戻ったら、自転車は盗まれていた。それ以来、自転車は買っていない。


今は、東京都の府中市という、郊外にあるお祭り好きが集まるご陽気な街に住んでいる。娘が二人いて、上の子は塾に通うようになった。

その長女が、塾に自転車で行き、徒歩で帰ってくる。血は争えない。申し訳ない。

塾が入っているビルの、有料の駐輪場に駐めているので、盗難などはないのだけど、自転車を置きっぱなしにしたことを二日後とかに思い出すので、駐輪場の料金が毎回心配となる。

いまのところは、最大でも500円位で済んでいるが、そのうち二週間くらい放置してとんでもないことになるのではと危惧している。

昨晩も自転車を忘れていた事が発覚した。

長女が塾に行ったのは水曜日、忘れた事に気がついたのは金曜日。長女は発熱により学校も塾も休んでおり、自分では自転車を取りに行くことが出来ない。結局、私がメルカリで売れた品の出荷ついでに取りに行くことになった。

塾の入るビルの二階には、ほとんど客の入らなくなったTSUTAYAがひっそりと営業している。そこに自転車を取りに行くと、あの日、中延で自転車を盗まれたことが思い出された。

私は貧乏な家に生まれた事もあり、自転車をカジュアルに盗む人は本当に嫌いだ。これくらいの金額のものが家計を守る人の心にドシンと響くのがよくわかるから。

さて、娘の自転車だが、今回の自転車忘れは二日経過していたので、駐輪代が気になったが、取りに行くと請求は500円だった。良心的だ。

最初は回収した自転車を押して帰っていたのだけど、長女は早生まれの上にちびっ子なので、自転車のサイズもとびきり小さく、私が押していると前屈みになってしまい腰が辛い。

かといって、自転車に乗って帰ろうとすると、サイズ感が可笑しくて、熊の曲芸みたいになってしまう。漕ぎにくいし、不格好で滑稽。

でも、腰はやはり守りたかったので、サドルを目一杯上げて、それを漕いで帰る事にした。不格好にも、滑稽にも目をつむる。

サドルと違ってハンドルの高さは工具無しでは変えられないので、尻だけ妙につきあげた格好になった。極端なロードレーサーみたいな格好になってしまう。

おじさんが小さい自転車にまたがり、背を丸め、尻を突き上げ、首から上は真っ直ぐ前を向け、小刻みにペダルを漕いで街を走り抜ける。

すると、前方にパトロール中の警察官が見えた。私が彼らに気がついた時には、既に私のことを凝視していた。

私が警察官の立場だったら、前方から小さな自転車を悠々と漕いでくるオッサンが居たら、絶対に職務質問をするだろう。

これは引き留められるのだろうなと覚悟を決めていたとき、頻繁に職務質問を受ける友人から聞かされていた「警官をみかけたら目をそらすな! 好奇心旺盛な気持ちを出しながらずっと見つめ続けろ! そうすれば絶対に職務質問をされない」という助言を思い出した。

職務質問を頻繁に受けている人間が言っている時点で信憑性は低いが、ダメ元でためしてみようと、自転車にまたがった若い警察官の目をずっと見つめ続けてみたら、なんと警察官二名は、会釈してそのまますれ違って行ってしまった。

警察官の目は、うっかり親子の顛末に巻き込まれるほど節穴では無いのだ。人生初の職務質問の機会は逃すこととなった。

だがしかし、警察官は見逃してくれても、不幸の神は見逃さない。警察官をやり過ごし、ホッとした私のことを、娘の友人のお母さんが見ていたのだ。いつも誕生日ケーキを買うケーキ屋の前で見ていた、かなり良い笑顔でこちらを見ていた。笑顔のアフロ田中みたいな顔でこちらを見ていた。

私は何も無いような顔で会釈をし、そのまま前を通り過ぎたのだが、なかなか辛い。

帰宅し、親としては躾のためにも長女から500円を請求しようかなどと考えていたが、帰宅した私に長女が「おとうさんありがとー」と素敵な笑顔を向けてきたので請求はやめにし、一緒にゼリーを食べ、順番にスイカゲームをした。

自転車と腰、娘からの尊敬は守られ、世間での評判を少し落とした一日となった。

「それって有意義だねぇ」と言われるような事につかいます。