大磯文房具は、大手通販会社にガムテープを卸している。そして菊池花は、その製造部門のトップだ。家庭に売るガムテープと配達の為の梱包に工場で使われるガムテープが違う事を知らなかった程度には、ガムテープに熟達していなかった彼だが、5年たった今では、一通りの事は答えられるようになっていた。

　彼は旅行に出た。出張ではない。旅行だ。殿付市に向かった。そこはあまり有名な場所ではない。観光地はないに等しい。それでも彼がそこに向かったのは、１つには彼が日本の観光地はあらかた旅行し尽くしてしまっていたからである。もう１つは、大磯文房具に膠を下ろしている会社がそこにあるからである。その会社は殿場産業と言い、膠の日本シェア１位で、大磯文房具はその会社なしには膠を作れない。別に殿場産業の本社を訪ねる訳でもないし、本社を眺めたって意味はないのだが、一度見てみようと、何となく思ったのだった。

　本社は確かに存在した。６階建てでガラス張りだった。緑と赤のロゴタイプが、左上に掲げられていた。付近で一番高い建物だった。正面玄関は自動ドアだった。

　ふーん、と彼は思った。本当に何の意味もなかった。本社から人が出て来たが、声を掛けるなんて真似はしなかった。彼も、その人も。彼は、もしかしたら向こうから声を掛けてくれるかな、なんて馬鹿な想像をした自分を恥じた。向こうはこちらを知らないのだ。声を掛ける筈がない。

　こんなもんか。彼は思った。

　　　可