わからなさを嗅ぎ分ける

古流の動きを見ていると、「どうやって身体を動かしているのかわからない」と思う。

準備動作なしに手が伸びてくる。抑えているはずなのに、持ち上げられる。全力で抵抗しているのに、たやすく投げられる。重い刀なのに、自在に変化する。

実際に技をかけられているときはもちろん、横で見ているときでさえ、「どうやってるか、わかんない」と思う。

古流の動きができているか否かは、この種の「わからなさ」の有無で判別できる。

わからないとは、動きを予測できないことである。ぼくらは普段、他人を見ながら、「次はこうなるな」という予測をする。たとえば、人混みを進んでいくとき、目の前の人が右にいくか左にいくか、予測している。無意識に予測して、無意識に避ける。それが自然だ。

でも、右に行くはずの人が急に左に寄ってきたり、あるいは止まっている人が急に動きだしたら、「えっ」と声を出す間もなく、自分は急停止する。びっくりして、何もできなくなってしまう。

古流の動きは、そのような予測不可能性をともなう。普段の感覚の延長上にないから、わからない。

このわからなさは、普通の身体動作をしないことで生まれる。普通の重心移動、筋肉の運用、骨のずらしかた、イメージのしかた……さまざまなものをずらして、身体を動かす。そうすると、外側から見ると普通の動きなのに、内部的には普通じゃない動きかたになる。

たとえば「右手を上げる」という動作を例にとろう。

普通なら、肩からひじをうねらせて、最終的に右手を上げる。でも古流では、さまざまな右手の上げかたが存在する。①右手をそのままにしながら、胴体部分を下げる。相対的に右手が上がる。②丹田を浮かせるとき、ふっと上向きの流れが生じる。その流れにそって、右手を上げる。③右ひじを内旋させる。④もっと単純に、内側の筋肉を使って右手を上げる……

――そんなのアリかよ

と思うかもしれない。しかし重箱の隅はつついてない。これらを複合させながら、外側からは普通の動きに見えるように偽装して、身体を動かしている(普通の動きに見えなければ、特別の動きをする意味がない!)。

わからなさとは、直観的なものである。「ふつうに見えるけど、何か違う……」。隠された秘密を、嗅ぎ分ける必要がある。

武術の流派は「わからない」ことで命脈を保ってきた。現代でも、「わからない」動きを体現する人がいる。

わかるためには、自分でできるようにならないといけない。

サポート金額よりも、サポートメッセージがありがたいんだと気づきました。 読んでいただいて、ありがとうございました。