甲野さんの稽古会

「合気道をやってるんだ」と言うと、友だちは「へぇ、ちょっとやってみせてよ」と言いながら、片手を突きだしたり胸をつかんできたりする。

どんな技を見せてくれるのかと期待して、顔がキラキラしている。

ぼくは苦笑いをしながら、両手でゆっくりと、技がかかった状態にまで関節を誘導する。「ほらね、ここで力を込めると……」相手は痛テテ、という表情をする。「こんなふうにやるんだ」

これ、ぜんぶ茶番だ。

技を見せてよって言ってくる相手にさえ、その場で技をかけられない。力を入れて抵抗する人だったら、「あんまり力を入れると、かからないんだよ」って言いながら、力を抜いてくれと頼む。そうしてようやく技がかかる。相手は不満そうな顔をする。

「力を込めても、崩されるのが合気道じゃないの?」

素朴な疑問だ。そして、正しい。

その日からぼくは、「合気道をやってる」とは言わなくなった。実際に見せられない合気道なんて、意味がなかった。

乱取りの最中に、身体を丸めて頑なに抵抗する人がいた。まったく技がかからなかった。何をやっても、ビクともしない。

そのときは練習中だったから、先生が「そんなに強く固まっちゃ、いけないよ。稽古なんだから」と言った。相手が力を抜いた。ようやく技がかかるようになった。

……相手がどんなに力を入れてても、崩せるのが合気道じゃないのか。

先生の声を聞きながら、くちびるを噛んだ。相手が受けてくれるなら、技がかかるのは当たり前だ。

こんな合気はしたくない……実戦で使えないじゃないか。友だち相手でさえ、魔法のように技がかかるわけでもない。ぼくは何をやってたんだ。

根本的な疑問にさいなまれて、合気道から身を引いた。このまま続けても、植芝盛平や塩田剛三のような合気ができるとは、思えなかった。

ところが、である。

甲野善紀さんの講習会で衝撃を受けた。

稽古会をセッティングした人と手を合わせたときだった。

どれだけ力を入れても崩されるのである。「やらせだろ」と思っていた技でさえ、かかってしまう。相手はしゃべりながら技をかけてくる。力を込めていない。なのに、おかしいようにコロコロ転がされる。

笑えてきた。こんなことをできる人がいたんだ。あの映像は、ほんとうだったんだ。合気道に絶望しなくていいんだ。友だちに「やってみせてよ」と言われても、逃げる必要なんてないんだ。

「あの、合気道やっててはじめて、小手返しがかかったんですけど……」

思わず口から出た。めっちゃ笑顔だった。

そこから何度も、小手返しをやらせてくれた。「ここに力が入ってる」「相手はすぐわかるから、対抗できる」「技をかけようとしたら、かからないよ」。ほとんどは、かからなかった。

たった一回だけかかった。「ほらね、力を入れないんだよ」

嬉しいというよりも、?が頭中を埋め尽くした。なんで技がかかったのか、わからない。理屈がわからない。こんなふうに技をかけるのは、はじめての体験だった。理解できない。

――理解できないうちに、技にかけられた。

――理解できないけど、技がかかってしまった。

このふたつが決定的だった。ぼくの知らない身体操法があると、はっきり悟った。ヤラセじゃなくて、ほんとうにできる。それをはっきり体験した。

甲野さんにもイロイロ技をかけてもらった。おもしろいように技がかかる。理解のできない動きだった。

――あんなふうに動きたい!

身体の内部から熱が噴きだしてきた。

帰りぎわに「来月、大阪で稽古あるから、よかったら」と声をかえてもらった。さっきの衝撃を理解しようとして、脳みその容量が使われていた。はっきりとした返答をできなかった。

だから、いま宣言する。

「行きます!」

サポート金額よりも、サポートメッセージがありがたいんだと気づきました。 読んでいただいて、ありがとうございました。