甲野さんの稽古会
「合気道をやってるんだ」と言うと、友だちは「へぇ、ちょっとやってみせてよ」と言いながら、片手を突きだしたり胸をつかんできたりする。
どんな技を見せてくれるのかと期待して、顔がキラキラしている。
ぼくは苦笑いをしながら、両手でゆっくりと、技がかかった状態にまで関節を誘導する。「ほらね、ここで力を込めると……」相手は痛テテ、という表情をする。「こんなふうにやるんだ」
これ、ぜんぶ茶番だ。
技を見せてよって言ってくる相手にさえ、その場で技をかけられない。力を入れて抵抗する人だったら、「あんまり力を入れると、かからないんだよ」って言いながら、力を抜いてくれと頼む。そうしてようやく技がかかる。相手は不満そうな顔をする。
「力を込めても、崩されるのが合気道じゃないの?」
素朴な疑問だ。そして、正しい。
その日からぼくは、「合気道をやってる」とは言わなくなった。実際に見せられない合気道なんて、意味がなかった。
※
乱取りの最中に、身体を丸めて頑なに抵抗する人がいた。まったく技がかからなかった。何をやっても、ビクともしない。
そのときは練習中だったから、先生が「そんなに強く固まっちゃ、いけないよ。稽古なんだから」と言った。相手が力を抜いた。ようやく技がかかるようになった。
……相手がどんなに力を入れてても、崩せるのが合気道じゃないのか。
先生の声を聞きながら、くちびるを噛んだ。相手が受けてくれるなら、技がかかるのは当たり前だ。
こんな合気はしたくない……実戦で使えないじゃないか。友だち相手でさえ、魔法のように技がかかるわけでもない。ぼくは何をやってたんだ。
根本的な疑問にさいなまれて、合気道から身を引いた。このまま続けても、植芝盛平や塩田剛三のような合気ができるとは、思えなかった。
※
ところが、である。
甲野善紀さんの講習会で衝撃を受けた。
稽古会をセッティングした人と手を合わせたときだった。
どれだけ力を入れても崩されるのである。「やらせだろ」と思っていた技でさえ、かかってしまう。相手はしゃべりながら技をかけてくる。力を込めていない。なのに、おかしいようにコロコロ転がされる。
笑えてきた。こんなことをできる人がいたんだ。あの映像は、ほんとうだったんだ。合気道に絶望しなくていいんだ。友だちに「やってみせてよ」と言われても、逃げる必要なんてないんだ。
「あの、合気道やっててはじめて、小手返しがかかったんですけど……」
思わず口から出た。めっちゃ笑顔だった。
そこから何度も、小手返しをやらせてくれた。「ここに力が入ってる」「相手はすぐわかるから、対抗できる」「技をかけようとしたら、かからないよ」。ほとんどは、かからなかった。
たった一回だけかかった。「ほらね、力を入れないんだよ」
嬉しいというよりも、?が頭中を埋め尽くした。なんで技がかかったのか、わからない。理屈がわからない。こんなふうに技をかけるのは、はじめての体験だった。理解できない。
※
――理解できないうちに、技にかけられた。
――理解できないけど、技がかかってしまった。
このふたつが決定的だった。ぼくの知らない身体操法があると、はっきり悟った。ヤラセじゃなくて、ほんとうにできる。それをはっきり体験した。
甲野さんにもイロイロ技をかけてもらった。おもしろいように技がかかる。理解のできない動きだった。
――あんなふうに動きたい!
身体の内部から熱が噴きだしてきた。
帰りぎわに「来月、大阪で稽古あるから、よかったら」と声をかえてもらった。さっきの衝撃を理解しようとして、脳みその容量が使われていた。はっきりとした返答をできなかった。
だから、いま宣言する。
「行きます!」
サポート金額よりも、サポートメッセージがありがたいんだと気づきました。 読んでいただいて、ありがとうございました。