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あの瞬間、ほんの少し寄り添い合えたような気がした「永遠の平行線」

思えば兄と私の人生はずっと、決して交わることのない「永遠の平行線」のような関係だったのかもしれない。それぞれがそれぞれの生き方をまっすぐに歩み、互いにうまく寄り添い合うことは残念ながらできなかった。

たった二人だけの兄妹だったという重みを、今はこんなにも素直にかみしめることができるのに…。


兄と私の「運星」

兄は三月生まれ。私は四月生まれ。同じ学年なら一番下と一番上。学年の差こそ四つだけれど、年齢的には実質三つ違い。世間一般でよく言われる「四月生まれ有利・三月生まれ不利説」を自分自身が子供の頃にさほど実感していたとは思わない。けれどその生まれ月の差こそ、実は私たち兄妹の根っこにあった逃れられない「運星」だと感じることはあった気がする。

今となってはその「三月生まれ」も多分に影響していたと思うけれど、兄は幼い頃は体も小さく勉強もスポーツもあまり得意な方ではなかった。運動会の徒競走では毎年最下位。テスト結果のことなどで、小学校の担任の先生に母が呼び出されることもたびたびあった。当の本人はだからと言って落ち込む風でもなく、いつもニコニコ飄々としていた。もしかしたらそれは、兄なりの″処世術″だったのかもしれないけれど。

例えば、兄は水泳もなかなか泳げるようにならなかった。小学校のプールで友だちのSくんと二人補講させられている姿を、まだ幼かった私が母と一緒に見守っていたことを今でもはっきりと覚えている。

子供の頃から負けず嫌いの性格を何事に対してもいかんなく発揮していた私は、「絶対お兄ちゃんみたいにはならない!」幼心にそんな想いを強く刻みつけていた。いわゆる″下の子″は兄や姉を観察して「反面教師」にするとよく言われるけれど、まさに私はその典型例だったように思う。

そんな兄に対して私は、今思えばそれこそ「四月生まれ」のありがたい恩恵を知らず知らずのうちに受けていたのかもしれない。体格も同じ学年の子と比較すると大きく、幼稚園の頃からかけっこも得意。小学校ではリレーの選手にも選ばれた。自分で言うのもおこがましいけれど、正直勉強もよくできた。私の「完璧主義者気質」はこの当時から既に形成されつつあったのだろう。

周囲の人からすればあまりにも対照的な「どこか不器用な兄」と「それなりに器用な妹」。そんな全くかわいげのない妹を兄が素直にウェルカムするわけもなく、当然のことながら兄にとって私は”目の上のたんこぶ”のような存在だったに違いない。私が逆の立場だったとすれば、もちろんそんな妹は願い下げだ。もっと兄をきちんと持ち上げてくれて、素直で心優しい妹がいいに決まっている。

ささいなことがきっかけの口ゲンカは日常茶飯事。さすがに男と女の兄妹だったので取っ組み合いのケンカこそしたことはなかったものの、昔から仲の良い兄妹とはおよそほど遠い二人だった。

兄へのジェラシー

でもそんな生意気な妹として振る舞う一方で、本音を言えば私は兄を子供の頃からずっとうらやましく感じていた。自分にないものをたくさん持っている兄と自分を比較しては、ジェラシーの火花をいつも心の奥底でバチバチと燃やしていた。

私はビジュアルがいい方とは言えない顔だ。対して兄は昔から顔だちもかわいらしく人懐っこい性格で、とにかく万人からいつもかわいがられていた。こと祖父・祖母にとっては目に入れても痛くないほど愛しい初孫で、二人目の孫の私はそのことでいつも引け目を感じていた。明らかに兄と私とでは待遇に差があって、二人目の孫は常に″オマケ″扱い。私のプライドはいつもズタズタに傷つけられていた。私がこんな気持ちでいたことを、当時は兄も両親も微塵も気づいていなかったと思う。どうりで私はポーカーフェイスが得意になったわけだ。

兄は子供の頃から動物が大好きだった。我が家では知人から譲り受けたウサギを数羽飼っていたことがあった。兄は近所の八百屋さんに行ってはウサギのエサになるキャベツの葉っぱをもらってきて、かいがいしく世話をしていた。動物はもちろん、誰に対しても平等に心優しかった兄は友人の数も多かった。周囲の人間誰からも好かれていたと思う。間違いなく今で言うところの”愛されキャラ”だった。

そんな兄に妹の私が対抗するには、何でもそつなくこなす”優等生キャラ”を演じ続けるしかなかった。「しっかり者の〇〇ちゃん」というイメージこそ、どこか屈折していた子供の頃の私を支えていてくれたように思う。

互いに足りない部分を補い合えるような関係性が築けていたなら、もう少し違った距離感でいられたのかもしれない。けれど子供時代を経て大人になってからも、兄と私の微妙なバランスは残念ながら変わることはなかった。

ただ、唯一兄と私が共通して好きだったのが音楽だった。私が後に音楽という道に進みたいと思うようになったのは間違いなく兄の影響で、その点は心から兄に感謝している。特にニューミュージック好きで「松山千春、中島みゆき、さだまさし、アリス」などなど。兄のレコード・コレクションを聴くことによって触れた音楽たちが私のルーツであり、音楽性の根幹を形作ってくれたものだった。

詳しいいきさつはまるで覚えていないけれど、私が弾くピアノに合わせて兄が千春を歌ったりして楽しい時間を過ごしたこともあったなぁ…。これは紛れもなく数少ない兄と私の″仲良しエピソード″の一つだ。

そんな兄が亡くなったのは、二○○二年二月末日のことだった。

突然の兄の入院

兄は子供の頃からアトピー性皮膚炎を患っていた。大人になってからも治ることはなく、ストレス等で酷くなることが多かった。たまに実家に帰って来た時も、真っ赤な顔をしてしょっちゅうどこかを掻いている姿をよく目にしていた。

ある日、兄が救急車で運ばれて入院したとの一報を受けた。アトピーが急激に悪化し、ヘルペスとの合併症から「カポジ水痘様発疹症」という病気に罹ってしまったとのことだった。兄嫁によれば、脳や心臓といったすぐ死に直結するような疾患ではなく皮膚病ということで、急を要する患者と見なされなかったらしい。そのせいで兄嫁いわく、非常に軽く扱われたそうだ。加えて夜中の救急では皮膚の専門医がいない病院も多く、いくつかの病院にたらい回しされたようだった。その結果、お見舞いの家族が誰も来ないようなお年寄り専門病院に入院することになってしまった。

「たられば」の世界ではあるけれど、今でももし最初から大学病院に運ばれていたら兄は命を落とすことはなかったのではないか?という疑念は拭いきれない。

私がお見舞いに駆けつけた時には、包帯で頭も顔も全身ぐるぐる巻きにされた兄がベッドに横たわっていた。誰かも判別すらできない変わり果てた姿の兄との対面は、あまりにもショックでその瞬間言葉も出なかった。まるでミイラのような兄を私はただ呆然と見つめていた。

その病院に皮膚の専門医がいるわけでもなく、ただ放置されたままでは当然容体が好転するはずもなかった。何も処置してもらえない状況をどうにか打破すべく、どこかの大学病院へ転院できないか両親は院長に掛け合った。いつもは穏やかで物静かな父の感情の昂りを感じていた。

その時の院長とのやり取りを私は生涯忘れることはないだろう。

私は院長室の外で一人待っていた。唐突に「どこも引き取り手がなかったから、お前たちの息子をうちの病院が引き受けてやったんだ!」という院長の怒号が聴こえてきた。この言葉を両親がいったいどんな想いで受け止めたのかと思うと、自然と涙が溢れてきた。「これが医者の言葉だろうか?」怒りと悲しみと憎しみが綯交ぜになり、握ったこぶしは震えていた。本気で院長を殴りつけてやりたい衝動に駆られていた。

様子を見かねた院長の娘さんが色々な病院に働きかけてくれて、偶然兄の出身大学であるK大学病院に何とか転院できることになった。兄と出身大学との不思議なご縁をありがたく感じながら、院長の娘さんに心の底から感謝した。

K大学病院に搬送された時、それだけで私たち家族は安堵していた。最初に兄を診ていただいた医師からの「かなり厳しい状況だと覚悟しておいてください。」という言葉も、当初そこまで深刻に捉えてはいなかった。私たちもまさか皮膚病で亡くなることがあるとは、その時明確にイメージできていなかったのだと思う。

相変わらずミイラのような包帯姿ではあったけれど、転院してからしばらくの間は得意のダジャレを言う余裕もあり、このまま快方に向かうと私たちは信じきっていた。兄の担当医は若い医師の方ではあったけれど、ハートが熱くやる気に満ち溢れていた。「私も最大限自分のやれることをしますから、一緒に頑張りましょう!」そんな励ましの言葉をかけていただき、この先生となら一緒に闘える…心からそう思えた。父と母と私、兄の回復を願いながら家族三人毎日のように病院に通い続けた。

しかしその祈りも虚しく、ある朝兄が人工呼吸器を装着することになったと病院から連絡があった。

人工呼吸器を装着すると当然会話もできなくなり、ただ兄を見守ることしかできない日々の始まりでもあった。搬送された直後の、医師の”あの苦い言葉”が蘇っては私たち家族の心を締めつけた。

「アシジのフランシスコ」

動物と自然を愛し、多くの友人たちとアウトドアで活動することが生きがいだった兄はおよそ結婚とは無縁のタイプだと思っていた。ところがそんな兄が、ひょんなタイミングで結婚することになった。これは私の勝手な想像だが、お互いにそれまで出逢ったことのない雰囲気の異性で、その差異に興味を抱いた者同士惹かれ合ったという感じだったのではないかと思う。

クリスチャンだった兄嫁の影響で、兄も近くのカトリック教会の諸行事や「聖書の勉強会」などに一緒に参加していたようだった。実際どこまで兄が聖書等に興味を持っていたのかは謎だ。ただ、兄はその教会のH神父にやけに気に入られていて、兄もまたその神父を気に入っていたようだった。だから「キリスト教」というよりは、「H神父教」の信者という感覚に近かったのではないだろうか。

兄が入院してからH神父は病床にも何度かお見舞いに来てくださった。兄とH神父との間に流れる独特の空気感は、私たちが立ち入れないまさに二人だけの世界だった。人工呼吸器を装着してから兄と意思の疎通は図れなかったので、真偽のほどはいまだに分からない。ある日兄嫁が「僕も洗礼を受けてクリスチャンになりたい。」という意思表示を兄がしていたと言い出した。最初は正直私たち家族も困惑していた。でも辛く苦しい兄の魂がそれで少しは救われるならと、兄嫁の申し出を承諾した。

二月の半ば頃、兄は全てをH神父に委ねてベッドの上で受洗し「アシジのフランシスコ」という洗礼名をいただいた。病室全体がその瞬間だけ、まるで教会のように厳かな雰囲気に包まれていた。

「アシジのフランシスコ」とは自然を愛しエコロジーの聖者と称せられる聖人で、まさに兄にふさわしい洗礼名をいただけたと思う。

後にH神父が企画されたヴァチカンーアシジールルドを訪れる「聖地巡礼」のツアーに、両親も誘っていただけたことがあった。両親以外は皆さん当然信者の方ばかり。それにも関わらず、あの「サン・フランシスコ大聖堂」でH神父が主宰する「プライベートミサ」に出席させてもらい、持参した兄の遺影を壇上に飾っていただけたそうだ。アシジという地を実際に訪れたことによって、”息子の死”という深い深い悲しみを、二人の中で少しだけ昇華させることができたのではないかと私は感じていた。

兄の最期と教会での葬儀ミサ

その後も人工呼吸器が外れることなく時は残酷に過ぎて行き、兄の容体は急速に悪化していった。兄の危篤は二度あった。

一度目の危篤状態になった時に兄の友人たちが大勢駆けつけ、兄に代わる代わる話しかけてくれた。誰からも″愛されキャラ″の兄は大人になってからも変わらずで、こんなにも兄はたくさんの人たちから愛されていたんだと改めて感じることができた。

今でも鮮明にその光景が蘇ってくる。友人たちが言葉をかけてくれていた時兄の目からツツーッと一筋の涙が流れ落ちた。意識があるのかないのかも、もはや分からなかった。けれど、友人たちの言葉が確実に兄の耳に届いているのだとその瞬間確信できた。

ーがんばれーっ!みんなお兄ちゃんの回復を待ち望んでいるんだよ!ー

友人たちの言葉が兄の最後の生命力にプラスに働いてくれたのか、奇跡的に一度目の危篤を乗りきってくれた。しかし残念ながらひと月弱の治療空しく、敗血症になり腎不全・呼吸不全が増悪し、二月末日早朝に兄は逝った。

実は私は兄の亡くなった年に結婚した。結婚を延期するかどうか迷っていた私に父が、「悲しいことだけの一年にしたくないから、お前は予定通り結婚しなさい。」と言ってくれた言葉が大きかった。

兄が入院する直前、私のバンドのライブ観戦のタイミングで兄と夫が初顔合わせする機会を設けた。にも関わらず兄が急遽来られなくなり、電話口で久しぶりの兄妹ゲンカになった。そのまま仲直りするきっかけもなく、兄と私は気まずい状態のまま「永遠の別れ」を迎えることになってしまったわけだ。このことを私は今でもずっと後悔している。兄が入院して意識がまだあるうちに、せめて謝罪の言葉を交わし合えていたらと。でも「ケンカ別れ」という結末も、ある意味私たち兄妹らしかったのではないか?とふと思ったりもする。

兄の最期までそんな兄妹だったけれど、最後の最後に兄は私に「最大級の優しさ」をくれた。

兄のお見舞いの日々で疲労が溜まっていた私は、数日間熱を出して寝込んでしまった。直近にライブが控えていて、ライブの日には何とか熱が下がり″ライブの神様″のお陰もあってステージに立つことができた。病み上がりの本調子ではなかったので、最後のバラードは声も枯れてしまっていた。でも、むしろ″魂の歌声″だったとメンバーからは絶賛してもらえた。あんなにも壮絶なステージは、これから先の人生でもう二度と経験できないだろう。

家に帰ってシャワーを浴び、これから寝ようとしたまさにその時、病院から兄の二度目の危篤の電話がかかってきた。真夜中のタクシーの中は緊迫感だけが漂っていた。私たち家族は終始無言で、ただただ早く病院に到着したいという思いで必死だった。もちろん、もう次はないという覚悟はできていた。

兄は私のステージが無事に終わるのを、家族三人駆けつけるのを待ってから静かに息を引き取った。本当に穏やかな死に顔で、闘いを終えた兄が久しぶりに安らかな気持ちでいるような、そんな気がした。

ーお兄ちゃん、ステージを無事につとめさせてくれて、私たちが到着するのを待ってくれて本当にありがとう。最期に優しさをありがとう。ー

心の中で兄にそうつぶやいた。

兄の葬儀ミサは洗礼していただいたH神父の教会で執り行われた。教会での葬儀に参列したのは人生初めての経験だった。たくさんのキレイな花たちが飾られていて、仏式のそれとは異なる華やかで洗練された雰囲気が新鮮だった。参列してくださった人の数は交友関係が広かった兄らしくかなり多くて、葬儀ミサにも関わらずどこか賑やかさも感じられた。

カトリックの流れに則った式が粛々と進行していき、最後の「喪主の挨拶」になった。喪主は父がつとめていたのだが、その父が途中で泣き崩れてしまい急遽私が代読することになった。人前に立つことには比較的慣れていたせいなのか、驚くほど冷静な自分がそこにいた。父の原稿を読み終えた後、締めの言葉だけは自分自身の言葉で突然伝えてみたくなった。

「兄は闘病中皮膚が頭から足の先まで全身ボロボロだったけれど、今の顔はとてもキレイな状態です。ぜひ最後に兄の顔を見てあげてください。」自然とそういう言葉が出てきた。この言葉は、私が妹として兄にあげた最初で最後の「最高の贈り物」になったと今でも自負している。それは「永遠の平行線」の兄と私が少しだけ寄り添い合えたような、まさにそんな瞬間だったと思う。

参列の方たちが棺の中に一つ一つ入れてくださった花に囲まれた兄は、どこか幸せそうに見えた。こんなにもたくさんの人たちに見送られて、兄は幸せ者だとつくづく感じた。

兄の死後の出来事

兄の遺品整理をしていた時、兄がどれだけ″愛されキャラ″だったのかが分かる出来事があった。兄のパソコンに届いていた一通のメール。兄宛のメールを読むことに少しためらいはあったけれど、確認しなければ内容が分からなかったので思い切って読んでみることにした。そして、私たち家族はまた涙することになった。

「〇〇くん
君が死んでしまったことはもちろん分かっているけれど、それを認めたくない自分がいるのでこうして君にメールを書いてみています。
もう届かないことは分かっているのに。
本当に君は死んでしまったんだよね?
君は優しい人で、僕は何度も君に救われたことがあったんだ。ありがとう。
だから君がいなくなってしまったことが本当に悔しい。
もう君に会えないと思うと悲しい。
これから先も時々君に届かないメールを書き続けてしまいそうです。」

メールはこんな内容だった。私たちが兄の代わりにレスをするわけにもいかず、結局そのままにするしかなかった。けれど、兄が死んでもなおこうして誰かに必要とされていて、愛されているのかを知ることができて心の底から嬉しかった。

                ***

兄が亡くなってから二十年以上の月日が流れた。もしも兄が生きていたら…とたまに考えることもある。きっと顔を合わせれば相変わらず口ゲンカを繰り広げていて、「永遠の平行線」は何も変わらないままかもしれない。でもそれも含めて私たち二人の″兄妹らしさ″だったのだと、今では素直に思える気がする。


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