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学問とは…?(昔の記事です)

(すみません。以前に公開した記事を触ったことで、どうも、公開の日付を変えてしまったようです。実際には、1年以上前に書かれた記事です)。

本当に非常に情けない思いでいっぱいです。この私の名前で検索してこのnoteに来られた方や、よい風に興味を持ってくださった方などに、このような記事ばかりを読んでもらうことに、忸怩たる思い。

しかしもはやTwitterのようなSNSが、学問的な内容を話し合う場所ではないのは仕方ないにしても、あんまりな場所になっているので、そこで反論したくなければ、noteに書くしかなくなってしまっているのです(あとは、事実を確定しておいたほうがいいとも思っています)。

『社会学評論』の「ジェンダー研究の挑戦」特集号に私の論文が掲載されてから、小宮友根さんが(私から見たら理不尽な)批判を繰り返され、反論を書きました(『社会学評論』の「ジェンダー研究の挑戦」に掲載されました。小宮友根さんの『社会学評論』掲載論文の「批判」にこたえて。

そうしたなかで、ゲンヤこと福永玄弥さんが、小宮さんに同調されています。その一部分が、以下のツイートです。

言説の責任(清水晶子さんと福永玄弥さんにこたえて)でも書いたように、ここまでの3つのツイートは明らかに私のことを指しているように思えます。それ以外に読めません。ところがこれに続くツイート↓

この最後の部分だけは私のことではないらしいのです。それが分かってないと、私は叱られています。ゲンヤさんこと福永玄弥さん自身がリツイートをされているツイート

だそう。いや、非常に申し訳なかった。福永さんのツイートにいいねをした319人の方、リツイートをされた139名の方、これは「私に対する批判」ではないそうです。誰に対する批判かわかってて、皆さん同意や拡散されましたか?(そもそも、そのまえの3つのツイートは、私に対する批判以外の何物でもないと思いますけれども)。


お名前が出ていましたが、面識のない方ですし、ここで出すのは躊躇われてしまい、スクショを貼ることにしました。小宮さんにはそのあと、「いろいろもうちょっと落ち着いて読まれたほうがよいと思います。」と言われましたが、リツイートした人をやり玉にあげたかったのかどうかを理解できないことが問題なんでしょうか? そもそもそのルールを共有できていない。このひとがこんなリツイートをしましたよと、知らせることに何の意味がありますか?

「論文に論文で反論されるのも、反論に反論が来るのも当たり前。嫌なら研究やめたほうがいい」というのは、アカデミアの基本的なルールの確認でしょう? これに少しでも反論される学者はいますか? そしてこのような考え方をする匿名のアカウントに対して「研究者向いてないよ」といったことが、マイノリティ排除の問題でしょうか(しかも本人は、たんに「アライ」だと名乗っている)。明らかに問題は、発言の内容ではなさそうですよね。

「特定の人物を対象としない書き方」とおっしゃいますが、私の学会でのポジションに言及しながら名前を出しているのに、なぜそのようなまどろっこしい配慮をなさるのですか?

分かるひとにわかればいいように、「他のひとに特定されない方法」を使い、さらにいえば、事情が分からないひと(私を含む)には、私の批判に見えるように投稿するって、いったい何を達成したいと思っているのでしょうか?

つまりこれは発言の内容に対して賛同するか否かの問題ではなく、私への攻撃を批判するために出てきた反論を、賛同ととられかねないリツイートをするとどうなるかわかってるねって、わかるひとにはわかる方法でけん制している、っていう話なんでしょうか? そうとしか読めないんですけれども(まぁリツイートが、そもそも賛同とは限りませんけど)。

私は今、本当は非常に怒っています。かなり抑えて書いているつもりなんですが、Twitterで学者の誰が賛同した/していないってそんな話を四六時中SNSでやることが、いったい何を生み出すんでしょうか?私たちはそんな「政治」のために学問をしているんですか?そういう文脈で、私に言及するのも今後控えて欲しいです。

↑私のことではなく、もしもゲンヤさんや小宮さんと同じ方について「言えてしまう」と書かれているのであったら、リツイートは「言ったも同様」の非難を受けなければならないということなのでしょうか…。人文系の学問に対する世の中の人々の失望について、私たちは真剣に受け止めるべきかと思います。




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