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歩いて帰る

このエッセイを書こう書こうと思って、数日経ってしまった…
内容は何となく決まっていたから、時間がある時にできるかなと思っていたら、仕事が捗ったので推し進めたり、急なやり取りでバタバタしたり、変な態勢で知らぬ間に寝ていたり、気が付いたら時間が過ぎてしまった…

やはり余裕をかましてはいけませんな。
先週の金曜日から思い出さなければ…

最寄りの駅を出ると綺麗な三日月が北西の空に上がっていた。
少し霞んで見える。
ー あれ?老眼?(あまり老眼の定義がわかっていませんので)
予備軍に入ってしまったかと思ったけど、真下のマンションを見たら輪郭がくっきりしていた。

薄い雲なのか、黄砂なのか、上空に何か漂っていて、それが三日月を霞ませていた。
二重三重にブレているようでもあり、月の尖った部分や湾曲した頂点からフレアが出ているようにも見える。
珍しいものが見れた感じがして良かったなと少し浮かれたけど、辛い時期を過ごしている人には申し訳ない思いになり、歪に見える月を見ながら歩いて帰った。

カメラマンをしていると、自分はどうしても目を気にしてしまう。
単純に視力のことである。
元から視力は良くて、裸眼で2.0くらいあった。
今は低下して1.5くらいになってるかもしれないけど、視力検査をして数値が下がっているの目の当たりにするとショックなので計っていない。
いずれ眼鏡はするのかもしれないけど(コンタクトは恐怖感があるので…)、なるべ粘りたい。

目について書いていて思い出したのでついでに…

昔は写真はどうしたら人間の目で見るような画像を撮る事ができるのかという疑問を考えた事があった。
認識できる角度16mmくらいあり(もっとかな?)、歪みがない事を考えると135mmくらいありそうで、ピントが合うポイントは面ではなく点になる(もはやレタッチ)それぞれをバラバラに表現する事はできても、合わせての表現は無理だなと思った。

普段の生活で何気なく様々なものを認識しているけど、カメラ、写真というものを通してみると、改めて人間の目は凄いなと感心した。

じゃあカメラ、写真はダメなのかというとそれも違う。
目のように完全ではなく、それぞれの要素を分離する事で肉眼とは違った表現が可能になる。
それによって見えるイメージは普段の肉眼とは違った視点を見せてくれ、新鮮に感じるのだと思う。

カメラ、写真は目ほど完全ではないからこそ、人に違う視点を見せてくれて、その先の事を想像させてくれるのかもしれない。

今日も夜空は薄曇りである。
あの月はどうなっているのだろうか?
スマホで調べると味気ない気がしたから検索はやめた。

駅を出ると薄曇りの中、月が半月から少し膨れた形になっていた。
時刻はもうすぐ0時になる。
バスも終わっていたので、何も考えずに月を見ながら歩いて帰った。

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