ヤコブ書5-7章:オリーブの木の譬え―わたしと家族の救い主〔質問を尋ねる②〕
前回の記事では、モルモン書の中でヤコブが「オリーブの木の譬え」をなぜ引用しているのか彼の意図を学ぶことから始めました。前回の記事を読んでいない人は、こちらからお読みください。
このような前提に立ち、思いに浮かんできた今回の学習の取り掛かりとなる質問に入る前に、もうひとつこの「オリーブの木の譬え」の背景情報を整理しておきたいと思います。それは、もともとこの譬えを霊感されて語った本人である預言者ゼノスについてです。
ゼノスという預言者については、旧約の時代にイスラエルの民の間で活躍した預言者の一人であると考えられますが、旧約聖書には登場しません。彼の預言はモルモン書の預言者たちニーファイやヤコブ、アルマ、アミュレク、ヒラマンの息子ニーファイ、レーマン人サムエル、モルモンによって引用されたり言及されたりしています(聖句ガイド「ゼノス」の項を参照)。
モルモン書の最初の主要な著者であるニーファイやその弟ヤコブがゼノスの預言を自身の記録に記していることを考えるなら、彼らがエルサレムから荒れ野へ携え出した、聖文が刻まれていた真鍮版にゼノスの預言も含まれていたと考えられます(1ニーファイ5:10-13参照)。
モルモン書に引用されているゼノスの預言の多くは、将来来られるイエス・キリストとその贖罪の業、聖約のメシヤであるイエス・キリストとその贖罪のゆえに散らされた聖約の民が再び集められることに関連したものです。
ゼノスのように聖書には記録として残されていなくても救い主について証し預言した人々が確かにいました。ニーファイやヤコブは旧約の預言者イザヤの言葉を引用していますが、ヤコブがそれだけではなく「いちばん貴いと思うわずかな」「神聖な説教や重要な啓示、あるいは預言」(ヤコブ1:2-4参照)を書き記してくれたおかげで、わたしたちが聖書だけでは知り得ることのできない救い主についての証と預言をモルモン書を通して学ぶことができるのです。
さて、それでは本記事の本題である「オリーブの木の譬え」に入っていきます。この譬えはヤコブの解説によるとイスラエルの家について教えるもののようです。
この譬えには次の主要な登場人物、要素が含まれています。
果樹園とその主人
果樹園で栽培されたオリーブの木
野生のオリーブの木
主人のしもべ
主人の目的はオリーブの良い実を収穫すること
そのため栽培されたオリーブの木の世話をする(枝を刈り込む、接ぎ木をする、養いを与えるなど)
それでは、これらの登場人物や要素を踏まえて譬えを整理してみましょう。
果樹園の主人の一度目の訪問(ヤコブ5:3-14)
便宜上「一度目」と書きましたが、果樹園の主人はこの時はじめて果樹園に足を運んだわけではありません。むしろ、この時以前から丹精を込めてこのオリーブの木を世話し、その木が実を結ぶのを喜び、その実を楽しんでいたと思われます。主人がこのオリーブの木と果樹園での仕事に深くかかわっていたことを「果樹園に植えて養いを与えた」「栽培された」などの3節にある言葉が表しています。
3節からさらに次のことを理解できます。
果樹園の主人:主、イスラエルの救い主、イエス・キリスト
一本の栽培されたオリーブの木:イスラエルの家(主と聖約の関係にある人々)
「一度目の訪問」での出来事をまとめてみます。
「栽培されたオリーブの木」が老いて、朽ち始めた
主人はオリーブの木が枯れないように、木を刈り込み、養いを与えた
「柔らかい若枝」が出始めたが、先の方が枯れ始めた
主人はしもべに指示して、実を収穫できるように2つのことをさせた
枯れた大枝を切り落とし、代わりに「野生のオリーブ」を接ぎ木し、養いを与える
「柔らかい若枝」をとって果樹園の低い場所に植える
主人としもべはこうすることで、このまま放っておけばただ枯れるばかりの木を守り、その木が実を結ぶことができるように取り組みました。興味深いことに、主人は栽培されたオリーブの木とその実を残すために、①木そのものを再び活性化させるための取り組み②木の新しい活発な部分を分けることで枝を独自に育てるという取り組みを同時に行っています。
果樹園の主人の2度目の訪問(ヤコブ5:15-28)
次の訪問での出来事をまとめてみます。
「野生のオリーブの木」から接ぎ木した「栽培されたオリーブの木」は順調に生長し、良い実を結んでいた
接ぎ木された枝が良い実を結んでいたのは、「根」から養分を吸い上げ十分な力を得ていたからで、その実は「栽培されたオリーブの木」と同じような実を結んでいた
「栽培されたオリーブの木」から分木され果樹園の低い場所に植えられた「柔らかい若枝」は、ほとんどの場合、良い実を結んでいた
果樹園の低い場所に植えられた「柔らかい若枝」の内のひとつは、一部分だけ栽培された木が結ぶような良い実を結び、他の部分は野生の実(質の悪い実)を結んだ
良い実を結ばなかった枝は刈り込み、引き続きそれぞれの木に養いを与えた
この二度目の訪問でもうひとつ興味深いのは、果樹園の主人が言及しているように、質の悪い実を結んだ木も他の木と同じように世話され養いを受けてきたということです。ここまで、思い通りに実を結ばないいくらかの枝はあったものの、目的の通り何とか木と実の両方が失われることなく守られました。
果樹園の主人の3度目の訪問(ヤコブ5:29-77)
3度目の出来事の要約は次の通りです。
「野生のオリーブの木」が接ぎ木された「栽培されたオリーブの木」は様々な種類の実を結ぶようになっていたが、どれ一つとして良い実はなかった
この「栽培されたオリーブの木」が良い実を結ばなくなった理由は、野生の枝が生長して根を負かしてしまったためだった。
「根」が残れば再び木を再生させる望みはあるが、そのままにしておけば木は枯れてすべてダメになってしまう
分木された「柔らかい若枝」もすべて悪い実を結ぶようになっていた
主人としもべはこれまでほとんど休みなく木の世話をしてきました。できる限りのことを行ってきたにも関わらず、すべての木が良い実を結ばなくなってしまったのです。このままでは主人にとって最悪の結果が待つのみです。しかし、たとえ良い実を結ばず価値がなくなってしまった木であっても、果樹園の主人にとっては決して価値のないものではありません。それを失うことは主人にとって悲しいことでした。何とかこの木を再生させたいと願っていました。そのための労力は惜しまない決意です。そこで果樹園の主人がとった方法は次のようなものでした。
「栽培されたオリーブの木」の悪くなった木を刈り込む
低い場所に植えた「柔らかい若枝」(もともとは「栽培されたオリーブの木」の枝だった)を、再び親木に接ぎ直す
また「栽培されたオリーブの木」の枝を、分木された木の「根」に接ぎ替える
「栽培されたオリーブの木」の枝を刈り込む際に、悪い枝を一度に取り除くのではなく、接ぎ戻された枝の生長に合わせて悪い枝を刈り込むようにする
養いを与えながらこのようなプロセスを根気強く繰り返すことで、最終的には再び果樹園の栽培された木が「ひとつ」になるようにし、すべてが良い実を結ぶようにする
この最後の取り組みは、果樹園全体に広がった元の「栽培されたオリーブの木」を一つにする働きであり、これまでで最も大掛かりで、最終的な目的の達成に直結する働きのため、多くの働き手が必要とされた
主人の呼びかけに応えて集まった「しもべたち」は主人と共に力を尽くして働いた
このような最後の、最も重要で大掛かりな取り組みは成功をおさめ、悪い実を結んでいた木も、再び一つの木となり、すべて元の質の良い実を結ぶようになりました。
この譬えの中で、良い実を結ぶよう木を世話して、その実を収穫する目的を果たす上で果樹園の主人が最初から一貫して意識しているのは「実がとれない時節に備える」ということでした(ヤコブ5:13,19-20,23,29,31,46,71,76-77など参照)。木が実を結べなくなる時期はやってくるものと定められていて、それまでのある期間に手をかけ世話をすることが収穫に決定的な影響を与えることになるのは明確でした。実を結べなくなる時期に至るまでは、たとえ木が悪い実しか結ばなかったとしても、木そのものをあきらめることはなく、果樹園の主人としもべは可能な限り手をかけ、最大限の収穫を得られるように最善を尽くしました。
さて、オリーブの木の譬えを要約してきましたが、改めて次の質問を問いかけてみます。
オリーブの木の譬えは、どのようにイエス様とイスラエルの家との関係を表しているだろう?
オリーブの木の譬えは、イスラエルの家が救い主を拒んだこと、それでもなおイエス様が彼らの救い主となられるということをどのように教えているだろう?
オリーブの木の譬えは、イエス様がどのような方法でイスラエルの家を愛し、手を伸べておられたことを表しているだろう?
オリーブの木の譬えを学ぶことは、後の世に生きている現代の人々やわたしにとってどのような意味のあることだろう?
オリーブの木の譬えを学ぶことで、イエス様とわたし自身についてどのような理解の光が照らされるだろう?
これらの質問について考えるために、もう少しこの譬えのそれぞれの要素が何を指し示しているのかを明確にしていきたいと思います。
先にも書きましたが、ヤコブは以下を明らかにしています。
果樹園の主人:主、イスラエルの救い主、イエス・キリスト
一本の栽培されたオリーブの木:イスラエルの家(主と聖約の関係にある人々)
特別に手をかけてきたこの栽培されたオリーブの木は、その骨折りと熱心な努力にもかかわらず、何度も何度も枯れそうになります。木が枯れる前には必ずこのオリーブの木は野生化し、その枝がつける実は質の悪いものになっていました。そのことから次のように解釈できそうです。
木の野生化と悪い実を結ぶこと:主と交わした聖約に反する選びや行動、罪や背教
実際に、旧約聖書を学んでいけばイスラエルは何度も何度も聖約に反して罪を犯し、神に背を向けているのを見出すことができます。それにより、自ら約束された祝福を受けられない立場に自分たちを置いています。しかし、イエス様は何度も何度も、そのしもべと共に再び救いの祝福にあずかれるようにイスラエルの家を導いてこられました。
木を刈り込み養いを与え世話をすること(良い実を結べるように手を尽くすこと):イエス様の贖罪と救いの祝福を受けられるよう、民や個人が悔い改められるように助けるあらゆる努力
野生の木(野生化した木)からの接ぎ木:主との聖約を交わしていない民や人々の改心、聖約の関係に入ること
これらのことは、枯れそうになっていた栽培されたオリーブの木を再びよみがえらせるために行われた事でした。そして、この努力は最初から最後まで一貫して行われたことでした。果樹園の主人が栽培されたオリーブの木へ向けていたこの一貫した愛情は、以前他の記事でも取り上げた「ヘセド」(聖約関係の中で注がれる神の特別な慈しみと憐れみ)を思い起こさせます。
イエス様はわたしたちを救うことを決して諦められません。たとえわたしたちが主と交わした聖約に背を向けることを選んだとしても、自分自身やイエス様を悲しませる選択をしたとしても、イエス様の聖約への忠誠と誠実さ、わたしたちへの愛情は決して揺らぎません。そして、オリーブの木がどれほど危機的な状況にあったとしても果樹園の主人にはそれを再びよみがえらせるための計画と手段がすでにあったように、イエス様はわたしたちがどれほど聖約の道からそれてしまったとしても、再びわたしたちに救いの祝福をもたらすための計画と手段をお持ちです。
今回の学びの中で、わたしの心を特につかんだのは果樹園の主人が行った次のような一連の取り組みです。
「柔らかい若枝」を分木して、果樹園の別の場所に植え、それぞれに個別の養いを与えた
この分木された枝が野生化してしまったあと、同じように力を失いかけていた親木に接ぎ返し、親木の力のない枝は分木された木の根に接ぎ替えられた
互いに接ぎ木された親木と若枝は、根から力を得てよい実を結ぶようになった
果樹園の木は再び「ひとつの木」のようになった
これは、イスラエルの歴史と預言者たちの預言と照らして考えるなら、イスラエルの散乱と集合の一連のプロセスを示しています。イスラエルの散乱と集合についての概要は聖句ガイドから情報を得ることができます。
しかし、今回の聖文研究において、この散乱と集合のプロセスとして理解される譬えがもっと個人的なこととして感じられました。
わたし自身の家族でもわたしの周りの家族でも、家族の一員が様々な理由で異なる信条や生き方を選ぶことで、家族としてイエス様が示された同じ方向に歩んでいくことができなくなるということはよく見られることです。親として子供を直接的に教え導ける期間というのは限られています。自由という祝福を享受できる恵まれた環境に生きることができ、その中で育まれる自然な親子関係であれば、子供たちの選びに親はいつまでも干渉し続けることはできないものです。子供たちは自ら考え、選び、責任を持つことを教えられ、彼ら自身の中にもそうしたいという望みが育ち、社会の中で自立した人格として一人一人の選びが尊重される大人へと成長していきます。
わたしたちがイエス様と交わした聖約は個人的な救いを可能にするだけでなく、家族としての昇栄―永遠の家族の絆を実現するものです。しかし、家族の一員が、当然尊重されるべき彼・彼女自身の選びによって異なる生き方を選択することで、「永遠の家族」への希望が打ち砕かれたと感じる人もいるかもしれません。
しかし、そのような状況にあるわたしたちや家族に、この譬えの中で語られている次の要素は大きな慰めを与えてくれていることに気づきます。
分木された枝が植えられた場所は果樹園の主人が良いと思った場所である。しもべさえもそれがどこに植えられたか知らなかったとしても、主は分木された枝を覚えておられる(ヤコブ5:13-14)
分木された枝は、親木と同じように果樹園の主人によって世話され養いを受けている(ヤコブ5:20-25)
分木された枝は、その場所がしもべに明らかにされた後は、主人としもべによって引き続き世話され養いを受ける(ヤコブ5:28)
野生化した分木された枝も、主人にとっては、その枝のために涙を流すほど貴いものである(ヤコブ5:41)
野生化してしまった分木も、再び親木に接ぎ戻されることを果樹園の主人は計画している(ヤコブ5:52-54)(譬えは、野生化してしまった親木の枝を分木された木の根に接ぎ木するというケースがあることも教えている)
分木と親木は再び「ひとつの体」のようになる(ヤコブ5:74)
分木をわたしたちの愛する家族の一員であると考えるときにこの譬えは、イエス様がわたしの救い主であるだけでなく、わたしの家族の救い主であることを教えてくれています。イエス様は再びわたしたちの家族が一つになる道を計画してくださっており、そのための骨折りを進んでし、最善を尽くしてくださるのです。
このばらばらに分けられてしまったもとは一つだった木が、再び一つに集められるために、最も重要な要素となるのは「根」が生きていることです。譬えの中で何度も「根」の重要性が教えられています。(ヤコブ5:11,18,34-37,48,54,59-60など参照)「根」さえ死ななければ、木をよみがえらせ、枝が良い実を結ぶ可能性は残されているのです。
枝に十分な強さを与え、良い実を結ばせるための養分を吸い上げる「根」:聖約、特にアブラハムの聖約の祝福をすべて可能にする神殿における儀式によって交わされる主との聖約
このことについての理解が深まり、広がり、その理解を自分と自分の家族に当てはめられるようになると、次のヘンリー・B・アイリング管長が分かち合われた彼自身の経験と受けた教えが思い出されました。
このアイリング管長の教えと証が確認しているように、「根」が生きていることが何よりも重要です。つまり、わたしやあなたが主と交わした「聖約」がその祝福や力を生活に「吸い上げる」ことができるような状態であることです。アイリング管長が言われるところの「自らが日の栄えの王国にふさわしく生活する」ということでしょう。
わたしたち自身の生活と選びにより、「根」がいつでも必要なだけ力を木と枝に供給できるようにするなら、わたしたちの愛する人が再び永遠の家族のつながりに回復されるようにする主の集合の計画とそのための骨折りと最善の取り組みは「実」を結ぶことでしょう。このように理解が深められることで、自然と次の質問が心に浮かんできます。
わたしは主と交わした聖約をどのように尊んでいるだろう?
もっと厳密に従うことができる戒めはあるだろうか?
わたしが始めるべきことでまだ始めていないことは何だろう?わたしがやめるべきことでまだやめていないことは何だろう?
わたしが聖約にさらに忠実に誠実に生きることが、その人自身が現在主とのつながりを強く持てているかどうかにかかわらず、愛する人へイエス様の力をもたらす影響力になるのだとすれば、わたしはどう生きたいと思うだろうか?
今日はオリーブの木の要約とそれぞれの要素が何を教えているのかを調べ深く考える中で得られた学びを紹介しました。わたし自身とわたしの家族の救い主であるイエス・キリストへの感謝と交わした聖約を守って生活することへの望みが強まるのを感じました。
次回の記事では、ヤコブがオリーブの木の譬えから引き出したかった教えを記している6章とそれに続く7章からさらに学んでいくプロセスを紹介します。
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