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長篠の戦い

鉄砲 VS 騎馬 〜 新旧激突戦国大スペクタクルバトル 〜

「あのーあれだ。信長が鉄砲使ったやつだろ」

という認識の方がいたとしたら……
大正解。

まさにその通りで、小学校から中学高校までの教科書で、登場しなかったことがない
「信長くん鉄砲ぶっ放しバトル」
それが『長篠の戦い』です(「武田さん鉄砲ぶっ放されバトル」でもかまいません)。

『長篠の戦い』=鉄砲、ということをご存知なら、この戦いの6〜7割を把握できてるも同然ですが、内容をカンタンにご紹介すると、

《1575年。織田・徳川連合軍が、長篠&設楽原(愛知県)ってところで、武田軍と激突。たーくさんの鉄砲を使った信長が、武田勝頼ひきいる武田騎馬隊をコテンパンにして、織田・徳川連合軍が圧勝したよ。》

という感じですね(鉄砲を使った戦闘があったのは「設楽原」です。なので最近は『長篠・設楽原の戦い』っていうことが多いかも)。

ただ、
『長篠の戦い』=鉄砲
ということは知ってても、中には

「日本で初めて、鉄砲が使われた戦いでしょ」

とカン違いしてる、ちゃめっ気たっぷりな人がいますが、これは間違い。
正しくは、

「日本で初めて、"大量の"鉄砲が使われた戦い」

なんですね。

鉄砲自体は『長篠の戦い』の前から使われていたんですけど、”ある理由”からメインの武器じゃなかったんです。
ところが、
この戦いですっごい数の鉄砲を導入したら……

「効果すご!」
「鉄砲、主力兵器でいけんじゃん!」

ということになり、”働き方改革”ならぬ”戦い方革命”がおこっちゃったんですね(これ以降の戦が、鉄砲だらけになった……というわけでもないんですが)。

「『鉄砲 VS 騎馬』。戦術の新旧が衝突し、鉄砲の可能性が見出された戦………。この国の戦闘は………『長篠の戦い』以前、以後、に分けられると言っても……過言ではない……」

と、無駄に間を取った渋いナレーションで語って欲しいほど、日本史の中でも長篠さんの重要度は高いんです。

では、革命的で有名なナガシノさんの流れを、オダさんとタケダさんがぶつかるまでの経過とともに、ひもといていってみましょう。

ただ、もしかするとこの戦いも、みなさんが聞いてた話と、ちと違うかも……。
いってみましょう。

これが『長篠の戦い』のざっくりとした流れです。

前回、家康をフルボッコボッコボッコにした武田信玄。
ですが、そのあとも武田軍の進撃は止まらない止まらない。

グイグイ侵攻していって、ついには家康の領地・三河国にまで攻め込んでいっちゃうんですね。
たぶん家康、

————ホントにもうやめて……お願いだからやめてよ!!

という気持ちでいっぱいだったでしょう(想像プラス意訳です)。
でもね、
その気持ちが届いたのかどうかはわかりませんが、武田の動きが

ピタァーッ!!

……と、止まるんです。
さらに、
そこからしばらくすると、武田軍が甲斐国に引き返して行くじゃありませんか。
これには家康も信長も、
「?」
となるんですが、これを読んでるみなさんはお気づきになったでしょうか?
そう、

武田信玄が亡くなったんです。

もともと体調がすぐれなかった信玄さん。三河に入った時点で血を吐くようになり、こりゃヤバいと甲斐に戻る道中、病死してしまったんです。

武田にとって信玄さんの死は、あまりに悲しく、あまりに大ダメージ。

ですが、
信長&家康の立場からすれば、こんなにラッキーなことはありません。
だって、自分たちを苦しめた天敵が、なんの手も下さずいなくなるんですから、2人の運の良さったら、もう、ねえ、どう表しましょう? もうね、表しません。

もちろん家康は、
「マジでよかったーーー!!」
となったでしょう。
が、信長の、

「ホンットにマジで……マジでよかったーーーー!!!」

感も、これはこれでハンパなかったと思います。

それというのも、実はここまでの信長さん、

”人生最大のピンチ”をくらい続けてたんです。
しかも波状攻撃で。

あの頃はよかったんです、あの頃は……。
『桶狭間の戦い』が終わってからの10年間は、上々な仕上がりだったんです信長さん……(ちょっとふり返ろうとしてますー)。

『桶狭間の戦い』のあと、徳川家康と仲良くなって、

北近江(滋賀県の北の方)の浅井長政って大名に、信長の妹・お市を嫁がせて仲良くなって、

武田信玄とも仲良くなって、

いろーんな大名と仲良くなって、周りをペタペタにかため、
自らは美濃国(岐阜県)を攻めて、ゲットしたり。

さらには、
「オレ! 次の将軍になりたいんだ!」
と言ってる、

足利義昭

という足利を、京都まで連れていってあげて15代将軍にしてあげたりしたんですね。

みんなと仲良くできてるし、領地も増えてるし、京都に行って将軍とのパイプもできた。←幼稚園なら花まるがもらえます。

勢いそのままに信長は、

信長「よし! お次は若狭国に攻め込んで、そのまま越前国も攻めるぞ!(どちらも福井県)」

と、越前の朝倉(って大名)を攻撃したんですが、思い返せばこれが運の尽きだったのかもしれません。

信長「は!? 浅井長政が裏切った!!? 絶対ウソだよ!!!」

まさかまさかの妹のダンナ、義理の弟による裏切りが発生。
福井県にいた信長のもとに、滋賀県の浅井さんが攻めてきたことによって、あわやハサミ撃ち! という緊急事態に見舞われるんです。

なんとかその場を死に物狂いで逃げきった信長(『金ヶ崎の退き口』って言うよ)でしたが、そのあと待っていたのはさらにシビアな状況。
浅井・朝倉の行動がキッカケとなったのか、「信長気に食わねー!!」という感情がシンクロしたのか、

三好三人衆
六角義賢
比叡山延暦寺の武器を持ったお坊さんたち
大坂本願寺と信者のみなさん
雑賀衆

といった、武将やお坊さんにその信者、鉄砲傭兵集団…などなどが、一気に信長と敵対し始めるんですね。
これを

第一次信長包囲網

と言います(ちょっとカッコイイ)。

四方八方敵だらけとなり絶体絶命の信長。
冷や汗の出ない時間帯はないというくらいのトロピカルピンチ。

信長「くっ……こうなればもう、あれしかない……!!」

なんとかこの窮地を脱するため、信長が繰り出した奥の手は……

信長「はいはい! 仲直り仲直り! いったん仲直りしましょー! あなたともあなたともあなたともあなたとも! ねー!」
本願寺「え」
六角「あ、」
三好「まぁ」
浅井・朝倉「はぁ……い」

いったんみんなと仲直り。
朝廷や将軍・義昭さんに間に入ってもらい、なんとか人生最大級のピンチを抜け出したんです。

ところが、

「ちょっとの間おとなしくしとこ…」とならないのが、信長の信長たる所以。
各所と仲直りして1年と経たないうちに、

信長「これで終わったと思うなよーーー!!!」

ライバルたちへの攻撃を再開し、浅井・朝倉の味方をした比叡山延暦寺を焼き討ちにしてしまったのでした。

そしてここから、信長の華麗にて鮮やかなる巻き返しが……

信長「た、た、武田信玄が、せ、攻めてきただと!!?」

始まりません。

仲良くしてたはずの武田信玄が、信長包囲網にサプライズ参戦(信玄が攻めてきたのは、こういうタイミングだったんです)。

さらには、

信長「義昭さんが兵を挙げたぁ!!?」

タッグを組んでいた足利義昭との関係がこじれ、将軍までもが信長を討とうとする事態に発展。
第一次メンバーにプラスして、

武田信玄
足利義昭

その他たくさんの武将や、伊賀衆・甲賀衆なんかの忍者集団までもがブワーーっと信長を囲み、まったまたの包囲網、

第二次信長包囲網

が出来上がってしまったのでした……。

はい、というのが、信長さんの最近の状況だったんですね。

ここ数年間、「控えめに言って最悪…」という状態が続いていた信長。
そんな中、飛び込んできたのが、
"信玄死す"
のニュースですから、

「ッシャーーーーーーー!!!!!!!」

という信長のガッツポーズ具合は、たぶんすごかったんじゃないでしょうか。

さぁ!
包囲網最強の一角は崩れました。
ここから、信長&家康による、怒涛のカウンター攻撃が始まります。

信長「これで終いだ、朝倉、浅井ぃーー!!!」

信長はついに、ドン! ドン! と、因縁の大名2人を、朝倉→浅井の順番でぶっ倒し、

信長「義昭さん! あなたとはもう、おサラバだぁーーー!!!」

将軍・足利義昭を京都から追放します。そして、

家康「そこはオレの領地だぁーーー!!!」

家康は家康で、武田に奪われた領地を取り返していき、2人とも信玄に使っていたパワーを他に向けて全解放していくんですね。

戦国最強タッグ、ここに大復活です。

ダケド、

武田、イナクナッタ、ワケジャナイ。

タケダノキョウフ、マダ、

オワラナイ(カタカナ並ぶと怖いね)。




すみません、こちら騎馬隊なんですが。鉄砲の数すごいんですけど、突撃しろと?

さて、長篠の戦いパート2です。
じゃ、まずはおさらいから!

武田信玄さんお亡くなりに。

家康は、「やったー!」

信長は、2度の包囲網でヘロヘロ真っ最中だったので、さらに「やったー!」

2人暴れまくり。しかし……。

武田がいなくなったわけじゃありません。

そう、亡くなったのは"武田信玄"その人で、"武田家"が消えたわけじゃないんです。
信玄には、

武田勝頼

という息子がいます。
今度は、その武田ジュニアが、

武田勝頼「信長! 家康! 今度はこのオレが相手だ!!」

的な感じで攻めこんでくるから、武田とのバトルはまだまだぜーんぜん終わりません。

そして、この勝頼くんが、信玄パパに負けず劣らずの勢いで信長や家康の領地をバッチバチに奪っていく、ってところから
『長篠の戦い』のお話が始まっていくのでした。

信長・家康 VS 武田家 の戦いが第2ラウンドを迎えた中、烈火のごとく激しい攻撃を見せる武田勝頼。
そんな彼が次なるターゲットに選んだのが、「長篠城」と「奥平信昌」です。

「『長篠城』と『奥平信昌』って……どこと誰?」

となるでしょうから、ちょっと解説はさみましょう。

「長篠城」と「奥平」さんは、もともと家康側のお城と武将だったんですが、一回信玄に奪われ、それをまた家康が奪い返していたんです。
で、それをまたまた勝頼が奪い返そうとしている! というのがこのときの状況。

勝頼からすれば、長篠城(愛知県新城市)は、「三河、遠江、信濃(長野県)」をむすぶ交通の要衝(大切な地点)にあるから、とにかく取り戻したい。
奥平信昌(こんとき貞昌)に関しては、「テメー! また徳川に寝返りやがって!」ということで、とにかくぶん殴りたい。

そんな"奥平さん"が、"長篠城"をまもってるんです。
勝頼としては

勝頼「これを攻めずにいられるかー!」

という感じ。

だから勝頼マジモード。

長篠城の東に鳶ノ巣砦(or鳶ヶ巣砦)ってのをつくって、自分は北側にスタンバイ。
城の兵500に対して、

およそ30倍

の、

1万5000

の軍勢で長篠城を取り囲むんです(どちらの兵数も諸説あり)。

家康「ダメーーーーーーー!!!」

となりますよね家康は。
攻めづらいお城ですから、すぐには落ちません。でも、

30倍。

家康「時間の問題ーーーーー!!」

となります家康は。
こりゃヤバいってことで、家康は長篠城を助けにいくことを決めるんです。

しかし、
徳川軍だけでは武田と戦える兵力がそろわない……。
となれば、

家康「信長さーん! 援軍お願いしまーーす!!」

やはりお友達…というか、アニキ的存在の信長をたよるんですね。
するとですよ。
信長は、

「これは武田をぶっつぶせるチャンスだ!」

と思ったのか、

「今まで自分の戦いが大変すぎて、家康からの援軍要請に満足にこたえたことなかったな…。次もそれだと、家康から「お友達やめましょ!」って言われるかも……」

と思ったのか、どれがホンネかはわかりませんが、家康のいる岡崎城(愛知県)に、なんと、

3万の大軍(諸説あり)

をひきいて駆けつけるんです。
これは信長もマジモード全開。『長篠の戦い』を完全に自分の戦にしてしまったのでした。

少し話しはそれますが……
読んでもらったように、実際の『長篠の戦い』ってのは「家康 VS 武田」の領地争いで、信長はあくまで"援軍で呼ばれた人"なんです。

それなのにどうでしょう。

現代の教科書や物語で語られる『長篠の戦い』は、「信長 VS 武田」のイメージしかなくて、むしろ家康がおまけみたい。
この戦いを全部持っていっちゃった信長さん。良くも悪くも、主人公感ハンパじゃありません。

話しを戻します。

というわけで、織田・徳川連合軍3万8000は、岡崎城を出発。長篠城の西のほうの「設楽原」ってとこに着陣(とうちゃーく)します。

設楽原は、"原"とは言いつつ、かなりデコボコな地形(いわゆる丘陵地ってやつ)。
現場についた信長が、まず最初にやったのは、

信長「この地形を利用して、陣地をつくる!!」

ってことで、言ってみりゃ

信長「"設楽原の全面プロデュース"だ!!」

に取りかかったんです。

騎馬隊の攻撃を防ぐための柵をたて("馬防柵"って言います)、
地面をけずって土の堤防をつくり("土塁"って言います)、
軍勢をバラバラに配置したそのさまは、あたかも"設楽原"という名の要塞(こういうのを"野戦築城"って言うよ)。

そして、準備された鉄砲の数は、驚きの3000挺。
攻めてきた敵を一人たりとも逃さない、さしずめ”火薬"という名のクモの巣です(「さしずめ"火薬"という名のクモの巣です」って何ですか?)

準備は整いました。

あとは武田軍が攻めて来るのを待つだけ。
勝頼がこの地に足を踏み入れたが最後、織田・徳川の勝利は確定です。

ただ、1つだけ問題が。

攻めて来なかったら……

どうしよう?

勝頼「だーから大丈夫だって!! 勝てるって! オレらも設楽原行くぞ!!」

来てくれるみたい。

勝頼は、信玄時代からの家臣たちが反対するのも聞かず、設楽原に移動してスタンバイ。
小川(連吾川)をはさんで、織田・徳川連合軍と対峙したのでした。

信長「きたぁーーーーー!!! これは天が与えた大チャンスだ!!」

歓喜にふるえる信長。これで、武田軍とぶつかるのは時間の問題。

信長「会議を開く! 武田をぶっつぶすぞ!!」

もはや勝利まであと一歩。
だけど、ダメ押しがほしい信長は、織田・徳川の合同会議を開きます。

酒井忠次(家康の家臣)「鳶ノ巣砦を奇襲しましょう! ここを崩せば、長篠城を救うことができるし、勝頼たちの退路を断つこともできます!」
信長「なんだそのアイデアは! 話にならん! 解散!」
忠次「マジか……(肩を落としながら、その場をあとにする忠次)」
信長「酒井! ちょっと戻ってこい。(戻ってきた忠次に)さっきの案、素晴らしかったぞ」
忠次「!」
信長「会議には武田のスパイがまぎれこんでるかもしれないからな、お前の意見を一蹴した。だが、オレも鳶ノ巣砦を奇襲するべきだと思う。そして、その役割をお前に任せる」
忠次「あ……はい!!」

なんか缶コーヒーのCMっぽい(雰囲気がなんとなくね)。

酒井忠次は徳川家の家臣。信長と酒井のこのシーンは、現代で言うと、
「ある会社の社員が、業務提携先の社長と交わした熱いやり取り」
といった感じでしょうか。
かなりカッコイイ話。しびれる。
けど、
信憑性うすいらしいです、このやり取り(紹介しといてごめんなさい)。

ただ、酒井忠次が別働隊をひきいて、鳶ノ巣砦にむかったのはホント。
深夜にこそーっと鳶ノ巣砦の背後にまわって……夜が明けると、

忠次「かかれぇぇーーーーーー!!!」

奇襲をかけ、いくつかあった砦たちを、バン! バン! バン! バン!! と、すべて落とすことに成功するんですね。
これで、長篠城の救出という、この戦いの本来の目的を果たせました。

そして、信長、家康、勝頼がそろったメイン会場では……

勝頼「織田、徳川を蹴ちらせぇぇぇーーーーー!!!!」

……パカラッ、パカラッ、パカラッ、パカラッ、パカラッ、パカラッ!!

勝頼が織田・徳川連合軍への攻撃を開始。

しかし……

織田家臣「鉄砲隊かまえ!!」

ザッ! カチャ……

敵をめがけ、突撃を繰り返す武田騎馬隊は、

織田家臣「はなてぇぇぇーーーーー!!!」

ババババババーーーーーーン!!!!!

武田騎馬隊「グゥワァァァーーーーー!!!!」

鉄砲で

織田家臣「はなてぇぇぇーーーーー!!!」
ババババババーーーーーーン!!!!!
武田騎馬隊「グゥワァァァーーーーー!!!!」

鉄砲で…!

ババババババババーーーーーーン!!!!!
ヌゥワァァァーーーーーー!!!!!

鉄砲で…!!
ババババババババーーーーーーーン!!!!!!
ウヮアァァァァーーーーーーー!!!!!!!
鉄砲で…!!!
ババババババババババーーーーーーーン!!!!!!
鉄砲で…!!!!
ババババババババババーーーーーーーーン!!!!!!!

入れ替わり立ち替わり攻め寄せる武田騎馬隊は、入れ替わり立ち替わり放たれる無数の弾丸により、次々と倒されていったんです。

当時の鉄砲は、1発を放つまでの準備に30〜40秒くらいはかかったそう。
鉄砲隊がいたとしても、その準備の隙をつき、

「突撃すりゃなんとかなる!」

ってのがセオリーだったんですが……織田・徳川連合軍の鉄砲の数は、その常識を見事に破壊していったんですね。

信長の用意したディフェンス(馬防柵)とオフェンス(鉄砲)の前に、武田騎馬軍団の最強神話は崩壊。
代わりに待っていたのは、優秀な家臣団とおびただしい兵の喪失です。

やがて、自軍の敗北を悟った勝頼は、戦場から撤退。

この瞬間、織田・徳川連合軍の歴史的勝利が決定したのでした。

と、いうわけで、以上が『長篠の戦い』のおおまかな流れ、
なの、
ですが、

実はまだ、超ぉー重要な部分に、1つも触れてません。

次回お届けするのは『長篠の戦い』の核心部分。
キーワードはもちろん、
「鉄砲」です。




くるくるーくるくるー、はいまわってー、くるくるーくるくるー……

『長篠の戦い』はこれで最後。
もう流れはお届けしたけど……とりあえず、おさらいはやっときましょう。

武田勝頼が長篠城を囲んじゃう。

「こりゃヤベー」と、家康が信長を誘い、長篠城を助けに。

設楽原で、織田・徳川 VS 武田の戦闘開始。

しっかりとした陣地づくりと大量の鉄砲により、

バタバタ倒れていく武田騎馬隊。

で、「織田・徳川連合軍が勝ったよー」というのが、前回までのお話でした。

武田家は、この戦いをキッカケに大きくパワーダウン。
その後、数年間はねばりますが、最後はけっきょく信長に攻めほろぼされます。
この時点で(ちょっと前からだけど)、信長の"日本ナンバー1大名"の位置は、揺るがないものになったんですね。

さて、話は変わりませんが、『長篠の戦い』といえば、やっぱり「鉄砲」。
前回までの話で、大量に使われたってのはわかってもらえたと思うんですが、メインディッシュの割には、よくわかってない部分がそこそこあるんです。

昭和生まれの方々は

「『長篠の戦い』では鉄砲の”三段撃ち”が行われた」

と、学校で教わったのを覚えてらっしゃるでしょうか(平成生まれもそーなのかな?)。

お伝えしたように、当時の鉄砲(火縄銃)は時間ドロボーです。
銃口から火薬と弾丸を入れて、それを棒で押しこみ、さらに……みたいな感じの準備が必要なので、その間にやられちゃうこともしばしば。
『長篠の戦い』より前、鉄砲がそんなに活躍しなかった大きな理由はまさにこれだったんですね。

そんな鉄砲の弱点をカバーしたのが、革命児・信長の"三段撃ち"です。

3000の鉄砲隊を、1000人ずつ横にズラーっと3列に配置。

1列目の1000人が一斉に射撃。

その間2列目3列目は弾込めの準備。

射撃の終わった1列目は後ろへまわり準備。

今度は2列目が前に出てきて射撃。

このローテーションで、時間をあけることなく連続して攻撃することができた。

というメチャクチャ画期的な戦法。
これが、”三段撃ち”です。

すごいですよね。このアイデア思いついたとき信長も「あ! きた!!」と叫んだんじゃないでしょうか?

ただこの戦法、実際には

なかった。

っぽいです。

「え!?」っと驚かれた方も多いかもしれません。
しかし、かなり前からこの説は出ていて、今では
「『長篠の戦い』で三段撃ちなんてやってない」
ってのがスタンダード、当たり前になってるくらいなんです。

それにはいくつか理由があってですね……↓

・1000人で一斉射撃するとなっても、都合よく、全員の前に横一列で同時に敵があらわれるわけじゃない(でしょ?)。
となると、目の前に敵が迫って来てない兵士も射撃することになり
「……すみませーん! さっきからオレ誰もいないとこに撃ってんすけど!?」
ってことになり、玉もったいなさすぎ。

・鉄砲を準備する技術には個人差がある。一斉射撃をするなら一番遅いやつに合わせることになるので、ベストタイミングでの射撃は無理。
「ちょ、ちょっと待ってくださーい!」「早くしろテメー! 敵が来てんだよ! お前のせいでやられ……ギャー!」
てなことになる。

・火薬を入れたり、直接火をつけたりするこの時代の鉄砲。ただでさえ暴発が怖いのに、何千人がせわしなくローテーションしてたら、ドン! とぶつかって、ボン! となる可能性大。

・そもそも、信頼度の高い史料(「信長公記」ってやつ)に、"三段撃ち"のことなんて1ミリも書かれてない。

などの理由から、「三段撃ち…現実的じゃねーな」となったんです。

さらに、よくわかってないのが"鉄砲の数"。

鉄砲が3000挺てのは、史料(これまた「信長公記」)に書かれてることなんですが、「千挺」って書かれたそばに「三」て足されて、「三千」になってるらしいんですね。
なので、

「え、なにこれ? 太田牛一(著者)の訂正? ほかの誰かの加筆? 太田自筆の『信長公記』ってもう一つあるけど、それは"千挺"のまんまだよ。ホントは1000挺なんじゃね?」

てなことになり、鉄砲の数に関しても不確定が確定していて、ホントは1000なのか、3000なのか、ビミョォーなとこなんですね。

でもね、
「なんだぁー、ホントは鉄砲って大したことないんじゃない?」
なんて思ったら鉄砲がかわいそう。
鉄砲くんがグレてお家を飛び出していって、家出鉄砲になり、自分に火薬多めに入れて暴発なんてしたら大変です(ずっとなんの話でしょう)。

だから、フォローを入れとくと……

まず、鉄砲の数が1000挺だったとしても、”大量”ということに変わりはありません。

それに、史料には
「鉄砲1000挺くらいを、佐々、前田…(計5人の名前)を鉄砲奉行として……」
なんて書き方がされてるので、取り方によっては
「5人の家臣に分け与えられた鉄砲の数が、1000挺」
とも解釈できますよね。
つまり、織田・徳川連合軍が"全体で持ってた鉄砲の数"は、もっと多かった可能性だってあります(鳶ノ巣砦を攻めた部隊にも500挺持たせてるようですし。でも可能性だよ、可能性)。

さらに、三段撃ちだって……これ自体はまぁなかったかもしれませんが、1000挺の"一斉射撃"が無理というだけ。
部隊を数ヶ所にわけて順番に撃ちまくれば、それは"連続射撃"。
その効果が絶大だったことに、間違いはありません。

なので、いろいろはっきりしてない鉄砲情報ですが、『長篠の戦い』で果たした役割は大きかった……これだけはたしかだと思います。

はい、では、『長篠の戦い』で、僕らがが学べる部分はどこなんでしょうか?

「鉄砲を使った信長のように、どんどん新しいものや技術を取り入れるべきだ!」

というのは、「まぁそうねぇ…」という感じ。
それよりも、この戦いの勝敗に目を向けると見えてくるのは、

「鉄砲だけに頼ってない信長さん」

ってとこなんですよね(こっからまた個人的意見す)。

『長篠の戦い』での信長・家康の一番の勝因は、鉄砲を使ったこと……じゃなくて、
「やっぱり、相手より兵の数が多かったからだよね」
って言われてるんです(諸説ありだけど、織田・徳川3万8000、武田1万5000)。
そのほかにも、
「陣地作り(野戦築城)が決め手だ」
とか
「鳶ノ巣砦をおさえて後ろからプレッシャーかけたのがよかったんだ」
などなど、専門家によって意見はわかれますが、「一番の勝因は、むしろ鉄砲よりも…」って感じなんです。

信長って、『桶狭間の戦い』の印象が強いせいか、
「少ない兵でも戦いを挑んで、奇抜なアイデアで切り抜ける」
みたいなイメージがあるかもしれませんが、桶狭間はむしろイレギュラー。
それ以降は、たーくさんの兵数・物量をそろえ、準備をキッチリ整えて、手堅い戦いをしようとしてるんです(基本的にね)。

僕らは、普段の生活でも、何かにチャレンジしてるときでも、躍進や打開をはかるためには、画期的なアイデアや新しい技術が必要だと考えがち。
しかし、『長篠の戦い』における信長の姿は、

「まずは手元にある素材でどれだけの準備ができるか。新たな技術(アイデア)を活かすのはそれからだ」

ってことを伝えてくれてるような気がします(気のせいかもしれません)。
すごく当たり前の結論ですが、どんなジャンルにおいても「基本をしっかり」というのは、一番大切な要素。
"新しい力"っていうのは、基礎や基本をおろそかにしなかった人だけが扱える、ブースト装置のようなものなのかもしれませんね(以上、個人の考えでございました)。

さて、次回のお話ですが、あまりに有名なので、タイトルが引きになると考え告知します。

次回、
『本能寺の変』です。

どうぞお楽しみに。





本当にありがとうございます!! 先にお礼を言っときます!