宇宙の変死


      I Starship Murderers I

    六年と八ヶ月前

   Ⅰ 二週間と二日前

   Ⅱ 第一日目 ~昼~

   Ⅲ 第一日目 ~夜~

   Ⅳ 第一日目 ~深夜~

   Ⅴ 第二日目 ~朝~

   Ⅵ 第二日目 ~昼~

   Ⅶ 第二日目 ~夜~

   Ⅷ 第二日目 ~深夜~

   Ⅸ 第三日目 ~早朝~

   Ⅹ 第三日目 ~正午~

    一週間と三日後

    六年と八ヶ月前 

 くすんだ壁と、旧型の照明がちらつくせいか、倉庫はひどく薄暗かった。壁際に備え付けられた、所々にサビの浮き出ているクレーンには、ある意味この倉庫によく似合った、小型の対戦車ミサイルランチャーがつり下げられている。そのすぐ真下にある、クレーンの操作パネルの周りに、人が集まっていた。五人ほどだろうか。その中で、小柄ながらもがっしりとした肉体と、縮れた赤毛をもった男が言った。顔立ちは幼く、二十代と言っても十分通用するだろう。
「俺は降りる」
 男の言葉に、場はひどくざわめいた。
「どうしたんだ、今まで上手くやってきただろう」
 ひげ面で白髪の、表情は穏やかながら、眼光未だ鋭い初老の男が、彼の肩に触れた、
「子供もわがまま言う時期でしょ。お金はいくらあっても足りないはずなんだけど」
 クレーンの操作パネルに腰掛けた、髪の毛を真っ赤に染めた女が言った。女の体は、まるで紙細工のように細かったが、ボロボロのジーンズと黒のジャケットからのぞく肌は、くすんでいて光沢がなかった。
「だからこそだよ。こんな商売しながら、子供を全うに育てられるわけがない」
 赤毛の男は壁にもたれかかり、そのままうつむいた。空気清浄装置のファンの音が倉庫を満たし、それが作り出すわずかな風が、男の赤毛を無造作になでる。
「おまえってやつはなぁ。今更やめたって、何が変わるんだよ」
 頭髪が後退し、額の面積がかなり広くなった、中年で小太りの男が言った。
「本当に足を洗いたいなら、マスコミに公表するなり、方法はいくらでもあった。わざわざここでいうあたりが、おまえらしいといえばそうだが、お人好しだな。俺たちがそう簡単に、足を洗わせてくれるとでも思ったのか?」
 筋骨隆々とした肉体と、浅黒い肌を持った大男は、そういって粘性の低いつばを吐いた。それは床に当たって、飛沫を周囲に散らせた。その光景を見て赤い髪の女は、髪と同じく真っ赤な唇をゆがませて、あからさまに舌打ちした。
「まあまあ、おまえ達。そんなに怒る事でもあるまい。この仕事は人数が必要なわけじゃない。入る抜けるでいがみ合うこともないさ。そうだろう、アル」
 初老の男は、そういってアルと呼ばれた男の肩を叩いた。
「喋らないと約束してさえくれれば、俺はかまわんよ。必要なら、しばらくは金を送ってやってもいい。何せ大事な子供だからな」
 その言葉に、アルはひどく驚き、そして感謝した。
「ありがとう、船長。金はいらないよ。それだけで十分だ。絶対喋らない」
「そうか。なら、酒でも飲みながら話をしよう。おまえがいなくなるのは寂しいからな。今晩は脳みそのしわにおまえの顔が刻まれるまで、飲み続けるよしよう」
 船長は笑った。アルも彼の言葉を聞いて安心したらしく、満面の笑みを見せた。
「ありがとう、船長」
「何、気にすることはない。さあ、行くぞ。今日は俺のおごりだ」
 そういって、船長はアルとクルーを引き連れて、薄暗い倉庫から出て行った。

   Ⅰ 二週間と二日前

 夕暮れ時の図書室から見るグラウンドは、そこでフットボールをする生徒たちの影に彩られて、まるで抽象画のように見えた。右に左に、ボールを追って駆け回る生徒たちを見つめながら、彼女は読んでいた紙媒体の小説を机に置き、その桃色をした小さな唇から、ふっとため息をついた。
「いい加減、大人の都合ってやつを理解しろ、ってことか」
 ポケットから取り出した携帯端末の画面には、十八時十六分、と表示されていた。彼女は再度ため息をつくと、木製に見せかけた強化カーボンの背もたれにもたれかかった。彼女の華奢な体でも背もたれはわずかにきしみ、イスの前部が浮き上がる。ポニーテイルにした栗毛は、中空に投げ出されてなびいた。
「あのクソ親父、娘の誕生日なんだから、せめて連絡ぐらい……」
 そういって、彼女がさらにため息をつこうとしたその瞬間、右ほおに冷たい感触が走った。そのショックで浮き上がっていたイスの前部はさらに浮き上がる。危うく後ろに転げ落ちそうになった彼女は、あわてて重心を前に移し、勢い余って机につんのめった。
「いけませんねぇ、一人でこんなところに、こんな時間までいるなんて。お嬢さんは美人ですから、悪い輩に襲われるかもしれないじゃないですか」
 何とか体勢を立て直した彼女は、すぐ背後でいたずらっぽい笑みを浮かべている、やせ形で黒の短髪をした少年をにらみつけた。
「カール、あんたって男は……!」
 カールと呼ばれた少年は、その笑みを崩さぬまま、彼女に清涼飲料水の缶を手渡した。
「ジュアン・理子が不良グループに襲われたとなっては、マスコミも放っておかないでしょうねぇ。お嬢さんももう少し自覚というものをですね……」
 そこまでしゃべったところで、カールは自分の左つま先に、痛みが走るのを感じた。
「カール! あんたどこまであたしを馬鹿にすれば気が済むのよ!」
 ふと見ると、彼女、ジュアン・理子は、素早くイスから立ち上がり、カールの左足を力一杯踏みつけながら叫んでいた。
「いや! 決してお嬢さんを馬鹿にすることなんか、僕は生まれてから一度たりとも考えたことがありませんよ!」
そんな烈火のごとき理子の怒りを前にして、カールはいっさい臆することなく、正面から彼女の言葉に反論した。
「だったら、さっきのアレはなんなのよ!」
 理子はカールの足を踏みつけるのをやめ、痛みでうずくまる彼をにらみつけながら言った。カールはそれを聞いて、打撃を受けた左つま先をかばいながら、理子の顔を見上げた。
「もちろん、からかったんですよ」
 その直後、カールは理子の渾身の膝蹴りを下あごにもらって、仰向けに倒れてしまった。そんなカールを尻目に、理子は荷物と借りてきた小説を手にすると、のびているカールの胸を踏みつけて、肩をいからせてその場を立ち去ろうとした。
「ああ、お嬢さん、待ってくださいよぉ」
 カールは情けない声を上げたが、理子はいっさい気にするそぶりを見せず、そのまま本棚に小説を返して、ラウンジに出ていってしまった。

 夕日が沈みかけ、影の面積が増えた歩道を、理子は歩いていた。その後ろを、左つま先をかばうようにして、よたよたと歩くカールがついてくる。
「そんな邪険にしないでくださいよ。ほら、誕生日プレゼントあげますから」
 カールはポケットから、骨董品とも言えるような、紙媒体のチケットを取り出して、ちらつかせて見せた。
「あんたがそんなものくれるなんて、考えもしなかったわ」
「いや、これはおじさんが僕に預けてくれた、おじさんの誕生日プレゼントですよ」
 それを聞いて、理子ははっとカールに向き直った。
「どうしてあんたにあたしの誕生日プレゼントが預けられてるのよ!」
「僕がおじさんに信頼されてるからですよ」
 このふてぶてしい幼なじみに自分の誕生日プレゼントが預けられていると知り、理子は憤慨した。
「そんなもん、いらないわよ!」
 理子はそういうと、カールの視線から逃げるように振り向き、早足で歩き出した。そんな彼女の様子を見て、カールは優しい笑みを浮かべ、はっきり聞こえるよう大声で言った。
「良いんですか? 銀河遊覧船のチケットですよ? いらないんなら、僕が僕のデートにつかっちゃいますよ」
 その言葉を聞くと理子は立ち止まり、腰に手をやって大きくため息をついた。

「で、どうしてペアチケットなわけ? しかもあたしとあんたっていう、最低最悪の組み合わせなんだけど。説明してくれない?」
 高級住宅街の一角にある自宅の門の前で、理子はカールに向かって不快そうに言った。その手にはしっかりと銀河遊覧船のチケットが一枚、握られている。
「決まってるじゃないですか! おじさんは僕とお嬢さんの仲を応援して……」
 突然カールの膝に痛みが走り、彼は一瞬うめいてしまった。
「馬鹿な冗談はよして、まじめに説明しなさい。まじめにね」
 こういうときにせめて顔を赤らめるぐらいの反応があれば、もっとかわいいのだが、とカールは思ったが、そんなことを口にすれば今度は股ぐらを蹴られかねないので、彼は理子の指示通り、説明を再開した。
「いくら何でも、お嬢さん一人旅というのは危険すぎますからね。かといって、全身サイボーグ化したボディガードにつきそわれて、のんびり銀河遊覧というのもいやでしょう」
 サイボーグ化したボディガードと言われ、理子は無意識のうちに全身サイボーグのカールを想像してしまった。想像の中の彼は、ムキムキになった身体を自慢しながら、理子にじりじり迫ってくる。さすがにそんなやつに護衛されるのはごめんだ、と理子は思った。
「それに厳重すぎる護衛というのも注目を集めますから。そういうわけで、お嬢さんの安全上の問題と、注目を集めないようにするということで、僕が行くことになったんです」
 確かにもっともらしい理由には聞こえたが、目の前にいるヘラヘラした幼なじみは、どこからどう見てもヒョロっとした学生である。昔からカールは運動が好きではなかったし、理子は彼が自分のボディガードをするなどとは、とても思えなかった。
「まあ、お嬢さんが疑う気持ちもわかりますが、そんな目で見ないでくださいよ。テロリストとか誘拐犯からの護衛と言うよりは、『悪い虫』が付かないようにする護衛ですからね」
「あのクソ親父……」
 理子はカールがついてくる理由を聞いて、父のあまりのお節介さにあきれた。
「まあ、そういわずに。どうしてもというなら、僕一人体調不良と言うことで、部屋に引きこもっていてもかまわないんですから。何、お嬢さんが快適に旅行することに比べれば、それぐらいなんともないですよ」
 それはそれで、あまりよい案とはいえなかった。いくらこの自虐的な幼なじみを邪険にしているとはいえ、そこまでひどい扱いをするのは、理子の良心がとがめるのである。
「別に、そこまでしなくてもいいわよ。どうせ、昔から二人で行動することが多かったんだから、今更気にするほどのことでもないわ」
 それを聞いたカールは、にっこりと笑みを浮かべた。
「それじゃあ、二週間後を楽しみに待つとしましょうか。それにしても、銀河遊覧旅行とは! おじさんの計らいに感謝しなくちゃ、いけませんね」
 理子は生まれも育ちも地球なので、銀河遊覧を誕生日に送ってきた父の計らいには、内心喜んでいた。未だ小説やテレビでしか見たことがない宇宙のことを思うと、まだずいぶん先の話だというのに、理子はまだ見ぬ未知の世界に言いしれぬ興奮を覚えた。
「ところで、一つ確認しておきことがあるんですが」
 急に、カールがまじめな顔になって、理子に近寄ってきた。
「な、なによ急に。そんな改まって」
 カールが予想以上に顔を近づけてきたので、理子は思わず顔を赤くしてしまった。まるでこれから重要なことを聞かれるようで、落ち着かない。だが、そんな理子の考えは、幸か不幸か思い切りはずれることとなった。
「避妊具は持って行くべきですかね」
 直後、カールの股間に、理子の手提げ鞄、革製で中には大型の携帯端末が収納されている、が恐るべき加速をもって襲いかかった。鞄は見事にカールの股間に直撃し、『彼自身』を一撃で戦闘不能に追い込んでしまった。
 理子はその後、何も言わずに自宅の門を開け、中へと入っていった。門の前には、股間を押さえてうずくまる、冗談の過ぎた幼なじみが、一人取り残されるのみとなった。
「これは……、さすがに……」
 股間からこみ上げてくる、文字通り『筆舌に尽くしがたい』感覚のせいか、彼は五分ほどその場から動くことができなかった。

  Ⅱ 第一日目 ~昼~

 理子は荷物を抱えたまま、早足でデッキを駆け抜けていった。天窓には白と青の混ざり合った景色が広がっている。もちろん理子はそれが地球だと言うことを知っていたし、初めて目にするものだから、できればゆっくりと眺めていたかった。しかし残念なことに今は夏休みという観光シーズンまっただ中の上に、軌道エレベータが人数オーバーで遅れてしまったため、二十七番デッキで待っているはずの銀河遊覧船に、乗り遅れかけていたのである。
「あと一時間早く出発していれば、こんなことにはならなかったんですがねぇ」
 後ろからカールが話しかけてきたが、理子は無視して人混みをかき分けていった。
「あーあ、これでおじさんのプレゼントも無駄になっちゃいますね。後でどう弁解すればいいんでしょう。土下座でもしますかね」
「あんたは黙ってなさい、カール」
 理子は振り向かずに言った。
「まあ仕方ありませんね。お嬢さん、自己責任というやつですよ」
「あたしは『黙ってろ』って言ったのよ! ああ、もう、やっぱりあんたなんかと一緒に来るんじゃなかった!」
「僕はおじさんから、お嬢さんの身辺警護を任されてますからね。そうはいきませんよ」
 理子はカールに向き直って激しく憤ったが、当のカールはまるでいつものことのようにひょうひょうと受け流していた。
「それは身辺警護じゃなくて……」
「それよりお嬢さん。もう二十七番デッキ見えてますよ」
 今まさに理子がカールにつかみかからんとしたとき、彼は人混みのむこうに見える『二十七番デッキ』と書かれた表示を指さした。
「いいんですか、もう時間ありませんよ。もちろん僕はかまいませんがね。ここで僕をひっぱたいてボコボコにしたとしても、旅行に行けなくなるのはお嬢さんですから」
 カールは胸ぐらをつかまれたまま、理子を見つめて言った。理子はこのふてぶてしい幼なじみ兼従者を思い切りひっぱたいてやりたかったが、今は乗り遅れないことが最大の目標なので、彼女はふん、と鼻をならした後、その栗色のポニーテイルを振りかざしながら、目的の二十七番デッキへと、人と人の間を縫って走り出した。
「もう少しおしとやかになれば、文句ないんですがねぇ」
 カールは理子に聞こえないようにつぶやいた。幸いそれは理子には聞こえていなかったらしく、彼女は人混みに四苦八苦しながら進んでいる。艶のある栗毛と、下着が透けそうで透けない白のブラウスと、形の良いヒップが浮き出た青色のジーンズを、数秒ほど眺めたカールは、理子に遅れまいと同じように走り出した。

 幸いなことに、二人は乗り込む船の出航前にデッキに着くことができた。物資の搬入に手間取ったらしく、まだ乗り込むことはできないようだった。
「やれやれ、何とか間に合いましたね」
カールの言葉に耳を貸すことなく、理子は自分の荷物を乱暴に押しつけると、そのまま人通りの少ない窓辺へと向かっていった。
「退役した軍用艦を改造したって噂は、マジだったみたいね」
 理子は窓から、星の海に浮かぶ宇宙船の姿を見た。宇宙船らしく上下は対照で、壁面には『ロジャー・ヤング』と書かれている。上履きを二つ重ねたような姿をしているそれは、なんとなく滑稽に思えた。
「『聖堂船』ならもっと優雅な外見ですけど、アレは遊覧船というより豪華客船ですからね。宇宙の観光名所をちゃちゃっと見て回るなら、ロジャー・ヤングは優秀な艦ですよ」
 二人分の荷物を持っているのに、顔色一つ変えないカールが理子のそばに立った。
「あたしの誕生日プレゼントなんでしょ。もう少し品のある船はなかったのかしら」
 理子は窓の強化ガラスに手をついて、ため息を漏らした。ガラスに映った理子の、普段のつり目がすっかり垂れ下がっている様子を見て、カールはこのわがままな幼なじみを少々不憫に思った。
「本当は僕じゃなくておじさんが一緒に来れば良かったんですがね」
 カールは沈んだ表情をする理子に同情を示した。
「男親と年頃の娘が二人きりで旅行なんて、冗談じゃないわ」
 理子の声は憤っていたが、その裏にある感情をカールは敏感に感じ取っていた。
「なら、僕なら良いんですか?」
「一番良いのは一人旅よ」
 カールの冗談は、すぐさま理子に否定されてしまった。カールは荷物を肩にかけたまま、やれやれといった仕草を示した。

 二人がそんな問答をしていると、閉じられていた搭乗口が開き、無機質な女性のアナウンスがデッキに流れた。
「やっと座れるのかしら」
 理子はカールに荷物を持たせたまま、ゆっくりと搭乗口へと向かっていった。周りを見回すと、数人の人間が同じように搭乗口へと向かっている。
「きっと内装は、あっと驚く豪華なものでしょうね」
 カールは理子に話しかけたが、彼女は何も言わずに歩いていった。カールは肩に荷物が食い込むのを感じ、ちょっとした苦痛を覚えたが、その微笑を崩すことなく、理子の後を追った。
 搭乗口からロジャー・ヤング号までの通路は、重力の支配が及ばない場所だった。動く手すりにつかまって、理子とカールはつかの間の無重力に身を任せながら、ロジャー・ヤング号へと向かっていった。左右に設置された窓からは、青と白に彩られた水の星を視界にとらえることができた。
「そういえば、お嬢さんは地球から出るのは初めてでしたね」
「そうよ」
 理子の反応は素っ気ないものだったが、カールはかまわず続けた。
「宇宙は良いところですよ。星が瞬かないし、何よりうるさくない。いくら騒いでも音を伝える媒体がありませんからね」
「それで、何が言いたいのよ」
 理子はうっとうしそうにカールのほうへ振り向いた。
「孤独なんです、宇宙は。どんな密室よりも、自分が銀河の端の星系にある、小さな惑星の上ではい回っている、ちっぽけな生き物にすぎないと言うことを、自覚させられます」
 カールの表情はいつもと変わらなかったし、声の調子も普通だというのに、理子はその言葉に何か悲しみのようなものが込められているように思えた。
「急にどうしたのよ」
「何、ちょっとした感傷ですよ」
 カールは理子から顔を背けて、地球に視線を移した。理子もそれを追った。青と白のコントラストに包まれた地球は、とても自分が生まれ育った場所とは思えないほど美しかった。そしてまた、理子はカールに視線を戻した。紺色のジャンパーと黒っぽいズボンに身を包んだ彼は、いつもの微笑で地球を見つめている。
「しかしよかったですねえ」
 カールは急に理子に視線を戻し、明るい、ちゃかすような声で言った。
「な、何よ」
「宇宙で寂しくなっても、お嬢さんにはいつでも僕がついてるんですから。どんなときでも、ご用命とあらば僕が慰めてあげますよ」
「蹴るわよ」
 先ほどまでの雰囲気とうってかわって、明るく冗談を飛ばしたカールに、理子は厳しい反応で返した。カールは申し訳なさそうに頭をかいた。そうこうしているうちに、二人は船内へと入り、重力が復活するのを肌で感じていた。

 船の中はさほど豪華というわけではないが、それなりに上等な内装だった。壁には名前も知らない画家の絵が掛けられ、床には白を基調としたタイルがはめ込まれていた。天井には穏やかな光をたたえたシャンデリアがぶら下がり、部屋の中央には得体の知れない植物に囲まれて、小さめの噴水が鎮座している。おそらくはホールだ。天井は完全な透明で、停泊している他の宇宙船を、真下から眺める形となっていた。
「ようこそ、ロジャー・ヤング号へ」
 背の高い黒人で、感じの良いスーツに身を包んだ、スキンヘッドの男が近づいてきた。
「ジェラールと申します。この船の接客チーフを務めています。お手数ですが、お名前の確認をさせて頂いてよろしいですか?」
 ジェラールと名乗った接客チーフは、その風貌に似合わぬ友好的な笑顔を浮かべた。
「カール・レグルスです」
「ジュアン・理子」
 二人が名乗ったのを聞くと、ジェラールは手持ちの端末を少し操作し、そしてまたあの友好的な笑顔を浮かべて視線を戻した。
「カール・レグルス様とジュアン・理子様ですね。確認いたしました。チケットとバイタル・サインのチェックをお願いできますか?」
 ジェラールはそういって、手持ちの小さな端末を二人に向かって差し出した。チケットを見せろと言われたので、理子とカールはポケットから少し曲がった紙媒体のチケットを取り出し、ジェラールに差し出した後、端末に自分たちの手のひらを押しつけた。
「ありがとうございます。乗船手続きはこれで終了です。銀河標準時十八時より、当ホールにて夕食となります。スケジュールは各部屋の端末でチェックいただけますので、どうぞご利用ください。カール・レグルス様は205号室、ジュアン・理子様は204号室がお部屋となっております。それでは、ごゆっくり宇宙の旅をお楽しみください」
 乗船手続きを終えた理子は、ざっとホールを見回した。
「割といい感じね」
 見たこともない絵画はヨーロッパのどこかを描いた風景画で、名も知れぬ植物は淡い緑色をしていて、シャンデリアの光を反射している。噴水から噴き出す水は何度も形を変えて、小さな虹を作り出していた。
「仮にもおじさんのプレゼントですよ? 悪いもののはずがありませんよ」
「そう? あたしが六歳の時のプレゼントは最低の……」
「ちょっと、後がつかえてんだからさっさと行きなさいよ」
 理子が父親の愚痴を言おうとしたそのとき、すぐ後ろに立っていた別の旅行客が不快そうな声を上げた。二人が振り向くと、そこには真っ黒なサングラスをかけた、背の高い、紫髪のショートカットをした女が立っていた。女は大きなスーツケースを引きずっていて、短パンに黒いジャケットという出で立ちだった。
「何よ、その言いぐさ……」
「いやぁ、申し訳ありません! さあ、お嬢さん、さっさと部屋に行ってゆっくりしましょう! ね? それじゃあ失礼します!」
 理子が言い返そうとした瞬間、カールはあわてて理子の口をふさぎ、抱きかかえるようにしてその場を立ち去っていった。理子は一瞬何が起こったのかわからなかったようで、抵抗らしい抵抗をすることができなかった。

 去っていく理子とカールを眺めながら、女はサングラスをゆっくりとはずすと、ジャケットの胸ポケットにしまい込んだ。
「やれやれ、最近の若いもんってのは、全く……。それじゃチーフさん、手続きよろしく。あたしはカルメン・イバニェスよ」
 カルメンと名乗った女は、ジェラールに向き直り、手続きを開始するよう促した。ジェラールは友好的な笑みを崩さず、素早く端末を操作した。
「それでは、チケットとバイタル・サインのチェックをお願いいたします」
「ええ、ちょっとまって。チケットを……」
 カルメンはそういって短パンやジャケットのポケットを探ったが、数回同じ動作を繰り返した後、あっという間に彼女の顔は青ざめていった。その様子を間近で見ていたジェラールは、その顔色が変わる早さに目を丸くしてしまった。
「あの……」
「ちょ、ちょっと待っててね! どこにやったかなァ! あたしって忘れっぽくてさ……」
 全身のポケットを引っ張り出しても何も出てこないので、カルメンはジャケットを脱ぎ、裏ポケットを調べた。そこにもチケットは見あたらなかったのか、何を思ったのか今度はスーツケースをひっくり返して、中身を調べ始めた。
「あの、お客様……」
「あ、後ろの人、先に手続きしてていいから!」
 困惑するジェラールを尻目に、辺り一面にスーツケースの中身、衣類や化粧品その他、を散乱させているカルメンに、周囲の人々は哀れみの視線を送っていた。チケットが見つかる様子がないので、ジェラールはすぐ後ろに並んでいた、赤毛の少年の乗船手続きを開始した。少年はちらちらとカルメンの後ろ姿を眺めながら、胸ポケットからチケットを取り出した。
 結局カルメンのチケットは、短パンの破れたポケットの穴に挟まっていたところを発見された。彼女の乗船手続きが完了したのは、彼女以外の全員が手続きを終了した、五分後のことであった。

 カールに抱きかかえられるようにして、理子はホールの両脇にある階段を上り、短い廊下を通って自室の前にやってきた。
「ちょっと、なんなのよいきなり!」
 カールの拘束を振り払った理子は、彼の持っていた自分の荷物をひったくった。
「あの場でいざこざを起こされたら困りますよ! お嬢さんも少しは自分の立場というものを考えてください。おじさんからの大事なプレゼントなんですから、気分良く行きたいじゃないですか。そうでしょう?」
 珍しくカールがまともな意見を言ったので、理子は反論することができなかった。
「なんにせよ、あまりカリカリしないでください。目立つといろいろ困りますから。それじゃあ、僕は部屋にいますから、何かあったら呼んでくださいね」
 そういって、カールは扉のすぐ横にある端末に手のひらを当て、認証をすませるとさっさと自室に入ってしまった。
「何よ、あいつ……」
 普段のカールと違い、今の彼にはちょっとした影が感じられるような気がした。とはいえ、理子自身も軌道エレベータに乗ったり、宇宙ステーションをかけずり回ったりしたせいで疲れていたので、あまり気にすることはなかった。それよりも早く、部屋に入って体を休めたいと思ったので、理子はドア脇の端末に手を押しつけて、認証をすませた。
 ドアを開けて部屋に入ろうとすると、すぐ右手から赤毛の少年がやってくるのが見えた。彼は理子が自分を見ていることに気づくと、かわいらしい笑みを浮かべて会釈した。そんな彼の様子に理子はとまどってしまい、小さく会釈しかえすと、部屋の中に飛び込んだ。

 部屋の中はごくふつうのホテルの一室、といった感じだった。床はふかふかの絨毯で覆われていて、ベッドは大きな乳白色のものが一つ。脇には小さめの棚と電気スタンドが備え付けられ、そばには木製とおぼしき机が置かれている。部屋の奥には理子の上半身がすっぽりはまるぐらいの窓があって、そこからはわずかながら地球の姿を見ることができた。
 理子は荷物をベッドの上に放り出すと、木製の机に備え付けられている端末を起動した。接客チーフの言っていたことを思い出し、スケジュールの確認をする。
「あと半日はこの船の中ってことか」
 父親が送ってきたのは、チケットと旅行の概要だけで、詳細なスケジュールはいっさいわからなかった。後でカールに聞いてみたところ、このツアーはわざわざ乗客に行き先を知らせない趣向を持っているらしいのである。
 端末のスケジュールにも、移動時間ぐらいしかかかれておらず、どこへ行くかは全くわからずじまいで、理子は少々あきれてしまった。一応、夕食までは地球周辺を遊覧する、ということになっている。
「面倒なことをするもんね」
 そうつぶやいて、理子は窓辺に立った。青い地球は窓からわずかにのぞくだけだったが、それでも十分鑑賞に堪えうる美しさであった。ベッドに腰掛けて、じっくりと地球を眺めていると、ふと理子は死んでしまった母親のことを思い出していた。

 理子の母親は、彼女が五歳の時に死んだ。そのときのことは、子供の頃ながら、しっかりと覚えている。理子の母親は有名な建築デザイナーで、地球圏に建設された、新たな宇宙ステーションの完成セレモニーに出席していた。そして、あろう事か一部の過激派のテロによってステーションは爆破され、彼女は宇宙の藻くずとなってしまった。
 荷物を床におろし、自宅のものより少し堅いベッドに横になったとき、備え付けの端末が急に音を発した。通信が入ったらしい。理子は体を起こし、薄型のモニタを見た。そこには、すぐ隣の205号室からの通信が入ったと表示されていた。
「どうです、部屋の居心地は。地球が見えてきれいですよ」
 理子が通信を受けると、端末からカールの声が流れてきた。
「あんたね、わざわざ端末で話すようなことじゃ……」
「いや、テストってやつですよ」
 壁一つ隔てたところにいるはずのカールは、いつもの調子に戻っていたように思えた。
「それで、なんの用?」
 理子はぶっきらぼうに言った。
「いえ、おばさんのことを思い出しているんじゃないかと思いまして」
 理子は答えなかった。カールも理子が無言だったので予想がついたらしく、何も言わなかった。白い壁と窓枠が宇宙空間を切り取り、その中に少しだけ地球が浮かんでいる。
「まあ、なんです」
 カールは重苦しい空気を断ち切るように言った。
「何かつらいことがあったら相談してくださいね。僕はいつだってお嬢さんの味方です」
「そりゃどうも」
 理子の返事を聞いて、カールは通信を切った。カールの声は聞こえなくなって、部屋の中は空調の音だけが響く世界に戻った。
「世話焼きなのは、おばさん譲りか」
 理子は、カールの両親の顔を思い浮かべた。カールの両親は、理子の家で働く使用人だった。理子の母親が死んだ後、カールやその両親が心の支えになったのは言うまでもない。もっとも、レグルス一家は理子が十歳になる少し前に、『諸事情』により使用人をやめ、どこかへ引っ越していってしまったのだが。
人体に最適な温度に保たれている室内は、理子の疲れた身体に自然と睡魔をもたらした。そのうち、理子は懐かしい人々の顔を思い出しながら、いつの間にか眠りについていた。

 昼寝をするとよく夢を見る、というのは理子も知っていることだった。自宅で小説に読み疲れたときは、気分転換によく眠るのだが、だいたいの場合変な夢を見て目が覚める。今回も同じで、理子は自分が宇宙空間に放り出される夢を見ていた。ステーションがテロにあって、理子は宇宙空間に吸い出され、地球の重力に捕まって大気圏に落下していく。そして地面が目の前に迫ったその瞬間、理子はようやく目が覚めた。
「なんて不吉な……」
 中途半端な睡眠をとったせいか、全身の関節がきしむ。理子は自分の身体についたサビを落とすように、全身をくねらせながらベッドから起きあがった。
 端末をチェックすると、夕食まであと一時間となっていた。部屋でこのまま過ごすのもなんなので、理子は船内を見て回ることにした。窓の外を見ると、いっぱいに地球が広がっている。
「そっか、しばらくは地球周辺だっけ」
 窓枠いっぱいの地球を数分眺めた後、理子は自室を出て行った。

 廊下には人影がなく、部屋の中と同じく空調の音だけが響いていた。船内を見学する、といっても行く当てがない理子は、右手奥にあるエレベータに向かって歩き出した。
 エレベータ自体はごくふつうのもので、特に認証もなく動作するようだった。どうやら展望台と廊下を行き来するためのものらしく、移動先を選択するボタンは一つしかなかった。理子がそれを押すと、すぐに扉が開いた。
 音もなくエレベータが上昇し、展望台について扉が開いたとき、理子はしばしの間呆然としてしまった。展望台はドーム状になっており、床以外のすべての壁が透明になっていて、蒼く巨大な地球が理子の頭上に浮かんでいる。彼女がエレベータから降りると、すぐにその扉は閉まり、他の壁と同じように透明になった。
「ステーションじゃ、ゆっくり見れなかったなあ」
 フロア中央にある、小さなカーボン製のベンチに腰掛けて、理子は宇宙を見上げた。
 船はゆっくりと地球の周りを動いているようで、頭上に浮かぶ地球は少しずつではあるがその姿を変えていた。北アメリカ大陸と思われる部分が、ちょうど理子の頭上に来ている。思わず自分の住んでいる地域のあたりに目をこらしてみるが、当たり前だが何も見えなかった。展望台は、やはり廊下や部屋と同じく、空調の音だけが響いている。
雲に覆われた茶色い大地に、何千何万という数の人間が暮らしている。自分も少し前まではその茶色い大地の上にいたと思うと、理子は世界の大きさに少しだけ畏怖の念を覚えた。今の時代、人間の生存圏は銀河の端、もっとも太陽系は元々銀河の端っこに存在しているのだが、にまで広がっている。カールの言葉のように、人間は宇宙という広大なフィールドに比べて、あまりにもちっぽけな生き物なのだろう。
「ま、小さくったって生きてるんだから」
 ずっと頭上に浮かぶ地球を眺めていたせいか、理子は首が少しだけ痛くなった。けだるそうに首を下げ、廊下やホールとは違う、灰色のタイルが敷き詰められた床に目をやった。よく磨き上げられたタイルには、頭上の地球がうっすらと浮かび上がっている。
 理子が首をゆっくりと回し、首筋に手をやった時、エレベータの上がってくる音がした。振り向くと同時にエレベータのドアは開き、そこに立っていた人物を目にした理子は、いつものように大きなため息をつくことになった。
「おや、偶然ですねえ。お嬢さんも地球の姿を、一目見に来たというわけですか」
 上着を水色のシャツに着替えたカールは、いつもの微笑を浮かべてそういった。

 カールは臆面もなく、理子のすぐ隣に腰掛けてきた。といっても、肌が触れあうほどの隣ではなく、数十センチほど間の開いた『隣』である。両親とともに『諸事情』で引っ越していく前は、もっと近い距離に座っていたような気がする。
 カールは引っ越しの後、理子が高校に入学する年になって、一人だけふらっと戻ってきた。その理由について、理子がいくら問いつめてもカールはのらりくらりとかわすだけだった。今となっては、理子も理由を聞き出すのをあきらめている。
「それで、何か用?」
 理子は地球を見上げながら言った。
「いや、別に用事なんかありませんよ。ただ、地球をゆっくり眺めてみたかっただけです」
 ふと見ると、カールもまた地球を見上げていた。理子が視線を向けても、それに反応すること無くカールの視線は地球に送られている。
「今日のあんた、なんかおかしくない?」
 理子は頭に浮かんだ疑問を、率直に口にした。カールは地球を見上げるのをやめ、自分の横顔を眺めている理子に視線を移した。
「そりゃあ、おかしくもなりますよ。お嬢さんと二人っきりの旅行ですからね」
 カールの顔は普段と変わりないが、この船に乗り込む時から妙な言動や仕草が多い。そう考えると、理子は彼のことが少しだけ心配になってきた。
「まあ、自分でそういうんなら別にかまわないけど、体調が悪いとかならさっさと医務室にでもいくことね」
 理子はそういってベンチから立ち上がった。カールは何か言おうとしたようだったが、去っていく理子を前にして言葉を飲み込んだ。理子はエレベータを呼び、扉を開けて中に乗り込んでいく。カールはそれを見て、少し声を大きくして言った。
「お嬢さん」
 理子はカールのほうに振り向いた。
「おじさんの誕生日プレゼントです、思い出深い旅になるといいですね」
 閉まる扉の隙間から、小さく手を振るカールの姿が見えた。完全にエレベータの扉が閉まり、下降しはじめてから、理子は普段見せない優しげな笑みを浮かべた。

  Ⅲ 第一日目 ~夜~

 展望台から下りた理子は部屋に戻り、備え付けのブックパネルにいくつか未読の小説をダウンロードして、夕食の時間まで読みふけっていた。物語が丁度盛り上がってきた時、ねらい澄ましたかのように端末からカールの声が流れ、理子は渋々ブックパネルを閉じ、外に出た。
「いちいち呼ばなくたって、夕食の時間ってことぐらいわかってるわよ」
 外に出るなり、理子は待っていたカールに愚痴を浴びせた。
「まあそういわずに。お嬢さんは熱中するたちですから、時々呼びかけないと何をするかわかりませんからね。前にも一度、一晩中小説を読んでいたせいで学校を休んだことがあったじゃないですか」
 痛い過去を突かれ、理子は言い返すことができなかった。
 そんな理子を尻目に、カールは白いタイルで覆われた廊下を踏みしめながら、ホールへと歩き出した。どうにかして理子は言い返そうと思ったが、頭の中に浮かぶのはどれも程度の低い言い訳ばかりで、しばらく考えた後理子は反論するのをやめた。

「あれ、一時間前はこんなテーブル無かったのに」
 ホールが見渡せる通路に出た理子は、思わずつぶやいてしまった。理子が見下ろすホールには、ついさっきまで影も形もなかった、巨大で白いテーブルクロスのかかった円形テーブルと、その上に盛られた色とりどりの料理が出現していたのである。
「他の皆さんはもう席に着いてますよ。早く行かないと、恥ずかしいんじゃありませんか」
 カールはそういって、理子を少し小突いた。その振る舞いに理子は、カールのつま先を思い切り踏みつけてやろうと思ったが、人前なのでやめておいた。
 階段を小走りに駆け下りたカールは、申し訳なさそうな表情を振りまきながら、噴水のすぐ横の席に着いた。理子もそれにつれられるようにして、カールのすぐ隣に座らされてしまった。
「やあ、皆さんお集まりのようですな。私はリチャード・ホウ。このロジャー・ヤングの船長を務めております。以後お見知りおきを」
 二人が着席するのを見計らったかのように、植物の影から白髪の男が顔を出し、挨拶した。
「すでに皆さんご存じのことかと思われますが、この艦はあと一時間ほど地球周辺を遊覧した後、チェレンコフ推進に入ります。船尾デッキの展望台にて、突入の瞬間を見学なさってはいかがでしょうか」
 ホウと名乗った白髪の男は続けた。
「まあそれはともかくとして、皆さんもそろそろ空腹を感じ始めた頃でしょう。すでに料理はご用意させて頂いているので、しばしの会食をお楽しみください。では、私は雑務がありますので、このあたりで失礼するとしましょう。年寄りの長話は、皆さんもお嫌いでしょうしな。それでは、ごゆっくり……」
 ホウは深々と頭を下げた後、そそくさと退場してしまった。理子はテーブルに料理を運んでくるメイド・ロボットを尻目に、周囲を見回した。
 ざっと見回すと、理子とカールを含めて、六人ほどの人間がテーブルに着いていた。部屋が十しか無いのだから、ある意味適正な人数に思えたが、理子はそれでもやはり少ないな、と感じた。そしてふと、自分の席のちょうど反対側に、乗船する時に文句をつけてきた、あの忌々しい紫髪の女が座っているのを発見したのである。
 幸いなことに、紫髪の女、カルメン・イバニェスは、料理を食べるのに集中しているらしく、理子の敵対的な視線に気づくことはなかった。文句の一つでも言ってやろうかと思ったが、面倒ごとになるのは避けたいので、理子は思いとどまった。
「盗み見ですか? お嬢さんにそんな趣味があったとは、オドロキですよ」
 周囲の確認をする理子に、カールはそっと耳打ちした。理子はそんなカールに何か反論してやろうと思ったが、さすがにカールの言葉が正しいと思ったので、少しムッとした表情を見せると、運ばれてきた料理を食べることに集中しはじめた。

 メイド・ロボットがどこからともなく運んでくる料理は、少なくとも自宅や学校で食べているものよりは、かなり上等だった。
「船が狭い分、料理に力を入れているんでしょうかね。もっとも、昔お嬢さんがごちそうしてくれたものには、かないませんが」
 カールは皿に盛られたサラダを、口に運びながら言った。
「カール、あんたってほんと嫌みなやつね」
 理子は、家事は基本的にメイド・ロボットに任せっきりで、食事の用意も同様だった。十年以上昔に、何かの料理番組を見て興味本位で作ったことはあったが、それを食べさせられたカールは、その日のうちに病院の救急外来へと連れて行かれてしまった。それ以来、理子は一度たりとも台所の器具を使っていない。
「あら、お二人ともずいぶんと仲がよろしいのね」
 すぐ隣に座っていた老婦人が、二人に話しかけてきた。白髪で、顔中しわだらけだが、着ている服を見る限りでは、非常に上品そうな印象を受ける。さっきのホウ船長よりも年上なのだろうな、と理子は推測した。
「それはどうも」
 理子は老婦人の顔を見ることなく、皿の上の牛肉を切り分けながら返事をした。楽しい食事の時間を邪魔するな、というわけではないが、同じ船に乗っている以外何の共通点もないのに、なれなれしく話しかけてくる老婦人を、理子は快く思っていなかった。
「申し訳ありません、お嬢さんは人見知りするほうでして。僕はカール・レグルス。ほら、お嬢さんも自己紹介するんですよ」
 そういってカールは理子を小突いてきた。どうにもこいつの言うとおりにするのは気が進まなかったが、ここで老婦人の印象を悪くしても後々得することはないと思い、理子は自己紹介に応じることにした。
「ジュアン・理子です。よろしく」
 応じることにしたとはいえ、理子の態度はさっきと相変わらず素っ気なかった。しかし、老婦人はそんな理子に対して何か不快な表情を見せるわけでもなく、ただ微笑を浮かべたまま穏やかに会話を続けた。
「ジェシカ・ブレディよ。こっちは夫のアレン。このツアーができたときから、結婚記念日にはいつも参加してるのよ。今年でもう十回目になるかしら」
 ジェシカと名乗った老婦人は、その銀縁のメガネをはずして、タオルで拭きながら言った。その顔はひどく幸せそうで、婦人が満ち足りた人生を送ってきたことを示していた。
「しかしまあ、若い男女が二人きりで旅行とはね。青春というものはすばらしいな。君たちを見ていると、私も昔を思い出してしまうよ。そうだろう、ジェシカ」
 婦人の脇から、恰幅のよい老紳士が顔を出した。こちらも又白髪で、やはり上品そうな印象を受けたが、口元のソースがそれをわずかながら弱めていた。
「まあ、あなたったら。確かに私たちも若い頃はずいぶんな無茶をしたわね。二十歳の時だったかしら、二人でミルキーウェイをわたろうって、宇宙船に飛び乗ったのは」
「ああ、そんなこともあったな。あのときは私も若かったよ。後で大目玉を食らうことなんか、考えもしなかったからな」
 老夫婦は急に昔の話題で盛り上がり始め、カールと理子はすっかり置いてけぼりになってしまった。理子は二人の幸せそうな様子を見つめていたが、突如カールが耳元で囁いた。
「端から見ると、やはり僕らは恋人同士のようですね」
 カールの勝ち誇ったような言い方が気に障り、理子はカールの顔をにらみつけた後、大きめの咳払いをして、老夫婦の会話に割り込んだ。
「一つ言っておかなきゃいけないことがあるんですが、こいつは私の単なる従者、付き人ですから。本来なら私、一人でこのツアーに参加するハズだったんです」
 理子は全く悪びれる様子のないカールを指さして弁明した。
「あら、若いときはみんなそういうものよ」
「関係を隠さなくなったらもう青春は終わりだな。ああ、そういえば昔……」
 理子の弁明むなしく、老夫婦の思い出話はますます盛り上がっていった。
「で、どうします」
「勘違いしておきたいなら、そうさせておけばいいのよ」
 理子は半ばあきらめた様子で、料理に意識を戻した。しかしそんな時、カールの席と反対の所に座っていた少年が、突如話しかけてきた。
「ジュアン・理子さん、ですよね。すみません、ちょっと盗み聞きしてしまって」
 彼の言葉に、理子はまたやっかいなのが来たなと思い、あえて返事をしないで牛肉を口に運んだ。
「あ、気を悪くしたなら謝ります。でも、もしジュアン・理子さんなら、僕と同じハイスクールに通っているから、ひょっとしたらと思って」
 その言葉を聞いて、理子は肉を切る手を止めた。
「それで、あんたはあたしをどうしたいの」

 理子の言葉は少々とげがあったが、少年はあまり気にしていないようだった。
「いえ、単なる興味本位なんです。同じ学校に通っている人が、同じ旅行に参加していると考えたら、ちょっとうれしくなっちゃうじゃないですか」
 少年の目は、十代後半とは思えないほど輝いていて、理子は少々面食らってしまった。普通なら、もう少しすれた顔をしているものだ。
「まあ、それはわからないでもないけど……、せめて自分が何者かぐらいは名乗りなさいよ。さすがに失礼でしょ」
 自分がついさっき、老婦人に失礼な振る舞いをしてしまったにもかかわらず、理子は少年の言動をとがめた。少年は申し訳なさそうな表情をして、非礼をわびた。
「すみません。僕はクリストフ・フェルゲルタンと言います。クリスで結構ですよ」
 少年は友好的な笑みを浮かべた。彼の縮れた短い赤毛と、丸みを帯びた幼い顔立ちが、その友好ぶりを強調していたのは明らかだった。
「クリスくんですか。僕は結構記憶力が良い方ですが、そんな生徒は覚えていませんね。ひょっとして学年が違うんでしょうか」
 カールが口を挟んできた。実際理子にも、クリスと名乗った少年には見覚えがなかった。
「あたしもよ。あんたが一方的に知ってるだけで、同姓同名の別人かも知れないじゃない」
 理子は手に持ったナイフでクリスを指しながら言った。
「いえ、確かに僕は理子さんを知っています。学内でも何度かお姿を拝見しましたし、何より理子さんは有名人ですから」
 その言葉に、黙々とサラダを食べていたカルメンが、急に目線を理子に向けた。
「ひょっとしてあんた、リカルド・インダストリーの社長令嬢?」
 カルメンの発言で、場の空気が一変した。二人の世界に浸っていた老夫婦は会話をやめ、理子は一瞬目線を落とした。
「前にちょっと聞いたことがあってさ、リカルドの社長って結構あくどいことやってるらしいのよ。んで、敵が多いもんだから、一人娘をどことも知れない普通の学校にやってるって。それであんたがその令嬢じゃないか、ってね。まあ憶測にすぎないんだけど」
 そういって彼女は、レタスの切れ端を口に放り込んだ。
「あら、でもその割にはお名前がジュアン・理子だなんて、どこにもリカルドが入っていないじゃない。それにあなた、英語名だと考えるなら、名前がジュアンで、名字が理子ってことになってしまうわ」
 老婦人が、不思議そうな顔で口を出してきた。人のプライベートにためらいなく踏み込んでくる人間が多いな、と理子は思って、ため息をついた。
「そうだ、自己紹介が遅れたわね。私はカルメン・イバニェス。フリーのジャーナリストやってるの。このツアーにはちょっとした取材で、ね」
 カルメンと名乗った女は、一切悪びれる様子もなく、明るい声で自己紹介した。理子は不快そうな表情を浮かべたまま、放置してあった牛肉をすべて平らげた。
「すみません、理子さん。僕の興味本位で、ひどくいやな気分にさせてしまって……」
 そんな理子の様子を見て、クリスはすぐさま自分の非を認め、謝罪した。これからどんな風にこの無礼な輩共に嫌みを言ってやろうか考えていた理子は、彼の思わぬ言葉のせいで、そんな気分が失せてしまった。
「……まあいいわ。別に隠すようなことじゃないし、いいのよ謝らなくて」
 理子はナプキンで口元を拭きながら言った。
「確かにお嬢さんの父親はリカルド・インダストリーの社長、ダニエル・リカルドですが、カルメンさんの情報は少々違っていますね。本当に敵が多くて、娘の安全が最優先ならば、お嬢さんは今頃、月にある金持ちの子供しか通えない私立で勉強してるでしょう」
 カールの口調は穏やかだったが、何かとげのある言い回しではあった。
「それとジェシカさん、でしたか。ダニエル社長は自分の立場のせいで娘の生活が騒がしくなるのを嫌って、彼女に名前を二つ持たせたんです。つまり、本来の名前は別にあります。もっとも、それを詮索するのは、ちょっとおすすめできませんが」
 カールの眼光は鋭く、普段のそれとは違って、縄張りを荒らされた肉食動物のようだった。もっとも老婦人は、そんなカールの視線を全く意に介していないようだった。
「あら、ごめんなさい。とすると、あなたは理子さんを守るナイトということなのね?」
「ナイトという表現は適切ではありませんね。僕とお嬢さんは単なる君主と臣下という段階ではありませんから。むしろそれ以上……」
「カール、その良く喋る口を縫いつけてやってもいいのよ」
 理子がカールの冗談をいさめたときには、彼の目はいつものそれ、何も考えていなさそうな能天気なものに戻っていた。そんな様子を見て、老夫婦もカルメンも、クリスもぷっと吹き出していた。
「本当に仲が良いのね、お二人は」
「もちろんですよ」
 全く懲りないカールを理子はいさめようとしたが、周りの皆が楽しそうに笑っているのを見て、そんな空気ではなさそうだと思いとどまった。

 それから後、食事は和やかなムードで進み、普段とげとげしい理子も時折笑顔を見せながら、偶然同じ船に乗り込んだ乗客達との会話を楽しんだ。ジェラールはそんな様子をブリッジ・エリアへと通じる扉の前でしばらく眺めた後、一般の乗客は立ち入り禁止の区域へと引っ込んだ。理子達はそんな彼の行動を気にも留めず、談笑を続けた。
「今回の仕事も、滞りなく進みそうですな、船長」
「ああ、そうだと良いがな、ジェラール。こういう仕事はだいたい予期せぬトラブルに見舞われるもんだ。好奇心の強いガキがうっかり立ち入り禁止区域に入り込んだりな」
 休憩室の少し暗い明かりの下で、ホウ船長はたばこを吹かした。白い煙は、休憩室の白い壁にぶつかって、すぐさま空調に吸い込まれて消えた。
「あんたもいい加減この仕事長いんだから、そういう楽観的な予測はよすんだね。ああ、ったく、やってらんないよ」
「おいエレノア、ここで吸うんじゃねえよ。俺はやらないんだぜ」
 エレノアと呼ばれた赤毛で細身の女は、たばことは少し違った、白いスティックに火をつけようとしたが、大柄な男にいさめられて、不満そうにライターの火を消した。
「フランク、あんたこれをやらないで何やろうってのよ。人生損してるね、間違いなく」
 エレノアは白いスティックを指先に乗せて、バランスを取って見せた。
「俺がやるのは、酒とたばこと女だけだ」
 フランクと呼ばれた、大柄で筋骨隆々、ぼさぼさの髪を無造作にバンダナで留め、上半身は暗緑色のタンクトップのみの男は、そういってグラスに注いだ安酒をあおった。
「潔癖だこと」
 エレノアは失望した様子で、上着のジャケットにスティックをつっこんで、休憩室を出て行った。そんな彼女の様子を、なめるような視線で、中年の男が見つめていた。
「ああ、畜生、デュボアはいいよな。俺はもう人生の折り返し地点をすぎちまったが、未だに女をやったことがないぜ」
「そりゃ、おまえがハゲてるからだろう、ディミトリ」
 ディミトリと呼ばれた、小太りで脂ぎった中年の男は、そのすっかり後退した頭に手をやって、複雑そうな表情を示した。
「おまえ達、そろそろ仕事だ。お客にちょっとした見せ物をしてやらにゃならん」
 ホウ船長は、そういって席を立った。残りの二人もそれに続き、立ちっぱなしだったジェラールは、休憩室の照明を落として、最後に部屋から出て行った。

「本艦はただいまよりチェレンコフ推進に入ります。艦尾の展望台より、突入の瞬間をごらんいただけますので、是非お越しください」
 ホウ船長の艦内アナウンスが響き渡り、理子達は食事を終了して、階段を上って客室前通路を横切り、艦尾エレベータへと向かった。

「ただいまより、本船はチェレンコフ推進に突入致します」
 ホウ船長のよく通る声が、エレベータの中に響いた。それと同時に、エレベータは展望台へと到着し、一行はおのおの好きな席に着いて、チェレンコフ推進突入の瞬間を待った。真っ先に席に着いたのはブレディ夫妻で、一番前のベンチに二人仲良く座った。そのすぐ隣のベンチにカルメンが一人腰掛け、その後ろにはクリスが一人。残された理子とカールは、ちょうどブレディ夫妻のすぐ後ろに腰掛ける形となった。
「突入まであと十……九……八……」
「あらあら、もうなのね」
 ジェシカ夫人は展望台全域に映されている地球と、満天の星空を眺めながら言った。
「どうです、突入の瞬間にお嬢さんが、僕に愛の告白をするというのは」
 理子がカールの足を思い切り踏みつけようとした瞬間、ロジャー・ヤング号はチェレンコフ推進へと突入した。ジェシカ夫人の言ったとおり、理子の視界に映っていた星々は、あっという間にその光を帚星の尾っぽへと変化させ、彼女の視神経を覆い尽くした。
「これは……」
 思わず理子は片目をつむり、右手でその激しい星の光を遮った。と、その時、透明だった展望台の外壁は一瞬にして光を通さない状態になり、その壁面には地球のどこかで撮影してきた、サバンナの画像が映し出されていた。
「ただまぶしいだけじゃない、これ」
「今頃、初めてチェレンコフ推進を体験した人は泣いているでしょうね」
 理子は見たままを表現したつもりだったが、そういわれると何か自分が悪いことを言ったようで、ちょっとばつが悪くなってしまった。
「無理もないわ。初めての人にとっては、刺激が強すぎるもの。それにこの時代じゃ、超光速航法なんて珍しいものでもないし。私が若かった頃は、そりゃ夢の技術が現実になった、ってもてはやされたものだったから……」
「それが年を取る、ということさ」
 ブレディ夫妻は、そういって肩に手を掛け合って、サバンナの風景を見つめたまま黙ってしまった。その姿は彼らの経験してきた人生を物語っているようで、理子はなんだか自分の若さが恥ずかしいことのように思えてしまった。
「でも、わざわざ外壁を不透明にしなくたっていいのに」
「無理もありませんよ。チェレンコフ推進中は光速を越える速度で移動しますから、そんな光景をマトモに見たら、脳がパンクしてしまいますよ」
 カールはご丁寧に理子の漏らした疑問に応えていたが、当の理子はそんな彼を無視して、二つ離れた席で、思い詰めたような表情をしているクリスに目をやった。

「感動的な瞬間だってのに、えらく辛気くさい顔してるじゃない」
 理子は少々失礼とも思える言葉を口にしながら、クリスのそばに近寄った。
「あ、すみません。ちょっと昔のことを思い出していました」
 クリスはそういって、空色の上着の袖で目元をこすった。
「おや、珍しい。傍若無人なお嬢さんが人の事を気にするなんて」
「カール、あたしはあんたほど馬鹿じゃないのよ」
 カールの嫌みに痛烈なカウンターを返してやった理子は、すぐ視線をクリスに戻した。そして彼が、胸元に銀の鎖でつないだ、同じく銀の指輪を握りしめる所を発見した。
「恋人、か何かでも思い出してるの?」
 他人の詮索をするのはあまり好きではなかったが、純朴そうな外見をしたクリスには似合わない装飾品だったので、理子は思わず聞いてしまった。
「父のことを、思い出していました。これは、父の唯一の遺品なんです。まあ、正しくは僕の父と母、の遺品なんですがね」
 理子はそれを聞いて、内心まずいことを聞いてしまったな、と思った。
「父は宇宙船のクルーでした。僕が十歳の時に、事故で死にました。宇宙船の事故というのは、悲惨なものでして。指輪をはめた左腕以外、何一つ残らなかったんです」
 クリスの思わぬ告白に、理子もカールもかけるべき言葉が見つからず、ただ彼を見つめて黙り込むことしかできなかった。
「なんか、悪いこと聞いちゃったみたいね」
 理子は遠くを見つめているクリスの顔から視線をそらし、彼の握りしめている指輪へと目をやった。指輪はシンプルな銀製で、裏に何か刻印がなされているようだった。そんな彼女の様子に気づいたクリスは、思わぬ言葉を口にした。
「良かったら、この指輪、差し上げましょうか?」
 あまりに唐突な申し出に、理子は目を丸くして口をだらしなく開けるしかできなかった。
「い、いきなりどうしたのよ、あんた」
 無様に開いた口を強靱な意志で閉じ、理子はクリスの言葉の裏を探ろうとしたが、一瞬の出来事だったのであまりに陳腐な問いしか出てこなかった。
「お嬢さん、あなた今愛の告白をされてるんですよ」
 もっとも、そんな思考停止状態においても、理子は空気の読めない発言をするカールの顔面に、パンチを入れることだけは忘れなかった。
 正面からグウのパンチを食らったカールは、痛みのあまり顔を覆ってうずくまってしまったが、理子はそれを何ら気にすることなく、クリスとの会話を続けた。
「それ、親御さんの形見なんでしょ。そんなものを、いくら同じ学校に通ってるとはいえ、見ず知らずの他人に渡そうなんて、あんた頭どうかしてるんじゃない?」
 理子の言葉は辛辣だったが、クリスはにっこりと笑って言った。
「いや、そういうつもりではありませんよ。ほら、見てください。これ、ちょっといじると、こんなふうになるんですよ」
 クリスは手に持っていた指輪を、両手で縦にひねった。すると、指輪は見る間に二つに割れ、そして双方とも同じ形になってしまったのである。
「なるほど、エンゲージリングというわけですか」
 後ろからカールが顔を出した。殴られたというのに平気な顔をして話に割り込んでくる彼は、見た目より相当タフなのではないか、と理子は思った。
「結婚指輪ならお断りよ」
「そういうものじゃありません。ほら、三つにも四つにも分かれるようにできてるんですよ、これ。元々、親しい人に渡すものだったと聞いています」
 クリスはそういって、指輪をさらに分割して見せた。そして鎖をはずし、そこから分割した指輪を二つ手にとって、カールと理子に手渡した。
「これで、僕たち三人は友人になった、というわけです」
 そうやって微笑むクリスを見たせいか、理子はもらった指輪を突き返すこともできず、ただ呆然とするしかできなかった。
「言っておきますが、後でお嬢さんに渡したのは『結婚指輪』だった、というのは無しですからね。お嬢さんは何があろうと僕の……」
 そこまでカールが口走った直後、彼は理子の渾身のパンチを裏拳気味に顔面にもらい、床に後頭部をたたきつけて一回転し、そのままうずくまってしまった。
「要するに、『お友達リング』ってこと?」
「そう解釈してもらってかまいません」
 二人は背後でうめくカールを気に留めるそぶりすら見せず、淡々と会話した。
「さて、それじゃあ僕はそろそろ部屋に戻ります。長旅に慣れてないので、早めに寝ておこうと思います」
 そういって、クリスはゆっくりと立ち上がった。そしてエレベータに向かって歩き出し、扉を開けて乗り込むと、かわいらしい笑顔を浮かべて階下へと降りていった。
「このメンツの中じゃ、あたしに次いで普通の奴だと思ってたけど、やっぱりクリス君も変な奴だったわね。顔はかわいいのにねぇ」
 閉まったエレベータの扉を見つめていると、ひょいと横からカルメンが顔を出してきた。
「それ、本気で言ってるの?」
「もうちょっと気の利いた返し方しなさいよ」
 期待はずれの反応を返されたカルメンは、ばつが悪そうにブレディ夫妻の隣に座り、今時の社会情勢などのつまらなそうな話題をはじめた。周囲に映し出されたサバンナの風景をずっと見ていてもおもしろくないので、理子はクリスと同じように部屋に戻って眠ろうと考えたが、そこでふとカールが倒れたままであることを思い出した。
「カール、大丈夫なの?」
 理子はベンチのすぐそばでうずくまったままのカールの肩に手をやった。カールは顔面を押さえたまま動かなかったが、理子は手の隙間から覗く顔の一部に銀色の液体が付着しているのを見つけた。
「ちょっと、あんた顔に……」
 カールは理子が言葉を言い切る前に、顔をぬぐってゆっくりと立ち上がった。
「全く、心配してくれるのはうれしいんですが、お嬢さんも少しは加減というものを知ってください。僕だってスーパーマンじゃないんですから、殴られたり蹴られたりすると、痛いんですよ」
「だったら、あんたはそのふざけた言動をどうにかしなさいよ」
 理子に説教をするカールの顔に、先ほど目にとまった銀色の液体は一滴も認められなかった。理子はそれを内心不思議に思いながらも、カールの説教に反論する。
「お二人さん、そろそろあたし達は行くけど、あんた達はどうするの?」
 言い争いをしている二人に、エレベータに乗り込んだカルメンが声をかけた。背後にはブレディ夫妻の姿も見える。言い争いでカールを打ち負かしたいという気分もあったが、展望台に二人きりという状態になるのが気にくわなかったので、理子はさっさとエレベータに向かって歩き出した。
「あ、おいていかないでくださいよ~」
 そんな理子を追いかけて、カールもエレベータに乗り込もうとしたが、先に理子が扉を閉めてしまったため、カールは一人展望台に取り残されるはめになった。

「良いのかしら? あなたのナイトをおいて来ちゃって」
「子供じゃあるまいし、部屋に帰るぐらいはできるでしょ」
 ジェシカ夫人の言葉に、理子はつっけんどんな対応をした。そんな理子を見て、ジェシカ夫人は小さな笑いを漏らした。
 エレベータはすぐに階下へと到着し、一行はカール一人を展望台に残したまま、それぞれ部屋やレクリエーションルームへと散っていった。理子はカールが降りてくる前に部屋に入ろうとしたが、認証に手間取っている間にエレベータのドアが開き、やれやれといった表情のカールが姿を現してしまった。
「お嬢さん、今回は展望台だったから良かったものの、未知のモンスターが追いかけてくる廊下とかで、同じ事やらないでくださいよ」
「あり得ない状況を想定するんじゃないわよ」
 自室の前まで歩いたカールは、さっさと自分の部屋の認証をすませて、扉を開けた。
「ま、なんにせよ」
 カールはその白い歯を見せて、理子に笑いかけた。
「今日の所は、おやすみなさい」
 そういって、カールは理子の返事も聞かずに、自分の部屋へと引っ込んでしまった。ついさっきまで言い争っていたというのに、すぐに態度を軟化させることのできるカールを見て、理子は自分が子供なのではないかと、恥ずかしくなってしまった。

 理子は部屋の中へと入った。地球が見えていた窓には、展望台で見たのと同じ、どこかのサバンナの風景が映し出されていた。理子はそのままベッドに倒れ込み、クリスからもらった指輪をズボンのポケットから取り出し、眺めてみた。
「A・RとC・R、ね」
 指輪の裏側には、クリスの両親のものと思われるイニシャルが刻まれていた。複数に分割できるとはいえ、そんなものを渡してくるクリスのことを、理子は少し不思議に思った。
「父さんと母さんの結婚指輪も、こんな感じだったのかなぁ」
 理子はまだ優しかった父と、存命だった母の左手を、記憶の中から思い出そうとしたが、正確なビジョンが浮かび上がらず、数分の後その試みをあきらめた。
 理子はブックパネルを手に取り、夕食前に読んでいた小説を、再び読み始めた。旧世紀、洋上の豪華客船で、陰惨な殺人事件が起きるという話だった。物語は佳境に入り、犯人が姿を現して、船内で銃撃戦が起こる。
「面倒なこと、起こったりしないわよね」
 今の状況と小説の展開を重ね合わせて、理子はつぶやいた。無論理子とて、小説と現実が別物であるということは理解している。ただ、物語の主人公とその助手が、今の理子とカールの関係に似ていたせいで、そんな考えを持ってしまったというだけである。

  Ⅳ 第一日目 深夜

 陰惨な殺人事件を描いていた割には、小説はあっさりとした結末を迎えた。犯人は銃撃戦の後、甲板で自害。主人公の女探偵は、犯人の銃撃から自分をかばった付き人とキスして、すべてめでたしめでたし、である。
「有名どころはほとんど読んじゃったし、まあこういう展開ばかりになるもの、しょうがないと言えばそうなんだろうけど」
 理子はブックパネルをベッド脇の棚におくと、シャワーを浴びようと立ち上がった。そして、自分のズボンのポケットの中に、クリスからもらった指輪を入れっぱなしだったことを思い出した。
「R、ねえ……」
 指輪を取り出した理子は、裏側に刻まれているイニシャルを眺めながらつぶやいた。クリスの名字は、正確なスペルを見たわけではないが、Rでは無かったはずだ。
「なんか、複雑な事情でもあるのかな」
 理子は純朴そうなクリス少年の笑顔の裏には、何らかの秘められた過去があるのではないかと推測した。そして、それと同時に、ちょっとした好奇心も沸いてきた。しかしながら、もう深夜の一時を回っている今、クリスに事の真偽を確認しに行くわけにもいかない。彼女は指輪を棚の上に置き、着ていた衣服をベッドの上に脱ぎ捨てると、絨毯の繊維で足の裏をチクチクさせながら、シャワールームへと歩いていった。

「クソッ、またか」
 ディミトリは毒づいたが、ホウ船長はそれを気にも留めずに、再度カードを配りなおした。デュボアはその様子を眺めながら、たばこをふかしている。
「今日はついてねえ」
 ディミトリは負け分のチップをテーブルの上にたたきつけた。
「しかし俺たちも、こんな賭け事ばかりで、芸がないな」
 デュボアは配られたカードを確認しながら言った。休憩室の明かりは薄暗く、ポーカーをやるにはうってつけの雰囲気だった。
「俺たちみたいな悪党は、薄暗い部屋でカードゲームって相場が決まってるのさ」
 ディミトリはその残り少ない髪の毛を揺らして笑った。そして彼がカードの交換をしようとしたその時、休憩室の端末から機械的な音声が流れた。
『機関室、チェレンコフ・ドライブ・ユニットにクラスCの異常発生』
「またか、このボロ船め」
 デュボアは無機質な機械音声の報告に、悪態をついた。
「俺たちの仕事にはボロ船のほうが向いているのさ。文句言うな、デュボア。ちょっと見てきてくれればいいんだ」
 ホウ船長は落ち着いた様子で、デュボアに機関室のチェックを促した。
「クラスCだぞ、別に今すぐ行かなくたって良いだろう。もうチェレンコフ推進は終わってるんだ、この勝負が終わってからでも問題ない。そうだろ、船長」
「そうは言うがな、デュボア。万一の可能性を俺はよく考えるんだ。そうさ、異常を放置したせいでユニットがぶっ壊れて、俺たちは仕方なく救難船を呼び、現場を押さえられ豚箱にぶち込まれる、万一の可能性をな」
 遠回しに早く行けと主張する船長に、ゲームの継続を主張するデュボアは折れた。
「いい手なんだ、俺が帰ってくるまでゲームを進めるんじゃねえぞ」
 舌打ちしたデュボアは、壁に掛かっていた黒のジャンパーをつかむと、不満そうに休憩室のドアを開けて出て行った。
「ちくしょう、ブタだ」
 デュボアが出て行くと同時に、ディミトリは自分の手札をテーブル上にさらけ出した。

 機関室内部は、最低限の明かりがともっているだけで、かなり薄暗かった。元々人の出入りが激しい場所ではないために、乗組員が行き来する場所の明かりは基本的に暗くなっている他、壁の塗装も満足に行われていない。
 そんな機関室のドアが開き、何者かが侵入してきた。デュボアだった。
「せっかく改造した船だ、新品にするというわけにもいかんのだろうが……」
 ハンドライトを手に、デュボアは機関室奥にある、チェレンコフ・ドライブ・ユニットへと近づいていった。
 ユニットはいつも通りの高い駆動音を出しているだけで、特に変わったところはなかった。デュボアは慣れた手つきで、ユニット最後部にあるコンソールパネルを開き、自己診断プログラムを実行した。
 パネルに、ユニットの現在の状態が瞬く間に表示されていく。そしてデュボアは、補助量子変換ユニットにわずかな異常が発生しているのを発見した。
「異物混入、ね。ゴキブリか何かか……」
 外界と隔離された宇宙船といえども、ゴキブリのような生物の侵入は良くある。荷物やドックから侵入してきた数匹が、天敵のいない環境でのびのびと成長、繁殖するのである。ロジャー・ヤング号でも対策をしていないことはなかったのだが、本社のコスト削減の方針により、それは乗客が移動する範囲のみでしか行われていなかった。
「社員のことも考えてもらいたいもんだ」
 デュボアは毒づきながら、異常部位を調べた。あくまで補助である量子変換ユニットに異常が発生したからと言って、すぐさま航行不能になるわけではなかった。しかし、放置しておくとメーンユニットに影響を及ぼしかねないので、デュボアはさっさと処置することにした。
 この船の整備員であるデュボアにも、チェレンコフ・ドライブ・ユニットの詳しい仕組みはわからない。本国の良くできた研究者が作り出したらしく、船全体の量子位相をずらして、擬似的に超光速に達するのだという。もっともデュボアにとって重要なのは理屈ではなく、どこにどんな異常が起きたとき、どう対応すればいいか、ということであった。
「クソが、害虫の分際で」
 補助量子変換ユニットを開き、中を確認すると、淡い光を放つ複合ケイ素繊維の隙間に、見慣れた茶色い触覚と、薄汚い羽根をもった生物が見えた。間違いなくゴキブリだ。
「てめーのおかげで楽しいポーカーがパァだ」
 デュボアはそういってゴキブリを素手でつかみ、床にたたきつけると厚底のブーツで念入りに踏みつけた。ゴキブリはクリーム色の体液を飛び散らせて、バラバラになった。
 仕事を終えたデュボアは、ポーカーの続きをしようと、機関室の出入り口へと歩き始めた。そしてその出入り口に、茶色いフードとローブを身につけた、修道僧のような姿をした人間が立っているのを見つけた。
「おい、ここで何してるんだ」
 デュボアの問いかけに、相手は答えなかった。その代わり、修道僧は一歩一歩、デュボアに向かって近寄ってきた。修道僧の顔は深くかぶられたフードと、機関室の暗い照明のせいで、よく見えなかった。
「質問に答え……」
 デュボアが言葉を言い切る前に、修道僧は一瞬にして彼の眼前へと迫った。かろうじて目で追えたその身のこなしは、とても人間のものとは思えないものだった。猛獣のそれというわけでもない。例えるなら、肉食昆虫が、補食の際に行う動作に近かった。
 修道僧は移動と同時に、その右手で彼の首筋をつかみあげた。茶のローブからわずかに覗くその腕は、筋骨隆々の大男を片手で持ち上げられるとは思えないほど、細く白いものだった。
不意の一撃にデュボアは精一杯抵抗しようとしたが、修道僧の握力は恐ろしいほどに強く、彼は一瞬のうちに頸動脈を締め上げられ、屠殺される直前の鶏のようなうめきをあげた後、脳への血液供給を絶たれて意識を失った。手に持っていたハンドライトはするりと抜け落ち、鈍い音を響かせて床に落ちた。
修道僧は、口から唾液をだらしなく垂れ流すデュボアの顔を満足げに眺めると、彼の身体を片腕で引きずりながら、チェレンコフ・ドライブ・ユニットと壁の間にある隙間に消えていった。

 シャワーを浴びてさっぱりした理子は、持ってきた寝室用の衣服に着替えて眠り込んでいた。悪夢を見るわけでもなく、ゆったりとしたその睡眠は、突如船体に響いた轟音と、激しい振動によって妨げられた。
 ベッドの端で枕を抱え込むように眠っていた彼女は、激しい船体の揺れを身体に感じた直後、絨毯の敷かれた床に仰向けに転げ落ちて目を覚ました。
「ちょっと、何事なのよ」
 床にぶつけた後頭部をさすりながら、理子は上半身を起こして悪態をついた。直後、けたたましいアラームが流れだし、機械的な音声が乗客の避難を促した。
『非常事態が発生しました。乗客の皆さんは、非常用マニュアルに従って、落ち着いて行動してください。繰り返します。非常事態が発生しました。乗客の……』
「非常用マニュアル? そんなもん、どこにあるんだか」
 不親切な機械音声に理子が文句を漏らした直後、アラームと機械音声は消え、ホウ船長の声が代わりに流れ出した。
「皆さん、落ち着いてください。現在、生命維持システムに異常はありません。皆さんの安全は保障されています。危険ですので、部屋から出ないようお願い致します」
「部屋から出るな、ってねぇ……」
 理子は一瞬、外に出てみようかとも考えたが、船長という立場の人間の指示に逆らうのは、後々問題になりそうだったのでやめておいた。代わりに、すぐ隣の部屋で起きているはずのカールに連絡を取ってみようと思った。
「ちょっと、カール。起きてるんでしょ、返事しなさいよ」
 すぐ隣に居るはずのカールは、いくら理子が呼びかけても反応しなかった。端末のモニタには呼び出し画面ばかりが表示され、いっこうにカールが出てくる気配がない。
「ったく、肝心なときに」
 いくら呼んでも顔を出す気配のないカールにあきれた理子は、床に落ちた枕を拾い直し、ベッドに再度倒れ込んだ。激しいアラームが鳴るほどの騒ぎだったというのに、理子は寝転がってすぐ大きなあくびをしてしまった。
「先ほどの轟音と振動については、現在原因を調査中です。明日の朝食の時間には詳細をお伝えできると思います。繰り返しますが、生命維持システムに異常はありません。皆さんの安全は、保障されています」
 理子があくびのせいで出た涙をぬぐっていると、再び船長の放送が流れた。割と大きな音と振動だったというのに、生命維持システムに異常がないというのもおかしいなと理子は感じたが、安全だと言われている以上それを疑っても仕方ないと思い直した。
「ま、安全だって言ってるんだし、のんびり朝まで寝かせてもらおう」
 船長の流した放送もあってか、先の騒ぎにあまり危機感を覚えていない理子は、再度大きなあくびをすると、五分も経たないうちに再び眠りに落ちていった。

「で、結局どうなんだ」
「デュボアが死んだのは間違いないな。レーダーでいくら探査しても、少なくとも船の周りには、奴の身体らしいものは見あたらん。船内も同様だ。星間ガスも、デブリもない地域だから、見落としはあり得ない」
 携帯端末の画面に映るディミトリは、残り少ない髪の毛をいじりながら言った。
「船が爆破されたときに一緒に吹っ飛ばされたか、あるいはエンジンに放り込まれたか。まあどちらにしても、俺たちの手口というわけか」
 船長はディミトリとの通信を切ると、ほこりくさく、そして血の臭いがブレンドされた隠し倉庫の空気を吸い込み、やれやれとため息をついた。
「左手首だけ残されているというのも、『俺たちの手口』なので?」
 倉庫の床に放置されている、浅黒い肌をした『手首』をしゃがんで眺めているジェラールが言った。手首の周囲には、赤々とした血溜りができている。乾ききっていないところを見るに、まだ新しいものだ。
「さあな。そいつは昔、一度やったきりだ。おまえの前任者相手にな、ジェラール」
 船長は落ちている手首に近づき、ジェラールを見下ろした。
「私の前任者は、確か今頃本社でクレームの対応に追われているはずですが」
 船長の顔も見ずに、ジェラールは淡々とした口調で言った。
「ああ、前任者といっても、『裏』の話だ。良い奴だったんだがな……」
 手首に視線を移した船長は、かつて同じ手口で処刑した元仕事仲間の顔を思い出していた。確かにあいつは良い奴だった、と船長はつくづく思う。ただ、良い奴すぎただけだ、とも思うが。
「デュボアを殺した奴というのは、少なからず我々に怨みを持っていると言うことですね」
「そうかもしれんな」
 曖昧な返事を返した船長は、茶色いジャケットの胸ポケットからたばこを取り出し、いつも携帯している愛用のガスライターで火をつけようとした。ちょうどその直前、彼の携帯端末に、ディミトリからの通信が入った。
「船長、セキュリティの映像、取り出せましたぜ」
「ああ、わかった、すぐ行く」
 ディミトリの通信を聞いたジェラールは、何も言わずに隠し倉庫を出て行った。船長はしばらくその場に立ちつくした後、たばこに火をつけると、出入り口へと足を向けながら、血溜りに向かってそれを放り投げた。
「地獄への選別だ。くれてやるよ」
 そうつぶやいて、船長は出入り口へと歩いていった。放り投げられたたばこは、血溜りの中に落ちると、じゅっ、と言う音を立てて血を吸い込んだ。周囲には、血液の焦げる臭いが、一瞬だけ立ちこめた。

 自己診断プログラムを走らせたディミトリは、先の爆発で受けた船の損害が想像以上にひどいものだと認識させられた。狭く薄暗いブリッジに居ることも手伝ってか、ディミトリは急に不安になってきた。
「ずいぶんやられたわね。マトモに動くのなんてレーダーぐらいじゃない。タキオン・ブースターも、チェレンコフ・ドライブ・ユニットもパア」
 ディミトリの背後からモニタをのぞき込むエレノアの口には、たばこに似た白いスティックがくわえられていた。
「そういうなよ。一応エンジンは動くんだ。三日もすれば通常通信で、救援要請できるところまで行けるさ」
「で、救援要請した後はどうするの? ノコノコ船を検査されて、あたし達全員お縄?」
 あきれ顔で返答したエレノアに、ディミトリは反論することができなかった。確かに、重要機関の大半を謎の爆発で失った船を、検査も無しに返してくれるとは思えない。ディミトリは自分の発言の浅はかさを後悔したが、ちょうどその時船長とジェラールがブリッジに入ってきた。
「早速映像を見せてもらおうか」
 ジャケットを脱ぎ捨てた船長は、エレノアの横に立ってモニタをのぞき込んだ。
「こっちでも一度見てみましたが、ろくな手がかりになりませんぜ」
 ディミトリは目の前の端末を素早く操作し、問題の映像をモニタに映し出した。後方で仏頂面をしていたジェラールも、映像が表示されるとエレノアと船長の間に割って入り、食い入るようにモニタを見つめはじめた。
「ローブ姿とはな。今時巡礼なぞ流行るまい」
 モニタの中ではフードを深くかぶった、ローブ姿の修道僧がデュボアを締め上げていた。
「この後すぐ、デュボアは殺されたみたいだが、この修道僧、セキュリティをいくら覗いてもバイタル・サインを検出できないんだ。まるで死人か何かのようにな」
 ディミトリは映像を切り替えた。モニタの中で締め上げられているデュボアは、瞬く間に赤・青・黄色のグラデーションに変化したが、一方の修道僧は画面内から姿を消し、見えない何かに掴まれているデュボアだけが残った。
「これはなかなか、面倒になりそうですよ」
「デュボアが殺されたときのクルーの位置は全部把握してるよ。あたし達の中の誰にも、デュボアを殺すことはできなかったろうね。乗客に関しては、みんな部屋に居たみたい。こっちも、システムをハックするとかでなきゃ、無理だろうね」
 船長はモニタから目を離し、やれやれとため息をついた。
「デュボアを殺した奴がこの船の中に居て、隠し倉庫を使っているというのがわかっただけでも十分か。全く、とんでもない面倒ごとを背負い込んでしまったようだな」
 脱ぎ捨てたジャケットのポケットをまさぐり、たばこを見つけ出した船長は、ズボンのポケットから取り出したライターで火をつけ、煙を肺の中いっぱいに吸い込んだ。

   Ⅴ 二日目 朝

 妙な爆発音が響き、けたたましいアラームが不安を煽ったというのに、理子はカールが起こしに来るまで深く眠り込んでいた。何度目かの呼び出しの後、ようやくベッドから抜け出した理子は、まだはっきりとしない目をこすりながらドアへと歩いていった。
「お嬢さん、もう朝ご飯の時間ですよ。いつまで寝てるんですか」
 ポニーテイルにせず、髪を下ろしたまま出てきた理子を前に、カールは子供をしかるような口調で言った。
「別に良いでしょ、いつまで寝てたって」
「そうも行かないでしょう。夜中の爆発で大幅に予定が狂ったそうですから、ちゃんと説明を受けておかないと」
 大幅に予定が狂った、という話を聞いて、理子は少々面食らってしまった。
「なんかずいぶん大事なのね」
 理子がそう返事をすると、カールは何を馬鹿なことを、といったあきれ顔を見せた。
「お嬢さん、いきなり船に爆音と振動が響いたんですよ。大事に決まってるじゃないですか。もう少し危機感というものを持ってください」
 諭すような口調で話すカールに、理子はちょっとした不快感を覚えた。
「そう。なら大声でわめきながら、あんたの部屋に助けを求めに行った方がよかった? こんな狭い船の中で、危機感なんか持ってもどうにもならないでしょ」
 横目で自分を見ながらいやみったらしい口調で反論する理子に、カールは彼女の言うことも一理ある、と思ってしまった。
「それより、なんであんた予定が狂ったって知ってるのよ」
 反論らしい反論を口にしないカールを見て、少し勝ち誇った理子が言った。
「ああ、それはあの後、アレンさんが事情を聞きに行ったからですよ。まあ毎年同じツアーに参加していれば、船の乗組員とも仲が良くなるんでしょうね」
 見た目からして裕福そうなアレン氏が、わざわざ事情を聞きに行ったというのであれば、おそらくカールの言っていることは本当なのだろう、と理子は思った。
「なら、朝ご飯に行きましょうか。あんたの言うとおり、説明を受けておかないと、後々面倒なことになりかねないし」
 そういって、理子は部屋の中へと引っ込んでしまった。部屋の前で立ちつくすカールは、その顔に浮かぶ笑みを隠すことができなかった。
「髪を下ろしたお嬢さんというのも、なかなか……」
次に部屋から出てきたときは、またいつものポニーテイルに戻っていると思うと、カールは少しがっかりした気分になった。

 カールの予想通り、理子は髪型をいつものポニーテイルに戻して部屋から出てきた。ニヤニヤしながら自分を見つめているカールを一瞥すると、理子はぷいと横を向いてホールへと歩き出した。カールはそのすぐ後ろについて行ったが、理子が一歩進むたびに左右に揺れる栗毛を見ながら、どちらのお嬢さんも捨てがたい、等と言うことを考えていた。
 少しの間歩き、ホールに出ると、そこに用意されたテーブルには二人以外の乗客が全員着席していた。今日も最後になってしまったか、と理子は内心劣等感を覚えた。
「お嬢さんが寝ぼすけさんですから、また最後になってしまったじゃないですか」
 懲りずに自分をからかうカールに、理子は先日の夕食の時のように遠慮はせず、思い切り彼のつま先を踏みつけた。突然の衝撃にカールは文字通り飛び上がり、勢い余ってホールの階段を見事に転げ落ち、階段下の床につま先を抱え込みながら倒れ込んだ。
「朝っぱらから派手ねぇ、あんたらは」
 倒れたカールを踏みつけながら階段を下りてきた理子を見て、カルメンはすっかりあきれ顔になっていた。踏みつけられたカールは低いうめき声を上げたが、理子が席に着いた後、すぐに復活して彼女の隣に座った。
 席に着く前から知ってはいたことだが、改めてテーブルを見回すと誰一人として朝食に手をつけていないのが、理子にはずいぶんと気になった。
「あたし達の到着を、わざわざ待ってたっていうわけ?」
 理子は誰に言うでもなくつぶやいたが、すぐ隣に座っていたジェシカ夫人が律儀にその言葉に反応した。
「みんな、夜中の爆発音の詳細を聞きたいのよ。朝食の時説明してくれるって、放送があったでしょう?」
 諭すような口調で言うジェシカ夫人に、理子はちょっとした反抗心を覚えたが、彼女の言うことももっともに聞こえたので、黙っていた。代わりに、目の前皿に盛られていたブドウを一粒もぎ取り、ひょいと口の中に放り込んだ。

 席についてしばらくすると、ホール奥にある『立ち入り禁止』と銘打たれた扉が開き、中から四人の男女が出てきた。先頭に居るホウ船長と、最後尾のジェラール接客チーフはすぐわかったものの、間の中年ハゲオヤジと、髪の毛を真っ赤に染めたやせ形の女が誰なのか、理子には見当もつかなかった。四人は理子達がついているテーブルを正面にして並ぶと、乗客達に向けて深々とお辞儀をした。
「皆様に多大なご迷惑をおかけしたことについて、お詫びしたいと思います」
 頭を下げたまま、船長が言った。他の三人も顔を上げることはなかった。
「まあそう他人行儀になることもあるまい、船長。我々が求めているのは、形ばかりの謝罪ではなく、現状の説明なのだよ」
 昨日とはうってかわって、威圧的な調子でアレン氏が話し出した。
「それも一理あります。では、さっさとはじめるとしましょう」
 アレン氏の言葉を聞いた船長は、すぐに顔を上げていつもの調子に戻った。
「さて、現状説明の前に、今現在船に残っている乗組員の紹介をしておきましょう。顔も知らない乗組員と乗り合わせるのは、精神衛生上よくありませんから」
 そういって船長は、すぐ横に立っていた赤い髪の女に目で合図した。女はその様子を見て取ると、一歩前に出た。
「あたしはエレノア・マーチス。この船の航海士をやってるの。まあ裏方みたいなもんだから、あまりお目にかかることはないと思うけど、以後よろしく」
 エレノアと名乗った女は、一歩下がってすぐ隣の中年オヤジを小突いた。その顔は化粧でごまかしてはいるものの、肉付きが悪く肌もくすんでいた。
「俺はディミトリ・エーリッヒだ。この船のシステムエンジニアをやってる。見ての通りの、もうすぐリストラされる中年親父さ」
 小突かれた男はすぐ前に出て、自虐的な自己紹介をしたが、誰も笑わなかったのですぐに元の位置へと戻っていった。
「私はジェラール・フリードリヒ。この船の接客チーフを務めています。皆さんご存じでしょうがね。皆さんとは一番多く接触する機会があるでしょうから、何かあったときは私にご相談ください」
 最後に、理子も見たことのある、ジェラール接客チーフが自己紹介をした。彼は丁寧にお辞儀をした後、列へと戻っていった。
 全員の自己紹介が終わると、思い出したようにホウ船長が声を上げた。
「ああ、そうでした。もう居ませんが、殺されたクルーの事も聞いてやってください」
 突然の船長の言葉に、乗客達は全員、目を丸くした。

「彼の名はフランク・デュボア。この船のメカニックをつとめていました。ええ、気の良い奴でしたとも。ちょっと無愛想でしたがね」
 船長は淡々と述べた。乗組員達は冷静な様子だったが、乗客達は突然の報告に動揺を隠しきれなかった。
「待ってくれ、船長。それは……その、一体どういう事かね」
 アレン氏がたどたどしい口調で言った。
「文字通り、この船のメカニックが殺されたということです」
「私は説明をしろと言っているのだよ!」
 動揺するそぶりすら見せない船長に対して、アレン氏は怒った。そんなアレン氏の様子を見て、船長は一瞬、彼を見下すような冷たい表情を見せたが、すぐにいつもの微笑に戻って、事の次第を説明しはじめた。
「そうですね。それももっともな要求でしょう。ディミトリ、投影機を」
 船長の言葉を聞くと、ディミトリはカーキ色をしたズボンのポケットから、小さな四角い置物のようなものを取り出し、白いテーブルクロスの上に置いた。置物は船長の言葉通り投影機だったらしく、すぐに船体の模式図が中空に映し出された。
「単刀直入に申しましょう。我々は遭難しました」
 遭難、という言葉を聞いて、乗客達はどよめいた。
「深夜、爆発が起こったのは皆さんご存じだと思われます。その爆発で、船の重要機関が多数損傷を受けました。中でも皆さんに関係があるのは、チェレンコフ推進ユニットと超光子(タキオン)変換器(ブースター)の損傷でしょう。これにより、ロジャー・ヤングはチェレンコフ推進が不可能になり、また救助を求めることもできなくなりました」
 模式図に、損傷を受けた箇所と思われる部分が赤く表示される。『ちょっとしたトラブル』であるかのように話す船長を、理子は少しだけ頼もしく思った。
「救いは、通常推進でも三日ほどかければ、タキオン・ブースター無しで交信可能なエリアに達することができるという点です。これ以上トラブルが起こらなければ、我々の遭難は三日ですむ、というわけです」
 その報告を聞いて、すぐ隣のジェシカ夫人は、ほっと胸をなで下ろしたようだった。
「生命維持システムや皆さんの食事その他は、三日といわず一週間ほど用意があります。必要となれば、それ以上もたせることもできるでしょう」
 船長は自信たっぷりに言った。
「それはいいんだけど、あたしは乗組員が殺されたって話が気になるわ。アレンさんには悪いけど、そっちも詳しく聞かせてくれないかしら」
 話の合間を縫って、カルメンが少し大きな声で質問した。
「『いい』だと!? ふざけているのかね、君は! 船の一部が爆破されたんだぞ! 誰の仕業かもわかっていないのに、一体何が『いい』というのかね!」
 カルメンの発言に、突如としてアレン氏が激昂した。そんな彼とは対照的に、カルメンは冷静に受け答えをした。
「あたし達にはどうしようもないことでしょ。ここでわめいたって何の解決にもならないし、船長はただあたし達に現状の説明をしてるだけ。あたしはそれを理解したから、次の話題にいってほしいって言ってるの。にしても、どうしてあんたはそんなに怒ってるの?」
 冷静に受け流されたアレン氏は、言葉に詰まってしまった。カルメンは冷たい視線で彼を見つめていたが、船長が話を再開したので、それはすぐに船長へと戻った。
「まあ、まあ。デュボアが殺されたのは、おそらく爆発の直後だと思われます。といっても、死体が残っていないので正確な時間はわからないのですが」
「死体が残っていないって、どういう事よ」
 カルメンの質問にも、船長は一切言葉に詰まらなかった。
「文字通り、です。機関室でチェレンコフ推進ユニットが爆破された際、宇宙空間へ吸い出されてしまったようですので。ああ、彼はちょっとしたトラブルのチェックで機関室に居たんですよ。ちょうど、爆発に巻き込まれる形になったようです」
「つまり、なんもわかってないってことね」
 カルメンから暗に非難された船長は、申し訳なさそうな笑顔を浮かべた。
「さて、現状報告はこんな所ですか。何かあったら、またお知らせします。それでは……」
「ちょっと待ってください」
 船長が説明を切り上げ、投影機を閉じようとしたその時、クリスがすっくと立ち上がり、鋭い視線で船長をにらみつけながら言った。

 すぐ目の前で船長をにらみつけている赤毛の少年は、普段の様子からは想像できないような険しい表情をしていた。
「何か不明な点でも?」
 そんなクリスの視線にも動じず、船長はいつもの調子で受け答えをした。
「あります。どうしてみんな、そんなに冷静なんですか? 人が殺されたかも知れないんですよ。船が爆破されかけたんですよ。どうしてそんなに落ち着いていられるんです」
 クリスは船長といわず、乗客乗員全員に向けて話し出した。
「アレンさんがいきなり怒り出すのだって、無理もない話じゃないですか! また誰かが殺されるかもしれないのに、冷静でいろってほうが無理でしょう!」
 クリスは柄にもなく激昂していた。怒りにまかせてテーブルに拳をたたきつけ、衝撃でカルメンのグラスが倒れ、中の水が零れ、テーブルクロスを濡らした。
「船長、あなただってそうだ。仲間が殺されたかも知れないんでしょう。それならもう少し、悲しむそぶりでも見せたらどうなんですか。どうしてそんなに冷静なんです。人が死んでるっていうのに、まるで『ちょっとしたトラブル』みたいな言い方をして」
 目元に涙をにじませたクリスは、震える声で喋りながら、船長との距離を少しずつ詰めていった。カルメンが何か言おうとしたようだが、少しためらった後、言葉を飲み込んだ。
「ならば、どのような振る舞いをすればよかったのですかな? 今のあなたのように、泣きじゃくり、混乱して、不安と恐怖に任せてわめきちらせばいいとでも?」
 船長の言葉と、彼に詰め寄るクリスを見て、理子は、こういう行動をするのが『普通』の子供なのだろうな、と考えた。
「違う! あなたには船長としての役割がある。それは理解できる。でも、僕が言いたいのはそういうことではないって、わかるでしょう!」
 クリスはついに、船長の目と鼻の先までやってきた。小柄な彼と大柄な船長がにらみ合う姿は、まるで親子がケンカしている最中のようだった。
「おい、おい、二人ともいい加減にしてくれよ。船長にだって立場ってものがあるんだ、それぐらい理解してくれよ。船長も船長だろう、そう煽るような言い方しなくても……」
「止めないでくださいよ!」
 仲裁を試みたディミトリに、クリスは突っかかった。右手で彼の肩口を突き飛ばし、不意の一撃を受けたディミトリは、大きな尻餅をついて床に転がり、うめいた。
「やれやれ。君という男は、どこまで子供なのか。ディミトリを突き倒せば満足かね」
 見下げ果てたかのように、船長は吐き捨てた。直後、思考のタガが外れたか、クリスは甲高い雄叫びをあげて船長に殴りかかった。船長の顔面に向けて放たれたクリスの拳を彼はひょいとかわし、無防備にのびた彼の腕をつかむと、背後に向けて強く投げ飛ばした。クリスは頭から床に飛び込む形となり、ホール全体に響く衝撃音とともに、うめき声一つあげずに気絶してしまった。
「ちょっと、いきなり何やってるのよ!」
 突然の出来事に、理子は思わず立ち上がり、声を上げていた。理子だけではない、カールもカルメンも、ブレディ夫妻も、船長に向けて敵対的な視線を向けていた。
「おやおや、私は自分の身を守っただけなのですがね……。まあ、いいでしょう。それでは、我々にもやることは山ほどございますので」
 そういって船長は一人、立ち入り禁止区域へと歩いていった。それを追うようにしてエレノアが続き、ディミトリも肩を押さえながら立ち上がり、ついて行った。ジェラールだけがその場に残り、クリスを担ぎ上げると、医務室へと続くホールの奥へと消えていった。

「な、なんなのよあいつら!」
 船長らの冷たい態度に、理子は憤慨し、机をその白い拳で叩いた。
「まあ、投げ飛ばすのはやりすぎだとは思いますが、そこまで怒るような事ですかね」
 そんな理子とは対照的に、カールは冷静だった。そう考えるのがごく当たり前の事であるかのように言うカールに、理子は一瞬たじろいでしまった。
「あたしも彼と同意見ね。だいたい、先に殴りかかったのはクリスのほうじゃないの」
 話に割り込んできたカルメンの言うとおり、先に手を出したのはクリスであり、理子もそういわれると反論ができなかった。
「今は船長らの無礼に怒るときではないと、私も思うわ。私たち、今遭難しかかって居るんでしょう。無用なトラブルは避けるべき、ではなくて?」
 すぐ横のジェシカ夫人も、諭すような口調で理子に話しかけた。
「もう、わかったわよ、ったく!」
 理子はいすに座り、ふんぞり返った。彼女にも、カルメンやカール、ジェシカ夫人の言うことはよくわかるつもりだった。そしてクリスが船長に殴りかかった気持ちも、よくわかるつもりだった。だからこそ彼女は、クリスが立ち上がって船長に詰め寄っても止めようとしなかったし、彼が投げ飛ばされたとき真っ先に立ち上がったのだ。
「今はそんな議論をしている場合ではない。問題は、我々の中に人殺しがいるかも知れないと言うことだ。そうとも、この船の重要機関を爆破し、フランク・デュボアという男を殺した人間が、な」
 理子がそんな思索にふけっていると、手で顔面を覆っているアレン氏が力無く言った。そのくぐもった声は、彼も又『普通』の人であるのだということを、理子に印象づけた。
「顔色が悪いわ。部屋に帰って休みましょう」
 アレン氏の顔をのぞき込むようにしたジェシカ夫人は、彼に部屋へ帰るよう促した。
「ああ、そうだな、そうしよう。すまない、私はこれで失礼させてもらうよ」
 そう言い放つと、アレン氏は食べ物に一切手をつけぬまま立ち上がり、よろよろと具合悪そうにホールの階段を上がり、部屋へと帰っていった。
「ごめんなさいね、あの人神経質だから。それじゃあ、私もこの辺で」
 ジェシカ夫人は、テーブルにおいてあった果物とパンを二つほどつかむと、アレン氏を追って小走りに階段を上っていった。ホールには、理子とカール、カルメンの三人が残された。
「まあ、面倒ごとは好きじゃないけど、飯の種が増えたと思うとしますか」
 去っていくジェシカ夫人を見つめながら、カルメンはつぶやいた。
「飯の種って、ねぇ……」
 楽天的なカルメンに理子はあきれ顔になったが、当のカルメンは真剣だった。
「そんな思い詰めたってしょうがないでしょ。なんせここは宇宙の果ても果て、いくら叫んだって声の届かない、暗黒空間なんだから。殺人犯が乗り合わせてるなら、なおさら希望を失わないように振る舞わないと」
 彼女はグラスにオレンジジュースを注ぎ、ぐいと一気に飲み干した。
「実際、神経質になっても僕らは何もできませんから。そりゃあ、船内で犯人捜しのごっこをやるぐらいならできるでしょうが……、犯人が船内にいるともかぎりませんし」
 カールは、理子に釘を刺すような口調で言った。
「犯人は船の中にいるのは、たぶん確実でしょ。わざわざ船の生命維持機能を残して爆破してるし、中に居なきゃどうやってクルーを殺せるのよ」
 理子の反論に、カールはそれも一理ある、といった顔をした。
「だいたい、あたしは推理小説が確かに好きだけど、こんな状況で勝手に動き回るほど馬鹿じゃないって」
 そうは言ったものの、艦内をかけずり回って証拠を集め、華麗に推理を展開し、犯人を追いつめる、という一連の流れには、多少なりとも心惹かれるものがあった。そんな考えをしていた矢先に、カールから釘を刺されてしまったため、理子は内心興ざめした。
「いいじゃん、いいじゃん、犯人捜し。クソボロい軍の退役艦なんだから、死ぬ気になって探せば、立ち入り禁止区域に行く抜け道ぐらい見つかるって」
 軽口を叩いたカルメンは、再度グラスにオレンジジュースを注いだ。作業に夢中な彼女は、すぐ後ろに無表情で立つジェラールに気づくことはなかった。
「知ってる? この船って結構死人出してるから、幽霊とか見る奴多いんだってさ! まああたしがこの船に乗ってるのは、もっと別の、ヤバイ噂を聞いたからでね……」
「その噂、詳しくお聞きしたいものですね」
 カルメンが調子よく続きを話そうとしたその時、背後にたたずむジェラールは精一杯の笑顔を浮かべてカルメンの肩に手を置いた。彼女は一瞬全身をけいれんさせた後、額に冷や汗を浮かべながら、しきりに眼球を動かしていた。
「それよりジェラールさん、クリスはどうなったの」
 焦るカルメンが哀れに思えた理子は、ごく自然な形で助け船を出した。
「大丈夫です。軽い脳しんとうですよ。今回の件は、私も非常に申し訳ないと思っています。ですが、我々としてもああいう対応をせざるを得ないというのが現状でして。それでは、私も戻るとします。何かあれば、端末からご連絡を」
 ジェラールは船長と比べると、幾分丁寧に謝罪した。そして、ほっと胸をなで下ろしているカルメンを横目で見つめながら、立ち入り禁止区域へと去っていった。
「やれやれ、危うく心臓が止まる所だったわ」
 立ち入り禁止区域に通じる扉が閉まった後、カルメンは危機が去った事を実感して、大きな深呼吸をした。
「何もあんなに焦る必要は無いでしょう。ただの悪口なんですし」
 カールは持っていたパンをちぎり、口の中へと放り込んだ。
「いやぁ、やっぱジャーナリストって人望が勝負だから、そういうわけにもいかないのよ」
「あんたに人望なんてものがあるとは思えないけど」
 理子の鋭い指摘に、カルメンは一瞬何か言い返そうとしたようだったが、数秒思考した後、一理あるな、と言った表情を見せた。
「……ま、いざとなったら賄賂があるし」
 平気でそんな事を口走るカルメンに、理子は心底あきれてしまった。

「クソッ、あのガキ、思い切り突き飛ばしやがって」
 ディミトリは突き飛ばされた肩をさすりながら毒づいた。休憩室のイスにもたれかかった彼の顔色は、先の騒動のせいか少々悪い。
「あんな子供に突き飛ばされるあんたもあんた、でしょ。それでも元軍人なの?」
「うるせえな、俺は技術屋なんだよ」
 部屋の片隅でたばこのようなものをふかしているエレノアは、むなしい言い訳をするディミトリに侮蔑の視線を送った。
「でも船長、あんなにやっちゃってよかったの? 乗客に反感もたれたら面倒でしょ」
 エレノアに問いかけられた船長は、黙って机の上の端末を操作するだけで、返事をしなかった。その時、休憩室の扉が開き、ジェラールが入ってきた。
「あの少年、命に別状はありませんよ。さすが船長、といった所ですか。もっとも、あの場は穏便にすませることもできたでしょうが」
 入って来るなり、ジェラールは船長に対して批判的な意見を述べた。
「そういうな。俺だって他の連中なら、軽くいなしてただろうよ。ただ、ちょっとな」
 船長は端末をいじるのをやめ、イスにもたれかかると目を閉じ、昔を懐かしむような、大きなため息をついた。
「俺の知り合いに似ていたんでな。ついムキになったんだよ。まあ、それはいい。問題は、俺たちの『仕事』のほうだ」
 そういって、船長は立ち上がってクルー達を見回した。
「状況が状況だが、やることはやっておかんと牢屋にぶち込まれるよりひどいことになりかねん。今回はこの一件だけだ、さっさとすませるぞ」
 船長はクルー達に、仕事に取りかかるよう促した。ジェラールとエレノアはすぐに休憩室を出て行ったが、ディミトリだけは肩を押さえて気持ち悪そうにしていた。
「ちくしょう、打ち所が悪かったのか?」
「痛むなら、今回は休んでおけ」
 肩を押さえるディミトリを残して、船長は休憩室を出て行った。ディミトリは一人取り残されたような気になり、あまり良い気持ちはしなかった。

 朝食を終えた理子は、ゆっくりと立ち上がるとホール奥にある医務室へと歩き出した。
「おや、お見舞いですか?」
「そんなところ」
 素っ気ない返事をした理子は、まだ朝食を終えていないカールを残して、一人ホール奥の通路へと消えていった。
「ほら、早くしないとふられちゃうわよ」
 去っていく理子を見つめるカールを、カルメンはちゃかした。
「まあ、僕とお嬢さんは、別に恋人同士というわけでもありませんし」
 もっと冗談めいた反応を期待していたカルメンは、ずいぶんと弱気な言葉を使うカールに、少しばかり驚いてしまった。
「おちゃらけた少年を演じるのは、彼女の前だけってこと?」
「演じているわけではありませんよ。お嬢さんの前では、本来の僕に戻っているだけです。そう、ずっと昔に忘れてきた『僕』に、ね」
 そういってカールは立ち上がった。ずいぶんと含みのある言葉を使う彼に、カルメンは感心したような様子を見せた。
「暗い過去を持った付き人の少年と、大企業の社長令嬢、ね。ネタが無くなったら、あんた達二人のこと書かせてもらおうかしら」
「僕はかまいませんが、お嬢さんが承知しないでしょうね」
 カールは微笑を見せると、理子を追ってホールの奥へと向かっていった。カルメンはそんな彼の後ろ姿を見送り、ふと自分が彼らぐらいの年齢だったときのことを思い返した。
「……あたしも青春したかったなぁ」
 自分の青春時代にろくな事が無かったことまで思いだしたカルメンは、自嘲気味の笑みを浮かべながら、重いため息をついた。

 医務室に入っても、理子はクリスの姿を見つけることができなかった。少し奥へと進むと、部屋の片隅に、白いカーテンで仕切られた小さな区画があることを発見した。そこにクリスが居るのでは、と考えた理子は、カーテンの前に立って少しためらった後、音を立てないようにゆっくりと中に入った。
 中にあったのは、青みがかったカプセル型のベッドで、透けて見えるキャノピーからは、横たわって眠るクリスの横顔を確認できた。
「寝込みを襲うのはやめておいた方が良いと思いますよ」
 人が入ってくる気配を感じなかった理子は、突然背後からかけられたその声に思わず小さな悲鳴を上げた。
「カール、あんた、びっくりさせるんじゃないわよ」
「お嬢さんこそ、こんなところで声を上げないでくださいよ」
 寝ているクリスに気を遣ったのか、二人ともひそひそ声で言い争ったが、その努力むなしく、カプセルの中のクリスは、周囲に人が居ることに気づいて、うっすらと目を開けた。
『バイタル回復』
 クリスの覚醒を確認したカプセルは、機械的な音声を発してキャノピーを開いた。
 目を覚ましたクリスは、状況がわからないのか、うっすらあけた目を左右に動かして、自分をのぞき込む理子とカールを見つけると、ゆっくりと身体を起こした。
「記憶喪失にはなってないでしょうね」
 ぼんやりした目で二人を見つめるクリスに、理子は疑わしげな目線を向けた。
「たぶん、大丈夫です。少しフラフラしますけど」
 返事をすると、クリスはカプセルの縁に手をかけて、二人とは反対側へと降り立った。
「しかし、なんであんな真似をしたんですか? 船長らの態度は確かに怒っても仕方ないものでしたが、まさか殴りかかるとは思いませんでしたよ」
 近くにおいてあった靴を履き、首筋に手をやって具合を確かめるクリスに、カールは率直な疑問をぶつけた。クリスは二人のほうに振り向くと、複雑そうな笑みを浮かべた。
「父が死んだときと、状況が重なったからだと思います」
 父親の死、と言われて、理子は図らずも自分の母親が死んだときの状況を思い出していた。もっとも、彼女の母親の場合は、クリスと違って、遺品一つ残らなかったのだが。
「あれは事故ということになっていますが、つじつまの合わない所も多いんです。もうずいぶん昔のことですから、個人的にはあきらめてますけど」
 そういうと、クリスは重い足取りで医務室の出口へと歩いていった。
「あのとき、僕は無力でした。身内は力になってくれなかったし、何より父の死を嘆くだけで、僕自身何もしようとしなかったんです。船長らの態度と言うよりは、無力だった僕自身に怒って、馬鹿なことをしたんだと思います」
 彼はそう言い残して、医務室を出て行った。取り残された理子は、隣で遠い目をしているカールを一瞥した。
「お嬢さんも似たような境遇ですけど、どうして怒らなかったんでしょうね」
 不意に、カールが話しかけてきた。
「あたしは、恵まれてたから」
 理子には、そうとしか形容できなかった。母が死んだとき、カールやその家族達が支えてくれたし、爆破したテロリスト達は後に逮捕され、処刑されている。肉親を失ったことこそ共通しているが、境遇が全く違っていたのだ。
「かもしれませんね」
 理子の返答を聞いて、カールは優しい笑みを理子に向けた。
「それに、まだまだ子供の頃の話でしょ。あんまりはっきり覚えてないんだもの」
 素直な笑顔を向けられた理子は、急に気恥ずかしくなってしまい、言い訳をするとそそくさと医務室を出て行った。そんな理子を見送った後、カールは笑みを消し、ふと暗い表情を浮かべた。
「確かに、お嬢さんは恵まれてますよ。間違いなく、ね」
 カールはそうつぶやくと、ゆっくりと歩き出した。医務室の乾いた空気を切り裂くその身体は、いつもの彼と違って鋭い雰囲気を醸し出していた。

 医務室から部屋に戻る途中、理子は誰もいなくなったホールで、黙々と朝食の後かたづけをしているメイド・ロボットを目にした。すでに作業は終盤らしく、テーブルが解体されてレクリエーションルームの反対側にある立ち入り禁止区域へと運ばれている。その様子をしばらく眺めた後、理子は階段を上って自室へと向かった。
 廊下に出ると、理子はブレディ夫妻の部屋の前に、カルメンが立っているのを発見した。
「クリスは気分悪いから、もう一眠りするってさ」
 理子が近づいてくるのを見て取ると、カルメンは軽く挨拶した。
「それは良いけど、あんたなんでそんなところに居るのよ。ブレディ夫妻になんか用事でもあるの?」
 トゲのある言い方をされたカルメンは、少しむっとした様子で返事をした。
「これでもジャーナリストやってんだから、取材活動ぐらいやるわよ」
 取材活動、と聞いて理子は少しカルメンのやろうとしていることに興味を持った。
「取材って、何やるの?」
「今回はちょっと話を聞くだけ。二人ともこの船に何度も乗ったことがあるらしいし、何か知ってるかもしれないじゃない。人殺しが船の中にいるからって、部屋で布団かぶってふるえてるわけにもいかないでしょ」
 カルメンがそこまで喋ったところで、ブレディ夫妻の部屋のドアが開き、中からジェシカ夫人が顔を出した。彼女は理子を見つけると、一瞬驚いたような表情を見せた後、いつもの微笑を浮かべた。
「あら、理子さんもご一緒に取材活動?」
「いや、ご一緒にってわけじゃないけど……」
 唐突な問いに、理子ははっきりと答えることができなかった。
「そうそう、あんたは部外者なんだから、部屋に戻って彼氏といちゃいちゃしてなさい」
 そう言い残して、カルメンはジェシカ夫人の脇を抜けて、部屋の中へと消えていった。カルメンの取材内容に少しばかり興味を持っていた理子は、このまま何も聞かずに立ち去るというのも、もったいないという気がした。
「ねえ、あたしも話を聞くぐらいなら、かまわないわよね」
 少し恥ずかしそうに喋る理子に、ジェシカ夫人はにっこり微笑んだ。

 ジェシカ夫人とともに理子が入ってくるのを見て取ると、カルメンはあからさまに不快そうな表情を浮かべたが、理子が突っかかってこないと見ると、害がないと判断したのか、ベッドの真ん中あたりに腰掛けた。
「アレンさんはどこかに行ってんの? 朝飯の後ホールから直行してきたから、下に行ってるならあたしか理子と会ってるはずよね」
「夫は別の部屋で眠っているわ。チケットはいつも二人分だから、私たちは部屋も二つ使えるのよ。普段は同じ部屋を使っているけれど」
 そういって、ジェシカ夫人は窓際にあったイスのうち、より奥の方へと座った。そして理子に、手前のイスに座るように促した。理子はカルメンの視線を一瞬気にした後、探るような目でジェシカ夫人を見ながら、席に着いた。
「さって、何から聞いたら良いのかしらね……」
 カルメンはそういって頭をかいた。部屋の明かりは理子の部屋のものより明るく、彼女の紫髪が揺れるのを、理子ははっきりと確認できた。
「あんた、何を聞くかぐらい考えてきたらどうなの?」
「うるさいわね、いくらなんでもあたしを見くびりすぎでしょ。あたしだってそれくらい考えてきてるわよ。ただ……」
「いくつか候補がある、ということなんでしょう」
 理子とカルメンの間にジェシカ夫人が割って入り、二人は不満そうな表情を浮かべたが、ジェシカ夫人が微笑を崩さないのを見ると、煽りあうのも馬鹿らしくなったのか、理子はイスにもたれかかり、カルメンは浅いため息をついて、本題に戻った。
「じゃ、このツアーがどういうものか、詳しく教えてもらおうかしら。パンフレットにゃロクなこと書いてなかったから」
 パンフレットすらもらっていない理子には、そもそもこの旅行がどういうものか知るよしもなかったが、その分何度も同じツアーに参加しているジェシカ夫人の話は、興味深いものがあった。
「そうね、この旅行のことを知ったのは十年くらい前だったかしら。夫が珍しくパンフレットを持ってきて、結婚記念日の旅行はこれにしよう、って言ってきたのよ。銀河旅行社の打ち出した、新しい形の旅行だったそうよ。つまり、このツアーが開催されはじめたのは、十年ほど前ってことになるかしら」
 ジェシカ夫人は淡々と話を続けた。
「内容に関しては、出発と到着の日時だけが記されていて、どこへ行くかはお楽しみ、ということになっているようね。それはあたしもパンフレットを見て知ってるけど、どうもこの旅行、そんなに人気があるとは思えないのよ」
 話の内容を受けてか、カルメンは自分の意見を述べはじめた。
「十年、だっけ? このツアーができてから。そんなに長い間存続してるって言うのに、今回の旅行に来てる人だってたったの六人でしょ。軍のボロ船を改修したやつとはいえ、宇宙船一つ使ってるわけで、採算が取れるとも考えられないし」
 カルメンはベッドに乗り、あぐらをかいた。そういわれてみると、理子もこのツアーが不自然なものに思えてきた。
「そのあたりのことは、私に聞かれてもわからないわ。何しろ、私たちは単なる乗客ですもの。年に何度ツアーを開催しているかも、私にはわからないし……」
 率直な疑問をぶつけられ、ジェシカ夫人は返答に困った。その様子を見て、カルメンはこれ以上情報を引き出せないと見たのか、質問を切り替えた。
「それじゃあ、乗組員について聞いてもいいかしら。アレンさんは乗組員と顔見知りみたいだったけど、十年間クルーには変化無しなの?」
「接客チーフが何度か入れ替わったけど、それ以外の人はツアーができてから変わっていないわね。私たちは何度も参加してるから、クルーの人たちの顔は、ある程度覚えているつもりよ。一年に一回きりとはいえ、ね」
 ジェシカ夫人は、自分の記憶力を誇るように言った。
「その、クルーが変わった理由ととかって、わかる?」
 カルメンは、表情を少し真剣なものに変えて聞いた。ジェシカ夫人は、うんとうなって記憶をたどりはじめた。
「そうね、最初に入れ替わったときは、チーフの人が事故で亡くなったと聞いたわ。それ以外はよく知らないけれど。ああ、そうそう、その最初の接客チーフの人は、すごく明るくて素敵な方だったわ。お子さんがいらっしゃったと聞いていたけど、まるで少年みたいで。たしか、アルフレドと言ったかしら」
 初代の接客チーフの名前が出たとき、カルメンの表情が一瞬険しくなったのを、理子は見逃さなかった。
「赤毛が特徴的だったあの人が、事故で亡くなったと聞いたときは驚いたわ。だって、あんな明るい人が死んでしまうなんで、考えもしなかったもの」
 そういって、ジェシカ夫人は視線を落とした。
「ありがと。まあ、他にいろいろ聞きたいこともあるけど、ジェシカさんも含めて、みんな乗客なのよね。いいわ、後のことはクルーにでも聞くから」
 カルメンはお礼を述べた後、質問を切り上げる旨の事を言った。
「お役に立てなくて申し訳ないわ」
「いいのよ、別に。そこに座ってる小娘よりは、うんと役に立ったんだから」
 貶された理子は不快そうな表情を浮かべたが、実際の所何の役にも立たなかったので、反論することができなかった。
「そうだ、最後に一つだけいいかしら」
 立ち上がったカルメンは、何かを確信しているような、不適な笑みを浮かべて言った。
「この船、ジャーナリストの間で結構黒い噂があるって話題なの。そういう話について、何か知ってたりしない?」
 黒い噂という単語が出たとき、ジェシカ夫人は一瞬表情をこわばらせた。そしてしばらく考え込む仕草を見せた後、いつもの微笑を顔に浮かべた。
「残念ながら、そういうお話は……」
「そう、ならいいのよ。今日はありがとう」
 カルメンはジェシカ夫人の返答を聞くと、お礼を述べてそそくさと部屋を出て行ってしまった。イスに座ったまま黙っているジェシカ夫人は、普段の彼女に比べると何か影があるようだ、と理子には感じられた。

   Ⅵ 第二日目 昼

 その後、理子はジェシカ夫人に挨拶をして、自室に戻った。行動範囲も狭く、外部への通信も遮断されている現在、彼女はヒマをもてあますほかなかった。レクリエーションルームで軽い運動でもしてみようかと思ったが、運動をするための服を持ってきていない事に気づき、やめた。
「ほんとに殺人犯なんているのかしらね」
 ブックパネルにダウンロードしていた、未読の推理小説を読みながら、理子はふと考えた。爆発音があったのは事実だが、実際に何があったかを理子は目にしていないし、人が死んだという話にも実感がわかない。携帯端末をいじってみると、確かに通信はつながらなかったが、元々連絡するような相手も居ない理子にはたいした問題ではないと思えた。
 無論のこと、周囲の人々の反応を見れば、何かあったらしいと言うことはわかる。しかしながら、理子にとっては『リアリティ』が無いのだ。自分が卑劣な犯罪行為の行われている場に居る、という実感が存在しない。今こうして部屋に寝転がることができる以上、そう思うのも無理がないな、と理子は勝手に結論づけた。そして、ブックパネルの中に広がる、架空の世界へと、彼女は没入していった。

 ディミトリ・エーリッヒは、今朝ホールでクリスにどつかれて以降、気分が悪くて仕方がなかった。そのせいで『仕事』はできなかったし、頭がグラグラして視界が歪んでいる。
「ああっ、クソッ、どぉして俺はこんな間抜けな目に遭ってるんだろうなあ」
 実際の所、視界が歪むのは、彼が今口にくわえている、白いスティックのような物体の効果だった。もっとも、その効果を持ってしても、彼の気分の悪さはぬぐえなかった。
「全く……、ああ、ああ。なんてこった」
 ベッドに寝転がって、歪む視界の中に天井をとらえるディミトリには、ただ不快な現状に悪態をつくしかできなかった。意識の隅には「医務室に行くべきだ」という意見が存在するものの、あの変なカプセルに放り込まれるのはあまり良い気分とは言えないし、何より面倒くさかったのだ。
 ディミトリは相変わらず歪んでいる視界のなか、ベッドの奥深くへと沈み込む感触にとらわれた。ふと気づくと、目の前に死んだはずのデュボアが、エレノアとベッドの上で絡み合っている姿が浮かび上がっていた。
「畜生、死んでも俺に嫌がらせするか、てめえ」
 ディミトリはデュボアに突っかかったが、彼はベッドに深く深く沈み込んでいたので、手を伸ばしても天井に寝転がる彼には全く届かず、彼はひたすらにエレノアの細い身体を愛撫するだけであった。
 ディミトリはその光景を見ているだけでは我慢できなくなり、両手でバランスを取って立ち上がろうとした。その時、部屋に置かれている端末が起動し、通信が入っている事を知らせた。それに驚いた彼は、思わずバランスを崩して、ベッドから床へと転がり落ちた。
「なんだってんだよ、クソッ……」
 ディミトリは白いスティックを床に吐き捨て、衝撃でずれたズボンを押さえながら、机へと向かった。頭はまだぼーっとしていて、『薬』が抜けていないのは明白だったが、応答しないわけにもいかないので、彼は必死に意識をつなぎ止めながら端末を操作した。
「ディミトリ、ディミトリ、もし居るのなら、返事をしてくれないか」
「ああ、誰だてめえ」
 端末が起動し、通信を傍受する。意識がもうろうとしているディミトリは、合成音声で喋っている相手に、何も考えずに反応してしまった。
「よかった、いるんだね。君がそこにいてくれるということは、僕にとってとてもありがたいことなんだ。リスクを冒しただけの価値があるよ」
 少年のような語り口をする相手に、ディミトリは意識がはっきりしないせいか、ほとんど疑いを向けることはなかった。相手がデュボアを殺し、船を爆破した犯人かも知れないというのに、まるで間違い電話に応対するかのように、ディミトリは喋った。
「おまえ、誰なんだよ。ガキみてえなしゃべり方しやがって。いたずらにしちゃちょっと度が過ぎてるンじゃねえのか」
 デュボアの言葉を聞いた相手は、少々あきれているようだった。やれやれといった様子のため息が端末から流れてきた後、相手はゆっくりと言った。
「君はもう少し、自分の置かれている状況というものを考えるべきだね」
 その言葉を聞いて初めて、ディミトリは自分がこの事件の犯人と話をしているのではないか、という考えを浮かべた。

 ふと気づくと、理子は自室の時計、といっても端末に表示されているものではあるが、が正午に近い時間を指していることに気づいた。どうやら、小説を読んでいる間に眠ってしまったらしい。ブックパネルは自然に省電力モードになっていて、触るとすぐに復旧し、おそらくは理子が眠ってしまったであろう場面を映し出した。
「あたしもずいぶん、のんきなもんね」
 船内に殺人犯が潜んでいるかも知れないというのに、部屋でうたた寝をしてしまった理子は、大きなあくびをして自嘲した。そして不完全な睡眠でぎくしゃくする身体を思い切りのばし、床の上へと降りたち、髪型を整えると、昼食に向かうべく部屋を出て行った。
 そもそも遭難しているという現状、食事が朝昼晩と振る舞われるかどうかという不安もあったが、そういったことにクルーが言及していない以上、理子はホールに向かうしか無かった。部屋を出て数歩歩いたとき、理子はまだカールが自分を呼びに来ていない事に気づいた。
「あいつにしては、珍しいじゃない」
 幼い頃から、カールは時間に正確だった。一度姿を消し、戻ってきた後もそれは変わらなかった。理子が朝起きて、学校へ行く支度をし、自宅の門を出ると、毎朝毎朝カールがそこで待っていたものだった。
 ふと、理子は、たまには自分がカールを呼んで来るというのも良いのではないかと思った。すぐ隣の部屋に居るはずの彼を呼ぶだけなら、そんなに時間はかからない。何より、いつもしたり顔で自分を呼びに来るあのふてぶてしい幼なじみに、一杯食わせてやれると考えると、それはすばらしい名案のように思えた。
 理子は早足でカールの部屋の前へと行き、少しにやけた顔で扉の端末を操作し、中にいるカールを呼び出そうとした。
「カール、居るんでしょ」
 一体彼がどんな表情をして出てくるかと思うと、理子は顔がさらににやけてしまったが、扉が開く気配は一切無く、端末にすら何も表示されなかった。意地になって出てこないのかと思い、理子は何度も端末を操作して呼び出しをかけたが、反応が返ってくることはなかった。
「ちょっと、なんかあったの?」
 口ではそういいつつも、理子は一瞬カールが部屋にいないのではないかと考えた。しかしながら、端末の画面の隅には、確かに『在室』のサインが示されている。さらに理子が呼び出しを続けると、端末からいかにも気分の悪そうな声が聞こえてきた。
「お嬢さん、僕は確かに部屋の中に居るんですけど、今はちょっと気分が悪いんですよ。そっとしておいてくれませんか」
 カールはそういうと、理子からの呼び出しを受け付けないように端末を設定したのか、画面にでかでかと『アクセス拒否』の文字が映し出された。
「あの野郎……」
 理子は自分に向けられた無礼な態度に、思わず悪態をついたが、端末から聞こえてきたカールの声は、こんな態度でも仕方ないと思えるほど、具合の悪そうなものだった。理子は彼を呼び出すことをあきらめ、肩をいからせながら一人ホールへと向かった。

 理子は正午をすぎてホールに向かったというのに、用意されたテーブルには誰も着いていなかった。珍しいな、と思いつつ理子が階段を下りると、ひどく気分の悪そうな様子のカルメンが医務室のある廊下の影から顔を出した。
「あんたもまあ、ずいぶん具合悪そうじゃない」
 蒼白な顔面をしたカルメンを見て、理子は素直な感想を漏らした。
「さっきから頭がガンガン痛むのよ。いつも使ってる頭痛薬持ってきときゃよかった。医務室行っても治らないのよ」
 力無く応答したカルメンは、よたよたとした足取りでイスに近づくと、倒れ込むようにして座った。理子はそんなカルメンを心配半分、興味半分で見つめながら、今朝と同じ場所に座った。
「それでも食事に来るだけの元気はあるんじゃない」
「金払ってるんだから、来ないなんて損でしょ」
 理子の他愛ない問いかけに、カルメンは額を手で押さえながら言った。その様子から察するに、どうも本当に具合が悪いらしい。
「なんだかねぇ。変なウイルスでも蔓延してなきゃ良いんだけど。カールもずいぶん具合悪そうにしてたし」
 理子はホールの壁に掛けられている、名も知れぬ画家の絵を目で追いつつ言った。カルメンはその発言に興味を惹かれたらしく、額を押さえつつも視線を理子に向けた。
「カールくんも具合悪いんだ。アレンさんは怖いから部屋の外に出ないって言うし、ジェシカさんはアレンさんについているって言うし、どいつもこいつも、貧弱というか何というか、ねえ。あんたもそう思うでしょ」
 カルメンはそういって笑ったが、思ったほど良い笑顔にはならなかった。
「あんたが図太いだけでしょ」
 理子の返答がカルメンの予想した通りだったため、彼女は思わず吹き出してしまった。そのショックで、彼女の頭痛は一段とひどくなったのか、今度は机に突っ伏して頭を抱え込むような体勢を取った。
「あああ、頭痛い……。だめぇ、死ぬぅ」
 情けない声を上げるカルメンに理子はあきれ顔を見せたが、その表情もわずか数秒後に起こった激しい爆発音を耳にすると、すぐさま真剣なものへと変貌した。

 ディミトリ自身は自分を臆病な人間だと解釈していたが、その割には冷静な対応ができたな、と彼は考えた。ポケットから携帯端末を取り出し、船長につながるようにし、机の上に置いたまま、おそらくはこの事件の首謀者であろう人物と会話したのだ。船長が気づき、何らかの対応を施すまで。
「それで、結局おまえは何の用なんだ? デュボアを殺したみたいに、俺を殺しに来るか?」
 一瞬息をのんだディミトリが、すぐ冷静になって話し出したのを聞き、端末のむこうにいる相手は少しばかり驚いたようだった。
「僕はてっきり、君が大声を上げて部屋から逃げ出すものだと思っていたよ」
「過小評価してくれるじゃねえか」
 端末の画面に、当然の事ながら相手の顔は映し出されていない。音声は合成で、どこから発信されているかすらわからない。それでも、船長がこの事態に気づけば、命ぐらいは助かるのではないか、という認識が彼にはあった。
「過小評価していたことは謝る。むしろ君は偉大な人物だよ。冷静な対応じゃないか。僕から情報を引き出そうとしているようだし」
 ディミトリはふん、と鼻を鳴らした。
「それはどうも、としか言いようがねえな。近くにいるのか? 来るなら来いよ、デュボアの時みてえに簡単にはいかないぜ」
 彼はわざとらしく音を立てて、机の引き出しをあけ、中に隠されていた、黒光りするオートマチック型拳銃を取り出した。その音は当然相手にも聞こえているハズだったが、端末のむこうにいる相手は態度を崩さなかった。
「勘違いしないでくれ。僕が君を殺しに行くというのは、君の予測にすぎない」
「じゃあ、なんだ。おまえは俺とおしゃべりしたいがために、わざわざ居場所を探知される危険を冒してまで、こんな通信をしてきたっていうのか?」
 ディミトリは机の上に置かれた携帯端末に目をやった。船長につながっているハズのそれは、当然の事ながら何の反応も起こさなかった。
「半分は君の言うとおり、君とおしゃべりをしたいから通信したんだ。大丈夫、君の部屋へ行かないだけで、僕は君を殺すよ」
 その優しげだが、冷たくとがった声は、ディミトリの背筋をぞくりとさせた。彼は思わず、拳銃を握る右手に力をこめた。
「そうだ、扉の近くには居ない方が良い。苦痛が長く続いてしまうからね」
 その言葉を最後に、相手は通信を切った。ディミトリは本能的に危険を察知し、その太った身体にしては素早い身のこなしで、部屋の外へと飛び出そうとしたが、それより早く彼の部屋の、宇宙空間に面した壁が爆裂し、彼の柔らかな脂肪に覆われた肉体を、爆風と外壁の破片が襲った。

 轟音とともに船体が激しく揺れ、テーブルの上に置かれていたグラスが転がった。直後、けたたましい警報が鳴り響き、無機質な音声が乗客の避難を促す。
「また、爆発って!?」
 理子は立ち上がり、周囲を見回したが、ホール内に異変らしいものは見あたらない。グラスが少々転がっているのを除けば、あとは普段は閉じられている立ち入り禁止区域への扉が開いているぐらいだった。
「この爆発は、昨日の比じゃない……!」
 理子が開いている扉に目をやっていると、背後でガラスが割れ、食器が床に落ちる音がし、そして彼女のすぐ横をカルメンが駆け抜けていった。どうやら、テーブルの上にあるものを押しのけて、飛び越えてきたらしい。
「あんた、頭痛はどうしたのよ!」
「治った!」
 理子は思わずそう叫んで、カルメンの後を追っていた。頭痛が治ったというカルメンは、その長い足をしならせて立ち入り禁止区域への中へと入っていった。全力疾走するのは久しぶりだったが、思ったほど重くない身体に感謝しつつ、理子もカルメンの後に続いた。
 立ち入り禁止区域は、乗客の居る区域に比べて、薄暗くそしてかびくさかった。
「『風』がある。どっかに大穴があけられたようね」
 一足先に中へと入っていたカルメンは、船体に穴が開けられたと言うことに気づくと、流れる大気の方向へと走り出した。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
 息つく暇なく走り出したカルメンを追って、理子もまた走り出した。カルメンの足は思いの外素早く、理子は彼女を視界にとらえるだけで精一杯だった。人がすれ違えば肩が触れあうほど狭く、警報が鳴り響き、そして薄暗い通路を、二人は駆け抜けていった。途中何度も角を曲がり、そのたびにカルメンは理子の視界にとらえきれなくなっていった。カルメンは全くスピードを落とさず角を曲がるのに対して、理子はどうしても減速せざるを得なかったのだ。それほど運動能力の高くない自分を歯がゆく感じながら、理子はカルメンを追い続けた。
 そして居住区という表記のある階段を駆け下りてようやく、理子は立ち止まった。

 立ち止まって初めて、理子は背後から風が自分の身体をなでている事に気づいた。目の前には、カルメンが立ちつくしている。彼女は背後に理子が現れたことに気づくと、左手で彼女をこれ以上前に行かせないようにと制止した。
「あんたは見ない方が良いと思う、たぶん」
 不意に、視界の奥から、オレンジ色をした風船のようなものが飛んでくるのが見えた。どうやら、船体に開いた穴を塞ぐためのものらしい。オレンジ色の風船は、音もなく風の流れに乗って、理子の視界から消えていった。
 風船が上手く機能したのだろう。理子は風がやんだ事に気づいた。それとほぼ同時に警報も鳴りやみ、通路は静かになった。そしてふと、理子は、今までとは異質な臭いがそこら中に漂っている事を知覚した。
 それは、ホールで嗅いだ観葉植物の臭いでもない。部屋に満たされた健康的なイオン臭でもない。カルメンがつけている少しきつい香水のそれでもなかった。しかしながら、短い人生の中で、嗅いだことのない臭いではなかった。ただ、嫌な臭いではあった。

 それは紛れのない、血の臭いだった。大気の流出が止まった今、その臭いは辺り一面に漂っていた。理子はその臭いを嗅いで、今何が起こっているのか確認するために、一歩踏み出そうとした。しかし、どうしてもその一歩が踏み出せなかった。頭は確かに働いているのだが、身体がついて行かないのだ。
 理子は半分身を乗り出した、奇妙な体勢で固まった。背後から幾人もの足音が聞こえる。船長や、おそらくはカール、あるいはクリス達だろう。
「お嬢さん!」
 不意に、カールの叫び声が聞こえ、理子は肩をぐいとつかまれた。身体が硬直していたせいか、そのショックで理子は全身を一瞬けいれんさせてしまった。振り向くと、自分の肩をつかんで引き戻そうとするカールと、船長、クリス、そしてエレノアがいた。
「クソッ、子供が見るもんじゃない。早く部屋に戻るんだ」
 船長が、そういいつつ理子の隣をすり抜けていった。理子はもう一度、状況を見定めるべく視線を戻そうとしたが、それはカールの思いの外強い力によって遮られた。
「いけませんよ。臭いで、わかってるハズでしょう。ここはお嬢さんが居るような所じゃないんです。さあ、部屋に戻りましょう」
「わかってるわよ」
 カールの言うとおり、臭いを嗅いだだけで十分だった。カルメンに遮られたむこうに存在するものは、想像するだけで十分だった。理子は、おぼつかない足取りで、カールにもたれかかるようにして、来た道を戻りはじめた。背後では、船長とカルメンが何か言っている。去っていく自分を、心配そうな目つきでクリスが見つめている。エレノアは理子達を尻目に、船長とカルメンの近くへと寄っていった。
「大丈夫、だって。そんな支えなくたって、歩けるわよ」
 自分の身体が無意識のうちにカールに寄りかかっていることに気づき、理子は両手で力無くカールの身体を突き放した。そして大きく深呼吸をし、動揺した精神を落ち着かせようとした。そして彼女の肺胞いっぱいに、血の臭いの混ざった空気が吸い込まれたその時、理子は腹の底から突き上げてくる、あの独特の不快感を催した。そして、腸がケイレンするのを脳が知覚した直後、理子は朝食べたパンや野菜、肉や卵を、一瞬のうちに薄暗い廊下におう吐していた。

 理子は浴室で、汚れた服を脱ぎ捨て、シャワーを浴びていた。少し熱いお湯が、全身を洗い流す感触は、とても清潔なものだったが、いくら全身を清潔にしても、精神的な救済が訪れるわけではなかった。
 何も見ていないのだ。ただ臭いを嗅いだだけなのだ。死体そのものは、人影に阻まれて、一部を見ることすらかなわなかったのだ。だというのに、おう吐という無様なマネを、周囲に人がいる状況でやってしまったのだ。
「情けない、なぁ」
 頭からお湯をかぶりながら、理子はつぶやいた。クリーム色のバスタブに、ほほを伝ったお湯が落ちてゆくのが見える。
「情けないもんですか。正常な反応ですよ」
 カーテンの向こうから、カールの声が聞こえた。理子は返事をしなかった。
「とりあえず、服は洗うだけは洗っておきましたよ。洗面台にかけておきますから、乾いたら自分で取り込んでくださいね。子供じゃないんですから」
「ありがと」
 普段ならば、もっと言い返すのだろうな、と理子は自分でも思った。
「それじゃあ、僕はもう行きますから」
 そういってカールは洗面所を出て行った。扉の閉まる音が聞こえた後、部屋の中はシャワーの音で満たされた。
 理子は顔を上げて、顔面にお湯を打たせた。まだ柔らかく、張りのある皮膚にお湯が当たってはじける。今更ながら、理子は自分の認識の甘さを痛感した。空想の世界での殺人事件に慣れていた自分を恥じた。ついさっき、自分がシャワーを浴びている、このロジャー・ヤングという船の中で、確実に人が死んだのだ。その事実は、圧倒的なリアリティを持って、理子の眼前に突きつけられていた。

 シャワーを浴び終え、服を取り替えた理子は、しばらくの間明かりもつけずに、ベッドの上に横になっていた。そうすると、少しずつだが、気分が落ち着いてきた。死体の画像ならば、暇つぶしにネットを見ているときに何度も目にしていた。現実で見ても、動じない自身があった。しかし違ったのは、臭いがあった、ということだ。血と、壁や絨毯の焦げる臭いが、己の鼻腔へと入り込んでくる。直接死体を目にせずとも、その臭いがあったという事実だけで、理子は白旗を揚げてしまったのだ。
 理子は暗闇に包まれた部屋の天井を見ていた。整えていない髪が背中に触れて、ちくちくする。少し冷静になった頭で考えてみれば、カールの言うとおり、自分の反応はごくごく正常なものだと思える。しかし自分がいつも見下してきたカールは、確かに驚いてはいたようだったが、自分とは比べものにならないほど冷静だった。
 そう考えると、理子は自分が情けなくなるのと同時に、カールは一体どんな事を経験してきたのかが気になった。
「考えてみれば、あいつ、ほとんど自分のこと何も語ってないっけ」
 理子は暗闇を見つめながらつぶやいた。いつもカールはヘラヘラしていて、自分をからかって遊んでいるだけで、姿を消していた間のことは、語りたがらない。
「宇宙を駆け回っていた、か」
 理子はエレベータ内部で、カールが口走った言葉を思い出していた。確かに今までも、カールは言葉を濁し続けてはいたが、宇宙を駆け回っていたと、いう意味のことは何度も言っていた。この船に乗るときの連絡通路でも、カールは宇宙に対して複雑な感情を持っていたようだし、彼が宇宙に居たのは間違いないと、理子は思った。

 おもむろに理子はベッドから起きあがり、自室の扉を開けて廊下に出ると、すぐ隣にあるカールの部屋の前に立った。認証装置のすぐしたにある呼び出しボタンを押すと、モニタいっぱいにカールの顔が映った。
「入るから、あけて」
 カールは何も言わずに扉を開けて、理子を迎え入れた。
「落ち着きましたか?」
 カールは部屋に入って、ベッドに腰掛けた理子を見つめて言った。彼はイスに腰掛け、備え付けの端末をいじっているようだった。
「なんとか、ね」
 理子は足を投げ出して、ベッドに寝転がった。天井は照明で照らされ、白色の壁紙がいっそう白く感じられた。
「良いんですか、そんな無防備な格好で。襲っちゃうかもしれませんよ」
「やれるもんならやってみればいいのよ」
 カールは冗談を飛ばしたが、理子は素っ気ない反応しかしなかった。
「相当参っているようですね」
 理子は返事をしなかった。カールもヘタに刺激するのはまずいと思ったのか、端末に向き直って作業を再開した。それからしばらくの間、二人の間には乾いた沈黙が流れた。
「ちょっと、聞きたいんだけどさ」
 十分ほど経ってから、理子は不意にカールに話しかけた。
「あたしの前から消えてた間のこと、そろそろ話してくれてもいいでしょ」
 理子はカールの顔を見ず、天井に視線をおいたまま言った。カールは何も言わなかった。空調の鈍い駆動音だけが部屋の中を埋め尽くし、二人の時間を包んでいた。
「どうして、急にそんなことを聞きたいと思ったんですか?」
 カールも又、理子を見ないで言った。
「あんた、あの現場に居合わせても、全然驚いたふうじゃなかったから」
 理子は起きあがって、カールの背中を見た。カールは何も言わず、端末の画面を見つめている。その背中には、理子には想像もできないような、暗く重い過去がのしかかっているように思えた。
「まあ、理由はともかく、お嬢さんの頼みなら仕方ありませんねぇ」
 カールは観念したように、理子のほうへと向き直った。
「なら、あたしが最初に聞いたときに話せば良かったのよ」
「それもそうですね」
 カールは素直に自分の非を認めた。
「さて、いい加減逃げ回るのもやめますか。思えば、どうしてこんなに僕は、自分の過去をひた隠しにしてきたんでしょうかね」
 カールは、そういってその表情を少し曇らせた。

 カールは端末の前を離れて、理子の隣に腰掛けた。昨日の展望台の時より、ずっと近く、肌が触れあうほどの距離だった。昔は良くくっついて遊んだものだったが、月日が経つにつれて、そういった事もしなくなったため、今の理子にはカールと自分との距離が新鮮に思えた。
「まずは、僕の身体について、教えておきましょうか。そうでないと、きっとお嬢さんは今から僕が話すことについて、納得できないはずですから」
 そういってカールは、ポケットからペンを取り出して、ペン先を自分の指先に当てた。
「ちょっと、カール……」
 カールは理子の静止も聞かず、自分の指先にペン先を突き立てた。そして傷口から流れ出したのは、ヒトに流れているはずの赤い血ではなく、銀色の光沢を持った液体だった。
「それって……」
 銀色の液体は、カールの指先で小さな半球を形成した後、かさぶたのような色になって、音もなく床へと落ちていった。
「多機能血液構造体(スマートブラッド)と言います。血球や血小板、あるいは血漿の代わりに、ナノマシンが使われている血液です。お嬢さんだって、ナノマシンぐらいは知っているでしょう」
 理子はそれと同じものを、つい昨日目撃していた。カールの顔を殴った際、彼の鼻から血の代わりにたれていたのを、うっすらと記憶している。
「スマートブラッドは、まず通常の血液と比べて、数倍の酸素運搬能力を持っています。血中に酸素をため込む事もできるんですよ。この血を持っている人間は水中や真空中でも、最低で十五分は息が続きます。他にも、キズを負うと一部のナノマシンが硬化して傷口を塞ぎ、その間に他のナノマシン達が皮膚や神経繊維、筋肉や骨をつなぎ直して、素早く完治させてくれます。腕の一本や二本、ちぎれてもすぐくっつくんですよ」
 カールは淡々と語った。
「ちょっと、待ってよ。一体どうして、あんたそんな血が流れてるのよ。順を追って説明してよ。でなきゃ、わかんないわよ」
 理子は驚き、とまどっていた。カールは理子の顔を見なかった。
「もちろん僕がどうしてこんな血を持つようになったか、から説明しても良かったんですが、疑り深いお嬢さんのことです。ひょっとしたら信用してもらえないかと思って、まずは現物を見てもらうことにしたんですよ」
 カールは、じっと自分の指先を見つめていた。そこにつけられたはずのキズは、すでにきれいに消えて無くなっていて、それを見る彼の顔は、どこか悲しげだった。
「僕は、強感覚者という人種です」
 カールは指先を見つめたまま言った。
「強感覚者とは、生まれつき免疫系に何らかの異常が起きて、正常な免疫反応がおきない人間のことです。産まれる前の検査で、子供が強感覚者とわかった場合、両親はその子供に対して治療を行うかどうかの選択を求められます。その治療というのは、胎児の血中にナノマシンを投与して、正常な免疫機能を復活させる事を言います」
 強感覚者、という単語について、理子は聞き覚えがなかった。
「その治療に、なんの問題があるのよ」
「まあ、まあ、たまには僕のうんちくを聞いてくれたってかまわないじゃないですか」
 カールはようやく、理子の顔を見て話した。
「ナノマシンは、体内に投与されるとまず、異常な免疫系を破壊して、そこに自らの分身を作る工場を建てます。そこでウイルスや細菌、毒物を『物理的』に破壊するナノマシンを製造し、宿主の免疫反応を確保します」
 カールの話は、理子にとっては別次元のそれのようで、いまいち信じられなかった。
「次に彼ら、擬人法ですからつっこまないでくださいよ、は神経系にとりつき、構成を変えていきます。既存のニューロンの伝導経路を改変し、情報の伝達速度を通常の五倍から十倍、ここは個人差がありますが、へと増加させます。その後、血球らを変成させて、怪我や外的環境の変化に強くさせます」
 カールはふっと一息ついた。
「大まかな説明はこんな所ですね。後は状況に応じて、たとえば視神経の信号を増幅して、わずかな光しかない場所でも鮮明な視界を確保できるようになるとか、筋肉細胞を変成させて、通常より疲れにくく、力の強い身体にするとか、いろいろあります。身も蓋もない言い方ですが、強感覚者は漫画に登場するような『超人』と思ってくれて結構です」
 自嘲気味に笑うカールを見て、理子は何を言って良いかわからなかった。
「まあ、そんな恐ろしがることはありませんよ。いくらキズがすぐ治ると言っても、頭を撃たれれば死にますし、ご飯を食べていないと餓死しますから。まあ、死ぬことは死ぬんですが、なかなか死なないんですよ、僕たち」
 恐ろしがる、という言葉を聞いて、理子は無意識のうちに表情はこわばっていたことに気づいた。
「それが、治療? 人間を『超人』にするのが、治療なの?」
 理子は、思わずそう漏らした。
「まあ、病気自体は治ってますからね」
 カールは歯を見せて笑ったが、いつものような明るさは感じ取れなかった。

 カールはベッドに寝ころんだ。その表情は、何か吹っ切れたような感じだった。理子は寝ころんだカールを見た。青のズボンと白いTシャツを身につけた彼は、隣に座っている理子の顔を見つめていた。
「僕は十歳から十五歳まで、宇宙軍に従軍していたんです。強感覚者は、十歳になると強制的に従軍しなければいけないんですよ」
「従軍って、あんた……」
 理子は言葉を失った。十歳といえば、とても従軍するような年齢ではない。何より、あの温厚な少年だったカールが、軍隊で生活していたとは思えなかったのだ。
「強感覚者の治療に使うナノマシンは、元々軍用のものです。常識的に考えてみれば、ただ免疫不全を治療するだけなのに、神経や血液まで変成させる必要は無いでしょう。ナノマシンによって身体能力を強化された人間は、軍にとって必要な人材です。『命を助けてやる代わりに従軍しろ』ということですよ、要するに」
「でもそれなら、ウイルスとかで意図的に免疫を破壊した人に、ナノマシンを投与すればいいじゃない。わざわざ病気の赤ん坊と両親に恩を売って、徴兵しなくったって……」
 理子の疑問ももっともだった。ウイルスの中には、人間の免疫系を破壊するものも存在する。それを使えば、いちいち赤ん坊を捜す必要もない。
「残念ですが、ナノマシンが人体の組織を変成させるには、結構な時間が必要です。免疫系の修復は一週間から二週間程度で終わりますが、他の部分の変成には年単位での時間がかかるんです。そして何より、胎児という未成熟な人間が、成熟していく過程の中でなければ、ナノマシンによる変成は起こらないんです」
 ばかげた話だった。そんな技術を使わなくたって、今の宇宙軍は十分強大だ。理子はそんな軍に、自分の父親が依存していることを歯がゆく思った。
「『不幸な』子供を使うのは、両親やその他の人々を納得させる効果もあるんですよ。たいていの人は死にたくありませんし、ナノマシンの投与自体はタダですからね。十歳になってから従軍させるのは、ちょうどそのころナノマシンによる変成が終わるのと、まだ思考が成熟していない故に、洗脳しやすいからです」
 カールは遠い目をした。理子はいたたまれなくなった。
「僕は五年間で、ずいぶんたくさんの戦場に出ました。大半はほとんど民間人と変わらないようなゲリラ相手で、僕はそんな人たちをたくさん殺しました。死体もたくさん見ましたから、いつの間にか慣れてしまいましたがね」
 自分の幼なじみがそんな運命をたどっていたとは、理子には想像もできなかった。すぐ隣で寝ころんでいる幼なじみを、ただ見つめることしか、理子にはできなかった。
「五年間従軍した後、強感覚者は自分で、軍に残るか、元の生活に戻るか、を決めることができます。金のかかった強感覚者が元の生活に戻れるのは、軍のほうでも何か手があるからでしょう。僕には、そのあたりのことは知らされていません。大半の人は軍に残る事を選択すると聞かされてはいましたが、ね」
 カールは目を閉じた。
「僕は戻ることにしましたよ。戦争するのに疲れましたし、何よりまたお嬢さんの顔を見たかった。覚えていますか? 五歳ぐらいの時、僕約束したんですよ。大きくなったら、絶対にお嬢さんを守ってあげるって」
「そんなの、覚えてないわよ」
 実のところ、理子はその約束を覚えていたし、その時「じゃああたしはカールと結婚してあげる」と自分が言った事すら鮮明に記憶していた。もっとも、それを話すのは顔から火が出るほど恥ずかしいので、とりあえず覚えてない事にしておいた。

「まあ、僕の空白の五年間はそんなところです。どうです、おもしろかったですか?」
 カールの表情は、いつもの明るくてヘラヘラしたそれに戻っていて、内心理子はほっとした。そしてそれは、無意識のうちに微笑として、理子の表情に表れていた。
「それですよ、お嬢さん。僕はその笑顔が好きなんですよ」
「カール、さっきまでシリアスな話をしてたのに、どうしてそこまで切り替えが早いのよ」
 理子はカールの言葉を聞いても、その微笑を崩す事なく言った。
「そういうお嬢さんこそ、もう気分がずいぶん良くなったみたいじゃないですか。僕と同じか、それ以上に切り替えが早いですよ」
 理子は笑った。カールもまた笑った。そして理子は、勢いをつけてベッドに横になり、カールと並んで横たわる形となった。お互いの手がわずかに触れあい、理子の髪の毛の一部が、カールの顔に引っかかる。
「昔を思い出すわね。こうしてると」
 理子はかつて、外で遊んで疲れて帰ってくると、理子の家の居間にあるソファーに、こうやって二人そろって寝っ転がった事を思い出していた。
「もうずいぶん前になりますね」
 ずっと昔に流れた時間を思い出して、二人は少し感傷的になってしまった。カールは、昔良くやったように、すぐそばにある、理子の細くて白い手を握ってみようかと思ったが、どうにも恥ずかしかったのでやめておいた。
「そういやあんた、気分悪かったのは治ったの?」
 理子は、ふと思い浮かんだ疑問をカールにぶつけた。
「まあ、一応は。ただ、アレは他の強感覚者が、体内から発信した強力な電波に当てられたんだと思います」
 カールは起きあがって、理子を見下ろした。他の強感覚者、という単語が、この事件をさらにややこしくするものに、理子は感じられた。
「他の強感覚者って?」
「僕たちは体内のナノマシンを介して、お互い通信することができるんですが、それを利用して一般の端末にアクセスすることもできるんです。ただ、その時に発信される電波は僕たちが普段通信に使うそれとは波長が違うのか、近くに強感覚者が居るとナノマシンに干渉して体調不良を起こすらしいんですよ」
 ずいぶんと突拍子もない話だな、と理子は思ったが、あの銀色の血液を見せられた後では、きっと本当の話なのだろうなと見当をつけるほか無かった。
「で、あんたはその、他の強感覚者が出した電波にあてられていた、と」
「そういうことです。爆発の後、すぐに気分が元に戻りましたし」
 ふと、理子はカルメンもひどく気分が悪そうにしていたことを思い出した。今のカールの話を聞くと、カルメンも強感覚者ではないのかと思えてきた。
「ところで、お嬢さん」
 理子が起きあがり、考え事をしている所に、カールが顔を近づけてきた。
「な、何よ」
 思いの外近くに寄ったカールの顔のせいか、先ほどまでの微妙な雰囲気も相まって、理子は思わず顔を赤くしてしまった。
「人が死んでいるというのに、こういう事を言うのもなんですが……」
 少し顔を動かせば、キスできそうな距離にいるカールの意味深な言葉に、理子の心臓は早鐘を打ち始めた。無意識のうちにシーツを握る手のひらに、汗がにじむ。カールが次に何を言うのかを想像すると、理子の顔色はますます赤くなっていった。そしてようやく、カールが口を開いた。
「おなか空きません? 僕、昼ご飯食べてないんですよ」
 ある意味『お約束』とも言える問いかけに、理子は思い切り彼の顔面にパンチを食らわせることで返事をした。ついさっき、彼が『超人』だと聞いていたせいか、今回のパンチは普段食らうそれより遥かに強力で、カールは一回転してベッドから転げ落ちた。

 そんな対応をしたものの、おなかがすいていたのは事実だった。おう吐してしまった以上無理もない、と理子は考えたが、カールの目の前で腹が鳴るのだけは避けたかった。床にうずくまるカールを放置したまま、理子は廊下に出てホールに向かった。
ホールに着くと、テーブルはそのままで、料理もまだ片づけられていなかった。そして、そのテーブルについて、一人黙々とパンをかじっているカルメンが居た。
「ん、もう良いの? まああんな場面見ちゃったら、アレが普通の反応だから、気にしなくっていいのよ。あたしは死体なんか結構見慣れちゃったんだけどね、職業柄」
 カルメンは口にパンを入れたまま喋ったので、白いテーブルクロスにパンくずが散った。
「あんたもずいぶん無神経ね」
「食事の前だったし、あたしっておなかがすくのを我慢できないのよ。ディミトリさんには悪いけど、彼の分までいただいちゃおっかな」
 そういってカルメンはフライドチキンを皿ごと引きずって、自分の席の前に持ってきた。
「あんたも食べたらどうなの? ゲロはいた直後なんだから、おなか空いてるでしょ」
 カルメンは皿から一つフライドチキンをとり、すぐ後ろに立っている理子に差し出した。
「まあ、そのつもりでここに来たんだけれど、ね」
 理子は少し恥ずかしそうにしながら、席に着いた。
「そういや、ジェシカさんと話してたときに言ってた、黒い噂って何なのよ」
 理子は手渡されたチキンを口に放り込んでいった。
「ああ、アレね。この船にはある噂があってね……」
 カルメンは何か重大な事実を語るかのように、神妙な面持ちで話し始めた。
「この船は元々軍艦だったのは知ってると思うけど、何度も戦場に出たせいで、クルーに多大な犠牲が出てしまったの。それで戦争も少なくなって、船が払い下げられる事になったんだけど……」
 カルメンは一度言葉を切った。
「改修されて、旅行に使われるようになってから、旅行者の間にある噂が立ったの。夜になると、この船の通路に、死んだはずのクルーが立っているって……!」
「それ、前に聞いた」
 カルメンは怪談話のつもりだったようだが、理子は彼女を哀れむような視線で見つめているだけだった。自分の話がウケなかったと悟ると、カルメンは恥ずかしそうに舌を出して、本来の目的を語りはじめた。
「まあ冗談はこのくらいにしておいて、と。あたしはこの船が密輸船だ、って噂を聞いてね。特ダネになるかも知れないから、バカンスついでに取材に来たのよ。船長とかにも話は聞きたいんだけど、状況が状況だし」
 カルメンはスパゲティをすすった。
「まあ、この事件をネタにすればちょっとしたお金になるだろうし、どうでもいいっちゃどうでもいいことなのよね。もしほんとに密輸なんかしてたら、あたしの手に負えるようなネタじゃないもの。なんでも、麻薬とか武器とか、手広くやってるらしいし」
 残念そうな様子でカルメンは言ったが、理子はその噂に興味を持ったようだった。
「詳しく聞かせてよ、それ」
 カルメンは理子の申し出に面食らったようだが、快くその噂について話してくれた。
「ま、減るもんじゃないしね。あたしとつきあいの長いやつが居て、元はそいつが調べようと思ってたネタらしいのよ。なんでも、この船には隠し倉庫がいくつかあって、そこに密輸品を積んで、遊覧の途中で宇宙に放り出して受け渡しするんだって」
「あり得ない話じゃないだろうけど、確認のしようがないわね」
 突拍子もない話だったが、そこまで非現実的な話ではないように、理子は考えた。
「そうそう、それが問題なのよ。乗る前から結構調べてるんだけど、関係者は知らないの一点張りだし。乗ってみたら乗ってみたで、手がかりになるようなものは何にもないし。変な事件は起こったけどね」
 語り口から察するに、カルメンもお手上げの様子だった。
「じゃあ、朝言ってた隠し通路の在処とかも、知らないワケね」
「それがわかるなら、こんなところで飯なんか食ってないわよ」
 カルメンはグラスに注がれたオレンジジュースを飲み干した。
「それと、もう一つ聞きたいんだけど、あんたついさっき爆発が起きるまで、ずいぶん気分悪そうにしてたわよね。アレって、結局なんなの」
 次の皿を引きずり寄せようとしているカルメンに、理子は問いかけた。
「ああ、アレ? 生理痛よ、たぶん」
 臆面無くそういうことを言うカルメンに、理子はあきれ顔になったが、自分も経験がないわけではないので、それ以上追求するのはやめておいた。そして、話をすることに集中していて、自分はほとんど食事をしていない事に気づき、理子は近くにあったスパゲティの皿を引き寄せた。ふと見上げると、ホール上段にカールが立っているのが見えた。

「お嬢さん、顔面パンチはいくらなんでもひどいじゃないですか」
 鼻先をさすりながら、カールが下へと降りてきた。理子は少し彼を見た後、スパゲティを食べることに集中しはじめた。
「あ、無視するんですか。ひどいですね」
「それより、あたしがゲロ吐いた後何があったか教えてよ」
 カールが非難めいたことを口走ったが、理子はそれを無視してカルメンに話しかけた。
「何があった、ってねぇ。殺されたのはディミトリさんで、部屋ごと爆破された、ってことぐらいしかわからなかったし。現場は空気漏れの危険があるから速攻で封鎖。映像解析とかはクルーがやるから、乗客は部屋に引っ込んでろ、だってさ」
 残念そうな様子で、カルメンが言った。
「まあ、順当な反応ですか。実際、僕らにうろつかれたら迷惑でしょうし、乗客に被害が出たらコトですから」
 理子の隣に座ったカールは、目の前にあったパンを一切れ取った。
「気に入らないわ」
 理子はフォークを机の上に置き、強い調子で言った。
「それって、あたし達には部屋の隅でうずくまってふるえてろ、ってことじゃない」
 思いの外語気の強い理子を見て、カールとカルメンは少々驚いたようだった。
「じゃあ、あんたはどうしたいのよ」
 試すような口調で、カルメンが言った。
「船中をうろつき回って、あたし達をただの『馬鹿な乗客』扱いする連中と、この旅行を台無しにした『モンキー野郎』に嫌がらせしてやるのよ」
 理子はふんと鼻を鳴らして答えた。カルメンはそれを聴いて、腹を抱えて笑い出したが、それは理子を貶すような笑いではなかった。
「なるほどね! そりゃあいいわ。あたしもいい加減こんな狭いところに押し込められるのにも飽きてきたし、その話、乗ったわ」
 笑い疲れた様子のカルメンは、それだけ言うと席を立って、階段を上って部屋に戻っていった。あまりにカルメンが大笑いするので、理子は後になって恥ずかしくなってきたが、今更発言を撤回するというのもまた恥ずかしいので、黙っていた。
「しかし、ずいぶん強気な発言ですね。どうしてまた、急に」
「犯人もクルーも気に入らない、って理由じゃ、納得いかない?」
 理子は率直な感情を示した。
「ま、ヘタに正義感に燃えるよりは、そっちのほうがいいですね。お嬢さんらしいですし」
 カールはその言葉にいささか閉口した様子だったが、まんざらでもなさそうだった。
「でも、意気込みだけじゃ何もできませんよ。これからどうしようっていうんです?」
 そういわれて、理子はあごで、ホール奥にある立ち入り禁止区域への扉を指した。
「とりあえず、前後の状況は把握しておきたいわ」

 食事を終えた理子は、立ち入り禁止区域へとつながる扉の前に立っていた。備え付けの端末から何度か呼び出しをかけると、少しやつれた様子のジェラール接客チーフが画面の中に現れた。
「何かご用ですか?」
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど、別にかまわないわよね」
 画面の中のジェラールは、いいですよ、といって消えた。理子がしばらく待っていると、立ち入り禁止区域の扉が開き、中からやはりやつれた様子のジェラールが現れた。
「お待たせしました。それで、聞きたいことというのは?」
「立ち話も何だから、座りましょうよ」
 そういって、理子はテーブルへと向かって歩き出した。ジェラールは何か言おうとしたようだったが、言葉を飲み込んで理子について行った。
 テーブルにはまだカールが座っており、理子とジェラールは互いに向き合う形で腰掛けた。すぐそばには食事の後かたづけをするためにメイド・ロボットがやってきていたが、理子達が座るのを見て取ると、そそくさと帰っていった。
「ジェラールさんも、お忙しいところ申し訳ありませんね。無理にお嬢さんのわがままにつきあう必要も無いんですよ」
「そういうわけにも参りませんよ。非常事態とはいえ、お客様の要望にはできる限りお答えするのが、仕事ですから」
「あんた達、そんなにあたしを馬鹿にするのが楽しい?」
 カールとジェラールのやりとりに、理子はいらいらしているようだった。カールはともかく、ジェラールは悪気があって言ったわけではないのだが、このまま続けると後で面倒なことになりかねないので、二人ともそこで会話をやめた。
「まあいいわ。あたしが聞きたいのは、デュボアさんとディミトリさんが殺されたときの状況。教えちゃいけない理由は、別にないでしょ」
 疑り深い視線を向けてくる理子に、ジェラールは少し警戒心を抱いた。
「それはもちろんです。しかしながら、『好ましくない』という理由はありますね」
 ずいぶんとあからさまに言葉を濁してくれるな、と理子は感じたが、あえて顔には出さなかった。今朝の一件以来、どうにもこの船のクルーには信頼が置けない。
「一応僕らも、生死をともにしているわけです。知る権利がない、というようなばかげた理由でないことを祈りますよ」
 横から、カールが嫌みたっぷりに言った。ジェラールは苦笑いして、そういうわけではない、といった。
「我々は、皆様がパニックになることを避けたい、という思惑を持っているのですよ。今朝の出来事をお忘れですか? 状況はいくらでも深刻に説明できますし、同様に楽観的に説明することもできるんです」
 ジェラールの言いたいことは、理子にもわからないでも無かった。ヘタに口を滑らせて、乗客が暴れ出したりすれば、全員の生還率が下がる可能性もある。
「でも、今度の乗客は、そこまで馬鹿ばっかりじゃないし、パニックを起こすほど恐ろしいことが起こってるわけでもないしょ」
 後半の部分はいささか自分でも口にするのは気が引けたが、多少オーバーなことを言わなければ、この黒人の接客チーフは何も語らないだろうという感触があった。
「なるほど、この程度の事件では動じない、と。それなら、フランク・デュボアが殺されたときの状況を、詳しく語りましょうか」
 ジェラールは、真剣な口調になり、理子をじっと見つめた。その視線に気圧されつつも、彼女は視線をジェラールからはずさなかった。
「今朝、彼は宇宙空間に吸い出されて死んだ、と船長は説明しました。残念ながら、それは乗客に対するショックを和らげるための、ウソだったんですよ」
 先ほどまでのやつれた顔とはうってかわって、今のジェラールの視線は鋭かった。
「と言うと、実はデュボアさんは生きている、ということですかね」
 カールは冗談めいた口調で言ったが、ジェラールは微笑を浮かべたまま首を振った。
「死んだことは確かです。何せ、殺される直前の映像が残っていますし、おびただしい血痕と彼の手首が発見されましたから」
 血痕と手首、と聞いて、理子は爆発現場で嗅いだ、あの不快な臭いを無意識のうちに思い出し、胃のあたりに不快感が発生するのを感じていた。
「顔色、悪くなってますよ。大丈夫ですか?」
 ジェラールは理子に話しかけてきたが、心配している口調ではなかった。
「結局、そういうことなんですよ、ジュアン・理子さん。ディミトリの部屋が爆破されたときの映像も、ありますよ。ご覧になりますか?」
 嫌がらせとしか思えないことを口にするジェラールに、理子のイライラは募っていった。
「何が言いたいのよ、あんたは」
 たまりかねたように、理子はその一言をはき出した。
「できるなら、乗客の皆さんに危険なことはしてほしくない、ということです。理子さん、あなたがこの事件の真相を解明しようとするのは自由です。ですが、我々はあなたの行動によって、あなた自身が傷つくことをよしとしないのですよ」
 いつの間にか、ジェラールの言葉からはトゲが消えていた。
「安全であるためには、知ると都合の悪いことがいろいろある、というわけですか」
 カールの言葉に、ジェラールはゆっくりと首を縦に振った。
「今のところ、被害に遭っているのはクルーのみです。私があなた達に真実を語らないのは、あなた達のことを思って、ということをお忘れ無く」
 そういって、ジェラールは席を立った。そういわれると、理子はどう反論して良いかわからず、ジェラールが去っていく姿を、見つめるしかできなかった。
「待ってください」
 不意に、カールがジェラールを引き留めた。
「あなたがついさっき話したことも、真実ではない、と解釈してもかまわないのですか?」
 ジェラールは足こそ止めたが、こちらを振り向かなかった。
「それを知らない方が良い、ということですよ」
 それだけ言うと、ジェラールは立ち入り禁止区域へと通じる扉の奥へと消えていった。残された理子には、言いしれぬ不快感といらだちだけが残った。
「本当に、気に入らないわ」
 そうつぶやいて、理子は席を立った。
「どこに行くんです?」
「部屋に戻るのよ。考え事するから、しばらく放っておいて」
 理子は不機嫌な表情をしたまま、階段を上っていった。それを見計らったかのように、ホール奥からメイド・ロボットが音もなく現れ、テーブルの後かたづけをするチャンスを、カールのすぐ横で伺いはじめた。言葉を喋らないメイド・ロボットとはいえ、そうやってすぐ横に立たれるとカールも落ち着かないのか、しばらくメイド・ロボットとにらめっこした後、白旗を揚げて彼もまた部屋へと戻っていった。誰もいなくなったホールでは、次々とメイド・ロボット達が現れ、満足そうにテーブルの後かたづけをはじめた。

   Ⅶ 第二日目 夜

 ベッドの上に寝転がって、理子はいろいろなことを考えたが、はっきりとした結論を出すことはできなかった。この船は怪しい、と漠然とした感情が浮かぶばかりで、具体的なことを何一つ考えることができず、理子は悶々としていた。
 今考えてみれば、理子の周囲にいる人間の大半は怪しい。そもそも、昼の爆発の時、理子が姿を見たのはカルメンだけである。クリスとカールは爆発後、現場に駆けつけてきたのを見ただけだし、ブレディ夫妻に関しては一切姿を現していない。唯一姿を見たカルメンですら、強感覚者ではないか、と疑える行動をしていたのだ。そして、乗組員は、言わずもがな、である。
「どいつもこいつも、全く……」
 理子は考えてもらちがあかないと考えたのか、ベッドから起きあがって、部屋の外へと出て行った。
 扉を開けて外に出ると、廊下は深夜のごとく静まりかえっていた。一瞬その静けさに不安を覚えつつも、理子はブレディ夫妻の部屋へと向かった。自分から他人を訪ねるというのは、わずかながら抵抗があったが、人に話を聞かないで何かがわかるほど、自分の頭は良く無いとも考えていた。
 扉横の端末を操作して、中にいるブレディ夫妻を呼び出してみるが、応答がない。ふと気づくと、理子の背後にはジェシカ夫人が立っていた。
「何かご用かしら」
 そういってジェシカ夫人は笑った。
「あ、いや、お昼にも全然見なかったから、ちょっと心配しただけ」
「疑っているのではなくて?」
 唐突に、疑うという言葉が出てきて、理子は思わず息をのんだ。
「いや、そういうわけじゃ……」
 いきなり自分の本心を言い当てられ、理子は適当な言い訳をすることができなかった。しかし、ジェシカ夫人はそんな理子に対して、敵対的な視線を向けることはなかった。
「良いのよ。無理もないもの。私たちは部屋を二つ借りているし、この船に乗って長いから、事件に関係していると思われても仕方ないわ」
 ジェシカ夫人は視線を落とした。そんな彼女を見ていると、理子は自分がこの二人を疑っていることが、非常に恥ずかしいことのように思えてきた。
「それより、お茶でもご一緒にどうかしら。お話ししたいこともいろいろあるのよ」
 話したいことと言われ、理子は一瞬どうすべきか迷ったが、部屋での考え事もいい加減にらちがあかなくなってきていたので、承諾することにした。

「アレンさんと相部屋なのに、今日は一人なのね」
「夫が一人にしてくれって言うのよ。誰だってそういうときがあるわ」
 ジェシカ夫人は理子の問いかけに答えつつ、端末を操作して扉を開けた。彼女の部屋に入って、理子は近くのベッドに腰掛けた。ジェシカ夫人は奥においてあった荷物の中からなにやら茶器のようなものを取り出し、備え付けのポットで沸かしたお湯を注ぎはじめた。
「ずいぶん用意が良いのね」
 お茶、といっても部屋においてあるものをごちそうされるのかと思っていた理子は、思わぬジェシカ夫人の振る舞いに驚いていた。
「気分だけでも高貴な身分でありたいと願うのが、私のような平民なのよ。あなたはお父様が大企業の社長だから、わからないかも知れないけど」
「親父は関係ないでしょ」
 父親の話を持ち出されて、理子は少し不機嫌になった。そもそも、自分はそこまで高貴な身分ではない、と理子は思う。程度の低いワイドショーで話題になるような、セレブの生活というものは、一応裕福な身分に入る彼女にとっても縁遠いものだったのだ。
「昔はこんなお茶なんか飲まなかったわ。大型スーパーで売っているような、安物のお茶で満足していたもの。ちょうど、結婚記念日にこの旅行に来るようになった頃から、私たちの生活は変わっていったわ」
 部屋の中に、茶葉の香りが漂いはじめた。理子はその香りを嗅いで、素直に良い香りだなと感じたが、ジェシカ夫人は複雑そうな表情を浮かべていた。
「良いものを飲むようになった生活が、気に入らないの?」
 ジェシカ夫人の語り口が寂しげなので、理子は率直に浮かんだ疑問をぶつけた。
「さあ、どうかしら。気に入らなくもあり、気に入ってもいるわ。さあ、召し上がれ」
 ジェシカ夫人は微笑を浮かべ、理子にカップを手渡した。少し熱いその紅茶をすぐに飲もうとした理子は、その熱さに思わず閉口した。
「私の夫は、あなたのお父様の会社に勤めているのよ」
 イスに腰掛けたジェシカ夫人は、ゆっくりと語りはじめた。理子はアレン氏が父親の会社に勤めていると聞き、内心驚いてはいたが、そこまで不思議なものでも無いと感じた。
「まさか、昇進の便宜をはかれって言うんじゃないでしょうね」
「そこまで図々しくはないわ」
 ジェシカ夫人はカップを机の上に置いた。理子はもう一度紅茶を飲もうとしたが、まだ熱かったので、多少下品ながらも息を吹き付けてさますことにした。
「今は夫も割と上の地位に居ると聞いているわ。その分外出することも多くなったけど。その穴埋めとしてこの旅行に来ることを考えたのかも知れないけれど、昔みたいに裕福ではないけれど二人でのんびりできる方が良かったと思うわ」
 遠い目をしたジェシカ夫人を見つめつつ、理子は再度紅茶を飲むことにトライした。先ほどの試みが功を奏したのか、彼女は一口だけ紅茶を飲むことができた。
「それで、話したいことっていうのは、ジェシカさんの愚痴ってわけ?」
 理子は自分で言った後、ずいぶん失礼な言葉だなと自省したが、ジェシカ夫人は怒ることもなくいつもの微笑を浮かべるだけだった。
「まあ、そういうことかしら。気に入らないのなら、お茶だけ飲んで帰っても結構よ」
 帰っても結構と言われると、理子はどうにも帰るのが億劫になった。ジェシカ夫人に言いくるめられているようで、あまりいい気はしなかったが、同時に直接的に意見を言わずに人を誘導することのできるジェシカ夫人を、うらやましくも思った。
「そういわれると、ねえ。良いわ、たまには人生の先輩の愚痴を聞くのだって悪くないでしょ、続けて」
 理子の言葉に、ジェシカ夫人はにっこりと笑った。よく笑う人だな、と理子は思った。
「ありがとう。そうね、理子さんは時々考えないかしら。自分たちの生活が、いろいろな人々の犠牲の上に成り立っているということを」
「あまり考えたことは無いわ。こういう性格だもの」
 即答する理子を見て、ジェシカ夫人はまたもや笑った。理子はあまり笑われることが好きではなかったが、彼女のそれが悪意のないものであることは、わかっていた。
「良い性格をしているわ。強く生きていけるでしょうね。私はたまにそういうことを考えてしまうわ。知っているかしら、このお茶は、昔は多くの人々の犠牲があって初めて手に入るものだったのよ。そう考えてしまうと、恐ろしくならないかしら。私たちは何千何万という人の犠牲の上で、この一杯のお茶を飲んでいると、考えたら」
 嫌な話だな、と理子は思った。自分の父親が軍事企業のトップであることを考えると、ジェシカ夫人の話を聞くのが苦痛になってくる。
「なら、今すぐ腹を切って死ぬぐらいのことをしたら良いんじゃないかしら」
「でしょうね。でも私は自分勝手な人間だから。そういう現実があると知っていても、今なおこの裕福な生活から逃れることができないの」
 ジェシカ夫人は視線を落とした。理子は紅茶に口を付け、飲める温度にまで下がったことを確認すると、ぐいと一気に飲み干した。
「まあ、こんな所かしらね。退屈な話で、ごめんなさいね。ちょっと気分がブルーになっていたみたい。あなたと話して、だいぶ落ち着いたわ」
「そりゃどうも。紅茶、おいしかったわ。ごちそうさま」
 理子はジェシカ夫人にカップを手渡すと、部屋の出口へと向かった。
「またいらっしゃいな」
「今度は明るい話をしてもらいたいもんだわ」
 そう言い残すと、理子は部屋の扉を開けて出て行った。ジェシカ夫人はテーブルの上に置いた紅茶を一口のみ、ふっとため息をついた。
「命の味というのは、やみつきになるものね」
 ジェシカ夫人の舌の上に転がる紅茶は、独特の香味を持ち、そして何度も飲みたくなるような甘さを持っていた。彼女は紅茶を飲み干した後、カップを片づけ、部屋の照明を落とした後、何か決意した表情を浮かべながら外へと消えて行った。

 ジェシカ夫人の部屋を出た理子は、せっかく部屋を出たのに又自室に戻るのもなんだと思い、展望台に向かうエレベータへと歩いていった。エレベータはボタンを押すとすぐに扉を開き、理子はそのまま展望台へと上っていった。
 展望台の壁面に映る景色は、昨日の夜とは違って、どこかの山奥のものが映し出されていた。遠くには山脈がそびえ立ち、その頂には白い雪化粧が施されている。針葉樹が生い茂っているところを見ると、北アメリカの寒い地方の映像なのだろう。
 理子は景色を見渡せるよう、真ん中のベンチを選んで座り、しばらく周囲の映像に見入った。ただの映像ではあるが、全周囲に映し出されているものを見る機会はほとんど無かったし、何より理子は地球上での旅行にはあまり行ったことがない。母親が死ぬ前に、数回行った切りである。そんな彼女にとって、ただの映像とはいえ、こういった景色はなかなか物珍しいものだったのだ。
 のんびりと景色を眺めながら、理子はついさっき聞かされた、ジェシカ夫人の話について考えていた。ただの老人の愚痴、と片づけることは簡単だ。しかしそう考えられるほど、ジェシカ夫人の表情は簡単なものではなかった。
 そもそも、なぜこんな状況で、わざわざあんなことを語る必要があるのだろうか。そう考えると、ジェシカ夫人の意図を考えずには居られなかった。
 不意に、背後からエレベータの上がってくる音がした。どうせまたカールだろう、と見当をつけた理子は、どんな嫌みを言ってやろうかと考えていたが、開いた扉のむこうから出てきたのは、理子の予想とはある意味かけ離れた人物だった。
「理子さん、身体はもう大丈夫なんですか?」
 エレベータから降りたクリスは、そういってにっこり微笑んだ。

 理子の隣に、イスを一つ分空けて座ったクリスは、特に理子に話しかけるわけでもなく、ぼんやりと周囲の景色を見つめていた。すぐ隣に人が居るというのに、何も話さないというのは理子にとってなかなかの苦痛であった。元々おしゃべりが好きなわけではないが、微妙な沈黙がつらいのである。
「しかし、なんであんたもわざわざ展望台に?」
「景色を見たくなったから、じゃいけませんか」
 理子が精一杯考えて振った話題も、クリスの素っ気ない返事ですぐにとぎれてしまい、二人の間には再び微妙な沈黙が流れた。手持ちぶさたになった理子は、ふと指輪に刻まれていたイニシャルのことを思い出した。
「話は変わるんだけど、あんたがくれたあの指輪さ、刻まれてるイニシャルがRだったのよね。あんたの名字とは違うみたいだけど、なんか理由があるの?」
 プライベートに関する質問にしては、ずいぶんとぶしつけな言い方をしたな、と理子は内心後悔したが、クリスが特に怒り出すようなことも無かったので、黙っていた。
「そんなに気になりますか」
「大いに、ね」
 理子は率直に答えた。クリスは視線を落として何か考え込んでいるようだったが、理子の返答を聞くと決心が付いたようで、彼女に向き直って話し出した。
「両親が死んで、一時期施設に入っていたんですが、ハイスクールに入学するとき親無しだと不利だったんですよ。それで、親類の養子にしてもらったんです」
 クリスの口から飛び出してきた話は、理子にとっては少々想像しがたいものだった。
「あ、疑ってますね、その顔は」
 指摘されて初めて、理子は自分が疑わしげな表情をしていることに気づいた。
「そういわれても、ねえ。いきなり施設やら養子やらと言われても。あんたの両親が居ないことは知っているけど……」
 理子は髪の毛をいじりながら言い訳をした。クリスは純朴そうに笑っていたが、その笑顔には少し影が見受けられた。
「まあ、無理もありませんよ。僕だってあまり実感がわかないんですから。ほんの数年前までは、ラインハルトなんて名字だったんですよ」
 クリスの旧姓を聞いて、理子は指輪に刻まれていたイニシャルに一応の納得をすることができたが、それにしてもクリスの出自は不明瞭だった。
「じゃあ、あんたはその親戚と一緒に暮らしてるわけ?」
 理子は次なる質問をぶつけた。
「親戚といっても、ずいぶん遠いそれですから。でなければ、両親が死んだときに僕は施設なんかに入りませんでしたよ。今は一人暮らしです」
 クリスの話には、それほど現実性があるとも思えなかったが、逆に疑いを強めるほど嘘くさい話でも無かった。何より、姿を消していた幼なじみが実は超人だった、という話を聞かされていては、どんな突拍子もない話も現実的なものに思えるな、と理子は考えた。
「本人がそういう以上、信じるしか無いわね」
 あきらめた様子で喋る理子を見て、クリスはまたもや微笑を浮かべた。
「厳しいですね」
「厳しくないあたしを想像できる?」
 理子は自信たっぷりに言い張った。クリスは少し考えた後、とてもそんなことはできないといった風に首を振った。
「しかし、僕が質問に答えるばかりで、あまりおもしろくありませんね。僕からも質問してかまいませんか」
 クリスに指摘されてようやく、理子は自分が一方的に質問ばかりしていることに気づいた。その負い目もあってか、理子は彼の提案にノーと言うことはできなかった。
「ま、別にかまいやしないけど」
「それじゃあ、聞きますけど、どうして理子さんはこんな展望台に居るんですか?」
 理子はその質問に答えようといろいろと思考を巡らせたが、ただなんとなく、というあまり知的とは言えない理由しか思い浮かばなかった。
「さっきまで部屋にこもりっきりだったから、気分転換みたいなもんね」
 とりあえずの所、理子は当たり障りのない理由を言っておいた。クリスはふむとうなった後、また黙り込んでしまった。
 理子はうつむくクリスを見て、ここまで口数が少ない少年だったか、と思った。昨日初めてあったときは、もっと楽しげに話していたし、今の彼にはずいぶんと影があるように思える。しかしながら、その原因を確かめることは、そう簡単にできることではなかった。
「まあ、あんまり思い詰めないほうが良いと思うわ。いろいろと変な事件ばっかりだから、そう簡単にはいかないだろうけど」
 理子の言葉を聞いて、クリスは顔を上げた。
「おかしいなあ、その台詞は僕が理子さんにかけてあげる方が、よほど自然な感じがするんだけれど……」
「あたしもつくづくそう思うわ」
 そういって、二人はお互いに小さな笑みを浮かべた。

 展望台でクリスと別れた理子は、いい加減部屋に戻ろうかと思い、エレベータを下りて自室へと向かった。そして不意に、クリスの言っていた入学手続きの話を思い出した。
「カールなら知ってるかな」
 五年間も従軍し、そしてハイスクールへと入学してきたカールならば、その手のことには詳しそうだった。一応、理子自身も入学手続きは自分でやったのだが、細かい条件については記憶が定かではなかったのだ。
 理子は帰り際、カールの部屋の前に立って、端末を操作して中にいるはずの彼を呼び出した。しかしながら、爆発が起こる前と同じく、いくら呼び出してもいっこうに中のカールが出てくる様子はない。
「ちょっと、カール。いるんでしょ」
「なんです、みっともない。僕ならここにいるじゃないですか」
 ムキになって何度も呼び出しをかけていると、不意に背後からカールに声をかけられ、理子は驚きのあまり飛び上がりかけた。
「どこいってたのよ、脅かすんじゃないわよ!」
「レクリエーションルームですよ。客室のすぐ下にあるんです。別にそんな怒る事でもないでしょう。まあ、インドア派のお嬢さんには、関係ない場所かも知れませんが」
 鼻を高くするカールを見て、理子は悔しくなったのか、力一杯彼のつま先を踏みつけてやった。彼が強感覚者ということを知ってしまった現在、その一撃はいつものそれよりも数段破壊力が高いもので、カールは思わぬ衝撃に低いうめき声を上げてしまった。

 とりあえずの所、カールは理子を部屋の中に招き入れたが、理子が遠慮をしなくなったことで、自分が強感覚者であると喋るべきではなかったかと思った。一方、そんな理子はカールの様子になんら気を遣うわけでもなく、入るなりカールより先にベッドの上に腰掛ける有様だった。
「お嬢さんも少しは僕のことを心配してくださいよ」
「手足がちぎれたってんならまだしも、つま先を踏んづけられたぐらいで心配するほど、あんたの身体っていうのは弱っちいものなのかしら」
 ここに来てカールは、自分が強感覚者であると告白したことを、はっきりと後悔した。
「ひっどいですねえ、痛みとかの程度の話じゃないんですよ。気持ちの問題です。わかりますか? 気持ちですよ、き、も、ち」
 カールはしつこく精神的な問題であることを強調してきた。わざとらしい口調で責め立て、顔を近づけてくる彼に、理子は再度つま先を踏みつけることで返事をした。さっきは右足で、今回は左足。思わぬ打撃に今度もうめき声を上げたカールは、細かく飛び跳ねながら理子から離れると、窓際に置かれているイスに座り込み、患部をさすりはじめた。
「ぼ、暴力はいけない……」
「あんたのその態度、どうにかならないの? 帰ってきてからずっとその調子じゃない。昔のあんたはもう少しマトモだったと思うんだけど」
 脅えた様子でおどけてみせるカールに、理子はあきれ果てた。
「まあ、良いじゃないですか、別に。多感な時期に五年も従軍してたんです、性格だって変わりますよ。ほら、お嬢さんとふれあうことによって、僕は今生きて居るんだなあということを実感するわけですよ」
「そういうことは他でやってちょうだい」
 従軍経験の話を持ち出してまで理子の同情を誘おうとしたカールだったが、あっさりと否定されてしまい、彼は少々がっくり来た。
「まあ、そういうところが良いとも言えるんですが……」
 カールは理子に聞こえないよう、小さな声でつぶやいた。幸いそのつぶやきは理子の耳に届かなかったようで、彼女は本来カールに聞きたかったことを口にした。
「さっきクリスと話したんだけど、あんたって学校の入学手続き、どうしたの?」
「どうした、と言われても。そりゃ普通にやりましたよ」
 質問に率直に答えたカールだったが、理子はそれに満足しなかったようだ。
「だってあんた、五年も従軍してたんじゃない。その間全然学校行かなかったわけだし、強感覚者って一応社会的には隠されてる存在なんでしょ、あんたの語り口から察するに。そんな男がホイホイ学校に入学できるとは思えないんだけど」
「ああ、なるほど、そういうことですか」
 ようやく納得がいった表情を、カールは浮かべた。
「強感覚者は民間人に戻るとき、軍から新しく身分を発行してもらえるんです。ちゃんとした教育を受けた、一市民という形で社会に送り出されるんですよ。一応、軍人ということで給料も出てますし。僕は昔と同じ名前で戻ってきましたけど、五年間ですからね。名前や顔を変えている人も多いんじゃないでしょうか」
 カールの話は興味深く、理子はふむとうなった。
「じゃあ、孤児だろうと親無しだろうと、その気になれば学校に入るぐらいは、わけないってことね」
「そうなりますね」
 その話を聞くと、ひょっとしたらクリスが強感覚者なのかも知れない、という考えが、理子の頭の中に浮かんできた。彼の出自に関しては割と怪しいものがあるし、昼の騒動の時彼の姿を見ていなかった。
「あんまり憶測だけで物事を決めつけるのは、良くないと思いますよ」
 考え込む理子の表情を見て彼女の考えを察したのか、カールが釘を刺した。理子は思考を中断され、少し不快な表情を見せたが、その意見ももっともな話ではあった。
「わかってるわよ。別にクリスだけを疑ってるワケじゃないし。真面目な話、あんただってかなり怪しいのよ」
「参ったなあ。といっても、僕が犯人でないという証拠がないから、無理もないんですが」
 自分も疑われていると聞かされたカールは、おどけて見せながらも理子の意見には肯定的だった。
 理子はベッドの上に寝ころんだ。カールの部屋のベッドは、自室のものと全く同じ臭いがして、特に男臭いというわけでもなかった。
「誰が何のために、こんなことやってるのかしら」
 誰に言うでもなくつぶやいた理子だったが、カールはそれに律儀に反応した。
「それはわかりませんね。僕らを人質にしたテロなのかも知れませんし、何らかの理由があって乗客乗員を狙っているのかも知れません。まあ、今の僕たちではそれを調べることは難しいでしょうけれど」
 外界の状況がわからない今、カールの言うことももっともではあった。しかしながら、今の理子は、真相の追求をあきらめるつもりはなかった。
「どんな理由にせよ、あたしは考えるのをやめないわよ。どうせ救助がくるまでの間ヒマなんだもの、その間に犯人の手がかりでも見つかれば御の字ってもんよ」
 鼻を鳴らす理子を見て、カールは彼女らしいなとも思ったが、できるなら危ない真似はしてほしく無いとも考えていた。
「しかし、真相追求はかまわないんですが、相手は強感覚者ですよ。そのあたりのこと考えてますか?」
「それぐらい、考えてるに決まってるでしょ」
 理子は即答した。
「そういうときは、あんたが死ぬ気でがんばるのよ」
 自分は頼りにされているのだな、とカールは内心喜んだが、彼の思考の隅には、ひょっとして捨て駒扱いをされているのではないか、という一抹の不安が浮かび、消えることはなかった。

理子はベッドに寝ころび、事件についての考え事をしていたが、仮にすべての線がつながって犯人がわかったとしても、それを証明することができないという点に、彼女は頭を悩ませていた。
「証拠がないと、どうしても、ねぇ……」
 今のところ、一連の事件はすべて立ち入り禁止区域内部で行われている。船長らに入れてくれと頼み込めば何とかなるかも知れないが、これまでの彼らの態度を考えると、そう上手く行くとも思えなかった。何より、クルーの中に犯人が居るのであれば、彼らの根城にわざわざ自分から入り込むことになるわけで、その点においても現実的とは言えない。
 理子は起きあがり、備え付けの端末を起動して、船内地図を呼び出した。相変わらず外界にはつながらなかったが、端末本体に内蔵されている船内の情報については、支障なく閲覧できた。
 地図をいくら確認しても、抜け穴らしきものは見あたらない。当然といえば当然なのだが、その結果に理子は少々いらだった。結果に満足がいかないまま、理子は端末を閉じて、再びベッドの上に横になった。
 乗客の中に犯人が居るとするならば、どうやって立ち入り禁止区域へと侵入したのだろう。カルメンが言ったように本当にこの船は密輸船で、隠し通路でも存在しているのだろうか。
 いくら考えてもらちがあかない理子は、もう夕食の時間だと言うことに気づいた。ずいぶんと考え事をしていたせいか、おなかもすいてきている。
「こんな時でもおなかはすくのね」
 自分の生理現象を自嘲しつつも、理子は立ち上がって扉へと向かおうとした。そして、ベッド脇の棚に小さく光る物体が置かれているのを見つけた。
「そういや、昨日から置きっぱなしだっけ」
 理子はクリスからもらった指輪を手に取った。銀の輝きを放つそれは、部屋の明かりを受けて鈍く輝いている。
「なんで、こんなもの渡してきたんだろ」
 今更ながら、理子はクリスがわざわざこんなものを人に渡してくる意図を考え、いろいろと思考を巡らせたが、もっともらしい理由を導き出すことはできなかった。

 ホールに行ってみると、ジェラール接客チーフがテーブルのそばに立っているのが見えた。他には誰もおらず、理子は自分が一番乗りなのだなと考えた。
「接客チーフさんが、一体どうしてここにいるのかしら」
「仮にも接客が仕事ですから、ここにいてもおかしくはないと思いますが」
 ジェラール接客チーフは笑顔で言った。つい昨日ならばその笑顔が素直に良いものだと理子にも思えただろうが、いろいろときな臭いことが続いた今となっては、素直に彼のことを信用することはできなかった。
「でも、何かすることがあるからここにいるんでしょ」
 理子はさらに質問をぶつけ、昼間と同じ席に着いた。
「まあ、それはそうですが、ね」
 ジェラールは言葉を濁し、視線を理子からはずした。
「また『あたし達のため』ってわけ?」
 理子の問いかけに、ジェラールは答えなかった。無口を装う接客チーフに理子がいらだっていると、申し合わせたようにホールの階段上から続々と乗客達が集まってきた。その中には今朝から部屋に引きこもっていたはずの、アレン氏の姿もあった。
 乗客達はジェラール接客チーフが居ることに気づき、少々驚いたようだったが、特に目立った反応をするわけでもなく、各自席に着いた。
「皆さん、お集まりのようですね。船長からお知らせがあります。多少の誤差はありますが、明日の今頃には通常通信で救援が求められる所まで移動できるそうです。簡潔に言うならば、この遭難劇も明日でおしまい、ということです」
 希望に満ちた報告であるというのに、それほど乗客達は喜ばなかった。もっとも、それはジェラール接客チーフ自身も予想していたことだったらしく、彼はすぐ二の句を継いだ。
「といっても、我々が窮地に立たされていることは疑いのないことです。皆様方の不安を取り除く意味でも、今回私がこの場に立って皆様のご質問に答えることになりましたので、どうかよろしくお願いします」
 そういってジェラールは深く頭を下げた。理子は昼間に自分が彼を呼び出した影響でこんなことになったのか、と考えた。
「何を聞いても良いってこと?」
 カルメンが口を開いた。ジェラールはにっこり笑って、ご自由にどうぞ、と言った。理子は内心、カルメンがとんでもないことを聞きそうだと思ったが、残念ながらその予想は当たってしまった。
「それじゃあ聞くけど、この船が密輸船って、マジなの?」
 唐突な質問に、さすがのジェラール接客チーフも言葉を失ったようだ。事前にその噂を聞いていた理子やカールですら、このタイミングでその話を持ち出すカルメンに、驚かずには居られなかった。
「その、それは一体どういう意味ですか?」
「言葉通りの意味よ。この船が密輸船なのかどうかって聞いてるの」
 言葉に詰まるジェラールに、カルメンはさらに言った、
「ちょっと待ってよカルメン、それって今ここで聞くようなことなの?」
 思わず、理子はカルメンをいさめていた。しかしながら、本人は至って応えていない様子で、ジェラールに対して不敵な視線を送っていた。
「別に良いんじゃない? 質問の範囲なんか限定されてないわけだし、あたしにとってはかなり興味のあることなのよね。この船に乗った目的でもあるし」
 カルメンはテーブルに置かれたグラスを手に取り、くるくると回して見せた。
「しかし、それに関してはお答えのしようがありませんね。私がこの場で絶対にそんなことはない、といってもあなたは余計疑いを強めるだけでしょう」
 ジェラールはカルメンに対して微笑を浮かべていたが、その視線には多分な警戒心が込められていた。そんな視線をかわすように、カルメンは飄々とした様子で言い返した。
「じゃああなたは、『無い』とは言い切らないワケね」
 その言葉を聞いたジェラール接客チーフの顔が、一瞬引きつるのを理子は見逃さなかった。急速に場の空気が悪くなっていく中、クリスが声を上げた。
「そんな、いきなり密輸船だなんだなんて、僕らに何の関係があるって言うんですか」
「関係? それなら結構あると思うのよね、あたし」
 クリスに対しても、カルメンの態度は変わらなかった。普段のおちゃらけた、ひどく間抜けそうな印象のある彼女と違い、今のカルメンはジャーナリストらしい、鋭く冷たい視線を持っていた。
「よっぽどの理由が無けりゃ船を爆破して、中にいる連中を遭難させたりなんかしないと思わない? 大規模なテロをやるつもりなら、もっとでっかい客船だってあるんだし。たとえば、中にいる連中にものすごい恐怖を与えたりする目的でも無い限りは」
 淡々と自分の予測を語るカルメンは、グラスに水を注ぎ、ぐいと飲み干した。理子もカルメンの意見には賛成だった。どうしてわざわざ船ごと遭難させる必要性があるのかを考えると、この船が密輸船という話も可能性の一つとして浮かんでくる。
「まあ、そのあたりはあたしの予測にすぎないんだけどね。興味本位で聞いただけだから、別に答えてくれなくてもかまわないけど」
「なら、最初から場を混乱させるようなことは言わないでくれたまえ。特に、我々乗客の不安を煽るようなことはな!」
 先ほどから黙って話を聞いていたアレン氏は、少々威圧的な口調でカルメンを非難した。そういわれてカルメンは、申し訳ないと口では謝ったものの、表情を見る限りではとても反省している様子ではなかった。
「他に質問がありましたら、どうぞ遠慮無く」
 ジェラール接客チーフは仕切り直しをかけた。しかしながら、カルメンに続いて質問が飛び出ることはなく、陰鬱な沈黙ばかりが続くだけだった。

 夕食は終始暗い雰囲気に包まれていた。騒がしいのが好きではない理子ですら、参ってしまうほどだった。だからといって場を盛り上げる訳にもいかず、彼女は大して美味しいとも感じられない食事を、ただ胃に詰め込むだけの作業を続けた。
 食器の金属音が響くことも少なくなってきた頃、突如としてカルメンが立ち上がった。
「それじゃ、あたしは先に戻ってるから、何かあったら呼んでね」
 一言そう述べたカルメンは、そそくさとホールの階段を上って部屋へと帰って行ってしまった。乗客達は彼女を引き留めるわけでもなく、ただ呆然とそれを見つめていただけだったが、ただ一人ジュアン・理子だけは彼女が去っていくのを見ると、自分も又部屋に帰ると言い出して、食事も途中のまま席を立って階段を上っていった。
「なんだか嫌な空気になったものね」
 階段を駆け上がる理子を見つめて、ジェシカ夫人がつぶやいた。
「今まで嫌な空気にならなかったほうがおかしいんじゃないんですか? 仮にも僕らは遭難しているわけですし、もう少しあわてふためくべきだったのかもしれませんよ」
 カールはそういったものの、本人は至って動じていないという様子で食事にいそしんでいた。そんな彼をクリスは不審の目で見つめていたが、幸いにも彼はクリスの視線に気づくことはなかった。
「でも、どうしてカルメンさんは今になってあんなことを言い出したのかしら。みんな混乱するって、わかっていたでしょうに」
「ジャーナリストなど、いつもそういうものだ。他人を混乱させ、不安を煽ることに命をかける職業なんだよ」
 ジェシカ夫人の疑問に、アレン氏はカルメンといわずジャーナリスト全体を非難した。
「ひょっとしたら、僕たちの反応を見ていたのかもしれない」
 唐突に、クリスが話に入ってきた。彼はカール達と目を合わせることなく、うつむいたまま喋っていた。
「僕たちだけじゃなく、ジェラールさんの反応も、だろうけど。ああやって突拍子もないことを言ってみせれば、誰かがボロを出すかも知れないと思ったのかな」
 うつむいているせいか、クリスの表情はカールからはよく見えなかった。
「なるほど、彼女は我々を疑っているというワケか。ふん、ブン屋などそういうものよ」
 アレン氏はどうにもジャーナリストに対する印象が悪いらしく、何度も不満を漏らした。
「といっても、冷静に考えればこの船に乗ってる人間全員が怪しいですからね。まあ、外の状況がわかりませんから、外部犯という可能性も無いわけではないですが」
 内心、カールは外部の犯行とは考えられなくなっていた。ピンポイントで部屋を爆破するような真似をしている以上、船内に犯人が居る可能性はかなり高い。
「すると何か、君もあのジャーナリストと同じく我々を疑っているというのかね」
「そういうわけではありませんが……」
 カールは一応の所否定しておいたが、実際の所はアレン氏の言うとおりだった。

 理子はカルメンが部屋に入ろうと、端末に手のひらを押しつけているところで追いついた。認証をすませたカルメンは、さっさと部屋に入ろうとしていたようだったが、理子の姿に気づくと開いた扉の前で理子に向き直った。
「なんか用事?」
「どうしてあの場であんなことを言ったのか、聞いてみたくて」
 短く要求を述べた理子を見て、カルメンはにやりと笑った。そして理子に部屋の中を指さすと、自分はすぐ部屋の中へと消えてしまった。理子はあわてて、ドアが閉まる前に部屋の中へと駆け込んだ。
 カルメンの部屋には、ツンとした香水の匂いが漂っていた。昼間の爆発現場で嗅いだあの匂いだ、と理子は直感した。それに伴って、その時嗅いだ血の臭いまで思い出されて、理子は気分が悪くなった。
「あんたの歳じゃ無理もないわね」
 理子の様子を察して、カルメンは言った。
「歳さえ食えば死体見ても驚かないってわけ? あんただってあたしより何十年も長く生きてるわけじゃないでしょ」
 気持ち悪さをこらえつつ、理子は反論した。カルメンはそれを聞いて、一瞬何か言い返そうとしたようだったが、子供の相手をするのは無駄だと言わんばかりに笑った。
「まあ、年齢さえ重ねれば良いってもんでもないし、ね。あんまり強がるのはよした方が良いと思うけど」
「馬鹿にして」
 カルメンを追い越して、理子は窓際に置かれているイスに、倒れ込むように座った。カールやブレディ夫妻の部屋を見てきたが、内装はどこも変わりないようだった。
「たまには素直になりなさいよ。ほら、これ飲んだら楽になるから」
 そういって、カルメンはグラスに入ったお茶のような液体を差し出してきた。受け取った理子は、深く考えずにそれを口にしたが、舌の上に広がる独特のしびれと、灼けるようなのどの熱さを感じて、もっと用心するべきだったと痛感した。
「お酒じゃない、これ!」
「そうよ、二日酔いには迎え酒が効くのよ」
 のどの感じから察するに、相当にアルコール度数の強いお酒だったようだ。そんなものをグラスに少しとはいえ、一気に飲んでしまった理子は、カルメンに対してもっと警戒しておくべきだったと後悔した。カルメンは理子の反応を笑いながら、近くの棚から自分用のグラスを取り、ベッドの端っこに腰掛けた。
「だいたい、あたし二日酔いじゃないし」
「でも、気分は元に戻ったでしょ」
 カルメンの言うとおり、先ほどまで感じていた気分の悪さは無くなったが、今度は代わりに胃のあたりが沸き立つような感覚に、理子は襲われていた。吐き気を催すようなものではないが、不快なことは確かだった。
「度数の高いお酒のショックで吹っ飛んだだけでしょ。余計気持ち悪くなったわ」
 ふてくされる理子を見て、カルメンは高々と笑った。
「結局気の持ちようなのよ、あんなの。場数を踏まなきゃ慣れないってものでもないわ」
 そういって、カルメンはもうひとつのグラスについだお酒を飲み干した。まだ胃のあたりがグルグルする理子は、あれほど度数の高い酒をひょいと飲むことのできるカルメンを、少しうらやましく思った。
「それより、なんでわざわざあんなこと言ったのよ」
 理子は本題に入ったが、カルメンはお酒を飲むばかりでいっこうに質問に答えようとしなかった。彼女が右手に抱える酒瓶は、みるみるうちにお酒の量を減らしていった。
「ひょっとして、あたしに酒を飲ませるためだけに、部屋の中に入れたの?」
「まさか、ちゃんと説明してあげるわよ」
 いぶかしげな視線を送る理子に、カルメンは心配ないと言ったふうに答えた。
「一応の理由としては、みんなの反応が見たかったからかしらねぇ。まあ、あの噂はもう、あたしの中じゃ確信に近いものがあるんだけど」
 カルメンはさらにお酒を一杯あおった。
「どういうことよ」
 胃のあたりの不快感は、ようやく無くなった。カルメンは理子の顔を見ながら、ふふんと笑うと、その理由を説明しはじめた。
「爆薬の出所考えれば、すぐわかることでしょ。チェレンコフ推進ユニットやタキオン・ブースター、あるいは宇宙船の外壁を吹っ飛ばせるようなヤバイ代物を、どうやって船内に持ち込むつもりなの? あんたは知らないかもしれないけど、軌道エレベーターにしろエアロックにしろ、そういうブツが出入りしてないか、逐一チェックしてるのよ」
 そのチェックがずさんだったらどうするんだ、と理子は言い返そうとしたが、その制度について彼女は詳しく知らなかったため、黙っていた。
「何にせよ、個人でそんなものを持ち込めるほど、セキュリティは甘くない。じゃあ最初から積んであるとでも考えるしかないでしょ」
 怪しい話ではあったが、確かにそういわれてみれば、爆薬の出所について考えたことは無かった。推理小説の読み過ぎか、そういった代物はその気になればどこにだって持ち込めると、理子は考えていたのだ。
「でも、それだけで確信できる?」
「そ、それが理由。あたしがさっき、あんなこと言った理由よ」
 カルメンがそういったとき、理子は彼女の意図がようやくわかった気がした。
「ジェラール接客チーフ、否定しなかったでしょ。あたしも結構旅行して、いろんな人に会って、取材したり問いつめたりしてきたけど、だいたいの人間は突拍子もないことを聞かれたら、即座に否定するもんよ」
 彼女の意図については納得がいったものの、ジェラール接客チーフが否定しなかったというだけで、確信を得るというのは少々急ぎすぎなのでは、と理子は思った。
「でも、ニュースとかでやってる記者会見とかじゃ、どっかの会社の偉い人たちが『調査中です』とかいって否定も肯定もしないことばっかりだけど」
「そのあたりも絡んでくるのよ」
 いつの間にか、カルメンの持っている酒瓶は空になっていた。
「記者会見ってのはね、聞く方も聞かれる方も、だいたいどんな質問が出てくるか予測してるのよ。だから、どっちも自分の不利益になることは言わないわけ。特に物事を断言することは、まず無いと思っていいわ」
 そこまで言われて、古典的な表現ではあるが、理子もピンと来た。
「ジェラールさんは、密輸の話が出てくることを予測してた、ってことね」
「少なくとも、そういうことを聞かれたときの対応は、頭に入ってたみたいよ」
 空になった酒瓶を、カルメンはベッド脇の棚においた。
「もっとも、確信はあっても証拠が無いから、どうしようもないっちゃそうなんだけどね」
 最後に付け加えられた言葉に、理子は少々がっくり来たが、無理もない話だとは思った。
「とりあえず、あたしの当面の目的は証拠探しになるから、ここでお酒飲んで気合い入れてたってわけ。あんたも何かわかったら教えてね」
 そういってカルメンは笑ったが、酒瓶一つあけたというのに、彼女の頬には赤み一つ見られなかった。

 部屋に戻った理子は先ほどのカルメンとの会話を思い出していた。彼女の言うように、船の機関や外壁を吹き飛ばした爆薬を、外部から持ち込むことができないというのもわかる。ジェラール接客チーフの質問に対する反応が、怪しいものだったと言うのもわかる。しかしながら、それだけで確信を得ることができるかというと、両手をあげて賛成できる、というわけにもいかなかった。
 おそらく、カルメンの顔色を見なければ、理子は彼女の言ったことを、頭から信用してしまっていただろう。武器弾薬の知識などないし、船やステーションのセキュリティ・システムなど意識していなかった。人間心理にも詳しくない彼女には、カルメンの言うことがもっともらしく聞こえたからだ。だが、あれほど大量の、しかも度数の高いお酒を一気に摂取しておきながら、身体にたいした変化が起こらない様子を見て、理子はカルメンに対する疑いを禁じ得ることができなかった。
「強感覚者、か」
 カールから、強感覚者はアルコールも分解できるとは聞いていない。ただ、病原菌その他に強力な耐性を持っていると聞いている以上、それくらいのことはできてもおかしくないと、理子は感じていた。カルメンは強感覚者なのか、と考えることはあったが、確信を得るに至る証拠はどこにもない。
 ふと、彼女に指先でも切ってもらって、血を見せてもらえば良いのではないかと思った。見た目で判別できない以上、そういった方法をとることが一番だと思ってはいたが、仮にカルメンが強感覚者だった場合、彼女が犯人である確率は高いことになる。いくらカールがいるとは言え、なりふり構わず暴れられてはお互い無事ではすまないだろう。
 結局、らちがあかないのは今まで通りだった。怪しいと思える人間は複数居るものの、それらを犯人だと断定する根拠はどこにもない以上、理子にできるのは意味もなく思考を巡らせることだけだった。思考の堂々巡りを繰り返しているうちに、理子はふと睡魔に襲われ、犯人と思える人間が何人もいる中、眠りに落ちてしまった。

  Ⅷ 第二日目 深夜

 しばらくして、理子は端末から発せられる呼び出し音で目を覚ました。目をこすりながら、理子が端末を起動すると、そこにはカールの顔が映し出されていた
「お嬢さん、起きてください。自分で言うのも何ですが、大発見ですよ」
 カールは興奮しているようだった。理子はすぐ行くと伝え、無造作な睡眠で乱れた髪型と服を整えた。部屋の時計を見ると、もう零時を回っている。ずいぶん眠り込んでしまったな、と理子は自嘲しながら、部屋の外へと向かった。
「で、何の用なの?」
 眠りを妨げられた理子が、不満そうに口をきくのを見て、カールはやれやれといった表情を浮かべた。
「相変わらず神経が太いですね、お嬢さんは。今もどこかに殺人犯がいるかもしれないんですよ」
「あたしをからかうために呼び出したんなら、部屋に戻るわよ」
 厳しい反応を返されたカールは、申し訳なさそうな笑みを浮かべて、頭をかいた。
「そういうワケじゃないんです。見つけたんですよ、例の隠し通路。カルメンさんが言ってたじゃないですか、ほら」
 元々隠し通路の存在については、理子は半信半疑だった。あまり驚かない彼女を見て、カールはさらに説明を続けた。
「お嬢さんがカルメンさんを訪ねた後、僕も会ってみたんですよ。犯人は密輸に関係がある人物、という考えには、僕も賛成しました。それで、他にすることもないので隠し通路探しをやってみることにした、というわけですよ」
 隠し通路を発見した経緯を、カールはわざわざ語ったが、その甲斐無く理子の視線はそれでも疑り深いものだった。
「まあ、実際に見てもらった方がいいですよね」
 そういってカールは、展望台へと続くエレベータに向かって歩き出した。
「だいたい、隠し通路見つけてどうするのよ」
 理子は大きなあくびをしながら言った。
「そりゃあ、立ち入り禁止区域に乗り込んでいろいろと調べものをするんですよ。何か手がかりが見つかるかもしれませんし」
 二人はエレベータ前に到着し、カールは扉を開いた。確かに彼の言うとおり、何らかの手がかりが見つかる可能性はあったが、そんなことをすれば船長らが黙っていないだろう。
「で、ここのどこに隠し通路が?」
「まあ見ていてください」
 二人はエレベータの中に入り、そのまま展望台まで上がっていった。そして扉が開くと同時に、カールは内部の壁面を両手で触りはじめた。どうやら、感触を確かめているらしい。彼はしばらくの間壁面に手のひらを当て続け、目的のものを見つけたらしく、理子に向き直った。
「ここです」
 カールは自分の肩の位置にある、他と何ら変わりないエレベータの壁を、拳の背でこつんと叩いた。すると、その衝撃に反応してか、そこ小さな取っ手が現れた。
「まあ、問題はここからなんですけどね」
 
 カールが取っ手を引っ張ると、壁が外れて、子供一人が何とか通れる程度の穴が姿を現した。そこから漏れる空気は、空調が整備された居住区画のものとは違い、油や機械の臭いが染みついて、理子は顔をしかめた。
「ひょっとしたら、ただの整備用ダクトかも知れませんが、調べてみる価値は十分ありそうです。問題は、さっき僕が入ろうとしたら、全身がつっかえて数分ほど身動きが取れなくなってしまった、ということです」
 そういってカールは笑ったが、彼の言動を考えると、理子はその報告を素直に喜ぶことはできなかった。
「要するに、あたしに行け、ってことでしょ」
 あまり気の進むことではなかった。確かに理子は自分が小柄な方だと知っていたし、がんばればそのダクトの中に入ることだってできるだろう。しかし仮に立ち入り禁止区域に行ったとして、自分に何ができるというのだろうか。
「まあ、そういうことになります、ね。僕としては、お嬢さんに危険なマネをしてほしくはないんですけれど」
 カールは視線を落とした。
「別に入るだけなら何とかなるけど、行った後はどうするのよ。船長達だってバカじゃないんだから、仮に立ち入り禁止区域に通じていたとしても、速攻でバレて捕まるのが落ちってもんでしょ」
「それについては、おそらく大丈夫でしょう」
 彼の言葉の中で、おそらく、という部分が、理子の耳に妙に残った。
「お嬢さんが中に入ったら、船長らを僕とカルメンさんで引き留めに行く手はずになっています。彼女なら、信用しても良いと思いますが」
「まあ、ねえ」
 理子はカールの顔を見ないで言った。そしてそのまま、暗い穴へと頭をつっこんだ。機械と油の臭いがより強まり、ハシゴのようなものが見える。
「お嬢さん、コレを持って行ってください。明かり無しじゃ厳しいでしょう」
 カールはそういって、理子の手にハンドライトを手渡した。
「ちょっと、まだあたしは行くって決めてないわよ」
「でも、その割には乗り気じゃないですか」
 理子はハンドライトで中を照らした。明かりは強力だったが、下の方までは良く見えず、まるで深い井戸をのぞき込んでいるかのような錯覚にとらわれた。
「乗り気、ってわけでもないんだけどね」
 内心、行かざるを得ないという感触はあった。ただ部屋で寝ころんで、考え事をしているだけでは、何一つわかることなどない、という認識は、確かに理子の脳の隅にあったのだ。そして何より、幼少時代、一緒に過ごしたカールが、戦争という恐ろしい現実を体験していた言うことが、彼女の義務感をたぎらせた。
「あたしだけ何も知らないで、何もやらないでというのも、気に入らないわね」
 そうつぶやいて、理子は身体をダクトの中へとねじ込みはじめた。片手でハシゴをつかみ、思い切り身体を引き寄せる。肩が入り口につかえ、背中や肘がこすれて痛む。
「お嬢さん」
 上半身がダクトの中に入ったとき、カールの声が聞こえた。
「何かあったら、船を壊してでも助けに行きますから」
 彼の声は、普段と何ら変わりない、明るいものだった。冗談交じりとも取れるその言葉を聞いて、理子は薄暗いダクトの中で微笑を浮かべた。そして、ようやく全身をダクトの中に入り込ませた彼女は、少しハシゴを下りて、入り口からカールの顔が見えるところに陣取った。
「今度ばかりは、その言葉信じてあげる」
 そういって、理子はハシゴを下っていった。カールからの返事はなかった。少しすると上からの光が無くなり、入り口が閉じられたのだな、と理子は感じた。それでも、彼女はハシゴを下るのをやめなかった。

 船長はブリッジで仮眠を取っていたが、不意に、目の前のモニタにジェラールの顔が映し出された。
「船長、例のジャーナリストが、あなたと話をしたいそうですが」
 夕食時の出来事は、船長も当然知っていた。彼は小さなため息をついた後、すぐ行く、と答えた。画面のジェラールが消えた後、船長は携帯端末を取り出し、エレノアに連絡を取り付けた。
「何の用よ、船長。あたしが今やれることなんて、大して無いでしょ」
 エレノアは不満そうに応対した。声の調子から考えるに、どうも例のスティックを吸っていたらしい。
「ああ、確かにそうかもしれんが、俺はこれから乗客連中に厳しい質問攻めを喰らわにゃならん。その間、ブリッジでセキュリティをチェックしておいてくれ」
 端末のむこうのエレノアは、あまり乗り気ではないようだった。
「そりゃかまわないけど、あのバケモンみたいな犯人がセキュリティに引っかかることは、まず無いでしょ。引っかかっても、あたしじゃ何もできないけどね」
「それはもちろんだ」
 船長はエレノアの言葉を否定しなかったが、代わりにちょっとした捕捉を、一言だけ付け加えた。
「ただ、でかいネズミが引っかかる可能性が、無いワケじゃないだろう」

 理子は長いハシゴを下りていき、ようやく最下層についた。相変わらず空気の臭いはひどく、鼻が曲がりそうな上に、狭いダクトを降りていったせいか、体中のあちこちに擦り傷ができて、ひどく痛んでいた。
理子は、壁の継ぎ目からわずかに光が漏れているのを発見し、ハンドライトを当てて調べてみたが、取っ手らしきものは見あたらず、面倒だったので思い切り蹴りを入れてみた。すると、光の漏れていた壁は予想以上の勢いで吹き飛び、大きな音を立てて床を滑った。
「む、ちょっとやりすぎたか……」
 理子は自分の蹴りで吹っ飛んだ壁を尻目に、穴から外に出た。そこは、見たところ機関室のようで、機械の駆動音がこだましていた。
「整備用のダクト、ねぇ」
 理子は周囲を警戒しながら、歩き始めた。薄暗く、破壊されたユニットがあるあたり、ここは機関室で間違いなさそうだ。ハンドライトで周囲を照らしてみても、見たこともない機械類が並んでいるばかりで、手がかりになりそうなものは何一つ見あたらなかった。
「さて、あいつの言うとおり降りてきたのは良いけど、何をすればいいのやら」
 手がかりといっても、周りにあるのは機械ばかりで、血痕やら凶器の欠片やら、わかりやすそうなものはなさそうである。とりあえず、理子はカルメンの言っていた、密輸に関するものを探してみることにした。
「船内に犯人が居るなら、そいつは何度も爆薬とか取りに来てるハズよね……」
 クルーはともかく、犯人と鉢合わせしたときのことを想像して、一瞬理子は背筋が寒くなった。しかしながら、彼女はけなげにもカールの言葉を信じ、右手のハンドライトをしっかり握りしめ、薄暗い機関室を調べはじめるのだった。

 理子は機関室を一通り見て回って、破壊されたチェレンコフ・ドライブ・ユニットのすぐそばにある壁に注目していた。その壁は爆発の衝撃か何かでひしゃげたり、割れてしまっていたりした。それだけならさほど注目する要素は無いのだが、理子はその壁の割れ目に、配管やコードの存在が確認できない事を不思議に思っていた。
「壁の裏側って、だいたいなんか張り巡らされてるわよね……」
 理子は割れ目にハンドライトを当てて、中を確認した。そこには、やはりあるはずの配管やコードが無く、奥には何らかの倉庫のような空間が広がっていた。空間には明かりがついておらず、ほぼ真っ暗に近かった。ハンドライトの角度を変えてやると、光は謎の空間に存在する物体のいくつかを照らした。
「何だろ、アレ」
ハンドライトが照らしたものは、薄汚れたプラスチックの箱だった。一瞬、理子はただの倉庫ではないかと考えたが、一つだけ開いている箱を見つけ、その中にあるものを確認してぎょっとした。
 それは、理子の狭い見識の中でも、一発で危険だとわかる代物だった。片手に収まりきらないほど巨大な、黒光りする拳銃。父親が軍事企業の社長とはいえ、実物を見たことは数回しかない。
「クルーの私物、にしてはちょっと数が……多いわよね……」
 裂け目から見えるわずかな範囲でも、プラスチックの箱がいくつもあった。理子は知らぬ間に汗まみれになっていた左手で、ポケットに入っている個人用端末を取り出し、写真撮影モードで倉庫の内部を撮影した。できるだけ箱の中に入っている拳銃が鮮明に写るように、理子は何度も何度も写真を撮った。そして彼女が十枚ほど写真を撮影したとき、機械の駆動音に紛れて、ゆっくりと機関室の扉が開いた。目の前の事実に気を取られている理子は、残念ながらその音に気づくことができなかった。

 もう十分だと思った理子は、携帯端末をポケットの中にしまい込んだ。いくらカルメンが足止めしているとはいえ、あまり長居するような所ではない。セキュリティのログには理子の姿が残っているだろうが、客室に戻ってしまえば、後はよほど乱暴な手段でも使われない限り、安全だろう。
 唯一の心残りは、直接犯人につながる手がかりを見つけられなかったことだった。理子は蹴飛ばしてあけた壁の穴の前に立ち、誰も追ってきてはいないかと機関室を見回した。
 彼女が視界に『敵』をとらえたのと、『敵』が弾丸を発射したのは、ほぼ同時だった。反射的に腕を振り上げた理子は、右腕に針で刺されたような、鋭い痛みが走るのを感じた。
「まったく、あたしも腕が落ちたもんね」
 その声を聞いて、理子は薄暗い視界の中に浮かぶ『敵』をエレノアだと理解した。しかし、すぐにでも逃げ出さなければいけない状況だというのに、理子は動くことができなかった。それどころか全身から力が抜け、立つことすらままならなくなっていた。足が言うことをきかず、彼女は受け身も取ることができず、うつぶせに倒れてしまった。
「客に対しては、もう少し礼儀ってものを持つべきでしょ……!」
 意識がもうろうとする。力の抜けた身体はしびれ、理子は自分が強力な麻酔かなにかを打ち込まれたのだと想像した。
「やっぱ当たり所が悪かったか。手の先っぽじゃあねえ」
 エレノアはそういって近づいてきた。彼女が近づいて来るにつれ、理子の視界はぼやけてくる。殺される、と理子は直感した。
「そんな怖がらなくても大丈夫よ。ちょっと寝るだけなんだから」
 そういって、エレノアはしゃがみ込み、銃口を理子の額に突きつけた。冷たく光る拳銃を眼前にして、理子はエレノアの背後に静かにたたずむ、丈の長いローブを着た修道僧を視界にとらえることができた。
「それじゃ、お休み」
 理子が意識を失うのと、ローブを着た修道僧がエレノアの首を締め上げるのは、ほぼ同時だった。

   Ⅸ 第三日目 ~早朝~

 目が覚めると、理子は薄暗い機関室ではなく、清潔な臭いの漂う医務室の中にいた。正しくは、クリスが入っていた奇妙なカプセルの中に横たわっていたのである。
『バイタル回復』
 機械的な音声が聞こえると同時に、カプセルのキャノピーが開いていった。理子はいまいちすっきりしない自分の身体を、ゆっくりと起こしていった。
「お目覚めですか、お嬢さん」
 ふと見ると、すぐ横にカールが座っていた。彼は両手を広げて、まるで理子が飛び込んでくるのを待っているかのようだった。
「何よ、その格好」
「あれ、怖い思いをしたから、『カール!』とか言いながら僕の胸に飛び込んできてくれるのかと思っていましたが……」
 理子はまだ思い通りに動かない自分の身体にむち打ち、馬鹿なことを抜かしているこの幼なじみの顔面に、思い切りパンチを食らわせた。カールは転倒こそしなかったものの、思わぬ衝撃に大いにのけぞり、危うくイスから転げ落ちるところだった。
「痛いじゃないですか、いきなり何するんです」
「人が危ない目に遭って死にかけたって言うのに、その態度は何よ!」
 カッとなった理子は、もう一撃カールにパンチしてやろうと身を乗り出したが、バランス感覚が安定していないのか、体勢を崩してカールの胸に飛び込む形になってしまった。
「ほら、あまり無理しないでください。ショックガンで撃たれたんですから、しばらくは安静にしていたほうがいいですよ」
 思ったより分厚い胸板に飛び込んだ理子を、カールは優しくカプセルに押し戻した。自分から飛び込んでこいとアピールしていた割には、妙に淡泊な反応だったので、理子は少々期待はずれな印象を受けた。
「まあ、命をかけただけの甲斐はあったわね。ちゃんと見つけてきたわよ、密輸の証拠」
 そういって、理子は自分のポケットをまさぐったが、そこにあるべき携帯端末が存在しないことに気づいて、一瞬ぎょっとした。
「ひょっとしてこれを探して居るんですか」
 カールは自分のポケットから、何かの残骸らしきものを取り出して、理子に見せた。
「ああ、クソッ、高かったのに……!」
 それは間違いなく、理子が愛用していた携帯端末だった。モニタの部分は完全にひしゃげ、ボディも所々にヒビが入っている。
「メモリーパックが抜き取られていますから、どうしようもありません」
「何のためにあんな所まで行ったのよ!」
 理子は思わず叫んでいた。しかしカールは、怒る彼女をいさめるような口調で言った。
「命があっただけたいしたものです。仮に証拠が見つかっても、お嬢さんが死んでしまっては何の意味もないんですから」
 そこまで言われて初めて、理子は自分が『どうしてここにいるのか』疑問に思った。
「ちょっとまって、あたし、どうしてここにいるの?」
 記憶では、理子はエレノアに撃たれ、気絶しかけていた。エレノアの背後に犯人らしき人物を見はしたが、どちらにしても殺されるに違いないと思っていたのだ。
「それに関しては、どう言えばいいのか。お嬢さんはエレノアさんと一緒に機関室に倒れていたところを、船長とカルメンさん、ジェラールさんに助けられたんです。ただ、その時エレノアさんはすでに殺されていて……」
 カールの話を聞いて、おそらくあの後犯人がエレノアを殺したのはわかったが、なぜ自分だけ殺さなかったのかについてはわからなかった。
「セキュリティの映像を船長が見せてくれないので、詳細な状況がわからないんですよ」
「まあ、当然っちゃ当然よ、それは。だってあたしを撃ったのは、その殺されたエレノアなんだもの」
 理子を撃ったのがエレノアだと聞いて、カールは少々驚いた様子だったが、理解できないでもない、といった様子だった。
「予想はしていましたが、そこまで直接的な行動に出てくるとは。やはり、僕が行くべきでしたね」
 カールは、理子を一人で行かせたことを後悔しているようだった。そんな彼に慰めの言葉でもかけてやるべきなのだろうか、と思ったが、少し恥ずかしいので口にはしなかった。
「問題は、どうしてあたしが生きてるか、ってことでしょ。後悔するのはいいから、それを考えなさいよ」
 少々冷たい言葉をカールにぶつけ、理子はふらつく身体を必死に制御しながら、カプセルの外へと降り立った。そばに置かれていた靴を履こうとするが、理子はまたもや転倒しそうになった。あわやというところでカプセルにしがみつき、難を逃れることはできたが、本当にバランス感覚がおかしくなっているのか、上手く立つことができなくなった。
「本当に無理しないでください。ほら、部屋に行きましょう」
 見かねた様子のカールは、理子のそばによると、ひょいと彼女を抱きかかえた。
「ちょっと、いきなり何するのよ!」
「おしかりは後で受けますよ。お嬢さんが殺されなかった理由も、後で考えます。今は部屋に行って、ゆっくり休んでください。そうでないと……」
 カールは言葉を詰まらせた。理子は間近で見た、彼の苦渋に満ちた表情に、怒りをぶつけることはできなかった。
「靴、忘れないでね」
「後で持って行きますよ」
 お姫様抱っこをされた理子は、カールにされるがまま、医務室を出て自室へと連れて行かれた。できるだけ彼女はカールの顔を見ないようにしていたが、時折ふと視界に入る彼の顔は、理子を行かせたことを心底後悔しているようで、見ている自分までつらくなりそうなものだった。
 二人は理子の部屋の前についた。理子は早く扉を開けろとカールに視線を送ったが、部屋に入るには自分の認証が必要だと言うことを思いだし、端末に手のひらを押しつけた。
「もう歩けるから、早く靴取ってきなさいよ」
 理子はカールの拘束を振り払って、部屋の絨毯の上に降り立った。
「わかりましたよ。くれぐれも無理はしないようにしてください」
 そういって、カールは部屋から出て行った。理子は扉が閉まるのを見届けると、ふらつく足取りで部屋の奥へと向かい、ベッドの上に倒れ込んだ。

 全身がひどくだるかったが、理子の意識ははっきりしていた。
「なんで、あたしだけ殺されなかったんだろう」
 薄暗い天井を見つめながら、理子はつぶやいた。状況から考えるに、犯人はあの後すぐエレノアを殺したのだろう。いくらショックガンで気絶していたとはいえ、自分の姿や犯行を見られている可能性もあるのだ。そんな人間をわざわざ生かしておくだろうか。
 仮に殺さなかった理由が見つかったとしても、端末だけ壊したのはなぜだろうか。エレノアや船長らが壊すのならばまだわからないでもないが、カルメンと一緒に自分を助けに来たのであれば、端末を壊す余裕など無かったはずだ。エレノアが壊したにしても、理子が気絶してからしばらくの間、犯人は彼女が端末を壊すのを眺めていたと言うことになる。あり得ない話というわけではないが、少々現実味が薄いと、理子は思った。
「密輸がばれると、犯人にとっては何か不都合がある……?」
 たとえば、犯人は密輸の際に契約を破ったとかで、この船のクルーを見せしめに殺しているのかも知れない。しかし、そう考えると、この事件を起こすそもそもの理由すら危うくなってくる。艦内で殺人事件や爆発が起これば、事後船は確実に検査を受けるだろう。そうなれば、密輸の事実が白日の下に晒されることは明白だ。当局の検査をすり抜けられるほど巧妙な密輸システムを構築しているのならば話は別だが、ただの乗客である理子にも倉庫を発見できたのだ。その可能性は薄いだろう。
 つまり犯人は、『密輸が白日の下に晒される』ことはかまわないが、『乗客が密輸の事実を知る』ことは不都合な、しかし『乗客が死ぬ』ことは避けたいという、きわめて妙な感覚を持った人間、ということになる。
「お嬢さん、靴取ってきましたから、あけてください」
 端末からカールの声が響き、理子はよたよたと立ち上がって、部屋の扉を開けた。すぐカールが入ってきて、彼はベッド脇に理子の履いていた、少し地味な色をした靴をおいた。
「後はのんびり寝ててください。何かあれば、呼んでくださいね」
 カールはそういうと、そそくさと出て行ってしまった。理子は自分の予測したことを話そうと思っていたのだが、彼の素っ気ない態度に興ざめしてしまった。
 理子は再度ベッドに寝ころぼうとしたが、それはカールが出て行った扉が閉まる前に乱入してきた、カルメンによって妨げられた。
「元気そうじゃない。ま、何はともあれ、行くわよ」
 突如として現れたカルメンは、ベッドに手をついてぽかんとしている理子に一言かけると、彼女の細腕をつかみ、半ば引きずるような形で部屋を出て行った。
「いきなり、ちょっと、どうしようっていうのよ」
 ふらつく足取りでカルメンに手を引かれる理子は、事態が飲み込めないといった様子でうろたえるばかりだったが、当のカルメンはさも当然といった様子で、彼女の部屋の前に立ち、認証をすませると、やや乱暴に理子を部屋の中に放り込んだ。
「これで良し、と」
「ふざけてんの、あんたは!」
 暴れる小動物のような扱いを受けた理子は、思わず叫んでいたが、部屋の床にはいつくばってカルメンに文句をつけるその姿は、滑稽以外の何者でもなかった。
「ふざけてなんか無いわよ。ほら、ベッドに寝る。今日一日ぐらいはここでおとなしくしてもらわなきゃいけないんだから」
 カルメンの左手には、いつ理子の部屋から取ってきたのか、彼女の靴が握られていた。靴を床の上に置くと、カルメンは理子に近寄り、ひょいと彼女をベッドの上に寝かせた。
「……どういう事か、説明ぐらいしてもいいでしょ」
 割合真剣なカルメンの態度に、理子もただ怒るばかりというわけにはいかなくなった。理子が態度を軟化させた事に気づいたカルメンは、自身は窓際のイスに腰掛け、途端に真剣な表情をして、理子の顔を眺めた。
「あんた、自分が何を見たかぐらいは、覚えてるでしょ」
「何って……」
 自分が何を見たかぐらい、覚えていると言おうとした理子だったが、その見たものを考えると、カルメンが部屋を移した理由も、少しわかる気がした。
「あんたは密輸の証拠を見てきたのよ。この船の中じゃ、あんたは犯人の次に、クルーにとっちゃやっかいな存在なの。そんな人間が、自分の部屋でのんびり寝てて良いと思う?」
 常識的に考えるならば、そんなことはあってはならない。決定的な証拠がないとはいえ、目撃されたとあってはクルーも理子を放っては置かないだろう。
「でも、こんな騒ぎになったんなら、あたし一人が密輸の事実を知ったぐらい、たいした違いじゃないようには思うけど。どうせ、救難船が来たら船は検査されて、そんなこと速攻でばれちゃうでしょ」
 楽観的な予測を述べる理子に、カルメンは真剣な表情を崩さなかった。
「そう上手くは行かないのよ。あんた、何年か前にこの船の接客チーフが事故で死んだ、って話は聞いたでしょ」
 カルメンの言うとおり、理子はその話を聞いていた。カルメンがジェシカ夫人に取材活動をすると言ったとき、一緒について行ったらその話題が出たのだ。
「それが、どうかしたの?」
「あのときは言わなかったけど、この船はずいぶんと死人がでてるのよ。乗員で死んだのはジェシカさんの言ってた初代の接客チーフだけだけど、乗客は四人も死んでる。どれも事故死だから話題にならなかったけど、ね」
 始まって十年のツアーで、五人も死んでいると言うのは、確かに疑って当然と思える数字だと、理子は思った。
「事故はすべてツアーの最中に起こったの。泳いでいる最中に溺死したとか、観光地の岩から落ちて死んだとか、いろいろあるけど、ずいぶんヤバイもんよ」
 珍しくジャーナリストらしいことを言うカルメンを前にして、理子は自分の置かれている状況が状況であるにもかかわらず、感心してしまった。
「あんた、ほんとにジャーナリストやってたのね」
「危機感ないのねぇ、あんたは」
 カルメンはまたもやあきれていたが、ふと理子の頭の中に小さな疑問が浮かんだ。
「そんなに死んでるんなら、もっと話題になってもおかしくないわよね。事故で船が検査されるだろうし、ツアー自体が無くなったって……」
「問題は、そこ」
 自分で疑問を口にしてみて、理子はカルメンの言わんとしていることが想像できた。
「死人の数や採算から考えても、密輸が露見しないのはおかしいし、ツアーが存続することはまず、あり得ない。なんでまだこのツアーが残ってるか、どうして密輸が露見しないのか。なんかバカな映画みたいで申し訳ないけど、裏で相当な連中がこの密輸を取り仕切ってるのよ」
 裏の連中、と聞いて、理子は率直に、馬鹿な話だ、と思った。しかしながら、現実に密輸の現場を見てしまったし、それで殺されかけたのだから、信じないというわけにも行かなかった。
「だから、怪しい死亡事故が起こっても検査は入らないし、採算が取れなくてもツアーは無くならない、ってことか」
「だいたい、最初の死亡事故からしておかしいのよ。あの接客チーフが死んだ事故だって、腕一本しか残らなかったって聞いてるわ。『船外作業中にスペースデブリの直撃を喰らった』って報道されてたけど、そもそも接客チーフがどうして船外作業するのよ」
 腕一本しか残らなかった、と聞き、理子はクリスの話を思い出した。確か、彼の父親も事故で死に、腕一本しか残らなかったと聞いている。
「ねえ、その接客チーフって、アルフレドとか言う人だったわよね。名字、わかる?」
 理子の質問に、カルメンはしばらく悩んでいたが、その様子から察するに、どうも知らないようだった。
「名前聞いたのはあたしも初めてでね。事故死だから本名とか家族構成とか、わかんないのよ。というより、その手の資料がほとんど無かった、っていうのが実際の所だけど」
 さすがのカルメンにも、数年前に死んだ人間のことはわからなかったようだ。当時大ニュースになったのならばともかく、理子もここで聞くまでは知らなかったような事件なので、無理もないとは考えた。
「でも、ジェシカさんなら知ってそうじゃない? 後で聞いてあげるわ。それじゃ、あたしはそろそろ朝ご飯だから、行くわ。おとなしく部屋で待ってるのよ。あ、冷蔵庫のお酒は勝手に飲んじゃだめだから、よろしく」
「ちょっと、待って」
部屋を出て行こうとするカルメンに向かって、理子は少し恥ずかしそうに問いかけた。
「なんか用事でもある?」
 きょとんとした様子で聞き返すカルメンに、理子は申し訳なさそうに言った。
「朝ご飯、ちょっともらってきて」
 理子がそういうと同時に、彼女のおなかが、情けない音を立てて鳴った。

 誰もホールにいないのを確認すると、カルメンはゆっくり階段を下りていった。理子には朝ご飯に行く、と言ったものの、まだ机すらでていない状況であり、ホールは噴水の音が響く以外、異常なまでに静まりかえっていた。
 噴水のすぐそばにある、木製らしきベンチに、カルメンは腰掛けた。室内環境がコンピュータ制御されているホールでは、いくら噴水が形を変えようとも、彼女の顔にしぶき一つかかることはなかった。
「ずいぶんとのんびりしてますね」
 ふと気づくと、階段の上にカールが立っていた。彼は階段を下りて、ゆっくりカルメンに近寄ってくると、彼女の隣に腰掛けた。
「お嬢さんが部屋に居ないんですが、どこにいるかご存じですか?」
「あたしがそれを知ってると思う?」
 カルメンの素っ気ない返答に、カールは肩を落とした。
「まあ、当然ですよね」
 見るに堪えない彼の落胆ぶりに、カルメンは少々カールのことが気の毒になった。
「理子はあたしの部屋にいる。大丈夫よ、どこにも行っちゃいないわ」
 一瞬、こうも簡単に理子の居場所をばらして良いのか、とも考えたが、いつまでも彼女の居場所がわからないと、カールが何をしでかすかわからないので、彼にだけは言う事にした。
「そう、ですか」
 思ったほど、彼は安心した様子ではなかった。むしろ残念そうな、少々暗い表情を浮かべていた。カルメンはそんなカールを不思議に思ったが、何も言わなかった。
「いやぁ、なかなか信頼されないものです」
 カールは無理に作り笑いをしたが、いつもの彼とは比べものにならないほど不自然な表情だった。
「別にかまわないでしょ、あたしの部屋に居るぐらい。自室に一人でいるのが問題であって、信頼とかそういう話じゃないと思うんだけど」
 カルメンの慰めも、カールにはほとんど効果がないようだった。
「僕が後悔してるんですよ、お嬢さんをあんな所に行かせたこと。一歩間違えばお嬢さんは死んでいたかも知れないんです」
 カールはずいぶんと、理子を危険な目に遭わせたことを後悔しているようだった。
「あんたのことを信頼してなきゃ、あんな危ないこと、やらなかったと思うけどね」
「だといいんですが」
 長いつきあいというわけではないが、いつも笑っているカールがこうもつらそうにしているのを見ると、カルメンまで気分が陰鬱になってきた。いたたまれなくなった彼女が視線を泳がせると、メイド・ロボット達がテーブルの用意をはじめているのが目に入った。
「おなか空いたって言ってたから、後でパンでも持って行ってあげなさいよ」
 カルメンはそういってカールの肩を叩き、食事の用意を進めるメイド・ロボット達の間をすり抜けて、レクリエーションルームへと向かっていった。一人取り残されたカールは、じっと床を見つめたまま、微動だにしなかった。

 メイド・ロボット達が食事の用意を完了する頃に、ジェシカ夫人がホールに顔を出した。彼女は噴水のそばで意気消沈しているカールを見つけると、小走りに近寄って話しかけた。
「元気がないわね。いつものあなたらしくないわ」
 視線を落とすカールの顔をのぞき込みながら、ジェシカ夫人は彼の額に手をやった。
「いつも元気、というわけにはいきませんよ」
「とりあえず、朝ご飯にしましょう」
 そういうと、ジェシカ夫人はカールの手を取った。少し冷たい彼の手を引っ張って、彼女はテーブルに着いた。
「アレンさんはどうしたんです?」
 ジェシカ夫人に引かれるがまま席に着いたカールは、彼女の隣にアレン氏が居ないことに気づいた。質問されたジェシカ夫人は、小さなため息をついて笑った。
「理子さんが見つかってから、一晩中お酒を飲んで、今は酔いつぶれているわ。あの人もいろいろと思うところがあるみたいね」
「アレンさんもずいぶん神経質ね。理子が殺されなかったんだから、乗客はもう安全といっても差し支えないと思うんだけど」
 ふと見ると、カルメンがレクリエーションルームから出てきていた。ジェシカ夫人は、非難めいた言い方をするカルメンに対しても、敵対的な態度を見せなかった。
「そういう人なのよ、あの人は。本当に、普通の人なのよ」
 ジェシカ夫人は視線を落とした。カルメンはそんな彼女を見つめながら、カールのすぐ隣に腰掛けた。
「まあそれは良いわ。ところで、昨日話してくれた、昔事故で死んだって言う、ここの接客チーフ、居たわよね。あの人の名字って覚えてるかしら」
 カルメンは目の前に置かれていたパンを一切れ手に取り、口にしながら言った。
「アルフレドさんの事ね。名字は、確か、ラインハルトだったと思うけれど、それがどうかしたのかしら」
 ずいぶん昔に会ったきりだというのに、名字まで覚えているジェシカ夫人に、カルメンは感心した。
「今回の事件に何か関係があるか、と思ってね。それにしても、ジェシカさんってずいぶん記憶力が良いのね。たしか、事故があったのってもう六年も昔でしょ」
「いろいろと、印象深い人だったから。特に、私たち夫婦にとってはね」
 遠い目をするジェシカ夫人を、カールは横からじっと見つめていたが、ふと視線をずらすと、クリスが階段を下りてくるのが目に入った。
「おはようございます、皆さん」
 一言挨拶したクリスは、一人テーブルの反対側に腰掛け、カール達と向き合う形となった。彼の顔は初日と比べ、ずいぶんと暗い様相を呈しており、縮れた赤毛がすっかり垂れ下がっているのが目に見えてわかった。
「今日中には救助、来るんですよね」
 不安げな様子でサラダを取り分けるクリスは、特定の誰かに話しかけるというわけでもなく、つぶやいていた。
「どうだか。あたしとしてはあんまり船長とかの言うことを信用したくないのよね」
「でも、信用しなかったとして、僕たちには何もできないでしょう」
 力無い様子で受け答えするクリスに、カルメンは同情を禁じ得なかった。
「何もできない、というわけではないわ。理子さんのように、行動することはできるもの。ただ、それが私たちにとってどれだけ有効かは、ともかくとして」
 陰鬱な表情を浮かべて語るジェシカ夫人は、あまり理子の行動を評価していないようだった。それを聞いて、カールが密かに拳を握りしめているのを、カルメンは見た。
「食べないんなら、理子に持って行ってあげたら? ほら、あたしもついて行くから」
 そういって、カルメンは近くにあった皿に適当な食物を盛ると、カールの手を引いて食卓を後にした。
「あ、ちょっと、待ってくださいよ」
 階段を駆け上がるカルメンに、カールはついて行けていないようだった。
「今はウジウジ悩んでる状況じゃないでしょ。もう大詰めなんだから。自分たちがやるって言ったことなんだから、最後までやり遂げなきゃ、格好悪いわよ」
 カールはカルメンに手を引かれるまま、彼女の部屋の前に連れて行かれた。ただの扉だというのに、中に理子が居るというだけで、カールは自分が少し怖じ気づいているのを感じることができた。
 扉の前で唇を結ぶカールを尻目に、カルメンはさっさと認証をすませ、部屋の中へと入っていった。
「ほら、来るのよ」
 ここでも又、カルメンに手を引かれ、カールは中へと連れ込まれた。そして、カルメンは食物が盛られた皿をカールに手渡すと、何も言わないまま扉の外へと下がった。
「事故で死んだ接客チーフの名字、覚えてるわよね。伝えておいて」
 そういって、カルメンは去っていった。半ば無理矢理、理子と二人きりにされたカールは、彼女の強引さに半分あきれながらも、半分は感謝していた。
「お嬢さんと二人きりになるのが、こんなに怖いことだったなんてなあ」
 カールは今までの自分の振る舞いを思い返し、今の自分の情けなさをあざ笑った。そして一歩一歩、床の感触を確かめるようにして、カールは薄暗い部屋の奥へと歩いていった。

 カルメンの部屋に置いて行かれてから、理子はしばらくの間考え事をしていたが、まだ身体が完全に回復していないのか、いつの間にか眠りに落ちていた。髪をほどき、きつい香水に彩られた部屋の中で眠るひとときは、それなりに心地よいものだった。
 ふと、扉が開き、誰かが入ってくる音がした。
「何、カルメン?」
 半分寝ぼけている理子は、自分ではそう呼びかけたつもりだったのだが、外部にははっきりと聞き取れない、妙な発音が成されていたようだ。くすっと言う笑い声が漏れる。その小馬鹿にしたような笑い方に、理子は少々いらついた。小さな物音がする。机の上に、何か置かれたようだ。
「バカにして……」
 そうつぶやきながら、理子はゆっくりと目を開けた。視界はぼやけていたが、時間が経つにつれて次第にはっきりしてくる。今度の発音はしっかりしていたようで、部屋のどこかから、反応が返ってきた。
「バカにしているつもりはありませんよ」
 妙に聞き覚えのある声だな、と理子は思った。かすむ目で周囲を見回すと、窓際のイスに誰かが座っているのが目に入った。それが誰であるのかはっきりとはわからなかったが、姿形からしてカルメンではないように思えた。
「カール、なの?」
 理子の呼びかけに返事は帰ってこなかった。いすに座る何者かに対して、少しずつ目の焦点が合ってくる。イスの男は、微笑を浮かべたままこちらを見つめていた。
「何だ、カールか。……カール、カールって」
 不意に、理子の思考が加速した。視界ははっきりし、自分がまだカルメンのベッドの上で寝ている事を理解できる。そして、いすに座っている男が、あのカールだと言うことも。
「なんであんたがこんな所にいるのよ!」
 あわてて、理子はシーツをたぐり寄せた。別に全裸になって寝ていたというわけでは無いのだが、衣服が少々乱れていたのである。
「何もそんな叫ばなくても。まだ何もしてませんよ」
「これから何かするってんなら、容赦しないからね!」
 今にも枕を投げつけかねない理子の剣幕に、カールは申し訳なさそうな表情を浮かべるばかりだった。
「僕はカルメンさんに頼まれて、お嬢さんの朝ご飯を持ってきただけなんですよ。それであんまりお嬢さんが気持ちよさそうに寝てるんで、起こすのをためらったというわけです」
 冷静な弁明をするカールに、理子は右手でつかんでいる枕を投げつけてやろうと思ったが、机の上には食物の盛られた皿があることに気づいたので、やめておいた。
「全く、あんたって男は……」
「それより、ご飯食べませんか。僕もまだ食べてないんですよ」
 カールは皿の上にあるパンを一切れ手に取ると、口に放り込んだ。自分の寝ているところを目にしておきながら、何ら興奮した様子を見せないカールに、理子はすっかり怒りの行き場を失ってしまい、やれやれと肩を落とすばかりだった。

「カルメンも余計なことを……」
 理子はぶつぶつと文句を言いつつも、カールから手渡されたパンを食べていた。窓際のテーブルでカールと顔をつきあわせて食べるのが気に入らないので、理子はベッドの上に座ったままだった。しかしながら、髪の毛はおろしたままだった。
「そうだ、カルメンさんから伝言です。接客チーフの名字は、ラインハルト、だそうです」
 カールがカルメンから言われたとおり伝えると、理子の表情は急に真剣なものになった。
「そう、ラインハルトって言うんだ」
「それが、どうかしたんですか?」
 パンをかじる手を止めた理子を見て、不思議に思ったカールが聞いた。理子はしばらく黙っていたが、やがて顔を上げてしゃべり出した。
「あんたも、クリスから指輪、もらったでしょ。あの裏にイニシャルが刻印されてたの、知ってる?」
 カールは少し考え込み、知っている、と答えた。
「たしか、A・RとC・Rでしたね。なるほど、お嬢さんはクリス君の親御さんが、この船の接客チーフだったと言いたいわけですか」
「それだけじゃないわ」
 理子は手に持っていたパンをベッド脇の棚においた。
「あんただって、クリスの話聞いてたでしょ。あいつの親父は、腕一本しか残らずに死んだって。カルメンが言ってたけど、ここの初代接客チーフもね、事故で同じような死に方をしたそうよ」
 興奮気味に語る理子を見て、カールはいまいち納得がいかない、といった表情を見せた。
「しかし、Rのつく名字などいくらでもあります。彼の父親がここの初代接客チーフと同じ形で亡くなったのは確かに興味深いですが、お嬢さんの物言いはまるでクリス君が犯人だと言っているようなものじゃありませんか」
 非難めいたことを言われ、理子は不満げな表情を浮かべたが、カールの言うことももっともだとは思っていた。
「そう考えるといろいろと納得がいくのよ。クリスはこの船の初代接客チーフの息子で、事故に見せかけて殺された父親の復讐をやってると考えたら? ターゲットはクルーだけだから、乗客には極力危害が及ばないようにしてると考えたら? あたしの端末を壊したのだって、十分納得がいくわ」
 カールとて、彼女の言いたいことは十分わかるつもりだった。
「お嬢さんの考えもわかります。しかし、それはすべて憶測だという点が、問題だと言って居るんです。彼が犯人だと言い切れる証拠は、どこにも無いじゃないですか」
 証拠、と言われ、理子は視線を落とした。彼女も、そのあたりのことは十分わかっているようだ。普段ポニーテイルにしている栗毛が、すっかりしおれているのを見て、カールは少々言い過ぎたかな、と思った。
「でも、証拠という証拠が、あたし達に発見できるかしら。決定的な証拠を突きつけて、かっこよく犯人を追いつめるなんて、そう簡単にできるもんじゃないわよ」
 理子は両手を後頭部にやって、天井を見上げた。
「僕としても、彼のことを怪しいとは思いますよ。お嬢さんが立ち入り禁止区域に行っている間、僕はずっとエレベータの中に居たんですが、急にエレベータが動き出したんです。でも、下の廊下についたとき、そこには誰もいなかった。それで、気になってみんなの部屋を見て回ったんですが、クリス君だけ部屋にいなかったんですよ」
 理子を隠し通路に送り込んだ後の事を、カールは語りはじめた。突如として自分の知り得なかった事を語りはじめる彼に、理子は一瞬不審の念を抱いた。
「ちょっと、待って……。なんでそれ、もっと早く言わなかったの」
「言うチャンスが無かったから、ですよ」
 カールは悪びれる様子もなく言った。しかしながら、理子が医務室で目覚めたときでも、あるいは彼女を部屋に運んだときでも、彼にはそれを伝えることができたのだ。
「それに、証拠が無くとも犯人を見つける方法はあるでしょう」
 いつものように微笑を浮かべたカールは、理子に向かって少し身を乗り出した。自信たっぷりな顔をする彼と比べて、理子は疑わしげな表情を崩すことはなかった。
「自白してもらえば良いんです」

  Ⅹ 第三日目 正午

 客に渡す「商品」を身につけるのは少々気が引けたが、状況が状況だから仕方ないな、と船長は思った。金属に近い外観を持ちながらも肌触りが柔らかい、『それ』を身につけるのは彼にとってさほど難儀な作業ではなかった。軍を退役して十年にもなるが、たたき込まれた技術は彼の仕事で役に立ったし、そもそも軍にいた時間が長かったからだ。
 不意に、彼の携帯端末が鳴った。船長は『それ』を完全に着込むと、机の上に置いてあった端末を手に取った。
「仕事が終わったのか、ジェラール」
 船長は通信がつながるなり、相手より先に話しかけた。
「それに関しては問題ありませんが、乗客が我々と昼食をともにしたい、と言っています」
 ジェラールは先手を取られたにもかかわらず、淡々と状況を伝えた。大方の所、機関室に入り込んだ小娘か、しつこくこっちの裏を探ろうとしているジャーナリストの発案だろうと、船長は予想した。
「同席すると伝えろ。我々としても、そばに乗客が居た方がやりやすい」
 そういって、船長は通信を切った。彼は端末を再度机の上に置くと、『それ』の上からいつものジャケットとズボンを身につけ、ポケットからたばこを取り出すと、ガスを充填したライターで火をつけ、一服した。
「甘ちゃんな犯人さんなら、乗客ごと俺たちを殺す、というわけにもいかんだろ」
 犯人の予想がついていない、というわけではなかった。船長は、犯人の行動理由が復讐であると早い段階から考えることができたし、エレノアが殺されたときの状況を見れば、相手が乗客を巻き込むまいとしていることはすぐにわかった。
「晩餐、というわけにはいかないのが残念だな」
 そうつぶやいて、船長はたばこを灰皿に押しつけて、端末と拳銃を手に取り、部屋の電気を消すと、一度深呼吸をして自室から出て行った。

 船長がホールに到着すると、そこには生き残っている乗客乗員、すべてが集まっていた。
「皆さんおそろいですか。まあ、この遭難劇も今日でおしまいですからね」
 乗客の中の一部が、船長に敵対的な視線を向けていると言うことは、当然彼も知っていたが、わざわざそれに反応することもなく、船長は悠々とした足取りでテーブルへと近づいていった。
「これで全員そろったようね。それじゃ、はじめましょうか」
 理子は自分のすぐ後ろに船長が立った事を気にすることもなく言った。
「食事ならもうあたしがはじめてるわよ」
 ふとカルメンを見ると、彼女はすでに目の前の皿に大量の料理を積み上げ、自身の口にはフライドチキンを山ほど詰め込んでいた。これから重要なことを話すというのに、理子は思わず腰砕けになったが、心底あきれた表情をするだけで、彼女に突っかかることはなかった。
「……今からやるのはつるし上げよ。こんな狭い船の中で三人も殺した犯人の、ね」
 理子は立ち上がって、これから犯人をつるし上げると自ら宣言した。ジェシカ夫人やアレン氏、クリスは驚いた様子だったが、船長とジェラールは至って冷静だった。
「しかし、つるし上げると言っても、どうするのです? そもそも我々には犯人が誰かすらわかっていないのですよ。まずは、その犯人とやらを、教えて頂きたいものですなァ、ジュアン・理子さん?」
 ひどくわざとらしい口調で、船長が理子に問いかけた。理子は船長を一瞥すると、腰に手をやって、堂々とした様子でしゃべり出した。
「そうね、船長の言う通り、最初に誰が犯人か言っておいた方が、わかりやすくて良いわね。今回の事件を引き起こした犯人って言うのはね……」
 周囲の空気が一瞬鋭くなる中、理子は腰にやった右手を、すぐ横に座っているカールに突きつけ、指さした。
「この人畜無害そうな顔をしている、カール・レグルスよ」
 自分が犯人と言われることなど予想もしていなかったのか、カールは事態が飲み込めないといった表情をしたまま、周囲の冷たい視線に晒されていた。

「その、ちょっと待ってくださいよ、お嬢さん。どうしていきなり僕が犯人扱いされなきゃいけないんですか」
 ようやく自分の置かれている状況を理解したのか、カールは言葉に詰まりながらも、理子に対して説明を求めた。
「自分が一番よくわかってるでしょ。まあ、それは良いわ。そんなに自分が犯人だって知りたいんなら、教えてあげる」
 焦るカールを尻目に、理子は歩き出した。彼女はテーブルの周りを半周すると、乗客乗員すべての顔を見渡せるところに陣取った。
「みんなも知ってのとおり、あたしは今日、機関室で倒れているところを発見されたわ。そこに行くまでの経緯のことを、まず説明しておかなきゃね」
 理子はうろたえるカールに視線を据えた。
「今朝早く、といっても日付が変わった直後ぐらいだけど、あたしはカールに呼び出されたわ。立ち入り禁止区域に通じる隠し通路を見つけた、ってね。犯人捜しにご執心だったあたしは、カールが言うことだから、疑いもなくついて行ったわ」
 隠し通路の一件を持ち出されたカールは、口を一文字に結んで視線を落とした。
「あたしはカールに言われるまま、その隠し通路に入っていった。結果はさっきも言ったわね。問題は……」
「待って、それでカール君が犯人だって言うの? あたしはちゃんと、彼から、船長達を引きつけておいてくれ、って言われたわよ」
 カルメンが割り込んできた。彼女もまた、理子の言動に納得いかない様子だったが、当の本人はそれを全く気にしていないようだった。
「あんたはカールを疑わなかったの? 隠し通路の話題をあんたが出したのは、確か昨日の昼だったでしょ。それから半日足らずで、あるかどうかもわからないようなそれを探し出した、カールのことを頭から信用できるかしら」
「そりゃあ、まあ、怪しいと言えばそうだけど、さ」
 理子の反論に、カルメンは上手く対抗することができなかった。
「そうよ。最初から位置を知ってるぐらいでなきゃ、そんな短時間で隠し通路を探し出すことなんかできない」
「仮に彼がその、隠し通路の存在を知っていたとしても、あなたを行かせる意味がわからないわ。普通の人なら、そんな疑われるようなこと、しないと思うけど」
 雄弁な理子に、今度はジェシカ夫人が疑問をぶつけた。理子はそれに対してすら、万全の用意があると言ったふうに反論した。
「ならどうして、犯人があたしを生かしたのか、考えてみたら良いと思うわ。普通の神経してるなら、犯行現場を見られた可能性がある相手を、どうして生かしておくのかしら。逆なのよ。『見られた』というリスクを負ってでも、『犯人は乗客を殺さない』という事実が必要だったの」
 理子はきっぱりと断言した。
「もう一つ付け加えておくことがあるわ。あたしはカールから、ある重要な事実を、昨日の昼、ディミトリさんが殺された後に告白されたの。それは、彼が『強感覚者』という人種であること」
 強感覚者、という単語が出たとき、船長の眉がピクリと動くのを、理子は見逃さなかったが、あえて知らなかったことにして、話を続けた。
「強感覚者って言うのは、一般には秘密にされてる超人、て所。問題は、その時カールが、犯人は自分以外の強感覚者だ、って言った所にあるの」
 冷たい視線をカールに向ける理子は、周囲からの視線に臆することなく続けた。
「最初に自分は強感覚者だ、ってカールはあたしに見せつけたわ。それで、あいつは犯人が別にいる、って続けたの。ショッキングな事のすぐ後だったし、あたしは何も考えずに信じた。そうさせるのがカールの目的だったのよ」
 犯人扱いされているカールは、うつむいたまま反論しようともしなかった。その様子を見て、理子は満足げな表情を浮かべ、さらに彼の糾弾を進めた。
「犯人は自分以外の別人で、乗客の命を奪うことに抵抗のある人間。そういうすり込みをあたしにして、自分から疑いを反らすだけじゃなく、別の人間を犯人と疑わせるように、こいつは仕込んでいたのよ。そしてその別の人間っていうのが、クリス、あなたよ」
 クリスの名前を口にした理子は、右手で彼を指さした。突如として話題に出されたクリスは、少しあわてた様子で理子を見返した。
「ぼく、ですか?」
「あんたは赤の他人が殺された事にだって、素直に怒る事のできる人間よ。昨日の朝、船長に殴りかかった事を考えれば、少なくともあたしはそう思う」
 クリスは、理子の言いたいことを飲み込めない、といった様子で呆然としていた。
「それにあたしは、ディミトリさんが殺されたとき、あんたの姿を見ていない。父親が事故で死んでて、指輪を渡すような行動をして、なおかつ人の死について怒ることのできる人間。カールはそんなあんたを、あたしに疑わせるようし向けてた」
 理子は再び、カールに視線を戻した。クリスは自分が疑われていたことにガマンがならないのか、拳を机に押さえつけて、ふるえていた。
「たぶん、こいつは初日に展望台で話を聞いたときから……」
「待ってください! お願いです、待ってくださいよ!」
 もう耐えられない、といった様子でクリスが叫んだ。周囲の人々はどよめき、クリスに注目したが、理子と船長だけは、冷徹な視線で彼を見つめていた。
「待ってください、おかしいじゃないですか。それだけのことで、どうしてカールさんを犯人だって決めつけられるんですか。本当に隠し通路が見つかったのかも知れない! カールさん以外に強感覚者がいるかも知れない! 犯人があなたを生かしておいたのだって、ほんのきまぐれかも知れない! 証拠なんか、何一つ無いじゃないですか!」
 クリスは立ち上がって、拳を机にたたきつけた。周囲のグラスが倒れ、中に注がれていた水が零れ、白いテーブルクロスを濡らした。
「そうよ、証拠なんて無い。あたしが今語ってることは、何の物的証拠もない、ただの憶測にすぎないわ」
 論理のおかしさを指摘するクリスに、理子は開き直って反論した。
「でも、あんたはカールが犯人じゃないって、どうして言い切れるの? それなりの証拠、少なくとも目撃証言くらいは、あっても良いと思うけど」
 悪びれる様子もなく、証拠の提出を要求する理子に、クリスはテーブルを見つめたまましばらく何か考え事をしていたようだったが、ようやく口を開いた。
「あります、ありますよ、目撃証言。理子さん、あなたが立ち入り禁止区域に行っていた時間、今朝の午前一時ぐらいに、僕、目が覚めたんです。のどが渇いて、下のレクリエーションルームまで飲み物を買いに行ったんですけど、その時、カールさんの部屋の表示が、『在室』になっているのを見ました。セキュリティ・ログを調べてもらえば、きっとすぐにわかるはずです」
 必死で弁明するクリスの額には、いつの間にか脂汗が浮かんでいた。彼の証言を一通り聞いた理子は、両手を腰にやって、やれやれとため息をついた。
「おや、おかしいですね。たしかそのころ、僕は展望台のエレベータでお嬢さんの帰りを今か今か、と待ちかまえていたんですけど……。この、愛しいお嬢さんを、ね」
 ふと見ると、さっきまでふさぎ込んでいたカールが、まるで何事もなかったかのように立ち上がっていた。彼はゆっくりと理子の隣に歩いていくと、わざとらしげに彼女の肩に手を回した。
「いえ、その、違います。僕が見たのは……」
 クリスの表情は明らかに焦っていた。柄にもなく、彼は自らの失言を取り繕おうとしていたのだった。
「あきらめなさい。強感覚者が犯人だと知ってて、犯人が暴れ出すリスクを考えずに、こんなバカみたいな推理ショーをやると思う?」
 理子にそういわれ、クリスは言葉を切った。彼は両手をだらんと垂らし、黙り込んだままうつむいてしまった。
「こういうやり方は、あんまり好きじゃないんだけどね」
 無造作にカールの手を振り払った理子は、少々残念そうな口調で言った。

 つい先ほどまで、カールを徹底的に糾弾していたはずの理子は、今まさに彼と肩を並べて立っている。テーブルに着いている乗客達は、今の状況が飲み込めないようだった。
「つまり、それは、君……」
「クリスをあんた達が『はめた』ってわけ?」
 アレン氏の言葉をカルメンが継いだ。理子は黙っているクリスを一瞥した後、カルメンに視線をやった。
「まあ、そういうことね。証拠がないもんだから、自分から名乗り出てもらわないといけなかったのよ」
「良くやるわよ、ったく」
 カルメンは額に手をやって、理子達がやったことを評価する反面、あきれた表情も見せていた。そんな彼女から、理子はクリスに視線を戻した。
「確信はあったわ。あたしが隠し通路に入っている間、クリスが部屋にいないことを、カールが確認していたもの」
「ちゃんと移動できるところは全部探しましたよ。あなたが『飲み物を買いに行った』レクリエーションルームも、医務室もね」
 クリスは黙ったまま、反論する様子を見せなかった。彼は顔をうつむけて、苦々しい表情を浮かべていた。
「しかし、仮にクリス君が犯人だとして、彼が自白しなかったらどうするつもりだったんです? ヘタをすれば、カール君が犯人扱いですよ」
 少し距離を取っていたジェラールが、テーブルに近寄ってきた。
「それに関しては心配しませんでした。クリス君なら必ず名乗り出てくれると思っていましたし、万一そうでなかったにしても、証拠不十分で僕は釈放ですよ」
 カールはそうであるのがさも当然、といった様子で釈明した。
「クリスは自分が犯人であることを隠そうとするどころか、逆にアピールしてたふしがあるから、あたしもそう思っていたわ。見ず知らずの人間に、今の自分と違うイニシャルの刻まれた指輪を渡したり、父親の死に様を語ったり、船長に殴りかかったり。どれもこれも、まるで自分を疑ってくださいって言ってるようで、ね」
 理子はなぜ、クリスが自白すると考えたかについて答えた。いつの間にか、疑いを向けられている彼は、うつむくのをやめて、力のない微笑を浮かべたまま、理子とカールを見つめていた。
「でも、それだけじゃ僕を犯人だと思える根拠にはならない、でしょう?」
 クリスはじっと、理子を見つめながら言った。その顔はあきらめきっているようにも見え、理子は少し彼のことを哀れんだ。
「それに関しては、カルメンやジェシカ夫人に助けてもらったから、ね。事故で亡くなったっていう、この船の初代接客チーフの名前は、アルフレド・ラインハルト。そしてその人は、亡くなった時左腕一本しか残らなかった。指輪に刻まれてたイニシャルは、A・R。これだけあれば、確信に至っても、おかしくはないでしょ」
 父親のことについて言及した理子は、その時だけクリスの顔を見ないようにしていた。
「それは確かに、おかしくないと思いますよ」
 クリスはそういって、肩を落とした。元々小さかった彼の身体が、さらに小さくなったように見えて、理子は言いしれぬ哀れみを覚えた。
「望みは復讐、ってわけ?」
 横から、カルメンが口出ししてきた。彼女に視線を移したクリスは、答える代わりに、力無い微笑を送り続けるだけだった。
「事故死で復讐、というのも、おかしい話じゃあないかね、君は」
 アレン氏は、復讐の動機について指摘した。
「あれは事故死というより……」
「それに関しては、僕がちゃんと説明しますよ」
 事の次第を説明しようとしたカルメンを、クリスが遮った。カルメンは彼の心境を察したのか、彼に説明を任せることにした。
「それは、君がこの事件の犯人であるということを、認める、ということかね」
「そうなりますね」
 アレン氏はクリスが犯人であると再度確認した。あっさりとそれを認めたクリスは、そんなことはどうでも良い事であるように、事件の真相を語りはじめた。

「もう一度、自己紹介をしておきましょうか。僕はクリストフ・フェルゲルタン。もっとも、それは今の名前で、以前はクリストフ・ラインハルトでした。父はアルフレド。母はクリスティナ。母は僕を産んですぐに死にました」
 おもむろに自分の来歴を語りはじめたクリスの視線は、船長に据えられていた。
「父は旅客船の接客チーフをやっていましたが、激務の割に収入は良くありませんでした。そして十年前、父はこのロジャー・ヤングの接客チーフに任命されました。そしてその時から、生活苦のためか、密輸に手を出すようになってしまったんですよ」
 いつの間にか、クリスの視線は先ほどまでの彼とは違い、鋭く冷たいものになっていた。
「おや、それはつまり、あなたはこのロジャー・ヤングを密輸船だと言いたいわけですか。それは心外ですなぁ」
 船長はクリスの視線にひるむことなく、大げさに疑惑を否定して見せた。クリスは彼がそう返してくると予想していたのか、それについては何も言及せず話を進めた。
「しかしながら、父は僕が成長するに従い、密輸を生業とすることに後ろめたさを感じるようになりました。そして六年前、父は同じく密輸に関わっていたメンバーに、足を洗いたいと訴えかけたんですよ」
 クリスは船長をじっと見つめていた。船長はあえてその視線を正面から受け止め、腕組みをしながら自信たっぷりの笑みを浮かべていた。
「残念ながら、その日父は『事故死』しました。左腕一本だけ残して、ね。しかも、『船外作業中にスペースデブリの直撃を受けて』死んだんです。接客チーフが、ですよ」
 自嘲気味の笑みを浮かべるクリスは、船長から視線をはずして周囲を見渡した。
「結局、それは『事故死』で片づけられました。メディアで報道されることもありませんでした。僕としては銀河連邦警察にしっかり捜査してもらいたかったんですが、なにぶんその時は十歳にも満たない子供でしたから、あきらめるほかありませんでした」
 周囲に話すクリスを見て、カルメンが少し視線を落とすのを、理子は見落とさなかった。
「まあ、それはいいんです。その後すぐに僕は軍に徴用されましたし、今更そのことについて是非を問うほど、メディアや警察を恨んでもいません」
「やはり、強感覚者ですか、君も」
 クリスはカールの言葉に、ゆっくりと、しかし力強く頷いた。
「従軍できたのは良い経験だったと思います。見識が広がりましたし、何より高等な教育を受けることができた。特に、兵器の扱いについては、特別感謝していますよ」
 船長を見つめて、クリスはにやりと笑った。その笑みには、明らかな憎しみの色が込められており、理子は一瞬ぞっとした。
「従軍が終わった後、僕は市民生活に戻ることにしました。懐かしの我が家に帰り、まだ十分でなかった父の遺品を整理していたら、こんなものが出てきましてね」
 クリスは、ポケットから携帯端末を取り出した。その動作にカールは一瞬身構えたが、出てきたのが端末だったので、安心したようだった。クリスは端末を少し操作すると、それを船長に向けて突き出した。端末はわずかにうなった後、彼の父親が録音されたとおぼしきメッセージを再生しはじめた。
『クリス、父さんはもう、帰ってこれないかも知れない。もしそうなったら、この端末に入っているデータを持って、近くの警察に駆け込んでくれ。内容については、おまえが知る必要はない。いや、父さんがおまえに、このデータがなんであるか、知ってほしくないだけだな。すまない、おまえの父さんは、おまえが将来誇れるような人間じゃない』
 端末の音声は、そこでとぎれた。
「懐かしい声でしょう、ホウ船長。あなたと一緒に仕事をして、あなたに殺された、アルフレド・ラインハルトの肉声です」

 クリスの視線はさらに鋭く、船長を貫いていた。しかしながら、船長はそれに驚くこともなく、ただ飄々としているだけだった。
「残念ながら、僕は父のデータがなんであるか、知ることができるだけの技術と能力を持ってしまいました。船長、あなた方が密輸によって莫大な利益を上げていた事も、僕は知ってしまったんですよ」
「そいつは違うな」
 突如として、船長は反論した。普段理子達に見せていた、丁寧な物腰とは違い、明らかに敵対心のある振る舞いだった。
「俺たちはおこぼれをもらっていただけさ。莫大な利益を上げてたのは俺たちじゃァない。麻薬を売りさばくカルテルと、武器を売る軍事企業の社員。あとその仲介を買って出た銀河旅行社のブタ共だ。なあ、そうだろ、アレン・ブレディさん?」
 船長はこわばった表情を浮かべたまま、黙り込んでいるアレン氏に視線を送った。アレン氏は自分の名前が話題に出た途端、見る間に顔が青ざめ、ガタガタとふるえだした。
「私は、違う! ただ、書類をごまかして、一年に一度だけこの船に乗り込んで、監査まがいのことをするだけだったんだ! 人殺しはしていない!」
 大声でわめき散らしたアレン氏は、頭を抱えて机の上に突っ伏してしまった。その様子を見た船長は、彼を容赦なく嘲笑し、腕組みしたまま視線をクリスに戻した。
「だ、そうだ」
 船長は皮肉な笑いを浮かべたまま、クリスがどうするか見ているようだった。クリスは携帯端末をポケットに戻し、険しい表情を浮かべたまま微動だにしなかった。
「僕の復讐の対象は、船長、残るはあなただけだ。アレンさんも、ジェラールさんも、この密輸に関わっていようといまいと、殺すつもりはない」
 そう口走った直後、クリスは目にもとまらぬスピードでポケットから拳銃を取り出し、船長の頭にねらいを定めた。
「船長、なぜだ! なぜ父を殺す必要があった! 父さんは、父さんは秘密を漏らすような人じゃ無かっただろう! 素直に足を洗わせてやれば、それで良かったじゃないか!」
 叫ぶクリスとは対照的に、船長の反応は冷ややかだった。
「そういうなよ、少年。世の中人を信用すると上手くいかないんだ。特に、こういう業界では、な」
 船長は大きく両手を広げ、やれやれだと言わんばかりの態度を示した。それを見たクリスは、絶叫しながら引き金を引いた。黒光りする大型拳銃から放たれた銃弾は、確実に船長の頭を撃ち抜くと思われたが、弾丸はその直前に、船長の前に飛び出た人影によってはじかれた。

 銃撃音と、跳弾の甲高い音が、ホールに響いた。そして少し後に、金属製の何かが床にぶつかる音も。
「お嬢さんの前でそういうことをやるのは、よしてほしいものです」
 船長の前に飛び出したのは、カールだった。彼は右手に食事に使う銀のナイフを持っていた。もっとも、それは弾丸をはじくのに使ったせいか、真ん中でぽっきりと折れていた。
「カールさん……! 邪魔するんなら……」
 予想外の出来事に呆然としていたクリスは、再度銃を構えなおした。しかしカールは、銃口を眼前にしてもひるむことなく、船長の前に立ち続けた。
「お互い、無益な事はやめましょう。強感覚者に銃撃してどうするんです。拳銃弾なんて、鋭利な紙飛行機が飛んでくるようなものなんですよ」
 妙なたとえを持ち出したカールにかまわず、クリスはさらに引き金を引いた。二度三度、銃撃音がホールにこだまする。しかし、弾丸は船長どころか、カールに届くことすら無かった。すべてカールが持っていたナイフによって、たたき落とされていたのである。
「クッ! どうして邪魔を……」
「お嬢さんの前で人殺しはやめて頂きたい、と言ったでしょう」
 二人の強感覚者がにらみ合う中、カールの背後で、船長はゆっくりと懐に手を伸ばしはじめた。それを見て、彼が何をするのか直感的に理解した理子は、思わず叫んでいた。
「いけない、カール!」
 直後、船長はクリスの持つ拳銃と同型のものを取り出し、目の前のカールに向けて発砲しようとした。理子の声に反応したカールは、船長が撃つより早く振り向き、銃をつかみ取ると、彼の腹めがけてパンチをお見舞いした。ボディに強感覚者の一撃をもらった船長は、数メートルほど吹き飛ぶと、噴水の中にきれいに飛び込んでしまった。
「クリス、あんたどうするつもりなのよ!」
 ふと見ると、カルメンが叫んでいた。彼女の視線の先には、階段を駆け上がることもなく、軽々とホールのテラスに飛び上がるクリスの姿があった。
「ああ、奴が逃げる! 私は、殺されるんだ!」
 飛び上がるクリスを見て、アレン氏が情けない叫びをあげた。カールは船長から奪った銃を構え、まだ空中にいるクリスめがけて射撃したが、それより早く彼は手すりをつかむと、テラスに身体をねじ込んで、姿を消した。
「カール、追うのよ! あんたでなきゃ、あいつは止められないんだから!」
「しかし、お嬢さん! あなたを残していくわけには……」
「あたしは『行け』と言ってるのよ!」
 カールは一瞬とまどったが、理子の強い口調に押されて、クリスの後を追いはじめた。
クリスと同じく、人間とは思えない跳躍でテラスに降り立った後、一瞬だけ振り向いて、理子にウインクをして消えた。
「あのバカ」
「かわいいじゃない、大事にするのよ」
 理子はカルメンの言葉を聞かなかった事にして、すぐ振り向いた。船長はまだ、噴水に飛び込んだまま動かない。
「アレじゃしばらくは……」
 そう理子が安心した瞬間、再び銃声がホールに鳴り響いた。ぞくりとした理子が、銃声の聞こえた方向に振り向くと、そこには銃を構えたジェラール接客チーフが居た。
「良くやった、ジェラール。銃を突きつけて脅しておけば、そいつらは早々動けない」
 噴水の中から、ゆっくりとした動作で船長が立ち上がった。水に濡れ、びしょびしょになったジャケットを、船長は脱ぎ捨てた。
「エグゾスーツ……、良くそんなの手に入ったわね」
 ジャケットの下には、濃緑色をしたゴムのようなスーツがあった。すぐ横のカルメンは、どうやらそれが何か知っているようで、額に汗がにじんでいるのがわかる。どうやら、相当に危険な代物らしい。
「仕入れ担当が優秀でね」
 船長は銃を向けられた乗客達を眺め、勝ち誇った笑みを浮かべた。

 カールは必死になってクリスを追ったが、彼はカールが追いつくより早くエレベータに乗り込み、扉を閉めてしまった。
「お嬢さんのご用命とあらば! 逃がすわけには!」
 カールは扉の向こうでエレベータか下降する音を聞いた。そして、拳銃を腰のベルトに挟むと、扉の境目に指をかけ、渾身の力を込めて扉をこじ開けようとした。全身の筋肉が硬直し、体内のナノマシンの活動が、一斉に活性化するのを、カールは強化された感覚で感じていた。細胞の一つ一つにスマートブラッドがエネルギーを供給し、筋肉細胞が莫大な熱量を発する。
「開いて、もらいますよッ!」
 強感覚者の強化された肉体に、エレベータの扉はついに白旗を揚げた。扉を動かすモーターがオーバーロードし、機能を停止させられたそれは、もはや扉としての役割を果たすことなく、だらしなくエレベータシャフトへの大口を開けてしまった。
カールはそれを見て取ると、迷うことなく暗黒が支配するエレベータシャフトへと飛び込んだ。自由落下の際に感じる、胃の内容物がこみ上げてくるような不快が、カールを襲った。機械と油の臭いの混ざった空気が、カールの頬を激しく叩いて後方へと流れてゆく。そして数秒の落下の後、彼は未だ下降を続けるエレベータの上に、金属がひしゃげる音とともに着地した。
「クリス!」
 カールは左の拳にあらん限りの力を込めて、エレベータの天井を一撃、殴りつけた。激しい衝撃が彼の左腕を襲い、エレベータの天井は無様な悲鳴を上げて彼の拳を貫通させてしまった。カールは左腕を引き抜き、両手を天井の穴に引っかけると、力任せにその穴から金属板を引っぺがした。エレベータの扉よりも薄かった金属板は、割にあっさりと引きはがされ、カールにエレベータ内部への侵入口を作らせてしまった。
 カールはそのまま内部に飛び降りた。左腕には、先ほど引き抜いた際に金属板で傷つけたのだろう、スマートブラッドによる銀色の筋がいくつもできていた。そして金属板と正面切って対決した彼の左拳は、指の骨が砕けているらしく、妙にぐんにゃりとしている。しかし、カールはそれをさほど気にする様子もなく、エレベータ内部を見回した。
「彼も僕と同じ人種。考えることは同じ、か」
 カールは、エレベータの床に開いた大穴を見てつぶやいた。そしてその直後、エレベータは通常行くはずのない、立ち入り禁止区域へと到着した。

 カールは扉が開くと、すぐさま外へと飛び出した。そこには、カールにとって見慣れた物体が、いくつも並んでいた。
「密輸なんて、せいぜい小遣い稼ぎ程度と思っていましたが、これはさすがに驚きですね」
 そこは隠し倉庫のようだった。旧式の電灯に照らされた、高い天井を持ったそこには、軍用の自動小銃や、対歩兵用のバルカン砲、あるいはテロ行為にでも使うのだろうか、携帯型ミサイルランチャーもおいてあった。
「カールさん! 僕の復讐は船長を殺して終わります! どうかそれまで邪魔しないでください! 僕は……、僕はあなた達を殺したくない!」
 どこからか、クリスの声が響いた。
「うぬぼれたことを! 君に殺されるほど、僕もお嬢さんも、貧弱じゃないですよ!」
 カールは力一杯叫んだ。返事は戻ってこなかった。代わりに、戦場で聞き慣れた、あの懐かしく、そして味方ながら恐ろしいと思った駆動音が、倉庫内部に響き渡った。
「いや、まさかなぁ。アレは、書類をちょろまかすぐらいじゃ、持ち出せない代物のハズなんだけど……なぁ」
 カールはその駆動音を聞いて、背中に冷たい汗が噴き出るのを感じた。
「だから、僕は邪魔しないでと言っているんですよ」
 クリスの声は前方から聞こえてきたが、カールの視界には、少なくともクリスとおぼしき物体は一切見つからなかった。

 薄暗い電灯の下で、『それ』はしっかりと二本の足で立っていた。ぱっと見の印象は、全身鎧とヘルメットをかぶったゴリラだった。もちろんよく見れば、『それ』がゴリラとは全くの別物であることなど、小学生でもわかるだろう。
 『それ』の目は赤い。目と言っても、バイザーの部分を便宜的にそう呼ぶだけだ。頭はフルフェイスのヘルメットに似ているが、ちょうどそのヘルメットを装着して、マフラーを首にぐるぐる巻いたような感じだった。手足は丸太のように太く、胴体は魚の鱗のように金属板が貼り付けられ、効果的に衝撃を逃がす構造になっている。
「パワードスーツ、とは……」
 パワードスーツと呼ばれた『それ』は、現連邦宇宙軍において最強といわれる、機動歩兵部隊が装備している特殊強化服だった。ゲリラ程度の相手ならば、単独で拠点を制圧できるほどの圧倒的戦闘能力を持った、現状最強の歩兵用装備。軍にいた頃には見慣れていた『それ』は、今まさに敵となって、カールの前に立ちふさがった。
「そこをどいてもらいます、カールさん。どうしてもというのなら、力ずくで」
 パワードスーツの中から、クリスの声が聞こえてきた。そのパワードスーツには、軍のものならば装備されているはずの、巨大なバックパックが装備されていなかった。
「強感覚者は、絶対にパワードスーツを扱えないって、カールさんも知ってますよね。その理由だって、もちろん知ってるはずです。それでもあなたは、僕の邪魔をしますか」
 パワードスーツは、あくまで一般の兵士が扱うものだった。ナノマシンを投与された強感覚者が扱うと、強化された反応速度や筋力のために、ただでさえ高い戦闘能力がさらに跳ね上がり、反乱の危険性が高まる事から、軍内部において強感覚者によるパワードスーツの使用は、厳しく禁じられている。無論、強感覚者がパワードスーツを使用することも、物理的に不可能な事のハズだった。
「密輸品ですから、正規の仕様じゃないのはわかりますが、ね」
 カールはクリスの着ているパワードスーツを、じっくりと観察した。強化セラミックチタンで覆われた、濃い緑色の装甲は、まず間違いなく携帯用火器では突破できない。何より、人間の筋肉より数十倍も高性能な人工筋繊維が、射程にとらえさせてくれないだろう。まして、中身はただの人間ではなく、強感覚者だ。
「まあ、勝ち目がないのは百も承知ですがね……」
 カールがそういったとき、彼はパワードスーツの肩に刻印されている、型式番号に目をつけた。『GFSF-SPS-72』と書かれたそれは、カールに、わずかながらも勝機がある、と思わせた。
「しかし、このままあなたを行かせてしまうのも、男が廃るというものです!」
 そういってカールはパワードスーツに向かって拳銃を構えた。その直後、カールは恐るべきスピードで動作したパワードスーツの、丸太のような右腕に、胴体を一撃されて倉庫の壁にたたきつけられた。クリスは、パワードスーツの内部から、密輸品の山に倒れ込むカールを見てつぶやいた。
「せめて、復讐が終わるまでは、目覚めないでおくれよ」
 そのままクリスはエレベータに乗り込み、カールのあけた天井の穴を一瞥すると、そこに向かって突撃した。パワードスーツはその穴を通り抜けるにはあまりに大きすぎたが、金属板をへし折りながら、無理矢理にクリスはエレベータの外に出た。そして、遥か上方から漏れている光に向かって、垂直にジャンプした。

 カールはうっすらと目を開けた。視界がわずかに銀色に染まっている。痛みの感覚から察するに、殴られた箇所の肋骨は砕け、肺は破裂してしまっているようだった。しかし、まだ死んでは居ない。彼はゆっくりと立ち上がると、わずかな勝機をものにするために、倉庫の密輸品をあさりはじめた。

 銃を突きつけられた理子達は、その場から一歩も動くことができずにいた。理子は船長が着ている濃緑色のスーツが気になり、事情を知っているらしいカルメンに聞いてみた。
「エグゾスーツって、なんなのよ」
「軍用の強化スーツよ。人工筋肉を使ってて、着るとかなり素早く動けるし、力も強くなるの。少なくとも、ここにいるあたし達が全員束になっても、勝てないわね」
 カルメンの予測も、当然と言えば当然だった。残りの乗客のうち、二人は老人だし、もう二人は線の細い女性なのだ。
「銃を突きつけて、私たちを一体どうしようというの?」
 机に突っ伏してふるえるアレン氏を気遣うジェシカ夫人は、りんとした表情でジェラール接客チーフを見た。
「人質、ですかね。理子さんが推理したとおり、クリス君は標的以外に犠牲が出ることをためらう性格のようです。そうすれば、彼の動きを止めるぐらいはできるでしょう」
 ジェラールは丁寧な口調を崩さないまま、理子達に銃口を向けていた。
「そういうことだ。大方、あいつはパワードスーツを取りに行ったんだろうが、ありゃ欠陥品だ。大して恐ろしくもない。おまえ達を人質に取って、動けないところをちょっと細工してやれば、一件落着だな」
 雄弁な船長は、まるでクリスが帰ってくるのを今か今かと待ちかまえているようだった。
「パワードスーツって、あんた達ほんとにヤバイものばっかり……」
 カルメンが積み荷の恐ろしさに文句を言おうとしたその瞬間、理子達の背後から金属が激しくひしゃげる音が聞こえてきた。
「来たな。ジェラール、しっかり狙っておけ。奴の相手は俺がする」
 船長は身構えた。理子はその様子を見ながら、そんな恐ろしいものと、おそらくは先に対面して居るであろう、カールのことを、口には出さないまでも心配していた。

 金属音が途絶えた後、突如として理子の頭上を、巨大な人型の物体が通過した。『それ』はその巨体に見合わぬ敏捷性で、理子の目の前に着地した。
「よう、さすがはパワードスーツだな。さっきおまえを追いかけていった強感覚者は、ミンチにしてきたのか?」
 船長は、パワードスーツを前にしても、余裕の表情を崩さなかった。
「のしてきたのは、確かだ」
 スーツの中から聞こえてきたのは、あのクリスの声だった。口調こそ落ち着いているものの、その声色には明らかな敵対心が感じられた。
「あんた、カールを一体……」
 理子の脳裏に最悪の想像がよぎったが、クリスはすぐさまそれを否定した。
「大丈夫、彼は生きているよ。怪我を負っては居るだろうけれど、彼のことだ、そう簡単には死なない」
 クリスは一歩踏み出て、船長をにらんだ。もっとも、彼の顔はパワードスーツに隠されていて、実際ににらんでいたかどうかは定かではない。
「まあそう早まるなよ。ほら、後ろを見ろよ」
 船長はジェラールを見て、目で合図した。彼はそれを見て取ると、一歩一歩、テーブルの近くにいる乗客達に向かって近づいてきた。
「人質を取る、というわけか」
「そうさ。おまえがジェラールを殺しても良いが、その時は俺が人質の首をひねる。おまえが俺を殺すなら、ジェラールが乗客の頭をぶち抜く。良い作戦だろ?」
 船長は雄弁だった。彼のもくろみ通り、クリスはどうすべきか迷っているようだった。あからさまな舌打ちが周囲に響き、彼は身構えたまま動かない。
「何、脅えることはない。すぐ終わるさ、ゆっくり待ってな」
 動かないクリスに、船長はじりじりと、彼の行動を警戒しながら詰め寄っていった。猛獣を捕らえるかのように、じわり、じわりと船長は近づいていく。一方、ジェラールも又、乗客に最接近した。
「おとなしくしていれば撃たれずに済みます」
 彼は、机に突っ伏するアレン氏をかばうようにしている、ジェシカ夫人のこめかみに銃を突きつけていた。
「そう、良い子だ」
 クリスは船長が目と鼻の先にまで迫っているというのに、微動だにしなかった。
「いずれにせよ、殺すつもりには変わりないのでしょう」
 銃を突きつけられても、ジェシカ夫人は一切臆する様子を見せなかった。反抗的なジェシカ夫人に、ジェラールは拳銃の撃鉄を引き起こし、威圧した。
 その音を聞いて、突っ伏していたアレン氏が、ふと顔を上げた。彼の顔は涙にまみれ、恐怖に歪んではいたが、その目だけは、確かにジェシカ夫人のこめかみに突きつけられている、黒光りする拳銃を見ていた。
「ジェシカを、殺すというのか、ジェラール、接客チーフ……」
「状況次第では」
 アレン氏のくぐもった声に、ジェラールは冷たい返答を返した。そして、その言葉を聞いた直後、何かがはじけたように、アレン氏は絶叫しながら、ジェラール接客チーフに飛びかかった。
「駄目だッ! ジェシカをやらせるわけには、いかん! ジェシカは私を唯一認めてくれた女なんだ! 殺させるものか、絶対にだ!」
 アレン氏の不意打ちを食らったジェラールは、ジェシカ夫人に向けて銃を撃つこともできずに、彼に組み付かれて床に倒れ込んだ。銃の引き金は引かれることなく、同じく床の上に転がった。
「チッ、役立たずが!」
 ジェラールをののしった船長は、すぐさまパワードスーツと距離を取ろうとしたが、それは叶わぬ願いだった。
「逃げられると、思っているのか」
 船長の左腕は、パワードスーツの巨大な右手にとらえられていた。いくら船長が力を込めても、腕はびくともしない。
「クソッ、パワードスーツとの力比べとはなぁ!」
 腕を引き抜くことをあきらめた船長は、右足で思い切りパワードスーツの頭部に蹴りを加えようとした。しかしそれより速く、クリスは船長の左腕をひねった。思わぬ衝撃で、船長は転倒し、床の上に無様に転がった。
「チイッ、冗談だろ!」
直後、パワードスーツは、無防備な船長の腹に、左腕の強烈な一撃をたたき込んでいた。大岩が激突するような、激しい音がホールに響き渡り、船長はうめき声一つあげることなく、磨き上げられたタイルをぶち破って、ホールの床にめり込んだ。
「手間をかけさせてくれる。遠慮無くフルパワーでやるべきだったよ」
 床にめり込んだ船長は、まだ意識があるようで、クリスのパワードスーツにつばを吐きかけていた。
「そこが、甘いってんだよ、少年」
 船長の言葉を聞くなり、クリスは船長をつかんでいた右手を離し、そして大きく右腕を振りかぶった。その動作は、人間とは比べものにならない早さで動けるパワードスーツにしては、ひどく緩慢なものだった。まるで、自分が今から行う行動が、本当に正しいのかと、自問しているようでもあった。そして、今まさにその腕が、船長に再度振り下ろされようとしたその時、彼の背後から銃撃音がした。

 発射された弾丸は、少し丸いパワードスーツの背部装甲に当たってはじけた。クリスは振り下ろす手を止め、ゆっくりと後ろを振り向いた。
「なぜ、あなたが、そういうことをやるんです」
 そこには、銃を両手でしっかり構え、クリスにねらいを定める、理子が立っていた。彼女の背後では、アレン氏がジェシカ夫人になだめられ、ジェラール接客チーフはカルメンに取り押さえられていた。
「なぜか、って? あんたの復讐が気に入らない、って理由じゃ、だめ?」
 理子はにやりと笑った。クリスは完全に理子に向き直り、その赤いバイザーが怪しく光った。しかしながら、パワードスーツの巨躯を目前にしても、理子は一歩も引かなかった。
「僕は船長を殺した後、すべての密輸に関するデータを連邦警察に提出して、自首するつもりです。ちゃんとした法の裁きも受けます。僕を止めることで、あなたは怪我をしたり、死ぬ可能性だってあるんです。どうして、どうして僕を止めるんですか」
 バイザーに隠れて、クリスの表情は見えなかった。しかしながら、彼の声は、理子の行動を理解できないとでも言いたげで、ひどくふるえていた。
「あんたは一つ勘違いしてるわね。別にあたしは、あんたを裁きたいがためにこんな事をやってるわけじゃないわ。あんたにこれ以上罪を重ねてほしくないってわけでもない」
 理子は大きく息を吸い込んで、照準をクリスからずらさないまま言った。
「あたしはね、結構この旅行、楽しみにしてたのよ。クソッタレな親父がくれたものとはいえ、どうしようもなく馬鹿なカールがついてくるとはいえ、あたしのたった一人の家族がくれた、誕生日プレゼントだったのよ」
 がんとして動かない理子を前にして、クリスは何も言わなかった。
「それをね、あんたは、あんたの個人的な復讐のためにね、台無しに、台無しにしてくれたのよ! 一生に一度しかない! あたしの十七歳の誕生日プレゼントを! あんたがこんなくだらない事件で、台無しにしたのよ!」
 理子はクリスに、もう一発銃弾を撃ち込んだ。しかしながら、弾丸は分厚い複合装甲にはじかれ、何の意味も成さなかった。
「だから、あたしが楽しみにしてた旅行を台無しにしたあんたの復讐を! 絶対に邪魔してやるって決めたのよッ!」
 クリスは理子の剣幕に押されたのか、はたまた拳銃は脅威でないと踏んだのか、弾丸をよけるそぶりを見せなかった。そして、もう一度拳銃を撃とうとする理子に、クリスは素早く近寄ると、それなりにパワーをセーブして、理子の手から拳銃をはじき飛ばした。クリスはパワーをセーブしていたつもりだったが、理子にとってはそれなりの衝撃だったらしく、手から銃が吹き飛ぶどころか、彼女自身が吹き飛んでしまった。理子は近くにあった植え込みに身体をぶつけ、身体の数カ所に擦り傷を負った。
「じゃあ、僕はどうすれば良いんですか! 父を殺した人間を目の前にして、ヘラヘラ笑って生きていろと言うんですか! 僕にはそんなことできません! 絶対に殺してやる、こんな、こんなどうしようもないクズは!」
 クリスはそう叫ぶと、パワードスーツの両腕を振り上げて、船長の頭にたたきつけようとした。その動作は先のそれと同様に、非常にゆっくりとしたものだった。自らの行動を止めてくれと言わんばかりだ、と理子は感じた。
「やらせるものかよッ!」
 直後、クリスは背後から巨人の拳で殴られたかのように吹き飛び、すぐ後に大型の爆弾が爆発したような、激しい銃声があたりに響き渡った。吹っ飛ばされたクリスはホールの壁にたたきつけられ、いくつか壁を貫通して止まったようだった。理子は起きあがり、銃声のした方向に振り向いた。

「カール!」
 理子は、ホールのテラスに、物干し竿ほどの大きさをしたライフル銃を持ち、仁王立ちするカールを見た。彼女も今度ばかりは、心底彼のことを頼もしいと思った。
「おいしいところ持って行くじゃないの!」
 カルメンが歓声を上げたと同時に、カールは口から銀色の血を吐き出して、苦しそうに膝をついた。
「カール、あんたその傷は……」
「まだ、大丈夫ですよ。さすがに対物ライフルをぶっ放すのは、文字通り骨が折れましたがね……。それより、まだ終わっていませんよ」
 カールは傷ついた身体にむち打って立ち上がった。それとほぼ同時に、壁に開いた大穴からパワードスーツがゆっくりと出てきた。背後の様子はわからなかったが、動きが少しぎこちなくなっているのを見て、確実にダメージが入っているなと、理子は予測した。
「どうしてだ! あなたまで僕の邪魔をする! そんなに僕のやっていることは、いけないことか!」
 クリスは絶叫したが、カールはそれを眉一つ動かさず受け流した。
「ああ、いけないことだな、クリス! おまえは、おまえは僕の大事な大事なお嬢さんになぁ! キズをつけたんだよ! お嬢さんの、絹みたいに柔らかくて、ダイヤモンドより白く輝く柔肌に、キズをつけたんだ!」
 カールは咆哮し、超大型の対物ライフルを構えなおした。
「おまえが何をしようが、僕の知った事じゃない! だがな、お嬢さんの身体にキズをつけた落とし前だけは、絶対に払ってもらう! おまえがどこへ逃げようと、何をしようと、例え死んだとしても、絶対になッ!」
カールが喋り終わると同時に、パワードスーツは跳躍した。彼はそれを超人的な反応でとらえ、再度対物ライフルを撃ち出した。
 弾丸は音よりも早い速度で突き進み、跳躍したパワードスーツに、正面から直撃した。再度轟音が響き渡り、パワードスーツは床を削って壁にぶち当たった。
「もう一発だぁぁぁッ!」
 カールはパワードスーツが体勢を立て直す前に、全身に走る痛みをこらえつつ、対物ライフルをぶっ放した。激しい衝撃が銃身を伝わり、カールの身体を揺さぶる。発射された弾丸は、壁にめり込んだパワードスーツめがけて一直線に突き進んだ。
 直後、パワードスーツは体勢を立て直し、横っ飛びして弾丸を回避していた。弾丸は爆音とともに船体を突き破り、おそらくは船外へと飛び出したのだろう、警報が鳴り響いて、壁からオレンジ色の風船が吹き出してきた。
 皆の視線が風船に集中した時、パワードスーツは上に飛んでいた。スーツは曲線を描き、そのまま行けば確実にカールの居るテラスに着地するはずだった。しかし、そうはならなかった。
 飛び上がるパワードスーツを見て、カールは右手に対物ライフルを抱えたまま、手すりに足をかけると、パワードスーツと交差するようにして空中に身を投げ出した。そしてポケットから個人用端末を取り出すと、片手でバッテリーだけを取り外し、パワードスーツに向かって対物ライフルを撃ち込んだ。しかし、パワードスーツは、空中でひょいと身体をひねって、その直撃を回避し、反動で前方への移動が停止したカールに向かって、スピードを落とさずに近づいてきた。弾丸は天井に大穴を穿ち、またもやオレンジ色の風船がホールを埋め尽くした。
二人は空中で一瞬つかみ合った。そして、パワードスーツは丸太のような右腕を目にもとまらぬ早さで振るい、カールは対物ライフルで防御したものの、胴体にその直撃を受けて吹き飛んだ。防御に使われた対物ライフルは破壊され、その構造材を散らせながらほぼ真下に落下した。そしてカールは、常人ならば粉々になるような速度のまま、名も知らぬ画家の絵にたたきつけられた。衝撃のあまり絵はひしゃげ、身体が壁にめり込み、皮膚が裂けたのだろう、周囲に銀色の飛沫が散った。
「カール!」
 理子の悲痛な叫びに答えることなく、カールは鈍い音を響かせてうつぶせに落下した。同時に、パワードスーツもホール中央にある、噴水の上に着地した。見た目通りの重量を持っていたパワードスーツは、優雅な造形の噴水を粉々に粉砕した。理子は頭の中で、彼の死を想像した。いくら呼びかけても反応しないカール。机や床と同じように、冷たく脈のないカール。ただの想像にすぎないものが、理子の脆弱な神経回路を駆けめぐり、彼女の判断力を奪っていく。理子は泣き出しそうになってしまった。
「お嬢さん……、まだそんな、声を上げる時間じゃありません、よ……」
 その時、カールは力無く立ち上がろうとした。折れてしまった腕をつっかえ棒にして、上半身を起こそうとしたが、下半身がついてこない。神経をやられてしまったのだろうか。
「まだ、やる気ですか……?」
 クリスはカールを見て言ったが、彼は口から銀色の血を吐き出しながら笑った。
「何を馬鹿なことを。もう勝負は、ついたんですよ」
「……どういう意味です?」
 カールはもう一度踏ん張った。すると、今度は下半身もついてきた。スマートブラッドのおかげか、カールは、このときばかりは、ナノマシンを注入されて良かったと感じた。
「一歩動けば、わかりますよ……」
 カールは立ち上がった。今にも倒れそうで、身体のあちこちが銀色に染まってはいるものの、彼の眼光は未だにくすんでいなかった。
 クリスは、カールの言葉を考えた。対物ライフルの直撃を二発も受けたためか、、多少インジゲータが赤くなってはいるが、行動に支障はない。空中でつかみ合ったとき、何かされたのだろうか。そう考えると、すぐさまパワードスーツの機能を停止するのが賢いようにも思えた。
「ああ、そうそう」
 カールは、今やっと思い出したかのように言った。
「そろそろ来るハズですから、痛いのを覚悟しておいた方が良いですよ」
 クリスは、カールの言葉の意味がわからなかった。そして突如、パワードスーツのバイザーに表示されている、筋繊維の状態インジゲータが、一斉にレッドに変わるのを見た。
「これは……!」
 直後、彼のパワードスーツに内蔵されている人工筋繊維が、『すべて同時』に収縮しはじめた。人間のものより遥かに力の強いそれは、パワードスーツの外骨格を破壊してしまいかねないほどに収縮した。
「一体、あなたは、何を……」
「後で説明してあげますから、今は痛いのを我慢してください」
 クリスは自分の身体を包み込んでいるパワードスーツの外骨格が、嫌な音を立ててきしむのを感じた。腹側の筋繊維がオーバーロードによってちぎれ、彼は強烈な海老ぞりをする格好になった。その衝撃で今度は両足の筋繊維がはち切れ、彼の足の関節は全く真逆の方向へとへし折られた。パワードスーツの筋繊維が次々と破壊され、身体があらぬ方向へとねじ曲げられていく。
そして程なく、彼の身体を包んでいたパワードスーツは崩壊し、装甲部分がはじけ飛び、中からグロテスクな人工筋繊維が飛び出すのと同時に、全身の関節を破壊されたクリスが、水が周囲に流れ出した噴水の中へと、仰向けに倒れ込んだ。
全身に激しい痛みが走る。カールの言葉通り、覚悟しておけばもう少しショックを受けずにすんだかも知れない。クリスは自分の身体を動かそうとしたが、全身の関節をねじりきられていて、なんとか動くのは右腕だけという有様だった。
「一体、どんなからくりを使ったんですか……」
「これ、ですよ」
 カールは手に持っていた、端末のバッテリーを見せて、にやりと笑った。緊張の糸が切れたのか、彼は壁にもたれ込むようにして、床に座り込んだ。
「その型のパワードスーツは、リカルド・インダストリーが作った欠陥品なんです。メンテナンスをする際、頸部のコネクタに電源をつなぐと、過剰に電流が流れて人工筋繊維がオーバーロードしてしまうんです。それで、さっき組み合ったとき、ちょっと細工を、ね」
 クリスは、わからないと言った表情をした。
「そんな情報、一体どこで……」
「未来のお嫁の実家の事は、よく調べておかないと恥ずかしいですからね……」
 カールは顔面に銀色の血化粧を施したまま、冗談を言った。
「あんた、こんな状況でも……」
 理子はそんなカールにほとほとあきれたようだったが、その目には涙がたまっていて、声もわずかながら震えていた。
「目の前に、父の敵が居ながら、僕は……」
 クリスはそこまで言って、目に涙を浮かべた。
「復讐は、結局自己満足でしかないわ。自分が気持ちよくなるためだけにする行為よ。あなたは、自分が気持ちよくなることができないから、だだをこねているだけ」
 ジェシカ夫人が、倒れ込んでいるクリスに近寄った。
「誰もあなたを責めることはできない。だけど、誰もあなたを慰めてはくれない。もしあなたが良ければ、復讐以外の道を歩むことをおすすめするわ」
 夫人は、クリスの涙を、指先でぬぐってやった。クリスは何も言わなかった。その代わり、その目からは、いくらぬぐっても次々と涙があふれ出していた。
「ところで……」
 不意に、ホウ船長の声がした。ふと見ると、先ほどパワードスーツに殴られて、床にめり込んでいたはずの彼が立ち上がっている。
「感動のシーンの最中悪いんだが、そろそろ俺が動いてもいいか?」
 彼の手には、先ほど理子の手からこぼれ落ちた拳銃が握られていた。

 船長は素早くジェシカ夫人に近寄ると、茫然自失状態のアレン氏を蹴飛ばすと、彼女を羽交い締めにして後ずさった。アレン氏はかなり強い衝撃で蹴られたのか、一回転して床に倒れ込んでしまった。
「やれやれ、お互いにつぶし合ってくれて幸いだ。これで俺の仕事も楽になる」
 船長は、ジェシカ夫人のこめかみに銃口を押しつけて言った。
「ジェシカさ……」
 カルメンはジェラールの束縛を解放し、立ち上がって叫ぼうとした。しかしすべて言い切らぬ間に、銃声が響き渡り、彼女は仰向けに倒れ込んだ。
「なんて事を!」
「あまり俺たちのことを嗅ぎ回らない方が良い」
 船長はカルメンを撃っていた。カルメンはどこに弾丸を受けたのかわからなかったが、倒れ込んだきり動かなかったのは確かだった。
「やれやれ、もう一仕事必要ですか……」
「いや、その必要は無い」
 カールが残り少ない力を振り絞って立ち上がろうとしたその時、かなりの距離が離れていたにもかかわらず、船長は正確無比に弾丸をカールの両膝に撃ち込んだ。彼は膝の関節を撃ち抜かれ、その場によろめいて倒れた。理子はそれを見て、小さく悲鳴を上げた。
「ジェラール、立てよ。のんびりいこうぜ」
 船長は、押さえつけられていたジェラールに呼びかけた。彼はゆっくりと立ち上がり、船長を見つめた。
「さて、お前らはよく働いてくれた。後は救難船を待つだけだな」
 理子は船長に対して恨み言のひとつでも言ってやろうかと思ったが、じっと彼を見つめていたジェラールが、不意に腰から銃を取り出すのを見てやめた。
「よせよ、ジェラール! 賢いお前ならどうすべきかわかるだろ。本社の監察官としてここに派遣されてきて、何もしないままずいぶんと楽しくやってたおまえなら!」
 船長はジェラールに一瞥することもなく言った。ジェラールは一瞬表情を曇らせた。
「今までばれてなかったと思うほど、おまえもバカじゃ無いだろう」
 船長は、不敵な笑みを浮かべていた。人質にされたジェシカ夫人は、目を閉じたまま抵抗するわけでもなく、ただじっとしているだけだった。

 理子は動けなかった。相手は銃を持っているし、人質まで取っている。そこに強感覚者でもない、普通の人間である自分が、何かできる事があるとは思えなかった。
「本社の意向だ、私は君たちを摘発するだけではなく、密輸ルートすべてを一網打尽にするつもりだったのだ。断じて、私は……」
「私はぁ? 結構もうけたんだろ? 妻と子供も居るんだろ? お父さんは会社のお仕事で、長く子供の顔も見ることができない。しかも家族に内緒で、わるーいおじさん達がわるーい事をやっている船に乗り込んで、調査活動なんかしてる。でも家族は、そんなこと知らない。お父さんはちょっと仕事が忙しいだけだと思ってる」
 船長は黙ったままのジェラールに言葉を浴びせ続けた。
「そうさ! おまえは迷ったんだよ、俺たちを摘発して、本当に良いのかってな。裏世界からの報復が来ないか、心配になったんだよなぁ! いいんだぜぇ、それでも。人間としては正しい選択だ! だが子供の手本となる父親としちゃぁ、最悪のクソッタレだな! アルはその点いい男だったぜ! そうだろう、クリス!」
 船長は不意にクリスのほうへと向き直った。クリスは何とか動けるまでに回復した両腕を使って、すぐそばに落ちていた拳銃を拾い、船長の頭にねらいをつけていた。
「リチャード・ホウ……!」
「その震える手で俺だけをピンポイントで撃ちぬけるかな」
 船長はクリスを挑発した。しかし、クリスはねらいを定めたまま、険しい表情を崩さず撃つ気配も無かった。
「そうだよな、おまえに撃てるわけがない。あのアルの子供だもんな。あいつは本当にいい男だった。仕事は完璧、人柄も聖人、そして何より自分のために他人が傷つくことを死ぬほど嫌ってた。そんな男の遺伝子を受け継いだおまえが! 個人的な復讐のために、何の罪もない女を犠牲にできるか! いいやッ、『できるわけがない』!」
 船長は大声で笑った。クリスの目からは、涙が滝のようにあふれ出ていた。
「悔しいか! 悔しいだろう! どうだ、目の前で親父の敵を目にしながら、自分の信条のために討つことができない気分は!」
「船長、あんたって男は……!」
 理子が生身のまま、怒りにまかせてホウ船長に殴りかかろうとしたその瞬間、ジェシカ夫人が声を上げた。
「撃ちなさい、クリス。船長は私を何の罪もない人間と言いましたが、それは間違いです」
 ジェシカ夫人は、自分が命の危機に陥っているというのに、落ち着いた声で語りかけた。クリスや理子、船長が驚き、とまどっていると、夫人は続けた。
「私は、夫が密輸に関わっていることを知っていたんですよ。ええ、夫の密輸のすべてを、私は知っていました。彼が一体どこの組織と、どれだけの金額で、どんな品物を、いつ、どこで取引しているかも、ね」
 ジェシカ夫人は淡々と語った。
「毎年、夫は結婚記念日に私とこの旅行にやってきては、私が寝付いた後、毎晩一人でどこかへ行って、誰かと何かを話していました。私はそれを怪しんで、夫の居ない間に彼の端末を起動し、夫が一体何をやっているかを調べたんです。そうしたら、巧妙に隠されたファイルの中に、データがごっそり残っていたというわけです」
 理子は、そこまで知っていながら、夫人はなぜ通報しなかったのか、と不思議に思った。
「なぜ、そこまで知っていて」
「理子さん、私は夫を愛していました。そして何より、自分を愛していました。密輸で得た利益とはいえ、私たちは裕福に暮らしました。食物も、治安も、病気も心配なく、平和に。ええ、そうですとも。夫の売った武器で、銀河のどこかで人が殺されている結果だと言うのに、私は夫との生活を楽しんでいたんです」
 理子は何も言えなかった。クリスも、船長も、ジェラールも、カールだって、何一つ言わなかった。夫人の語った言葉は、すべて今の理子達にも当てはまる事だったからだ。自分たちの消費活動の裏で、そのために命を失う人間がいる。それは、理子達にとっては、絶対に想像したくない出来事だった。
「私は自分の保身のために、夫の告発をあえてしませんでした。でも、もうそれもおしまいです。さあ、クリス、撃つんですよ。私は、この船長と同じ人種です」
 ジェシカ夫人は、悟りきった様子で目を閉じた。
「僕には、僕には撃てませんよ……」
 クリスは涙を流して、銃を手放した。
「そうか、おまえが殺さないなら、俺がおまえの代わりにこのばあさんを裁いてやるよ!」
 そういって船長が引き金に手をかけた瞬間、ジェラールのすぐそばで倒れていた人影が、むくりと起き上がった。
「残念ね。裁くのはあんたでもなく、クリスでもなく、このあたしよ」
 人影はそれだけ言うと、目にも止まらぬ動きで船長の背後に回り、彼の首筋にカプセルのようなものを突き立てた。直後、船長は突然意識がとぎれ、拳銃もジェシカ夫人も離して、その場に崩れ落ちてしまった。
「カルメン……、あんた死んだはずじゃ!」
 理子はさっきまで仰向けに倒れて、一切動かなかったはずのカルメンが、元気そうに立っている事実に驚愕して、ひどく間抜けな問いをしてしまった。
「は? 何言ってんのよ。このあたしがそう簡単にくたばるわけ無いでしょ……って、よく考えたらあんた達はあたしが何者かなんか知らないんだっけ」
 そういってカルメンは、どこへやったかという風に体中のポケットを探し回り、ズボンの裏ポケットから身分証のようなものを取り出した。
「ま、なんか騙すような感じで悪いとは思うけどさ。あたしは銀河連邦警察特別捜査官、カルメン・イバニェス。以後お見知りおきを、っと」
 カルメンが連邦警察の特別捜査官だったと名乗り、理子は頭に手をやった。
「どんなご都合主義なのよ、これ……」
「良いじゃない、命が助かったんだから。あたしはこの船の軍需物資密輸疑惑を、上からの命令で捜査しにきてたのよ。そこで呆けてる、銀河旅行社の監察官と一緒でね」
 ジェラールは、銃を腰に戻し、力なく笑っていた。
「お恥ずかしい限りですよ」
「まっ、あんたは監察官なんて言っても、旅行社の飼い犬でしかないからね。誰もとがめやしないわよ、そんなことで。こういうのは本来あたし達の仕事なんだから」
「ちょっと、勝手に話を進めないでよ!」
 理子は、ジェラールとカルメンの会話に割り込んだ。
「やっぱり、あんたも……」
「ま、そういうこと」
 カルメンが理子に思わせぶりな口調で言うと、倒れているクリスが口を開いた。
「あなたも、強感覚者ということですか……」
「そうそう。あそこで弾丸よけちゃってたら、そのままジェシカさん殺されちゃうかも知れなかったからさ、撃たれたふりして、機会をうかがってただけなのよね」
 こんな調子の良いやつが、全銀河でも一部のトップエリートしかなることのできない、連邦警察特別捜査官だったとは。理子は落胆の色を隠さず、大きなため息をついた。
「さて、ジェシカさん、大丈夫?」
「ええ、何とか」
 カルメンは床にへたり込んでいるジェシカ夫人に話しかけた。
「早速で悪いけど、あなたが持っている密輸に関する全データ、提出してもらうから。後で本部から連絡が行くと思うけど、覚悟しておいてね」
 ジェシカ夫人は、肩の荷が下りたかのように頷いた。
「それとクリス。あんたは救難船が来たら速攻で逮捕よ。ってもその身体じゃしばらく逃げられないとは思うけど。三件の殺人と一件の殺人未遂じゃあ、見逃してあげるッてわけにも行かないし」
 カルメンは困ったような表情を浮かべた。
「あたしとしては、あんたみたいなかわいい男の子は無条件で助けてあげたいんだけどね」
「今そんな冗談言ってる状況じゃないでしょ」
 理子は思わずつっこんだ。周りを見回すと、カールとクリスは満身創痍で、噴水は完膚無きまでに破壊され、ホールの壁には大穴が空き、またひしゃげても居る。
「ったく、お堅いやつね」
 そういってカルメンは、その白い歯を見せて笑った。
「それと、アレンさんは、まあしばらくしたら起きるでしょ。死んではいないみたいだし」
 カルメンは床に倒れているアレン氏を一瞥した。彼はカルメンの言うとおり、死んでいるわけではなく、ただ気絶しているだけだった。

 理子は周囲の様子を見ながら、何か忘れているような気分になった。そして、はっとホールの床に倒れ伏しているカールのことを思い出した。
「そうだ、カール!」
 理子は急いでカールの元に駆け寄った。カールは銀色の血を床いっぱいにまき散らし、死んでいるかのように横たわっていた。
「カール、ちょっと、起きなさいよ!」
 理子はカールの血の中に座り込み、彼の身体を揺すった。しかし、カールは目を覚まさず、まぶたを閉じたまま身体を一寸たりとも動かさなかった。
「カール……、まさか! そんな!」
「いやあ、さすがのお嬢さんも肝を冷やしましたね!」
 目に涙をためて、哀願するような声で叫んでいた理子は、カールのまるでデリカシーの無い発言を聞いて、パワードスーツに殴られた所に思い切り拳をたたきつけた。
「カール! あんたって男は!」
「……や、やめてください、本当に、死んでしまいますから……そこは……」
 カールは理子の拳の直撃をもらい、息も絶え絶えな様子でつぶやいた。
「どう? 動けそう?」
 カルメンが近寄ってきて、カールに話しかけた。
「ああ、しばらくは無理そうです。ごらんの通り、出血が激しいので。手足の感覚も今の所無いんですよ。救難船が来たらさっさと処置してもらいたいものですね」
 カルメンはその答えに満足したようで、ポケットから携帯端末を取り出すと、どこかへと連絡を取り始めた。
「タキオン・ブースター内蔵型ですか……。それ一つで家が買えますね」
「そーよ、警察って結構金持ちなんだから。あんたも大人になったら就職すると良いわよ。あたしが推薦してあげるから」
 通信がつながったようで、カルメンは相手と話し始めた。機密に抵触する内容なのか、彼女は二人の近くから離れていった。
「何よ、あんなもん持ってるなら、さっさと助けを呼んでくれれば良かったのに」
「一応調査が目的だったようですからね。現場を押さえたかったのかもしれませんよ」
 カールはまだうつぶせのまま、端末に向かって喋るカルメンを見ていた。彼女の通信はすぐに終わり、またこちらに戻ってきた。
「連絡取れたから、もう一時間ぐらいで救難船が来るわ。あたしはそれまで、ジェラールとかジェシカさんとか、とにかく関係者の事情聴取やってるから。後船長も運ばなきゃいけないし、ああもう、やることが多くって、公務員って大変なのよね」
 カルメンはひどくけだるそうに言った。
「あたし達から聴取することはないの?」
 理子は不思議そうな面持ちで聞いた。
「あるわけ無いでしょ。あんた達はこの船で唯一、ただのバカンスにやってきてた乗客なんだから。後で本部から電話が来るかも知れないけど、そんな大したことじゃないから」
 そういって、カルメンはクリス達の所へ戻ろうとした。その彼女の背中に、クリスがちょっとした疑問を投げかけた。
「しかし、良いんですか? 特別捜査官が、僕たちみたいな民間人に身分を明かしちゃって」
 カルメンは振り返って、指を振った。
「別に良いわよ。もう二度と会うことは無いだろうし、あたしの身分をバラしたところで何かあんた達に得があるわけでも無し。何より、必要とあらばあたし達は簡単に身分なんか変えられるのよ」
 自信たっぷりにカルメンは言った。
「それじゃ、またあとで」
 カルメンはそういって、クリス達の所へ戻っていった。
「あいつ、強感覚者なんだっけ……」
 理子は誰に言うでもなくつぶやいた。
「僕が言うのもなんですが、あの人が特別捜査官というのは、何かおかしい気がします」
 その意見には理子も同意だった。あの女なら、どこかの安いバーで酔っ払い相手に立ち回っているほうが、よほどにあっているだろう。
「それじゃ、お二人ともごゆっくり!」
 カルメンは、ホールの階段を上りながら大声で叫んだ。彼女の両肩には、なんとクリスと船長が乗っていたので、理子は思わず目を疑ってしまった。すぐ後ろには、ジェラール接客チーフがいるのが確認できる。彼はこちらに気づくと、小さく会釈した。
「アレじゃあ潜入捜査には向かなさそうですね……」
 カールの言葉に、理子は思わず頷いてしまった。

 カルメン達が去ってしまい、ホールには動けないカールと、そのすぐそばに座り込んだ理子だけが残った。正確には倒れているアレン氏のそばにジェシカ夫人が残っていたのだが、アレン氏が目覚めると、二人もすぐカルメンの後を追っていったのだ。ホールの有様はひどいものだったが、一番目立つシャンデリアだけは、特に損傷が無く残っていた。
「お嬢さん、もし良かったら、膝枕してくださいよ。自分の血の中に身体を埋めるのは、ちょっと気分が良くありません」
 理子は、そんなカールの要求に、仕方ないな、と言った表情で応じた。彼女はうつぶせに倒れているカールを仰向けにして、その頭を自分の膝の上にのせた。
「ああ、幸せ。もう死んでもいいです」
「馬鹿なこと言ってないで、さっさと回復しなさいよ」
 理子は、自分の膝の上で目を閉じているカールを見て、ふっとため息をついた。
「とんだバカンスになったわね」
「後でおじさんに埋め合わせを要求しましょう。ホームパーティなんかどうです?」
 カールにしてはまともな意見だ、と理子は思った。二人の間には、いつもとは比べものにならないほど穏やかな時間が流れていた。
「ところで、お嬢さん……」
「何よ」
 カールは期待に満ちた目で理子を見ていた。
「そろそろ、本名で呼んでもかまいませんか?」
 理子は返事の代わりに、銀色の血がこびりついたカールの額に、軽くゲンコツを当てた。
「残念です」
「もう理子で慣れちゃったから、恥ずかしいのよ」
 そういって理子は顔を背けた。
「確かに、僕もお嬢さんのほうに慣れてますから、今更変えるのも恥ずかしいですね」
 カールと理子は、奇妙な意見の一致に、声を上げて笑った。

一週間と三日後

 月の病院で、人工太陽の下とはいえ、燦々とした日差しが照りつける病室をあてがってもらえたのは、幸運なことだと理子は思った。
「あれ、お嬢さん、リンゴむいてくれないんですか」
「自分でやればいいでしょ」
 理子はすぐ目の前にいる、日光に照らされて血色の良くなったカールから目をそらした。強感覚者には専用の病院が必要とかで、今二人は、月にある軍関係の病院に居る。幸い、カールの命に別状はなく、今や体組織の再生を待つだけだった。
「しかし、お嬢さんも別に僕につきあう必要は無かったんですよ」
 笑いかけるカールの顔を、理子はできるだけ見ないようにしていた。白い病室に降り注ぐ日光が、彼女の顔とベッド脇の棚に置かれた、赤いリンゴを照らす。このリンゴは、彼女の父親から送られたものだった。
「親父を一発、ぶん殴るぐらいはしてやりたかったからね」
「おじさんが顔を出さなくて良かった」
 そういって、カールは笑った。父の会社が月に本社を置いている以上、カールの付き添いという形で滞在していれば、会うチャンスがあるのではないか、と理子は考えていたのだ。もっとも、例の事件が明るみに出て、密輸騒ぎでリカルド・インダストリーはそれどころでは無くなってしまったようだった。
「ホームパーティも無理よ。どいつもこいつも、全く……」
 不意に、病室のドアが開いた。
「二人とも元気にしてる?」
 そこに立っていたのは、両手一杯に花束を抱えたカルメン・イバニェスだった。

 銀河一忙しいはずの銀河連邦警察特別捜査官が、軍関係とはいえどうしてこんな病院の一室に居るのか、理子にはわからなかった。
「そんな顔しなくたって良いじゃないのよ。せっかくお見舞いに来たのに」
「あんた、仕事しなさい」
 入るなりぞんざいな扱いを受けたカルメンは、口をとがらせて不満を述べたが、理子はそれを一切意に介さなかった。彼女は花束を堂々とベッド脇の棚に置くと、理子のすぐ隣にイスを引きずって来て腰掛けた。
「失礼ね、今日来たのは仕事よ。何も知らないあんた達に事後説明を、このあたし自らがしてやることになったのよ。ったく、そんなの誰でも良いと思うでしょ、あんた達も」
 イスに腰掛けると、カルメンはベッド脇の棚においてあったリンゴを一つ手に取り、かぶりついた。
「あんた以外の人間が良かったわ」
 美味しそうにリンゴをほおばるカルメンを見て、理子は思わず正直な感想を漏らした。
「まあ、まあ。それより、あの後どうなったんですかね。テレビじゃおじさんの会社が密輸に絡んでた、って偉く騒がれてますが、具体的な個人名がほとんど出てこないので」
 カールが間に入って仲裁を試みた。カルメンは彼の言葉を聞くと、強感覚者だけあって、恐ろしい速度でリンゴをかじりつくし、芯だけにしてしまうと、ひょいとゴミ箱に放り投げた。
「そうね。クリスは強感覚者ってことで、普通の裁判にはかけられないで軍刑務所に収容される予定よ。やっぱ軍も、強感覚者の存在は表に出したくないみたい。んで、ジェラールさんは会社をクビになっちゃった。まあ、監察官なのに密輸の手伝いしてたから、ねえ。船長は……司法取引で極刑にはならないと思う。すごい勢いでボロボロ喋ってくれるから、こっちとしても楽なんだけどね」
 カルメンは大まかに、乗客乗員の近況を述べた。
「ブレディ夫妻は、どうなったの?」
 理子がブレディ夫妻の名前を出すと、カルメンの表情が少し暗くなった。それを見て、理子は彼らがどのような状態に置かれているのか、ある程度予想がついた。
「ジェシカさんはともかく、アレンさんは今回の事件の責任を取らされる形になると思うわ。会社の、しかも軍事企業の商品をちょろまかして横流ししてたわけだし、一応司法取引もあるみたいだけど、相当長い間刑務所から出てこれないでしょうね。ヘタしたら一生」
 刑務所の中で沈んでいるアレン氏と、一人寂しく紅茶を飲むジェシカ夫人を想像して、理子は彼らのことを哀れに思った。
「まあ、そんな所ね。で、あんた達にありがたい近況説明してやったあたしに、飲み物買ってくるぐらいの心意気は、あんたには無いの?」
 突然、カルメンは理子に詰め寄った。
「いきなり何言ってんのよ」
「あたしに飲み物買ってこいっていってるのよ」
 二人は顔をつきあわせ、火花が散るほどにらみ合っていた。
「まあ、良いじゃないですか。僕のもお願いしますよ、お嬢さん」
「自分で行けばいいでしょ!」
 飲み物を買ってこいと要求する二人に、理子は抵抗したが、カルメンがポケットから取り出したカードを無理矢理手渡され、自分が行くべきなのだろうなとも考えはじめた。
「それ、好きに使って良いからさ。経費で落としておくわよ」
「後でどうなっても知らないからね」
 捨てぜりふを吐いて、理子は病室から出て行き、カールとカルメンが残った。
「それじゃあ、本題に入りましょうか」
 一転して、カルメンの表情が険しいものになった。カールはそれを見て、今から彼女が何を話すのか、わかった気がした。

 病室は静かだった。日光は白い壁に当たって、部屋の中を少しずつ暖めていた。
「強感覚者について、ですか」
 カールは自分の予想を述べた。カルメンはほとんど表情を変えなかった。
「よくわかったわね」
「お嬢さんが同席しちゃいけない話題となると、それぐらいしかありませんから」
 日の光がカールの頬に当たる。彼の顔は微笑こそ浮かべていたが、少し暗い感じを放っていた。
「まあ、ねえ。……あの子の親父さんに頼まれて、ね。強感覚者に投与されるナノマシン、リカルド・インダストリー製なのよ」
 カルメンはじっと、カールの顔を見つめていた。
「知ってますよ。軍を抜けてから、いろいろと調べましたから。例のパワードスーツの欠陥も、その時に偶然、ね」
 少し誇らしげに話すカールを、カルメンは心の中で哀れんだ。
「それだけ知ってるなら、あたしの言いたいことも何となくわかるかしら」
「何となく、なら」
 カルメンは大きくため息をついた。そして、カールの顔をできるだけ見ないようにして、語りはじめた。
「あたしがここに来たのは、あんたにこれを話すためよ。理子の親父さんが、あんたには自分の行く末を知っておいてほしい、って」
 カールはもう長いこと会っていない、理子の父親の顔を思い浮かべた。記憶の中の彼は、いつも笑顔でしあわせそうな男だった。
「クリアランスとかいろいろあって、一般人には話せない事だからねぇ。あんたに縁のあるあたしが選ばれたってわけ。ったく、損な役回りだわ」
 もう一つリンゴを取ったカルメンは、それをしげしげと眺めながら言った。
「強感覚者は、任意で普通の生活に戻れるけど、それもひとときのもの、ってことなのよね。いつか大きな戦争が起こったとき、軍はあんた達の体内ナノマシンを操作して、否応なしに兵隊にすることができる。だから、あんた達がどこで何をしようとかまわない」
「まあ、順当なところですかね」
 カールはこれから自分に起こるであろう出来事を知らされても、驚くことはなかった。
「結構平気なのね」
「元の生活に戻って長いですから。いろいろと考えましたし、だいたいそんなところだろうなと気がついています。でも、それは別に良いじゃないですか」
 じっと、カールはカルメンを見つめた。
「僕たちが招集されるのは、今かもしれないし、ずっと後のことかも知れない。よくわからない未来のことでウジウジ悩むよりは、今お嬢さんと一緒にいる時間を大切にしたい。そう考えるようにしてます」
 カルメンはイスにもたれかかり、ひゅうと口笛を鳴らした。
「恥ずかしいこと、平気で言うじゃない」
「よく言われます」
 カールはカルメンから視線をはずし、窓の外に目をやった。月の都市とはいえ、見る限りでは地球のそれとほとんど変わらない。景色を眺めていると、ふとカールは、今の自分の生活がどれだけ続くのか、不安になった。それは放っておくとどんどん大きくなって、彼を押しつぶしかねないものだったが、理子がブツブツ文句を言いながら、両手に飲み物を抱えて部屋に帰ってくるのを見ると、幸いなことにそれが大きくなることはなく、むしろきれいさっぱり消えてしまうのだった。
「お嬢さん」
 カールは理子に呼びかけた。理子は手に飲み物を抱えたまま、何よ、とカールを見た。
「僕、紅茶が良いなあ」
 彼がそういうと、理子はふん、と鼻を鳴らした後、彼の手に野菜ジュースを手渡した。そして自分はというと、その右手に紅茶のボトルを持っていたのだった。カールは残念がったが、同時にこんな時間がずっと続けば良いのに、とも考えていた。

                                (了)

ここから先は

0字

¥ 100