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「永禄の変」の真実

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 ──この、京を戦慄せしめた永禄8年の事件を、どこから物語ってよいか。


 司馬遼太郎『国盗り物語』で「永禄の変」について語られる「剣と将軍」の書き出しである。「上手い」と思う。とても太刀打ちできない。だから、私なりにまとめてみたい。

 「永禄の変」(「永禄の政変」とも)は、一言で言えば、「『天下諸侍御主』と呼ばれた足利将軍義輝が、家臣である三好一族に討たれた事件」となろうが、実はそんな単純な事件ではない。「天下諸侍御主」と呼ばれた将軍を殺すには、それなりの理由が必要なはずである。無差別殺人ではない。政変である。

 織田信長の右筆・太田牛一が著した『信長公記』では、次のようにまとめられている。

※太田牛一『信長公記』
 先公方光院義照御生害同御舎弟鹿苑院殿其外諸侯之衆歴々討死事。
 其濫觴者三好修理大夫天下依成執権内々三好に遺恨可被思食と兼而存知被企御謀反之由申掠寄於左右。
 永禄八年五月十九日に号清水詣早朝より人数を寄せ則諸勢殿中へ乱入難被成御仰天候無是非御仕合也数度切而出伐崩余多に手負せ公方様難御動候多勢に不叶御殿に火を懸終に被成御自害候之詫。
 同三番目之御舎弟鹿苑院殿へも平田和泉を討手に差し向仝刻に御生害御伴衆悉逃散候其中に日比御目を被懸候美濃屋小四郎未若年十五六にして討手之大将平田和泉を切殺し御相伴仕り高名無比類。
 誠御当家破滅天下万民之愁歎不可過之云々。
【現代語訳】先の公方・光院義照(前将軍・足利義輝)が御生害(自害、切腹)し、同御舎弟・鹿苑院周暠殿(足利義輝の弟の照山周暠)、その他、諸侯の衆、奉公衆のお歴々が討死した事について。
 その濫觴(発端)は、三好修理大夫長慶が、天下の執権になったことにある。そのため、足利義輝は、内心、三好一族には遺恨があった。三好長慶が亡くなり、三好家の宗主となった三好義重(後の義継)は、足利義輝の三好一族に対する恨みを兼ねてから存知ており、謀反を起こそうと思っていたが、「三好一族が将軍に御謀反を企てている」という風評に対しては、あれこれと言い紛らし、言を左右していた。
 永禄8年5月19日、「清水詣に行く」と称して、三好義重は、早朝から兵を集め、則ち、その諸勢が、殿中へ乱入した。足利義輝は、ビックリ仰天なされたが、こうなっては是非も無い(仕方がない)。数度(すうたび)切って出て、斬り崩し、多くの敵に傷を負わせた。公方様(将軍・足利義輝)は、このように奮戦したが、敵は多勢であるので叶わず、御殿(二条御所)に火を放ち、遂に御自害された。
 三好義重は、三番目の御舎弟(前将軍・足利義晴の三男)・鹿苑院殿(照山周暠)へも平田和泉守を討っ手に差し向けたので、鹿苑院殿(照山周暠)は、仝刻(同刻、同じ時間)に御生害(自害)された。鹿苑院殿(照山周暠)の御伴衆が悉く逃散した中で、日頃から目を懸けられていた濃屋小四郎は、未だ若年15、6歳であったが、討っ手の大将・平田和泉守を斬り殺し、御相伴(追腹)した。彼の高名は比類無いものである。
 誠に御当家(将軍足利家)の破滅は、天下万民の愁歎(悲しみ)、これに過ぎるものはないと言う。)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920322/85


 「足利政権」とは名ばかりで、足利義輝は、京から朽木に追い出され、足利義輝には「永禄」への改元が知らされていなかった。改元は、将軍が天皇に申し出る習わしになっていたが、足利義輝が京にいなかったので、代わりに三好長慶が行った。これはもう、実質的には、天下人・三好長慶による「三好政権」の樹立である。
 後に三好長慶と足利義輝は和解し、足利義輝が京に戻ると、 永禄7年7月4日、三好長慶が亡くなった。三好長慶は、亡くなる前に「今、私が死んだ事が広まると、天下が乱れる。死んだ事を2年間秘匿せよ」と告げたという。
 実際に葬式が行われたのは、遺言通りの永禄9年であるが、三好長慶の死は、数ヶ月後にはバレてしまったようで、三好長慶という邪魔者がいなくなった将軍・足利義輝と、三好長慶という主君がいなくなった松永久秀がグングン台頭してきた。この時期の三好宗家の宗主は、三好長慶の嫡男・義興ではない。実は三好義興は、 既に永禄6年8月25日に病死しており、三好宗家の宗主には、三好長慶の養子の三好義重が就任していた。三好義重は、「このまま将軍・足利義輝が力をつけていくと、三好一族は復讐される」と感じ、「二条御所が完成する前に討たねば」と考え、「清水寺に参詣に行く」と嘘を言って兵を集め、二条御所を急襲し、将軍・足利義輝を自害(切腹)に追い込んだ。大軍を見て死を覚悟した足利義輝は、酒宴を催し、上臈女房の小袖に辞世を書き残している。

 ──五月雨は露か涙かほととぎす わが名をあげよ雲の上まで

※『続応仁後記』(巻第8)「室町御所合戦大樹御最後事」
寄手は多勢。御所は無勢、九牛の一毛対用すべき様無れば、公方家、頓而思召切り、「御最期の御酒宴有べし」とて宗徒の者共を御前え召され、御盃を下されけるに、細川宮内少輔隆、是ハ御前に侍ける上臈女房の小袖を取て、頭にかぶり、つと起て、一差舞ぬ。公方家、是を御覧じて、「最期の舞程有て、一入出来たり」と御笑有ける。加様に皆人わるびれたる色なければ、公方家、御快御気色にて、御硯を取寄せられ、上臈女房袖上に御辞世の御詠を書留給ふ。其歌に云く、
  五月雨は露か涙か郭公 我が名をあげよ雲の上まで
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3431170/430
※『永禄記』
一大事と存之処に、御館四方に、深溝、高塁、長関、堅固の御造作たり。然といへども、未御門扉已下、不首尾之已前を急いで、御所巻に及ぶべき事、彼一類調談を極め、永禄八年五月十九日、清水参詣と号し、早朝より人数を寄せ、其時に当て、公方様へ訴訟有由申し触れて、三好、訴状を捧て、条々御点を申し請ける。其の間に御構へ人数を入者也。御母・慶寿院殿、御女義たるによりて、訴訟叶へ給ふにおゐては、公方様御恙有べからずと思召て、御点は如何様にも加へ給ふべきよし、啼くどき御意見様々御申さりともの御心中の程察し奉りて、見る人、聞く者、袖を温す計りなり。
 是非の御使の伺公退出に時刻を移し、御土居四方に入り渡て、即ち、鉄砲を放ち、殿中に乱れ入らんとす。則ち、禦(ふせ)ぎ戦ひ、手を砕く諸侯数百人たり。中にも進士美作守は唯今の御使也。色々方便を廻せし事を「不覚也」と憤て自害せしむ。御同朋・福阿弥は、鎌鑓にて相ひ戦ふ。則ち、此の鑓にかゝれる者、数十人。御前は御最後の御盃を下さる。細川宮内少輔は、御前にさぶらはるゝ女中衆、御衣を覆てたち舞体、優にしてをくれたる色なし。
 さて御所様は御前に利剣を数多くたてをかれ、度々取り替て切り崩せ給ふ。御勢に恐怖し、半ば向ひ奉る者なし。然らば御太刀を拋(なげ)て、諸卒にとらさしむる御体にて、重ねて御手にかゝるもの数輩也。近習、心ざし有ほどの族(やから)は、御先に進みて、悉く討ち死にす。残れるは女房衆、幼稚の類(たぐひ)迄なり。御一所と成て、幾千万の軍兵に戦せ給ふ事、項羽十万騎兵、僅に廿八騎に討ち漏らされて、漢軍百万余騎を掛破て、大将三人の首取りて鋒に貫し類とも申すべき候。
 鹿苑寺殿へは平田和泉といふ者、差し向かふ。同刻御生害。御供衆、悉く逝去といへ共、其の中に、日来、御目をかけられし美濃屋小四郎、若年たりしが、即座に平田を討てけり。其の身、卑賤たりといへども、名を後代に残す者なり。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879780/256


 また、三好義重は、将軍・足利義輝(天文5年3月生まれの30歳)を亡きものとするだけではなく、次の将軍候補である1つ年下の興福寺一乗院門跡の覚慶(天文6年11月生まれの29歳)や、まだ若い相国寺塔頭鹿苑院の周暠(天文18年生まれの17歳)も殺害しようとした(足利将軍家を滅ぼそうとした)。京にいた周暠は、三好配下の平田和泉守が討ったが、大和国にいた覚慶は、松永久秀が幽閉(保護?)した。
 興味深いことは、京に居座った将軍殺しの大罪人である三好義重を誰も討とうとしなかったことである。ただ、周暠を討った平田和泉守は、上京小川の住人・美濃屋常哲の子・美濃屋小四郎(天文19年生まれの16歳)が討って追腹(殉死)した。京には、
 ──滾(たぎ)りたる泉といへどみの亀が ただ一口に飲み干しぞする
という落首が書かれた落札が立ったという。(「泉」は平田和泉守の「和泉」、「みの亀(蓑亀、緑毛亀、緑藻亀)」の「みの」は美濃屋小四郎の「美濃」を掛ける。)
※河村与一郎編『撃剣名家豪雄言行録』「美濃屋小四郎伝」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777857/31

 この「永禄の乱」では、多くの奉公衆が討ち死にした。諸大名と将軍との訴訟の取次役を務めていた進士晴舎に注目してみたい。

進士晴舎┬進士藤延(明智光秀?)
    └小侍従(妹妻木?)
      ‖─義高(後の天誉。明智光慶?)
足利義晴┬義輝(30歳)
    ├覚慶(29歳)
    └周暠(17歳)

 明智光秀の正体は、進士晴舎の長男・進士藤延で、明智光秀の「妹妻木」の正体が進士晴舎の娘・小侍従、小侍従と足利義輝の子が明智光慶だとする説がある。面白い説ではあるが、「永禄の変」で、進士晴舎は敵の侵入を許したことを詫びて御前で切腹し、進士藤延は討ち死にし、側室・小侍従は足利義輝の子を身ごもっていたので殺害され、足利義高は出家していることから、この説は、明智光秀が、山崎合戦の後、生き延びて天海になった可能性よりも低い。
 ただ、進士氏に注目したことは、的から外れたといえども、的に近いかも知れない。『山岸系図』には、進士晴舎の弟・進士光秀(晴舎が長男、光秀が四男)が明智家の養子になり、「明智光秀」と名乗ったとある。(安国寺の寺宝で、門外不出にして他言無用の『山岸系図』では、この明智光秀の正体が書かれたページだけが、なぜか、何者かによって抜き取られている。知られてはならない真実だからであろうか。)
 また、別説では、進士光信(明智光綱の弟で、明智光安の兄。進士氏に養子に出された)の子が明智光秀で、進士光信は、京都から美濃国揖斐郡桂郷谷汲村に移って山岸光信と名乗ったという。(『明智系図』を書いた僧・玄琳は、兄・山岸光秀と妹・山岸千草の子で、美濃国可児郡山岸村(岐阜県可児市広見)の山岸屋敷で生まれたが、両親が兄妹では世間体が悪いので、山岸千草が連れて出て、美濃国不破郡多羅郷(岐阜県大垣市上石津多良地区)でひっそりと育てたという。多羅郷は、土岐島田氏(後に明智定政(土岐定政)を輩出した菅沼氏)の領知である。)

■政変「永禄の変」の真実


 政変(クーデター)「永禄の変」とは、「三好義重が、三好長慶が死んで力を付けてきた将軍・足利義輝が、このままでは三好一族を排除するのではないかと危惧した三好一族が、三好義重を中心に、先手を打って足利義輝を他国へ排除しようとしたが、足利義輝が反抗したので、剣を交えることになってしまい、最終的には足利義輝が自害した政変」だというが、異説もある。

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