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親のファシズム・子のアナキズム【番外編】「不登校と社会学」>

◼️番外編

 親のファシズム・子のアナキズムでスタートしたはずでした。そもそもは、政治思想の視点を家庭思創に適用してたのですけど、思いの外、風呂敷が広がってしまいました。心理学ぐらいなら範囲かなと思ってたら、社会学やら倫理・道徳、コミュニケーション手法など・・・いやー、ファシズムもアナキズムも視点取得数が半端なくありますね。オープンAI、Youtube、図書館が連鎖を加速させていくので、拡散は追い風ブンブンです。しかし、どうやって収束するかは心許なくなってきました。やっちまった感が満載でございます。

 もちろん、いい話もあります。シーズン1に追記したいような新たな知見も、あちらからこちらから出てくるところもあって、「もしかして、不登校って知恵の泉の底の栓なのか?」って思うほどです。いや、泉ではないな。もっとどろっとしたやつです。沼だね。
 で、「すみません〜、娘の落とし物を探してたら栓抜いちゃって、沼底が見えてきちゃいました。ええ、すぐに元に戻せると思います〜」とか嘯(うそぶい)た父のブログがこれ、ってところでしょうかね。現場の学びは粘着度が高いので、一つだけ取り出すってことができないのが特徴なのだ。

さて、拡散していく部分の中に、これはこれでちょっと突っ込んでおきたいな、というものがありまして、今回は番外編として、一旦、沼の淵から棒で泥をかき混ぜてみます。


◼️社会的想像力を不登校に適用してみる

なんでこんな展開になったかというと、前回の準備①で眺めたカテゴリー・エラーの話がきっかけになっています。オープンAIから社会システム論との関係を示唆されたので、本当かあ?、といった与太者のノリで周辺をうろうろしてみたら、ミルズの「社会的想像力」(C.Wright Mills:1959原著、2017新訳)という概念に出会ったのでした。意味は、社会学を周囲の環境との関係から、課題と課題の解決までを範囲に考え、社会的な影響を視野に入れる思考、だと解釈してます。

・「生活圏における私的問題」と「社会構造における公的問題」との区分

・多くの個人的生活圏における変化を理解するためには、それらを超えてものを見る必要性

「社会的造像力」C・W・ミルズ
 

この社会の課題をその所属している環境範囲で考えるのではなく、その環境の外もセットで考えていこうという話は、「カテゴリー・エラーについて社会学は見てみぬふりをしている」という批判にも読めました。ここが小生の感動したところでした。

 やや話は脱線します。現在は専門分野へ分化が激しくて、その道の玄人たちはカテゴリー内での最適解には固執するものの、カテゴリーの外で起きている課題には無関心が基本の構えになってしまってます。だから、自分の無関心さを正当化するための自己責任論が横行するのかな?って、思っております。自称専門家が自戒を込めて。そして、社会的想像力にプラスしたいのが、社会システム理論です。とはいえ、システムの定義も人のよって異なります。ここでの大筋の押さえとしては・・・。

システムとは、複数の要素が互いに相手の同一性を保持するための前提を供給し、相互に依存し合うことで形成されるループである。

社会学者 ニクラス・ルーマン

難しい言い回しなので、ほぐしますね。この「相互の同一性の維持・・・前提」って、お互いにこうなってる状態がいいよねという想定が合意されているってことです。変わらないパターンが大切なんですな
もう一つがループです。相互に依存するループは単体では反復することが想定されています。これも変わらないパターンが期待されてます。システムを使う人々の合言葉は「いつものやつ、お願い」です。

システムが便利だけどヤバイ存在なのは、一度でもシステムが完成してしまうと、システム自体が万物流転に抗ってしまう傾向があるんですね。まあ、当たり前ですけど、システムの中にいる人々は、自分でシステム自体を改廃できないってことなのです。
 問題は2つ。改廃のタイミングと改廃の範囲です。不具合が出てくれば改善しましょうは、全員合意です。あとは「いつやるの?、どこまでやるの?」ってことですな。
 ところがです。いつのタイミングで、どこまでの範囲までを改善すればいいのかは、システムに依存していればしているほど、わかりません。
 マトリューシュカのようにシステムは他のシステムと、もう一つ大きなシステムを組んでいるので、例えば、義務教育をカリキュラム変更するならシステム内の話で簡単なのですが、学校制度全体を変える、公共の教育修学パターンを変えるとなるとおおごとです。他にはホロン構造とかフラクタルなんてカタカナが豊富な領域の話です。

※余談:カタカナ用語が多いのは、その辺りの知識群が地に足がついてない証左なのです。(コンサル経験者談)

 つまり、どんなシステムでも依存度合いが高いものほど、変容させるのは大変なんですよ。おまけに、みんな何かしらの専門担当だから、それ以外の話にまで首突っ込んで作業するのってメンドーなんです。で、変わらないし、課題は大きくなり深刻さを増す・・・。


 

◼️不登校を社会システムで再考する

ここから番外編の本番。

図表26

 前回は、「自立ー依存」で個人と集団(子供と家庭)の表を作成し、そこから不登校という課題がやや複雑な構造をしていることを試考しました。図表26の赤い矢印が斜め線の襷(たすき)掛けになっているのは、「子供ー家庭の括り」と、「自立ー依存の括り」の2つのカテゴリーを跨いでいるために起きる複雑さでした。
 外伝では、この複雑さが生む対処のバリエーション、メンドーくささの源泉となっているカテゴリー・エラーについて図表27にある見取り図で押し込んでみます。

図表27

まずは図の全体解説です。

社会システム理論では、この社会の中で、複雑さ眺める2つの視点があります。社会化と安定化です。(社会学者:タルコット・パーソンズ)


・社会化:人が社会によりよく適応していくステップです。子供が学校で学ぶことの前提には、求められる社会人像があって逆算されています。社会化とはゼロ(赤ちゃん)から100(社会人)までに「こんな感じで成人していく」という共有されるイメージがあるわけです。成人モデルですね。成人モデルの部分を切り取って、学業にセットしているのが学校制度です。

・安定化:これは原則、将来ずーっと続くようになっています。社会制度として繰り返し回ることで、次々とやってくる社会人予備者である子供達に社会化していくための学業を提供し続ける仕組みです。期間ごとの(小学校6年、中学校3年のような)ループになっています。


この2視点で「自立ー依存」を眺めてみます。不登校という課題に2方向の視点が重なってきます。最終的に救いたいのは不登校の子供、そして、その子が旧来の学校制度から健全な独立ができる世界です。


◼️発達モデルと自立


まず黄色い枠、社会化の機能視点です。学校、特に義務教育では成人モデルが組まれていて、特定の平均学業の習得モデルがあります。これがあるおかげで学習指導要領なんかも全国一律に運用できるわけですな。生命保険の人生モデルプランのような平均値中心の組み立てです。
 しかし、今の不登校は、この学びの発達モデルを一律、直線的のままにしてきたことに「依存したければ発達モデルに合わせてね」みたいな、モデル設定の平均値から離れている子供にとっては辛い状況を作っています。自立を阻害してしまってるために、結果、不登校になってしまう流れです。
 もちろん、このグレーゾーンの子供達はもっとたくさんいるでしょう。今日もなんとか学校にだけは通いました、私はいい子ができました達の子供です。不登校が氷山なら、不具合を抱える子供達もこのままだと増え続けることが予想されます。
 で、不登校の課題に取り組もうとする時・・・

① 学びに関する発達モデルはそのままでいくか?

② 学びに関する発達モデルを変更するか?

・・・という大きな分岐があります。(2)は複数モデルが予想されて複雑になり、大変だが、(1)のままだとまずます時代遅れが予想されて、また、発達モデル再考の声が高まる

次に緑の枠、社会制度による安定の視点です。社会の中での学校制度をどうするかという課題です。集合教育の学校も、ネット社会への移行を考えると、システムとしての学校はこのままでいいかどうかも疑問です。また、少子化の中で、学校の改廃があり、かつ、教育で求められる内容が日進月歩なのに、教員制度はそこに対応できる自己変容のシステムになっていない、などなど。

③ 学校制度という社会システムはそのままでいくか?

④ 学校制度という社会システムを変更するか?

発達モデルと社会制度それぞれの2選択が組み合わさるので・・・合計4つの掛け算パターンが想定できます。

・①X③:どちらもこのまま→今までこうだった=選択外

・①X④:発達モデルそのままに社会制度を変更する=多種の教育システムで不登校に対応する。フリースクールや引きこもりなどを包含した新しい教育制度の創出→義務学校という単語が消え、新しい学業の支援形態が導入

・②X③:社会制度そのままに発達モデルを変更する=不登校の新たなグルーピング化と、時系列での成人化を世間的に共有→不登校という単語が消え、新しいタイプ別の学業選択が導入

・②X④:発達モデルと教育制度のシステムの同時変更=従来の①X③の現状維持を全面否定した次世代への教育=理想

あくまでも小生による整理

 並べてみると、①X③は現状のままなので外すとして、理想論としては一番最後の②X④で「教育は変わるべき論」です。
 気分的にはいいのですが、「いつになったら実装が始まるの?」と危惧される抽象論横行の選択肢です。むしろ、ほとんどの議論がここに吸収されちゃうんですよね。「・・・べきだ」で会議が終わって、また次回の会議みたいな。
 
 社会的想像力を発揮するとは、たぶん、①X④、②X③の2つを設定し、この2つを独立したものとして、混ぜないようにするアプローチだと思う。

 つまり、理想の②X④を意識的に避けることが実装のポイントってことではないでしょうか。なぜなら、理想負けして次の一歩が踏み出せなかったから、今に至っているからです。この辺がツールとしての社会的想像力の眼力ではないでしょうか。小生も書いてみないと気づけませんでした。
 話を進めると、発達モデル先行型の活動(①X④)と、社会システム変更型の活動(②X③)をそれぞれスモールスケールで実装していくのが手筋と考えます。(フェーズ1)そして、実装現場からのフィードバックによって、避けていた理想(②X④)を目指し始める、または、ここでやっと抽象度が高かった理想(②X④)のお姿が見える化するのだろう。(フェーズ2)


◼️<応用編>子供の貧困問題にまで社会的想像力を広げてみる

「社会的想像力+社会システム論」が提供する視点は、家庭現場の課題取り組みにも解像度を上げてくれました。

 せっかくなので、もう一つの問いも同じ手続きで考えてみようと思います。もし、図表27型の黄枠・緑枠でアプローチする方法がより汎用性を持っているなら、他の課題でもヒントを与えてくれると思えるからです。


図表28



 図表28には緑色の襷掛けの矢印があります。これが子供の貧困問題を「自立ー依存」と「個人ー集団」で関係図にしてみたものです。重視したいのが、不登校の課題の対称形(赤と緑)になっているが印象的です。

これって、言葉にすると・・・

・「社会制度が想定している平均像に子供達全員を近づけようとしたことから発生する不具合」=子供による不登校問題

・「社会制度が想定している平均像に子供達全員が近いはずだとしたことから発生する不具合」=子供にとっての貧困格差問題

小生策定の「問題の構造が同等」

・・・と対称的にするだけで、それぞれの言い換えが同じ構文でできるということです。

つまり、「自立ー依存」の場で眺めると、子供の不登校問題と、子供の貧困問題の構造は同じなのです。どちらも平均像という単語、簡潔にいうと「みんなと同じ」が入っていることで文章が成立するのが印象的ですなあ。
前回も言いましたが、不登校って経済格差による貧困家庭の問題と同等なのだ、とも読めます。これって不登校が増加することの「やっかいさ」を示していると思うんですよ。

 さて、図表29に黄枠・緑枠を載せたものがあります。先の図表27の「学校制度(校舎のアイコン)と不登校の子供当事者」に対峙するものとして、「家庭運営(家のアイコン)と貧困問題の子供当事者」としてみました。家庭運営は工夫してみた単語です。単に家庭だけでもいいのですが、親の収入から発生する問題でありながら、その結果として、親子の時間不足や学習のための投資不足などで影響が出ている部分に焦点を当てて、強調した意味合いです。

 この家庭運営は、基本的には自治体が各家庭にお任せしてます。なので、自立が大前提(家のアイコン)になっているのが家庭運営です。しかし、子供への貧困問題の影響が顕在化してきています。こうなると、「それは集団の自立の話」で賄(まかな)える問題ではなくなってきています。 
  じゃあ、家庭の所得問題に還元できるかというと、どうもそう簡単ではなさそうなのです。親は子供にお金を回すだろう、という確実なものかどうか怪しいからです。
 そうなると、子供の話と、この家庭運営の話は別なのに、一つにまとまって扱いを考えないと、前に進みそうもない問題なのだと思う必要がありますね。このまま直接解決しようとすると、カテゴリー・エラーをしてしまうパターンじゃないですか。 なので、直接の解決が難しくなってるなら、社会的想像力が求めらます。(いや、これは試考ではなく、心底そう思ってます)

では、不登校の問題の組み立てと同じように展開したのが図表29ですけど、あくまでも、これは展開の一つの事例です。社会的想像力は、想像する人の知見に左右されるので、このツールも人々との課題拡張のための叩き台に役立つものであって、理を詰めれば解決策が出てくることはないでしょう。

図表29

 では、もう一度図表29について、小生の展開した流れを解説します。まずは、不登校問題と同じ構造と仮定してみます。目的を併記してみますね。


<不登校>最終的に救いたいのは不登校の子供、そして、その子が学校制度から個人の健やかな自立ができる世界です。

<貧困問題>最終的に救いたいのは家庭の貧困の影響を受けている子供、そして、その子が社会制度に個人の望ましい依存ができる世界です。

 そうなると図表の方は、社会化の機能の視点、社会制度による安定の視点の両方から、黄色い枠と緑の枠が設定されます。不登校の話とは構造は同じでも、絵柄の位置が真逆ですね。今度は適正な依存に近づくことが目的だからです(不登校は適正な自立に近づくこと)

てみると、社会化の方に課題があると思われます。なぜか? 学業は成人になるという年齢に沿ったイメージが沸くのですが、望ましい経済的豊かさはどこにモデルを持てばいいのか不明瞭です。平均世帯収入?、子供の食生活レベル?・・・たくさんあるような、それでいて、子供の貧困=不公平感を感じる目安がモヤッとしてます。

、このあたりが社会制度では、まだ子供の貧困問題をメッシュを粗くしてるとも解釈できそうです。家庭の収入格差と、子供の望ましい生活が一本で繋がってない感覚です。
 するとですよ、どうしても「この人は助けてと声をあげているから対応します。ですから、声をあげてもらわないと分かりません」みたいな、個別対応に近い貧困解決になってしまうのではないでしょうか。隠れた部分が多いとでも言いましょうか・・・。
 子供食堂とかを見ると、どうしてもこの隠れた部分を、多くの人々が見えるようにしたいと願ってます。

先述したように、この話はあくまでも社会想像力のツールとしての試考です。よって、軽く「こうすべき」とは申し上げる気はありません。

 でも、もし小生だったら・・・

 家庭運営モデル(赤字部分)の構築から入りますね。まず、「子供の貧困さ」と紐付きされた「家庭運営の内容」でグルーピングします。グルーピングのための当事者の申請、第三者からの客観的な観察が一致するてめのモデルへの入り口を決めます。そして、グループ間の移動によって、貧困さの軽減度合いに応じた制度設定になります。「家庭への依存サポート→子供個人へのサポート→ステップアップしながら家庭運営の自立へ」みたいな仕組みです。もちろん、ベータ版の家庭運営モデルの構築からスタートして、②X④の理想案を小さくしながら試行錯誤する。

・・・まあ、小生の社会想像力はこの程度ではありますが、ツールによる解像度の上がり具合は実感できますね。

ということで、番外編終了。次回が本線に戻るかどうかは、誰にもわからない

Go with the flow.


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