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親のファシズム・子のアナキズム<その3>家庭の民主主義

◼️家庭の「手段の目的化」こそ親ファシズムのコア

親のファシズム・子のアナキズムの第3回です。ここからは親のファシズム、「望んでないけど、どうしてもそうなってしまうのは何故か?」を考えていきます。


図表30


 「・・・しなさい」「・・・・は、だめ」といった手段の指示には、「このためには、・・・・しなさい」「こういう意味があるから、・・・は、だめ」みなたいな目的らしきものが背景にセットになってます。ですから、親はいつでも、子供からの「なんで?」に答えることができます。その先には、「勉強しなさい」は「将来、いい学校にいけるように、勉強しなさい」、「ゲームは30分以上はダメ」は「ゲームばかりやっていると、体を動かさなくなるから、30分でやめなさい」みたいなもう一つ上位らしき目的とセットに語れます。
 しかし、それって目的なのか、それとも、その場の親の信念が反映されただけのものではないのか? 

 いや、100歩譲って目的だとしても、もっと大きな目的がありますよね。「いい学校の目的は、いい職業に就ける、いい職業の目的はいい収入を得られる、いい収入はいい生活が得られる」、で、「いい生活って何?」「うーん、勉強しないで済むよ」となり、落語のオチ化するのです。
 せっかくなので、「健康な体になれば、長生きできる、長生きできれば、多くの時間を楽しめる」、で、「楽しめるって何?」、「ゲーム三昧できるよ」、お後がよろしいようで。

 つまり、目的って手段と入れ子状態になってたりするので、玉ねぎの皮みたいに切りのない話になってるんですね。一応、親も目的を語ってみてますけど、その根っこは怪しいってことなのです。
 でもいいたいのは「怪しさ」ではないのです。だって、いままで大まかにでも上記のような親の小言で家庭は成立してきてたんですね。あなたも昔、子供として。 でも、「しょーがないな」の範囲内で収まって今日までこれた気がします。


◼️<家庭の目的>を<家庭の手段>が代替できなくなってきた


 図表30の⑴が今回のお題です。家庭の目的をを家庭の手段が代替して、家庭の目的をボやーっとしたまま回していたら、時代は変わって、不具合が発生してきたってことを語ります。ちなみに、⑵、⑶、⑷まで続く予定です。(長くなりそうだ、遠い目)

 きっかけは娘の不登校なので、「学校いかないのまずいじゃん」という思いが小生のブログ全般の起点でした。手段の目的化で言うなら、「学校に行く目的って何?」にストレートで答えられない自分がいたからです。でもって、何でかな? となり、深呼吸して考え直してみると、どうも小生の子供の頃とは周りの世界の様子が違うのです。
 そもそもの家庭の目的がおざなりだったのを、手段の目的化で帳尻を合わせて何とかなったのが昭和世界だったのです。にっちもさっちも立ち行かなくなってきているのが、今日この頃。

目的として定められたある事柄を追求するためには、効果的でありさえすれば、すべての手段が許され、正当化される。(アンナ・ハーレント)

そもそも目的という概念に、手段を正当化させる要素をが入っている(國分功一郎)

「目的への抵抗」國分功一郎

ハンナ・アーレントは国家の政治についての手段を語ってます。これを家庭のところまで持ってくると・・・、「家庭も手段の目的化だけで回っている」ってことかな。そんでもって、子供の自立と依存の期間を何とか上手くやり過ごそうとしていてる。まあ、それでもいいんですよ、上手くいってるなら。
 しかし、環境は大きく変わっているわけです。子供から見える親のファシズム、親から見る子供のアナキズムは、この行き詰まりへの強いシグナルではないだろうか、と考えてみるわけです。


◼️<社会的想像力>を使って、親子の民主主義からも眺めてみよう


さて、こっからが今回のメインでございます。親子での統治単位が家庭なら、国も同じく統治単位なので、一回ズームアウトしてみて、そこから家庭を眺め直してみようという算段です。
 社会的想像力を使ってカテゴリー越境(国家統治から家庭統治、そして、その逆)をしてみます。
 

まずは、国家政治とイデオロギーについてなんですが、そんな大きな単語群を扱うのは重すぎます。 なので、民主主義から入りますね。民主主義って、そもそもの望ましい家庭統治と親和性が高そうだからです。 
 民主主義は定義も意味設定もバリエーション多彩でなので、あくまでも、家庭統治に収束する範囲で考えてみます。また、民主主義を他の主義と比較する形で眺めてみます。なぜかというと、最終的には、子のアナキズムと親のファシズムとの話の陸続きを期待しているからです。

多くのイデオロギーは「自由ー平等」と「個人重視ー集団重視」で特徴を生み出します。とても全部の主義主張を扱えないので、主要なもので二軸を組んでみました。4極ができるので、それぞれに、自由主義(リベラリズム)、人権主義(ヒューマニズム)、資本主義(キャピタリズム)、社会主義(ソーシャリズム)を置いてみます。ここら辺はすべてイズム(ism)がつきます。
 そして、中央の民主主義の漢字名称には主義がついてますが、英語だとデモクラシーですから、イズム(ism)群とはやや様相が異なります。
 

図表31

 

 この図表31には、いくつか圧縮するための大前提があります。

・民主主義は主義ではなく運動であり、意思決定の進め方のスタイルだと解釈してみます。ですから、主義主張に重ねても問題がないものとしてます。

・民主主義は、「自由ー平等」「個人重視ー集団重視」にかかわらず、その都度、最適な行動の選択ができる、図表の中央にある状態としました。(中央の円形は大きくもできるし、小さくもなれるってことです)

・適時、4極にある考え方を、民主主義は採択することができます。そして、集団(ここでは家庭)としての行動選択の良し悪しを判断する時に、4つの極が民主主義の位置がどこにいそうかの物差しにもなります。

・押さえておきたいのは、これは抽象化した民主主義の外側からの目線だということです。頑強に見えますけど、中のメンバーからの眺めは異なります。民主主義の現実はやや頼りないものです。以下参照

民主主義という政治体制は、統治の中の非常に限定された役割のみを、その市民に与えている。市民は周期的に選挙の際に投票する権利を持っており、何らかの重大な憲法上の問題が決定されなければならない時、国民投票という形でたまたま意見を聞かれる時があり、自分に関係する問題について自らの代表者に働きかける団体を形成することを許されているが、これが市民の権威の限界なのだ

「はじめての政治哲学」デヴィッド・ミラー

 しかし、集団も個人もどのような行動選択をしても、必ず良い点と悪い点があります。正解はないのです。でも、健全な民主主義では常に修正が起きます。悪い点の累積からくる社会的な不具合を和らげるのです。「ましな」システムとも言えます。折り合いの手法ですな。
 むしろ、気をつけたいのは、家庭に置き換えてみたなら、「子供に与えられている権威の限界」がある部分は民主主義だが、代表者である親は選挙無しに選ばれている点では民主主義ですらないのです。親ガチャの発想の原点です。「だから、親のファシズムは不可避なのだ」とは言えないけど、その土壌はあるね。

 ファシズムもアナキズムも主義(ism)の形で表現されてますけど、運動が主体なところがあります。ここは民主主義と同じですから、同じ階層にいる同じカテゴリーなんですな。
 破壊によって集団と個人をまとめようとするのがファシズムで、離脱によって集団と個人をバラバラにしようとするのがアナキズムって感じです。
 だから、ファシズムでは、反体制への破壊が終わっても破壊が続くので、ファシズムは内部闘争で自己崩壊します。アナキズムでは、体制からバラバラになっても離脱が続くので、アナキストは内面の孤独に苛まれます。これまた自己崩壊します。最終的にはいいことがないのです。人類は高い授業料を払ってきました。「相手がそうなら、自分はこうだ」的な敵対関係を想定して舞い上がっていく姿は、今日もどこかで小さなスケールで行われてるのです。いかめしいカタカナ用語も端的に言うと、「人を呪わば穴二つ」。

では、民主主義に頼ることで、親は子供から破壊者のように見える姿を変えることができるでしょうか? 選挙無しで選ばれてしまった代表者である親の民主主義的な振る舞いは何でしょうか?

先のデヴィッド・ミラーは多数派と少数派に分けて、民主主義の最低限の振る舞いを説明しています。

・民主主義では、最終的な決定に至る前に少数派の関心を多数派が適切にいれることの保証に努めなければならない

①市民仲間への敬意のため
②自分が少数派になるときの配慮のため

結局、民主主義とは骨の折れる作業なのである

「はじめての政治哲学」デヴィッド・ミラー


なんかこの身も蓋も無い押さえ方が好きです。つまり、民主主義ってめんどくさいのだ、めんどくささを避けたら、民主主義ではなくなるってことですな。

そして、<Whole parents>ではもう一つ③を想定します! 
 
ここは小生の一貫した家族への主張なのですが、それは相互変容の機会創出のためです。親の言うことを聞いていればいい、という態度は、親が自分の古い信念を変える機会を手放すことを意味すると思うのです。親の親が持っていた家族生活への信念の継承「私もそうだったから、子供はかくあるべし」、または、反面教師としての親への、これまた逆バイアスがかかった信念が作る「私のようにならないために、子供はかくあるべし」を、そのままにしてしまうのは、信念の中心不動です。下手すると家族の伝統となってしまう信念の再強化さえあり得ます。 
 親でなく、大人の一人として人生での成長には、今までの自分のものの見方が揺らぐ必要があります。「そもそも、この『かくあるべし』はどこからきてるのだろう?」という立ち止まり感です。
 個人の発達理論が理論から一歩踏み出すためには、生活の現場で発生する信念のゆらぎ体験が必須なのです。それは親子関係がなくてもある話ですけど、親子関係はこの「ゆらぎ」の豊かな発生装置だと考えることができます。ならば、成人の発達のブーストをかける貴重な称号がトーチャンであり、カーチャンと言えます。

①相手への敬意の伝達
②自分が少数派になる時の配慮
③相互変容の機会

この3つの要点が、民主主義的な対話のめんどくささの意義であり、「家庭の民主主義」から受け取れる対価です。そして、ここまで来れば、相変わらず目的がボワーっとしたまま、「いつかは終わるだろう」的な期間限定である家庭でさえ、手段が目的化したとしても大まかな健全さは担保できるだろう、と言えそうなのです。
 そう、手段の目的化が避けられない前提を気にしなくていいのです。親子にとって毎日を意味深くできるポイントが、3つの条件を揃えた対話なのだ、ってね。


◼️風雲急を告げる家庭民主主義

 家庭の民主主義の基本の骨組みの話から、現場の話に移ります。すでに、穏やかな家庭の「さあ、じっくりと対話しましょう」なーんておっとり構える民主主義はありません。すでに朝から生活は多忙なのです。親子の対話は常に暴風圏内にあるのです。たまに穏やかな時があるけど、永遠じゃなくて、凪だよ。ですから、理想の対話(前述の3条件)に対して、忌避したい対話もあるはずなので、そこを探ってみます。まずは、ヤバそうな対話を意識できれば、民主主義の一歩にはなるはずです。

 

図表32


 図表32には、図表31の4隅について、より強度を増した主義主張を置いてみたものです。ネオリベは経済格差と自己責任論を産み、グローバリズムは過剰競争社会を産み、ポストモダンは相対主義によってニヒリズムを産み、ポピュリズムは嫌X活動(Xは都度変わる)を産み、少数派への配慮?なにそれ?状態へ向かう
 どれもこれも対話は効率論で否定的になっていきます。なぜなら話し合いの結果は見えているから。行動する前に批判で始まり、関心の範囲を狭めて無関心を広げる・・・、まあ、小生の人生の振る舞いとも重なっている部分もあるので、語気強めると自責が疼きます。
 めんどうくささを肯定する親子の民主主義も無理ゲーなのか?

・新自由主義(ネオリベ)的な親:過剰な経済重視へ。世界はお金でできている。「稼げるようになることが最重要。子供の将来を考えると、超有名大学か、国立の医学部で決まり」みたいなやつ。何かの雑誌の特集みたいw

・グローバリズム的な親:過剰な競争重視へ。世界は競争でできている。「どうせ競争に巻き込まれるなら、競争に勝つようにするしかない」みたいな、環境への恐れが子供への煽りになっていく。

・ポストモダニズム的な親:過剰な並列へ。世界は何でも価値があり、何でも価値がない。「AもBも同じように大切」にして、その場の出来事をとりあえず収めていく。成功も失敗も同等なので、どんどん親がダブルスタンダードになっていく。

・大衆主義(ポピュリズム)的な親:過剰な多数派への同調へ。世界は主流派によって構成されていて、そこにいれば悪いことは起きないという感覚。「まずは、みんながやっていることをやっておくこと」、学校や社会のシステムに同調することを優先するので、現状の逸脱は不誠実に見える

 現在の風潮を反映した代表的な過剰系の政治思想の家庭への転換です。せちがらさマックスな信念たちです。家庭の民主主義が分断されるのも無理はないですな。
 親子の対話は失われ、子供の行動は速攻で批判に晒され、子供への(時に親への)尊重は無視されていく。でも、そうしないと親子の生活が回っていかない気がしてならないのです。ここにも親の未来への恐怖心があり、恐怖を和らげるために子供の現在を犠牲にすることが肯定されてしまう・・・。「いいから、まずは言うこと聞いて。あなたの話は、その次に聞くから」が展開されて、期せずして親のファシズムらしきものが現れてくるのだった。


◼️まとめ:こんなフレームワークはいかがでしょうか?

「家庭の民主主義」を考え、そこから親の信念(古いかどうかは別)が反映されていそうなフレーズを当てはめてみましょう。まずは、分断前の民主主義がかろうじて維持できそうな範囲。
 民主主義は運動なので、4つのどの方向に向かっても、対話によってまた中央部分に戻ってくることができます。揺れ続けているのは健全だと考えます。
 

図表33

図表33 家庭の民主主義を踏まえて、青字で定番っぽいフレーズで重ねてみました。小生の場合がベースです。ぜひ、あなたのご家庭でも、それぞれに当てはまる対話の気分を思い出してみてください。

・自由主義(リベラリズム)→「好きなことに没頭しよう」

・資本主義(キャピタリズム)→「成功につながる道に進もう」

・人権主義(ヒューマニズム)→「どれもこれも大切にしよう」

・社会主義(ソーシャリズム)→「みんなでやることを大切にしよう」

こうやって並べると、そんなに無茶なことは言ってないです。まあ、あとは相手の尊重度合いなので、子供からの想定外の意見に「ゆらぐ」だけです。「学校行かない」ってのは、資本主義的視点の「成功につながる道を進もう」にゆらぎを与えました。すると、「稼げる」って何だろうねとか、今を犠牲にして将来の投資回収ってあり得るのかな、とかを再考させてくれているわけです。もちろん、そこには対話が必要だし、行動への批評は保留しないとまずい。脊髄反射は厳禁。「おいらは子供の人生を生きているわけではないしな」と思うことでお互いの尊重を促すことにつながっていきます。
 もう一つの社会主義的なゆらぎもあります。「みんなで・・・」を暗黙の前提にしている自分に気づくわけですな。「学校制度の中に、人生の選択肢があるはず」という信念がもつ、「本当にそうなのか?」に気づかされたわけです。

 「生まれてくるのも一人なら、死ぬのも一人なのだ。ならば、学びが一人でないわけがない」ってね。

さて、昨今の世間の流れをみてみますと、家庭の民主主義が分断するところまで行き着きます。どんな親をやっていても起きる可能性があります。対岸の火事ではありません。
 基本、過剰感がポイントになります。赤字で図表34に重ねてみました。特定の主義主張の過剰感こそ、教条主義(これさえすれば、あとはOK)が生まれる源という意味です。過剰感は気がつけない可能性が高い信念です。信じきっちゃってるからね。当然ながら、子供が言うこと聞かないと不快になります。
 先の定番フレーズに、過剰感の単語を付けてみると、その強い気分が味わえます。実際は、もう少し巧妙にして反論を許さない言い方をしているだろうけど。ご自分の定番フレーズにも過剰表現を付けてみましょう。過剰感が必要な気分が出やすい場面は、どの4極の方角でしょうか? 


図表34

・新自由主義(ネオリベ)→「好きなことだけに没頭しよう」

・グローバリズム→「誰よりも成功につながる道に進もう」

・ポストモダニズム→「どれもこれも必ず大切にしよう」

・大衆主義(ポピュリズム)→「みんなでやることを優先して大切にしよう」

一旦、過剰な表現にコミットするとめんどくさいことを奨励する民主主義は分断されやすくなります。コスパやタイパに巻き込まれて、分断前に戻りにくいのです。
 分断した民主主義での対話は簡素になっちゃいます。「まずは・・・してから」といった先手後手がはっきりと宣言されちゃうんですな。子の抵抗がアナキズムに見えるのも無理はないですな。

まとめ終わり。次は、家庭土壌の課題②の予定。あくまでも予定です~

Go with the flow.

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