見出し画像

親のファシズム・子のアナキズム<その4>目的という妄想

◼️家庭の目的がないまま、目的があるように振る舞う家庭

今回は、親子の民主主義へのアプローチの続きです。対話、自主行動、尊重の3種アプローチの二番目、自主行動です。<Whole parents>シーズン2とか言っちゃってここまで来ましたが、かなり散らかっております。

 すぐ終わってしまうのかと思いきや、堀れば掘るほど、奥から金属音が聞こえてくるような展開です(本人以外には不明)

図表21再掲

再掲した図表21の左側にいます。手段の目的化が必然になってしまっている親子の活動フィールドである家庭では、民主主義的な対話による相互変容が肝だね、って話でした。しかし、民主主義的対話は面倒臭いので、せめて、過剰な主義(親の信念)に基づいたセリフには自覚的になりましょう、みなたいなまとめが前回の<その3>だったのです。


図表25再掲

 家庭運営自体は手段なのに目的化してしまいやすいんですね。すると、他の要素をいろいろ変質させてしまいます。「うちのやり方はこれだ!」に親が固執する態度(特定の信念を、感情的なエネルギーを使って家族へ転写)は、必然的にファシズムっぽさが醸しでてきて、一方で、子供にとってはやっかいなので、自動的にアナキズムっぽい態度になります。それを押し切ろうとする親は、より一層のファシズム的な態度(子供の視点からです。親は常に『良かれと思って』ます)に近づくのです。

 自主的な行動(概念ではなく)が親のファシズムと・子のアナキズムの土壌を改善すると思っておりますが、その前に、目的と手段の再整理します。

図表35

図表35では、手段の目的化から、手段の無目的化へという処方を描いています。詳しくはあとで語りますが、まずは、全体の流れです。

家庭って目的を設定できるか?っていうと、「できない」という立ち位置で考えています。一人一人の人生の目的も設定できないで日々を生きていますから、そんな人が集まったところで無理でしょう。よしんば、目的が設定できたとしましょう。その目的は本当に目的と言えるのか?

①人生の目的は未だ分からず。分からなさを生きるのが人生の目的だとも言われますが、なんか禅問答っぽい。確かに「なんで自分は生まれたのか?」とか「わたしゃ何のためにいきとるんじゃ?」みたいな形而上学的な質問は、次の電車に乗らないと間に合わないとか、明日の夕飯はどうするんだ、といった切実な話には、なかなか混ざってきません。せめて、子供が夏休み中はバタバタですから、じっくりモノは混ぜたくないわけですよ。

②人生の目的未決定なモノたちが集ってできたのが家庭。つまり、家庭の目的の話を家庭に持ち込むなっていう状況こそが、切実なんですな。

③そもそも家庭には目的はないし、だからあるフリをしていた。ここは非常に意見の別れることだと思います。目的はない、とは言い過ぎですから。なので、人生の最終目的と直結してるとは言えない、ぐらいな意味です。だって、どんな行為にも目的はあるんです。ワインの栓を開けるのは、ワインを飲むため、でもあり、集まった人々の貴重な一時を豊かにするためとも言えます。例の、玉ねぎの皮がメタファーな無限後退の世界。

④手段の目的化でなんとか回しているのが家庭。玉ねぎの皮(終わりのない手段の層)のようなものが家庭生活の当座の目的であり、剥いて見えてくる目的にも、まだまだその先が限りなくあるのです。ここは開き直って、まずは、「皮が美味しければ今は良しとしましょう!」が、家庭生活の営みの原動力ではないかと宣言してみます。

 さて、①ー④を大前提に考えるとやはり、手段の無目的化しか戻れる場所はなさそうだってことなのです。極論すると、玉ねぎは食べなくてもいいんです。そのまま観賞用にしたって構わないのです。これは眺めるだけの観念論みたいなまとめ方です。
 しかし、日常の営みに反映してこその生活思創としては、ここで終わるわけにもいきません。ここに自主的な行動としての「遊び」が、手段の無目的化のために登場します。
 目的って時間軸に沿って成立します。「ほらほら、あーなっちゃうとか、こーなっちゃうとか、やばくないですか?」のような不安を煽る話は全て目的からの時間的な距離の遠近で話が成立します。目的は手段の前に達成されません。時間的には、手段が先なのです。ということは、手段の無目的化ができれば、民主主義が弱くても、親のファシズム、子のアナキズムをスキップできるってことなのです。(たぶんね)
 ゲームだって、時間的な将来のゴールを目指します。でも、楽しいのはそのプロセス自身ですよね。そうです、行為にお互いのフロー状態(共通の没頭感か?)があれば、別にいつゴールになろうが構わなく、「あー、今日も面白かった」で十分なのです。ここでの「遊び」はそういう意味で使っています。

※フロー:ミハイ・チクセントミハイの「フロー理論」にある、その場への精神的な没入

 ですから、ここでの「遊び」は今に没入できる行為を示します。時間軸からの脱出が、家庭の目的やら手段を回避できる算段(=無目的化)とみなすわけですね。

目的によって開始されつつも目的を超える行為、手段と目的の連関を逃れる活動、それは一言で言うと「遊び」ではないでしょうか。(中略)目的は目的として、(行為)それ自体が楽しみの対象だからです

「目的への抵抗」(國分功一郎)

親子の民主化への細くて頼りない道筋が自主的な行動であり、それがお互いの相互変容の場になりそうな「遊び」だと試考してみよう!、これが今回の結論です(もちろん、いつものように暫定解なのだ)。獣道っぽいけど。

◼️「遊び」に近づくとは、どういうことなのか?

この話を進めるためには、ある程度の枠組みを設定しておく必要があります。「遊び」は概念的にも広すぎるからです。一応、親のファシズム・子のアナキズムと最も距離のある「遊び」となっています。これでも抽象度高すぎなので、言葉を足すなら、お互いが個人(親でもなく子でもなく)としての相互変容を促す場(古い固定的な信念を手放せる機会)であること、が「遊び」の必要条件といえます。

また、親のファシズム・子のアナキズムが目立つ状態にこそ、ここでの「遊び」が該当します。よって、大きく2つの観点から、民主主義の手段の目的化を和らげてくれるであろう「遊び」の範囲を規定してみます。古典どころで、ピアジェとマズローとか。

1)期間的範囲:親子で「遊び」にもお互いが重なる期間がある
2)内容的範囲:家庭生活ならではの「遊び」を推奨できる範囲がある

ということでまずは(1)期間的範囲は子供がベースになるので、ピアジェの発達段階仮説に当てはめてみます。成長の時間軸を4期に分けています。


・感覚運動期:0~2歳頃。身体的な操作や感覚を理解する期間。

・前操作期間:2~7歳頃。物を象徴的に表現し、想像をベースに世界を理解する期間。

・具体的な操作期間: 7~11歳頃。 論理的な操作が可能で、特定的な事象に基づくことで環境を理解する期間。

・形式操作期間: 11 以降。 抽象的な概念や論理的な操作が可能となり、知識を基にして考えることができる状態へ。

ピアジェの子供の発達段階

こうなると、親子の民主主義を意識した「遊び」は「具体的な操作期間:7−11歳」を中心でしょうか。保育園後半ー小学校のイメージ。確かに、前操作期の「子供の遊びってこんな感じだよね」といったステレオタイプで、アンパンマンだのポケモンだのありモノで対応していた時期からは卒業してますね。この具体的操作期は、お互いの主張を前提にオリジナリティのある「遊び」が意味を持つ時期と言えそうです。やっぱり、我が家はど真ん中なのだな。

 引き続き、(2)内容的範囲をマズローの欲求御段階を加工して、試考します。欲求5段階のピラミッドがある図表36を参照してください。中央には親が考える(妄想すると言っても過言ではない)、家庭のボヤッとした目的が鎮座します。大まかに家族全員を括るような欲求段階があるような気がする(共同幻想なので、実はないのだが・・)ことを示しています。


図表36


 右側に、親の自分自身の欲求を満たす個人の欲求段階方向があって、目指す方向は家族のモデルとは異なる。三角が斜め右にシフト。「個人的にはこっちにしたいが、家族はこういう方向だから、今回はこういう行動選択になる。しかたない」みたいなズレ。
 左側は、子供の素の欲求段階。当然ながら、大人としての親の方向とは異なります。その違いを象徴するのが左に傾いた三角形です。家族全体の中央の欲求段階に対しては、「えー、私はそっちじゃないけど、しかたない」みたいな集団への妥協がありそう。
 ポイントは、5段階の階層違いで家庭の関わりが異なりそうな点です。

・<段階1−2>5段階の下2段の生理的&安全に関する欲求では、家庭統治の基本方針に全面的に依存しても、そんなに大きなトラブルは起きません。まさに生活必需階層。
 たしかに、「野菜は嫌い!」とかの個別の話はあるでしょう。「野菜食べないと、食後のデザートはなし!」は権力の行使が垣間見れますが、子供の人生選択に強い影響を与える親の信念とまでは言えません。親のファシズムほどの家庭統治ではないとみなします。
 
・<段階5>また、真逆の最上位にある自己実現欲求はそもそも家庭は関与しません。親の管轄外。個人ごとの向かうポジションが異なりすぎます。
 
・<段階3−4>さて、迷うのが中段2つの、社会的と自己尊重の2つのゾーンです。家庭統治の中に組み込むには無理があるのはのはあります。でも、子供にはこうなって欲しいと言う親としての欲求らしきものがあって、家庭の統治にも影響します。この社会的欲求と、自己尊重欲求の親子の重なりにトラブルが起きそうな感じがするわけです。親のファシズムを子供が感じて、親が子供の態度にアナキズムを感じる地雷源がありそうなのです。


◼️「遊び」を組み立ててみる

 実際には、手段の目的化を意識するような「遊び」(相互変容が期待できるから、個人にとって意味を回収できるような「遊び」)はそんなにありません。でも、一つは必ず設定できそうだと感じてます。そして、それで十分ではないかと。

 なぜなら、「家庭に目的があるように振る舞う」怪しさから「家庭に目的はないけど、家庭生活の手段に託した親子が『ゆらぐ』場がある」に脱却できそうだからです。ただし、語りではなく、家族単位の行動が重要です。ファシズムも・アナキズムも運動であり、それを吸収できる「めんどうくさい」民主主義も運動だからです。ここは、シーズン2を書いてて気付かされた「強調しても、強調しすぎることはない」って思う部分」です。

<自主行動>自分が好きで、子供が没入できるような定期的な、相互変容を意識した「遊び」を1テーマ持っておく

せめて一つあれば、民主主義的であるための場が家庭内にあるって自信を持って言えますからね。ただし、相互援用が期待できる「遊び」ですね。
 あとの「遊び」は、親の思い付きや、子供達の流行りのものでもいいのです。特に、夏休みはどちら様のご家庭でも予定を埋めにゃあならんしなあ。

さて、ここからは話の展開を地に足をつけるために、我が家ベースでどのような話が語れるかを書いてみます。

 我が家の場合・・・

・父(小生)が設置する相互変容を意識した「遊び」:長女(現役の不登校)のプリ小説(電子版のテンプレート形式の小説執筆活動)を家族の遊びとする。
自主的行動は、子供が読む小説を図書館に一緒に借りに行く習慣。松本市、安曇野市、塩尻市の3市で借りて行くので、ほとんど毎週どこかへ行って、家族全員分の上限40冊程度を借りる。
・母(相方)、弟(長男)は、長女が読み終えた小説から、推奨するものを回し読みしながら、好みの作家の発見をしていく。

・母(相方)が設置する相互変容を意識した「遊び」:アートセラピーやドリームワークなどを研鑽中なので、家族との接点の中で遊びを創出する
特に、アートセラピーはゲシュタルト的なアプローチなのでクラフトワークとの親和性が良い。家族で海に行ったら、浜辺の綺麗な貝殻を集め、それを使って粘土で物語のあるジオラマしてみる。自分の見た夢の断片を思い出して絵に描いてみて、ただひたすら色を重ね塗りして作品にしてみる。などなど。「これって、何かな?」といった作品の中への質問によって、お互いの視点が共有できる場面も多い。しかし、描くこと作ること自体が楽しいのだ。(ゲームやってるより、創造的だと思う)
・父(小生)は、美術鑑賞が趣味なので、作者の作品解説から「そんな見立てもあるんかい!」みたいな新しい審美眼に「ゆらぐ」

「自主的な活動」としての相互変容を意識した「遊び」が習慣化されてます。無理がないのは、親が個人として楽しいから、その場に没入できるからという理由です。まあ、一言で言うと「家族を巻き込める非日常的でありながら、定期的なフローの場」ですかね。

当然ながら、それぞれの家庭で、この相互変容を意識した「遊び」のテーマは異なります。キャンプだったり、お菓子作りが一本立っている「遊び」になるケースもあるでしょう。


図表37

繰り返しますが、親側の個人・子供側の個人の両方の欲求に沿っている「遊び」には習慣化することにも無理がない。図表37にあるように、「ゆらぎ」は自分の成長への糧でもあります。子、親、私の三方よし。

ですから、家庭に一つでも意識的な相互変容を意識した「遊び」があれば、目立つ旗印になります。どんな旗印か?

 家庭が目的喪失していても、手段の目的化があったとしても、最終的(家族バラバラになった時)には個人の成長に繋がっているから、大丈夫、っていうサインです。旗(家庭でのシンボリックな習慣行事)の意味です。図書館通い、アートワーク、キャンプ、お菓子作り、どんなコンテンツでも旗になるのです。親のファシズム・子のアナキズムをミニマムにしながら、個人の持つ人生の目的(これまた曖昧)にも間接的な貢献してるんじゃないのかなという希望です。

Go with the flow.


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?