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不登校で再考する子供の評価<スピンオフ版>学脈と学習

◾️やや脱線しながら学びを考える・・・スピンオフ版

「不登校で再考する子どもの評価」も書き続けていると、あっちやこっちに興味関心や探究の原石が見え隠れします。するとですね、「これもお題の範囲じゃないか!?」などと思うようになってます。ならば、これもせっかくの機会と考えまして、今回はスピンオフという別枠の設定にしました。親子の出番なしで学びを考えてみようという回です。

ただ、前回までに引っ張ってきた「学びの中心軸」、つまり学びの文脈があって、これってどこまで語れるのか?、言語化できそうなのかやってみようという、一つのチャレンジです。一応は、一貫性があります。(と思う)

まず「学びの文脈」と「学びの内容」って、ビジネスでの戦略ー戦術のセットに近いものでして、拙著「ブランディングの基本」でも観点と設計という名称でセットにしてました。文脈はベクトルで、内容は領域。
 難しい?、ますます理解が遠のきます?。


◾️お題は「学脈と学習」


それでは、今回の「学びの中心軸」を焦点にあてたお話になります。まず、「学びの中心軸」が用語として長くて、フィット感も乏しので変えます。学習=コンテンツってことなので、コンテクスト(日本語で文脈)なら学脈(がくみゃく)ってしたらどうかな? 学脈ー学習、です。山脈ー山岳みたいな、登山メタファーも効いている気がするのだが・・・。ゴチている場合ではなので、先に進みます。名称は不具合が出たら、また変更しますし。

さて、テーマのフレームが決まったので、次はこの課題を扱う背景ですね。「別に学脈なんかこだわらなくてもいいじゃん」に対して、「今こそ考えましょう」という必然性はどこにあるのか、です。背景説明になりそうなものは大きく2つ。

<課題の背景>

 1)コンテンツ爆発:
よく言われるようにITが生活基盤になって情報が爆発的に増え、情報を意味に汲み取った知識も膨大になり、知識を関連知識と組み合わせて意味生成までもAIでまかなえるようになっています。あなたに必要な学習コンテンツが10あって、あなたの学びのスキルが10だったら、こりゃもう暗記一択です。では、学習コンテンツが20だったら? 努力をリソースで投入して、15以上は狙えますかね。評価75点なら悪くないけど、学習時間は負担です。さて今は、少なく見積もってアクセスベースで学習コンテンツが100ってことにしてみましょう。スキル10、努力10足して20でも到底カバーしきれないのです。学びの戦略が必要です。取捨選択の基準で学習コンテンツを20以下にするわけですね。この実利を伴う学習の仕方が学脈です。

 2)人生爆長:
平均寿命80歳超えて、マジで100歳以上をリアルに周囲で見聞きする中、健康寿命が72−76歳ぐらい。ここまでは現役換算される流れにいます。あがりは遠い。学び続けるのはいいけど、コンテンツ爆発への対応もどんどん変化していくでしょう。増えることはあっても減ることはない、複雑になっても単純にはならない、手持ちの学脈も一生モノかどうかも怪しいのです。あなたが100まで生きていくとして、自分で考えて行うアンラーニングを伴う学習が何回必要でしょうか? その都度、学脈の再検討が強いられることになりますから、学脈自体を常に意識しておくことが、残りの長い人生への不安や迷いを軽減させてくれます。精神衛生上重要になってきますな。

<コンセプト>

背景はこんな感じ、次に具体的な学脈のコンセプトは、「学びのリソースを効率化しながら、学びから得る意味的な質を高めるための、学習の取捨選択の規範」としておきます。学脈とは、質と量の対峙を最小限にしながら、質と量の共創を最大限にしてくれる学びのベクトル。

コンセプト設定したので、次は学脈を語っていくスピンオフでの解説への基本方針は・・・

・学脈のタイプ別を考察
・学脈の特性と違いを、可能な限り少ない要素で解説

解説に先立ち、説明のアジェンダとして一覧表を提示しますね。

<図表10>

<タイプ別の考察>

大きく4タイプ仮説を設定しました。当然、個人差や状況の差があれば、微妙な違いは多種多様でしょう。目立ったところの4タイプでしかありませんのでご留意ください。この点は強調しておきます。
 1→4に向かって、タイプ対象者人数は少なくなっていくことが予想されます。同時に、これからは、1→4に向かって、人々の学脈の変容パターンが要求されてきます。


1)学脈転写タイプ

学脈は不動で、コンテンツ提供側からの学脈が転写されます。典型例は学校での授業です。カリキュラム提供者には前もって学びの信念があり、それによって授業内容が構成されており、それをきちんと受け取ることが評価対象になります。
 一般的な資格取得の学びも同様です。特に極端な例は自動車学校でしょう。そこでの参加者による自由な学びはありませんし、合否試験ではユニークな独自視点は全く求められてません。管轄者である公安委員会の学脈が受験者に転写されることを良します。「自動車運転と安全について」をテーマにした自由研究は不要なのです!
  義務教育もそこまでではないですが、基本は義務教育のカリキュラムに文科省の学びの信念である学脈があり、生徒への転写を前提に評価します。学脈不動なので、評価は一元的になります。そこにブレはないですから、学ぶ前と後の差の評価、他者との比較評価、それらを元にした序列での評価ができます。
 資格の合否は点数での序列によって、基準以上かどうかで一律に決めることができるのも、学脈不動&学脈転写が前提だからです。 
 一般的な学校はというと、義務教育は学脈転写ベースでも、その上の高校、大学となっていくと学脈の転写は弱まっていきますね。学脈転写タイプには学術度合いに沿った濃度差があります。
 共通しているのは、学びのゴールはコンテンツ内に設定されてます。卒業と同時に提供側からの学脈転写は終わります。


2)学脈直進タイプ

学脈は基本的に不動ですが、部分的です。クラフトワークや家元型の伝承をベースにした芸術での学びが該当します。マスターや師匠がいて、スキルや知識を伝授していきますので、最初は学脈転写となります。守破離の守ですね。
 それから徐々に、コンテンツも複雑になっていきますが、カリキュラムも同様に学脈の転写を要求しなくなってきます。破になれば、マスターや師匠が持つ学脈の転写は一旦終了します。その後は、突き放されることで、自分の中に学脈を築くことが求められます。指導者側と同じ学脈での継続的な学びはむしろ否定されるわけですね。「これ以上お前に教えるものはない、あとは自分で悩め!」的な展開です。
 学脈直進の学びの領域では、そもそもの学びのゴールがコンテンツの外にあります。手前は学脈転写タイプに見えても、その次の段階は自分の遠いゴールと、独自の学脈を頼りに学んでいきます。精進といっても良いくらい。  
 評価も、「以前のお前と今のお前はどう違うのだ」だけが問われるので、個別指導での評価だけが進捗の頼りでもあります。プロの将棋の世界なんかは、藤井聡太や羽生善治など、皆どこかで学びの外に常に自分のゴールを持って、学脈を自分で更新しては新たな学びに行った人でしょう。それもプロとしての最低条件なんだろうなあ。



3)学脈創出タイプ

 学脈が浮遊しているので、学びながら学脈、つまり、学びの信念を改変させたり、刷新したりしていくタイプです。独創的なカテゴリーや、独学で成した作品などはこの手のタイプの学びの人々によってできていることが多そうです。
 小さな事例。小生のようにフリーランスでコンサルなどを長くやっていると、もう何を学べばいいかとか、方法論が効かないんですね。よくわからんけど気になったことはすべて学びの対象になってしまいます。学脈があるというよりは、「学脈が見えないことが学脈だ」みたいな感じです。でも、それでは前には進めない。そんなに学びに充てられる時間もありません。
 ですから、アウトプットを出し続けることで、周囲からの反響や、自分が語った話の中で自分自身が何かを気づき、次の学びの方針を決めていくことになります。学脈が浮遊しているのは、学習の成果を問うたびに学脈が変容するという体験をしているので、学びを決めつけないことが得策だと信じているからです。どんな些細なことにも「なるほど」を発見する習慣っていうか・・・、Go with the flowだね。

  大きそうな事例。村上春樹は「書き続けること」をプロの小説家の決定的な要素だと言っています。小説書きの戦略などはない、と言っているようですけど、むしろ、そのコンテンツである小説を書くという行為で、常に新しい学脈を創出しているように見えます。「そうか、こういう描き方もあるのか?」、自分で自分の書いたものから、新たな書き方の方法論に気がつく。こうなると誰も真似できないですね。自分の作品を作る工程の中に、新たな学脈が現れてくるなら、「ゴールは作品を書くことだけ」と言いきれます。自己完結型の相互変容が、その人をますます独創的にしてくれるパターンではないでしょうか。
 当然のことながら、評価なんかありませんし、必要もない。学びの評価が作品だったとしても、前の作品と今の作品の作業工程で感じる違和感ありなしぐらい。



4)学脈天啓タイプ

 出現率は稀ですが、確かにいます。そういう人たちは存在します。学びとライフワークが一体になるような学脈を持っている人です。最終ゴールが人生と重なっているので、そこに迷いがない人です。何やら宿命のようなものを感じている人の学びの姿に、この学脈天啓タイプを見ます。
 野球の大谷翔平は、きっとこの域にあるのではないかと思っております。既存の制度という出来上がった環境(プロ野球の流儀=信念体系)を一人で変えてしまうのですから、「すごい選手!」だけでなさそうです。
 そのパフォーマンスの中に彼独自の強く太い野球への(きっと、人生に根ざした)学脈があり、そこからの練習という学習の成果があり、遂には、彼のコンテンツ(プロ選手としての活躍)に触れたものはみんな、自発的に学脈の変容(野球という領域ではあるけど)をさせられてしまうのです。大谷選手自体も相互変容してるかもしれないけど、本人の学脈のブレがなさすぎて影響具合がよくわからない(苦笑
 マスターレベルの人々に「私の野球観は間違ってました」と言わせしめるわけですから、彼がここまで信じてきた学びの中心軸には、それを支えるもっと大きな中心軸らしきものがありそうです。人生のゴールに限りなく近い学びの最終ゴールか? 
 こうなると、自分から学脈を求める話では説明がつきません。むしろ、この反対からの流れです。最終ゴールが先に存在して、そこから自然に学脈が降りてきて「こういう学び(練習?)をしなさい」と天啓に導かれるだけの学びに見えます。ゴールが勝手に学脈の逆転写をしてくる、とでも申しましょうか。たぶん、天才とはこの学脈天啓タイプを言うのだと思う。まあ、レアなので鑑賞対象に近いですけど。


図表11


以上、主要4タイプ。仮説として書いてみました。学脈という学習の奥にあるものの解像度を高める一里塚を目指してみました。エビデンスベースからは程遠いので、実証よりはあなたの学脈への意識を高め、学びへの先入観と無関心を是正できる興味深い与太話を目指しております。


Go with the flow.

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