最適と最善

せっかくnote始めたのでマガジンだけじゃなく
日々思ってることを書いてみようかなと。

サラリーマン時代、10年東京に住めたのはとても良い経験だったなーと心から思う。
東京にたくさん友達も出来たし。こうして楽しい飲み屋街も知ってるし。

東京が本当に楽しかったのは、みんなみんなエネルギッシュなところ。
ここはエネルギーが無いのに生き続けるにはコストが高すぎる。

そのエネルギーは自分も刺激してくれたし、さらなるエネルギー源として大変有用に機能してた。

田舎に移住したのは、そのエネルギーに疲れたわけでもなく単純に会社の異動だったんだけど、
一生住むか、と問われたらううーーむ。
となったと思う。
一生住める人は居ると思う。このエネルギーの塊を受け流せる人。
生まれながらにして東京にいる人は、多分の受け流す力が備わってる。

神戸という地方都市生まれの俺は、
あのまま東京に住み続けたら多分焦り始める。
同い年くらいで、収入が一桁多くなってる人たちに。

都市部の価値基準はとてもとても数値的で「自分が良くても周りが冷めた目で見てる」という状況に、
「あいつは、うだつの上がらない40歳」
と見られる事に何も感じないわけにはいかない。

だから辞めた、わけでは無いけど
これ以上、会社には俺が自己を承認できる要素が無いかなー。という部分も脱サラを手伝ったと思う。

題字とだいぶ逸れてきた。

最近、自分の仕事がらみで、大学生と接することが増えた。
いい年のおっさんなので心から願うことは
「せめてキモい、と思われたくない」
という、なんともキモい願い。

そんなキモくなりたくないと願う、
キモいおっさんが眺める大学生は、
なんだか息苦しそう。

俺が大学生の時より遥かに息苦しそう。
なぜなのか。

常にこちらの要望や、
先生の要望や、
世間からの要望を意識してるように見える。

なぜなのか。

という問いを考えてて、
今暫定的に思ってる答えは
皆、「最適であること」
目指しているように見えることかなと。

「最適」というのは
誰かの欲求や要望があって、
また他の誰かの欲求や要望があって
さらに他の誰かの、、
という幾重にも重なる要求事項を勘案した結果、
見出される落とし所だ。

単純に考えれば、
もっとも大きな影響を持つ欲望は、
自分自身の欲求なんだけれども
その欲求が「最適でありたい」
という願いだと一気に軸を失う。

全部か他者からの条件になるから。

「最善」とは、自分の望む理想の状態に、
一歩ずつでも推し進める事だ。

「最適」を目指すのをやめよう。
「最善」を尽くそう。



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